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『 花びらの積もる道
第七章 知ったあと
千穂がマンションへ戻ったのは、一時間ほどたってからだった。
順子は夕食の支度をせず、ダイニングテーブルの前に座っていた。
床に散らばったものは箱へ戻した。亨から届いた封筒だけが、テーブルの端にある。
玄関の扉が開いた。
「お帰り」
順子が言った。
千穂は返事をせず、上着を脱いだ。
「夕食は?」
「いらない」
「お昼も、あまり食べてないんでしょう」
「食べたくない」
「何か少しだけでも」
「いらないと言ってるでしょう」
千穂は寝室へ行こうとしたが、テーブルの封筒を見て足を止めた。
「どうして、あのお金を持ってたの」
順子は封筒へ目を向けた。
「使えなかったから」
「返さなかったの?」
「返せば、また亨と話さなければならなかった」
「捨てることもできたでしょう」
「できなかった」
「ずっと持ってたんだ」
「そうね」
千穂は椅子を引き、順子の向かいへ座った。
「お母さんは、澤口さんをいまも憎んでるの?」
「憎んでると言えば、分かりやすい?」
「分からんから聞いてるの」
「許してはいない」
「同じことでしょう」
「同じではないわ」
「どう違うの」
順子は答えなかった。
封筒の表には、小坂順子と書いてある。
夫と暮らした年月より前の名前だった。
「亨のことを考えながら生きてきたわけじゃないの」
「でも、名前を聞いただけで、あんなふうになったでしょう」
「忘れていたわけではないから」
「お父さんと一緒にいたときも?」
「あなたのお父さんと暮らしたことと、亨とのことは別よ」
「お父さんは知らなかった」
「ええ」
「それで、本当に別と言えるの?」
「言えるわ」
順子は娘から目をそらさなかった。
「あなたのお父さんとの暮らしは、代わりではなかった。あなたも、あの子の代わりではない」
「あの子って言うんだ」
千穂の声が震えた。
順子は口を閉じた。
性別も知らなかった。
顔も、声も知らない。
名前もつけなかった。
それでも、心の中では長い間、あの子と呼んでいた。
「名前はなかったの?」
「なかった」
「考えたことは?」
「ないわ」
「一度も?」
「ない」
「どうして?」
「考えたら、名前ができるでしょう」
「そうでしょうね」
「名前をつける前に、いなくなったの」
「いなくしたんでしょう」
順子の手が、膝の上で動いた。
千穂も、自分の言葉に気づいたらしい。だが、言い直さなかった。
「そうね」
順子が言った。
「そういう言い方もできるわね」
「お母さん」
「あなたが間違っているとは言ってないのよ」
順子は立ち上がった。
「何か食べるものを作るわ」
「いらない」
「私が食べるの」
「さっきまで何もしてなかったのに?」
「あなたが帰ってくるかもしれないと思ったから」
「帰ってこなかったら?」
「食べなかったかもしれない」
「それで、私には食べろと言うの?」
「親は勝手なものよ」
順子は冷蔵庫を開けた。
豆腐と卵と、半分残った葱があった。
「お味噌汁でいい?」
「いらないと言ってるでしょう」
「二人分作るわ」
返事はなかった。
順子は鍋へ水を入れた。
出汁を取っている間、背中に千穂の視線を感じた。
「今日は休みなさい」
「朝一番で帰る」
「仕事は?」
「休んでる場合じゃない」
「だからこそ、休んだ方がいいんじゃないの」
「お母さんに言われたくない」
千穂は立ち上がり、寝室へ入った。
扉は閉めなかった。
味噌汁ができると、順子は二つの椀へよそった。
一つを寝室の前へ置いた。
「ここへ置いておくわよ」
「いらない」
「冷めたら、おいしくなくなるから」
「いらないって」
「分かった」
順子は椀を下げなかった。
自分の分を食べ終え、食器を洗った。
寝室の前を通ると、椀は空になっていた。
順子は黙って台所へ運んだ。
翌朝、千穂は始発に近い列車で岡山へ戻った。
市役所へ着くと、誰もいない机で前日の書類を確かめた。日付、宛名、添付資料。一つずつ指で追った。
確認に時間をかけたため、朝の打ち合わせに遅れそうになった。
「松山さん、昨日は休めましたか」
上司に聞かれた。
「はい。ご迷惑をおかけしました」
「今日は大丈夫?」
「大丈夫です」
その言葉を口にした途端、不安になった。
「たぶん」
付け加えると、上司は何も言わず千穂を見た。
午前中、展示会場から絵の返却について連絡が入った。
展示は予定どおり週末に終わる。作品を持ち主へ直接返すか、市役所で預かるかを確認しなければならない。
千穂は出展者の一覧を見た。
澤口亨。
電話番号の横に、〈自宅返却希望〉と書かれている。
メールでも確認できた。
千穂は受話器を取った。
三度鳴って、亨が出た。
「澤口です」
「岡山市役所の松山です」
「ああ、千穂さん」
名前で呼ばれたことに、胸の奥が反応した。
「展示作品の返却について、確認のお電話です。ご自宅へお持ちすることになっていますが、来週の火曜日でよろしいでしょうか」
「ええ。時間はいつでもかまいません」
「午後二時頃に伺います」
「お願いします」
仕事の話は終わった。
千穂は受話器を置かなかった。
「澤口さん」
「はい」
「母から聞きました」
電話の向こうが静かになった。
「何を、ですか」
「分かってるでしょう」
亨は答えなかった。
「母が妊娠したことも、一人で病院へ行ったことも」
「そうですか」
それだけだった。
千穂は受話器を握り直した。
「それだけですか」
「電話で話すことやないと思います」
「母にも、私から話すことではないと言いましたよね」
「はい」
「二人とも、話すことじゃないと言って、ずっと誰にも話さなかった」
「千穂さん」
「母に、来なくていいと言われたから、本当に行かなかったんですか」
受話器の向こうで、亨が息をした。
「そうです」
「どうして?」
「あのときの僕は、順子の言葉に従うたつもりでした」
「いまは?」
亨はしばらく答えなかった。
「行くのが怖かったんやと思います」
「思います、なんですね」
「四十数年前の自分が何を考えてたのか、いまとなっては、きれいには説明できません」
「母は、きれいに説明できないことを、ずっと一人で持ってたんですよ」
「分かってます」
「分かってたら」
その先が出なかった。
亨に何を言わせたいのか、自分でも分からなかった。
謝ってほしいのか。
母に会ってほしいのか。
今の暮らしが壊れるほど、後悔してほしいのか。
「火曜日の二時に、絵をお持ちします」
千穂は仕事の声へ戻した。
「分かりました」
電話を切った。
受話器を置いたあと、メモ用紙へ〈火曜日 二時〉と書いた。
日付も書いた。
その下にもう一度、〈火曜日 二時〉と書いた。
午後、千穂は出展者への礼状を印刷した。
一枚ずつ宛名を確かめ、封筒へ入れた。三度見直してから、庁内の発送箱へ運んだ。
席へ戻ると、机の上に亨宛ての礼状だけが残っていた。
封筒の数を間違え、亨の分を入れていなかった。
千穂は礼状を持ち、もう一度発送箱へ向かった。
廊下の途中で、上司に呼び止められた。
「松山さん」
「何でしょう」
「昨日、帰ってもらった理由を覚えていますか」
「これは、入れ忘れただけです」
「それが続いているんでしょう」
「次から気をつけます」
「次が来る前に、休んでください」
「仕事はできます」
「できるかどうかを、いま自分で決めない方がいい」
千穂は礼状を持ったまま立っていた。
「明日から三日、休暇を取ってください」
「展示が終わる前です」
「ほかの人に任せます」
「私の担当です」
「松山さんにしかできない仕事ではありません」
千穂は礼状を見た。
〈澤口亨様〉
宛名は間違っていなかった。
日付も、文章も合っている。
ただ、封筒へ入れ忘れただけだった。
「分かりました」
礼状を上司へ渡した。
「これも、お願いできますか」
「預かります」
上司は受け取った。
席へ戻り、必要な引き継ぎを書き始めた。
読み返すと、〈展示終了後〉と書くところを、〈展示終了語〉と変換していた。
直した。
次に読むと、別のところが気になった。
何度見直しても、自分の文章が合っているのか分からない。
「松山さん」
上司が席から声をかけた。
「もう、それで大丈夫です」
「まだ途中です」
「続きはこちらでします」
「でも」
「引き継ぎのために、帰れなくなっていますよ」
千穂は手を止めた。
鞄へ書類を入れようとして、これは持ち帰ってはいけないものだと気づいた。机へ戻し、代わりに空のファイルを鞄へ入れた。
何のために入れたのか分からず、それも取り出した。
「お先に失礼します」
周囲の人が顔を上げた。
「お疲れさまでした」
いつもと同じ挨拶だった。
千穂は、それがかえってつらかった。
同じ日の夕方、亨は烏城公園のベンチに座っていた。
朝から曇っていた空が、旭川の上でさらに暗くなっている。
スケッチブックを開いたものの、何も描かなかった。
「母は、きれいに説明できないことを、ずっと一人で持ってたんですよ」
千穂の声が残っていた。
亨は順子が東京で結婚し、娘を産み、店を営んだことを、千穂から聞いて初めて知った。
順子が幸せだったのなら、それでよかった。
そう思いかけた。
鉛筆を指の間で回し、止めた。
順子が幸せなら、あの日の自分が少し軽くなる。順子が不幸なら、自分のしたことが重くなる。
どちらにしても、順子の人生を自分の秤へ載せている。
亨はスケッチブックを閉じた。
橋の方から、仕事帰りの人たちが歩いてくる。
千穂も毎日、この町で働いている。
亨は、千穂が仕事で間違いを重ねていることを知らなかった。ただ、電話の声が、最初に市役所で会った人のものとは違っていた。
立ち上がり、市役所の方角を見た。
行って、何を言うのか。
千穂に謝るのか。
順子に会わせてほしいと頼むのか。
また考えようとしている。
四十数年前も、そうだった。
病院へ来なくていいと言われたとき、順子は本当に来るなと言ったのではないかもしれない。
そう思った。
だが、行って拒まれるのが怖かった。
行けば、自分がしたことを、病院の廊下や消毒薬の匂いの中で見なければならない。
だから、順子の言葉に従った。
従うという形で、逃げた。
亨は家へ戻った。
玄関を開けると、煮物の匂いがした。
「お帰り」
台所から洋子の声がした。
「ただいま」
「今日は遅かったね」
「公園におった」
「絵は描けた?」
「いや」
「何しに行ったの」
「考えごと」
「家でもできます」
「家やと、時計が気になるから」
「外でも腕時計を見てるでしょう」
洋子が台所から顔を出した。
「この頃、考えごとばかりやね」
「そうやな」
「考えて、何か決まりました?」
「まだ」
「考えるのが好きなんやね」
「そうやない」
「決めへんで済むから、考えてるんやないの?」
亨は靴を脱ぐ手を止めた。
洋子はもう台所へ戻っていた。
「ご飯、もうすぐできます」
「ああ」
「今日は肉じゃがです」
「そうか」
「嫌?」
「いや」
「返事が短いから」
亨は居間へ入り、鞄を置いた。
食卓には二人分の箸が並んでいる。
自分の箸の先が、少しだけ洋子の方へ向いていた。
亨はまっすぐに直した。
台所から洋子が出てきた。
「何してるの?」
「箸が曲がってた」
「それくらいで、ご飯の味は変わりません」
洋子は肉じゃがの鉢を食卓へ置いた。
じゃがいもの一つが、煮崩れていた。
「それ、私が食べます」
「どうして?」
「崩れたから」
「僕でええよ」
「きれいな方がええでしょう」
「どっちでも同じや」
「ほな、崩れた方をどうぞ」
洋子は煮崩れたじゃがいもを亨の小鉢へ入れた。
亨は箸を取った。
形は崩れていたが、味はよく染みていた。
