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『 最後の仕事 』
第二章 夕食の席
座敷の襖が閉まるたび、外を流れる川の音が少し遠くなる。
料理の皿が置かれる音。徳利が卓の上に触れる音。誰かが笑い、その勢いで咳き込む声。
静かな旅館の夜に、それらが小さく重なっていく。
仕事の現場とはまるで違う音なのに、森川には妙に馴染んでいた。
三村が昔の話を始めると、山科がすぐ横から細かな間違いを訂正する。
黒田はそれを聞くと、「そこは違うやろ」と言いたげに眉を寄せる。
仲谷だけは面白そうに二人のやり取りを眺め、酒を一口飲んだ。
竹森だけは、皆の話にすぐ口を挟まず、どこへ転がっていくのかを眺めながら箸を動かしていた。
森川はその横顔を見て、昔もこうだったと思う。
騒ぎが大きくなっても慌てない。
誰かが言い過ぎれば、頃合いを見て話を戻す。
それでいて、自分から場を仕切ろうとはしない。
そんな竹森の様子を眺めているうちに、三村がふと思い出したように口を開いた。
「黒さん、あの工場の仕事、覚えてます?」
黒田が顔を上げる。
三村は笑いながら続けた。
「社長が撮影中に急に歩く方向を変えたやつです」
山科も思い出したように言う。
「森川さんが怒ってましたよね」
俺が怒ったんやない。予定が変わったから困っただけや」
森川がそう言うと、仲谷が酒を飲みながら笑った。
「お前ら、歳取って口が達者になったな」
「昔は、森川さんが『もう一回』と言うたら、誰も何も言えませんでしたね」
仲谷が言う。
黒田がすぐに反応した。
「谷ヤンも言えんかった?」
そう言って箸を置く。
さっきまでの笑い話を聞き流す気はないらしい。湯気の向こうの仲谷を正面から見て、返事を待った。
黒田は箸を置き、湯気の向こうにいる仲谷を正面から見た。
「昔の現場は、誰かが強く言わんと進まんかったからな」
森川は何も言わず、その言葉を聞いていた。
しばらくして、三村が別のことを思い出したように口を開く。
「そういえば、明日モモちゃんも来るんやろ?」
森川が顔を上げた。
「モモちゃん?」
「桃谷さんです」
山科が笑った。
「森川さん、忘れました?」
山科がからかうように笑う。
森川は少し考えてから答えた。
「覚えてる」
すると黒田が横から口を挟んだ。
「昔、森川さんが何回も『もう一回』言うてたモデルや」
「何回も言うた覚えはない」
森川が返す。
「言うてましたよ」
仲谷が笑った。
森川は何も言わず、手元の酒に目を落とした。
仲谷が言った。
「今は着物屋をやってるらしいで」
三村も続ける。
「明日は、自分の店の着物で来るらしい」
森川は少し考えた。
記憶の中に、深い青の着物が浮かぶ。
その前で、カメラに向かって笑っていた顔。
「へえ」
森川はそれ以上、聞かなかった。
昔、一緒に仕事をした人間が、今もどこかで仕事をしている。
それだけのことだ。
「今は?」
黒田は少し考えた。
「今は、強く言うより、よう見ることやろ」
湯飲みを手に取り、すぐには口をつけない。
「誰が疲れてるか。誰が困ってるか。誰が黙ってるか」
一つずつ言葉を置くようにして、黒田は続けた。
「そういうのを見てたら、現場は止まらん」
森川は黙って聞いていた。
昔なら、声を張って人を動かすことが仕事だと思っていた。
今の黒田が言う「見る」という言葉には、長い時間を現場で過ごしてきた人間にしか分からない重みがあった。
仲谷は小さく頷いた。
反論することも、話を急いで続けることもせず、黒田の言葉が途切れるのを待っている。
「カメラも同じですよ」
仲谷が言った。
「画面だけ見てたら、撮れないことがある」
「人の顔を見てたら、次に何が起こるか分かることがある」
森川は顔を上げた。
酒の席の何気ない話だと思っていた。
けれど、その言葉の中に、撮影するときの感覚に触れるものがあった。
黒田は頷いた。
「それは昔から変わらんことや」
「じゃあ、僕ら進歩してないですね」
仲谷が冗談めかして言った。
森川は酒を置いた。
ここからは笑い話として流す気にはなれなかった。
昔と今で、自分たちの何が変わったのか。皆がそれぞれ何を抱えているのか。
今夜のうちに少し聞いておきたかった。
「昔は、それを言葉にせんでも分かった」
森川が言う。
「今は、言葉にせんと分からんことが増えた」
一瞬、皆が黙った。
誰もすぐには返さなかった。
やがて黒田が笑う。
「森川、珍しく正直やな」
「歳取ったって認めた」
「身体のこと言うたんやない」
森川が返す。
黒田は肩をすくめた。
「それも結局は同じことやろ」
森川は少しだけ笑った。
「まあ、そうかもしれんな」
その言葉で、張りつめかけた空気がほどけた。
また笑いが起きた。
窓の外では、川が途切れることなく流れている。
その音を聞きながら、料理の皿が少しずつ空いていき、徳利も次第に軽くなっていった。
話題は仕事から家のことへ移り、家の話が一段落すると、いつの間にかまた仕事の話へ戻っている。
誰かが「昔は」と口にすれば、別の誰かが「今は」と返す。
そのたびに、話の中の時間だけが昔と現在を行き来した。
けれど、誰も過去へ戻りたいとは言わなかった。
昔の話をしているのに、懐かしさに浸っているわけでもない。
あの頃、自分たちは何を考えていたのか。
なぜ、あんなふうに仕事をしていたのか。
そんなことを、今の自分たちの目で確かめるように話していた。
森川は皆の話を聞きながら、ふと明日のことを考えた。
明日、本当に撮影する。
そのことだけは決まっている。
だが、何を撮るのか。
どこから始めるのか。
具体的なことは、まだ何も決まっていない。
森川は酒を口に運びながら、そのことをぼんやり考えていた。
夕食は、川の見える座敷で始まった。
料理が一品ずつ運ばれてくる。
鮎。
山菜。
湯葉。
小さな鍋。
卓の上に料理が揃うにつれて、皆の箸も自然に動き始めた。
「うまいな」
三村が言う。
「昔なら、撮影終わってからこんな料理食べられへんかったな」
黒田が笑う。
「終わったら終わったで、次の仕事が待ってたからな」
「そもそも、こんなところで飯食う余裕なんかなかった」
昔の仕事を思い出したのか、皆がそれぞれに笑った。
料理の湯気の向こうで、話は自然と昔の現場へ戻っていった。
「予算がなかったからな」
黒田が言う。
「予算があっても、竹森さんが削った」
三村が続ける。
「削らんと仕事にならんこともあった」
竹森は平然と答える。
「昼飯抜きになった仕事もあった」
仲谷が言うと、山科が笑った。
「誰のせいです?」
「クライアントや」
竹森が即答する。
一拍置いて、皆が笑った。
森川は酒を飲みながら、そのやり取りを聞いていた。
昔の現場の空気が、料理の湯気と一緒に少しずつ戻ってくるようだった。
三村が一つ話すたび、黒田が別の場面を足し、山科が細かなところを直していく。
同じ仕事の話なのに、誰が語るかによって記憶の形が少しずつ違っていた。
森川は箸を止め、そのやり取りを聞いていた。
自分では忘れていた台詞や、その場で自分が取った態度まで、三村はよく覚えている。
「森川さん、あの社長が怒った仕事、覚えてます?」
森川はすぐには答えなかった。
「撮影中に社長が歩く方向を変えたやつやろ」
「そうそう。あれです」
「あれは社長が勝手に変えたんや」
黒田が言う。
「森川さん、怒ってましたよ」
「俺が怒ったんやなくて、予定が変わったから困ったんや」
森川が言い直すと、三村が笑った。
「そこは今でも同じですね」
森川は苦笑する。
自分では忘れていたことを、他人の記憶によって思い出していく。
そんな時間が、今夜は妙に心地よかった。
仲谷は酒を飲みながら、皆の話を聞いていた。
「俺、あのとき黒ちゃんに怒られた」
「森川さんがカット変えたんですよ」
黒田がすぐに説明する。
「黒ちゃんにとっては、照明変える仕事やった」
「そういうことや」
黒田は当然のことのように言い、少し得意そうに胸を張った。
仲谷が笑う。
「カット変えるだけで、そんな大事になるんか」
「なるんや」
黒田は譲らない。
その横で、竹森が静かに酒を置いた。
竹森の様子から、何か話が変わる気配を感じ取ったらしい。
「みんなには言うてなかったんやけど」
竹森が言った。
黒田の眉が上がる。
それまで動いていた箸も、そこで一度止まった。
「何やて?」
黒田が聞き返す。
「撮影?」
仲谷も身を乗り出す。
黒田は竹森を見て、笑いながら睨んだ。
竹森は何食わぬ顔で座っている。
その顔を見れば、何か隠していたことだけは明らかだった。
「この旅館のPR動画や」
竹森が言った。
「PR?」
黒田が聞き返す。
旅館の主人が恐縮したように頭を下げた。
仲谷は何も言わず、森川へ目を向けた。
長い付き合いの中で、何かを決めるときには、いつも最後に森川の判断を待つことがあった。
「森川さん、本あるんですか?」
仲谷が尋ねる。
森川はすぐには答えなかった。
竹森が先に手を叩いた。
「大丈夫や。我らが森川大先生がおる」
「大先生って……」
森川が苦笑する。
「急に持ち上げるな」
「でも、ギャラ出るんやろ?」
黒田が聞いた。
さっきまでの笑顔が少しだけ消える。
竹森は答えを急がず、酒を手に取った。
「明日見せる」
「竹森さんが何か隠してるときの顔してます」
山科が言う。
竹森は笑っているだけで、否定しなかった。
その様子を見ていた黒田が、酒を一口飲む。
しばらく黙ってから、ぽつりと言った。
「俺らの最後の仕事ちゅうことやな」
誰もすぐには返さなかった。
一瞬だけ、座敷の空気が静まった。
襖の向こうでは、川の音だけが変わらず続いていた。
しかし、竹森がすぐに言った。
「明日やってみてから考えたらええ」
先のことまで、今夜決める必要はない。
黒田は笑った。
けれど、その笑みはすぐに引いた。
「歳考えたら、そうなるやろ」
森川は二人の会話を黙って聞いていた。
「最後」という言葉が引っかからなかったわけではない。
それでも、今はまだ、その先まで考える気にはならなかった。
ただ、昔の仕事の続きが一日だけ戻ってきた。
明日、もう一度カメラの前に立つ。
それぐらいの気持ちだった。
