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『 あの人は、今 』

 

第十章 父と母の時間

 

尾道へ電話した。

 

父は、母が京都へ行った理由を知っていた。

 

母には好きな男がいた。

 

写真の男だった。

 

父は、それを知っていた。

 

しかし、嫉妬したわけではない。

 

母には母の過去がある。

 

それを知ったうえで、父は母と暮らした。

 

「俺と一緒になってからは、俺の女房だった」

 

父の言葉は、それだけだった。

 

恭一は、何も言えなかった。

 

夫婦というものは、相手の過去を全部消して一緒になるわけではない。

 

過去を抱えたまま、今を選ぶ。

 

父は、そういうふうに母と暮らしたのだろう。

 

第十一章 会社の形

 

会社は少しずつ忙しくなった。

 

半年を過ぎると、二人だけでは処理できない案件が増えた。

 

そこで、資料調査の経験がある女性を業務委託で加えた。

 

佐伯美和、四十三歳。

 

以前は出版社で資料調査をしていた。

 

人を探す仕事に興味があったわけではない。

 

むしろ、人の人生に踏み込む仕事は苦手だと言った。

 

それでも、調べることならできる、と言った。

 

恭一は、その言葉を気に入った。

 

人に興味がありすぎる人間より、人を少し怖がっている人間のほうが、この仕事には向いている。

 

三人になると、会社は少しずつ本当の会社になった。

 

依頼者との面談。

 

調査。

 

契約。

 

請求。

 

進捗管理。

 

本人への連絡。

 

断られた場合の処理。

 

何をどこまで記録するか。

 

どこから先は専門家へ相談するか。

 

会社員時代には、誰かが決めてくれていた。

 

今は自分たちで決める。

 

夢だった仕事が、普通の会社になっていく。

 

そのことに、恭一はむしろ安心していた。

 

夢だった仕事にも、家賃があり、請求書があり、月末が来る。その当たり前さが、恭一には少し嬉しかった。

 

第十二章 探される人の時間

 

ある依頼で、本人の住所までほぼ特定できた。

 

依頼者はすぐに会いたがった。

 

しかし、本人がどんな生活をしているかまでは分からない。

 

美和は慎重だった。

 

岩城は契約上の問題を気にした。

 

恭一は依頼者の気持ちを考えた。

 

結論が出るまで二日かかった。

 

依頼者から何度も電話があった。

 

会社を始めたばかりなら、すぐに答えを出していただろう。

 

今は、待つことも仕事だと分かってきた。

 

急いでいるのは、たいてい探している側だ。

 

探されている側には、探されている理由を知る時間がない。

 

その違いを忘れると、人を傷つける。

 

恭一は会社の壁に一枚の紙を貼った。

 

そこには、

 

「探される人の時間も守ります。」

 

と書いた。

 

会社を続けていくための標語というより、自分たちが迷わないための線だった。

 

第十三章 最初の社員

 

一年近く経つと、正式に一人を採用することになった。

 

二十七歳の男性だった。

 

営業経験があり、人当たりもいい。

 

面接ではよく喋った。

 

恭一は、そこが少し気になった。

 

この仕事は、人の話を聞く仕事だ。

 

自分の話をするのが得意な人より、人の話を聞いて黙っていられる人のほうが向いている。

 

採用を決めたのは、最後の質問への答えだった。

 

この会社で何をしたいか。

 

彼は少し考えて、

 

「人に喜ばれる仕事をしたいです」

 

それから、

 

「喜ばれない仕事も、ちゃんとできる人になりたいです」

 

と言った。

 

恭一は採用を決めた。

 

会社には、喜ばれない仕事がある。

 

再会を断られたことを伝える。

 

調査できない理由を説明する。

 

依頼を断る。

 

依頼者の希望より、探される側の安全を優先する。

 

そういう仕事を避けていると、いつか会社そのものが壊れる。

 

新しい社員には、最初の一週間、調査をさせなかった。

 

過去の案件記録を読ませた。

 

見つかった人。

 

見つからなかった人。

 

会えた人。

 

会わなかった人。

 

感謝された案件だけではなく、苦情になった案件も読ませた。

 

仕事を教えるというより、この会社が何をしてはいけないのかを教えた。