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『5年越しの手紙』
第三章 大阪出張と、阪急梅田駅の奇跡
金曜日の午後五時を回ったばかりの、阪急大阪梅田駅。
巨大なドーム状の天井に覆われた三階コンコースは、週末の解放感と家路を急ぐ人々の熱気、そして絶え間なく交差する無数の足音に包まれていた。
頭上からは高らかな阪急電車の発車メロディが途切れることなく降り注ぎ、マルーン色の重厚な車体が滑り込んでくるたびに、改札口からは怒涛のような人波が押し寄せてはコンコースの海へと散っていく。
その濁流のような人波の中を、白石美穂は重いキャリーケースの車輪を静かに響かせながら歩いていた。
二泊三日の大阪出張。
取材はすべて順調に終了し、あとは新大阪発、午後六時三分発の「のぞみ」で東京へ帰るばかりとなっていた。
仕事が無事に終わった安堵感の反面、美穂の心は暗く沈んでいた。
今夜東京へ帰れば、また哲也と向き合わなければならない。
あのメッセージにどんな顔をして応えればいいのか。
改札へ向かう通勤客の一定のペースに身を任せ、美穂は三階改札口へと続く巨大な動くエスカレーターへ向かって歩を進める。
吹き抜けのガラス窓から落ちてくる秋の夕光が、コンコースの磨かれた床に長く白い影を落としていた。
――その、直後だった。
十メートルほど前方、エスカレーターの乗り口へ向かって人波を縫うように歩いていく一人の男の背中に、美穂の視線が吸い寄せられた。
少し丸まった両肩。
右手をコートのポケットに突っこみ、左肩をわずかに下げて歩く独特の歩行リズム。
人波の頭ひとつ分ほど低い位置にある、あの見慣れた猫背。
美穂の足が、見えない磁石で貼り付けられたようにピタリと止まった。
周囲の靴音も、電車の発車ベルも、雑踏の喧騒も、潮が引くようにすっと遠のいていく。
(……え……?)
呼吸が止まる。
忘れようと必死に蓋をしてきたはずの身体が、皮膚の隅々で覚えている歩き方だった。
男はそのまま何事もないように、動くエスカレーターのステップへ足を踏み入れた。
美穂との距離が十段ほど離れた、その瞬間だった。
男が肩にかけたビジネスバッグの脇から、ひらりと一枚の薄い長形の封筒が滑り落ちた。
白い紙片は風に煽られ、クルリと宙を舞ってから金属のステップへと転がった。
男はそれに気づく様子もなく、上へ上へと吸い込まれていく。
「あの、すみません! 落とし物――」
かすれた声を出したが、金曜夕方の喧騒の中にあっけなくかき消された。
美穂はキャリーケースを引きずりながら駆け寄り、ステップに落ちた白い封筒をなりふり構わず拾い上げた。
見上げると、男の影はすでに三階コンコースの人波の中に紛れ込み、改札の奥へと消えかけている。
「待ってください……!」
美穂は重いキャリーケースを持ち上げ、動くエスカレーターのステップを一段飛ばしで駆け上った。
太ももが激しく痛み、胸の奥で心臓が早鐘を打つ。
息を切らしながら三階の改札前に辿り着いたときには、波のように押し寄せる通勤客の群れの中に、あの猫背の影はもうどこにも見当たらなかった。
改札口の前に広がる人工的な光の中で、美穂は肩で激しく呼吸をしながら立ちつくした。
震える手つきで、拾い上げた封筒を眺めた美穂の指先が、凍りついたように止まった。
上質な白い和紙の封筒。
表面の中央に、角張った、けれどどこか丸みのあるペン字で、はっきりと宛名が書かれていた。
【藤田 明夫 様】
あの猫背も、歩き方の癖も、そしてこの文字も。
あの日、何の理由も告げずに自分の前から忽然と姿を消した恋人――藤田明夫、その人だった。
封筒の軽さが、かえってズシリと重く美穂の掌にのしかかる。
なぜ彼が今、大阪にいるのか。
なぜあの時、何も言わずに去っていったのか。
五年間固く封印していた時間が、脈を打ち始めていた。
