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『 最後の仕事 』
第一章 貴船の午後
車が旅館の前で止まると、森川はすぐには降りなかった。
開いた窓から、濡れた石と木の葉の匂いが入り込んでくる。
街中では気にならなかった川の音が、運転席の三村がエンジンを切った途端、急に近くなった。
森川は窓の外へ目を向けた。
流れの速い水が石にぶつかる音が、静かな山の中に続いている。
森川がドアへ手を伸ばすと、三村が先に外へ出た。
「荷物、これだけ?」
三村が車内を覗き込む。
森川の鞄は一つだけだった。
「軽いな」
「昔からや」
森川は笑って、座席から立つ。
そのとき、手が一度だけ座席の端に触れた。
森川はそのまま鞄を持ち、車を降りた。
京都の街を北へ抜けるころには、車の音も少しずつ遠くなっていた。
建物の間から山が見え始め、やがて山の斜面を覆う木々が視界いっぱいに広がっていく。
道路も次第に細くなり、曲がりくねった道が続いた。
森川俊一は助手席から、流れていく景色を黙って眺めていた。
窓を少し開けると、冷たい空気が車内へ入り込んでくる。
街中とは違う湿り気を含んだ匂いに、森川は窓の外へ目を向けた。
やがて車が旅館の前で止まる。
そこで初めて、貴船川の音がはっきりと耳に届いた。
「森川さん」
声に振り返ると、三村徹が玄関から出てきたところだった。
三村は森川の鞄を見ると、黙って手を伸ばした。
「自分で持つわ」
「でも、持ちます」
笑いながら言われ、森川はそれ以上断らなかった。
鞄を三村に渡した。
その様子を見ていたように、山科薫が廊下から出てきた。
「森川さん、部屋もう開いてます」
山科はそう言いながら、玄関に置かれた靴を端へ寄せ、森川の靴を置く場所を空けた。
続けて傘立ての傘を一本だけ脇へ寄せ、自分の傘をその横に揃える。
「昔もそうやったな」
「何がです?」
「人の靴まで並べる」
山科は少し笑った。
「並んでないと気になるんですよ」
そのとき、玄関の奥から大きな声が響いた。
「おう、森川」
黒田武雄が現れた。
「おう、森川」
黒田が差し出した手を、森川も握り返す。
昔と変わらず、大きな手だった。
「歳取ったな」
「お前に言われたないわ」
黒田は声を上げて笑い、すぐに玄関脇の段ボールへ目を向けた。
「これ、どこ置くん?」
「それは明日の機材です」
山科が答える。
黒田は「そうか」と頷くと、段ボールを持ち上げた。
「ほんなら、邪魔にならんとこへ置いとくわ」
黒田は段ボールを抱えたまま、少し呆れた顔をする。
「なんや、仕事みたいやな」
「明日は仕事ですから」
山科が答える。
黒田が何か言い返そうとしたところで、玄関に人影が現れた。
少し遅れて仲谷慎一が入ってきた。
「遅れました」
「珍しいな」
黒田が振り返る。
仲谷は電車が一本遅れたのだと説明し、皆に順番に挨拶した。
それから、ふと窓の方へ顔を向ける。
「川、見える?」
山科が窓際へ行き、外を確かめる。
「見えますよ」
仲谷が後ろから覗いた。
「ええ光やな」
黒田が横から言う。
「まだ撮影、始まってへんぞ」
「分かってる」
仲谷は笑った。
そのやり取りを聞きながら、山科も窓の外を眺める。
そこへ最後に竹森龍男が現れた。
玄関先に集まった皆の様子を見回し、竹森は呆れたように笑う。
「お前ら、もう仕事始めてるやん」
山科が、黒田が勝手に機材を動かそうとしていただけだと説明した。
竹森はそれを聞いて、いかにも黒田らしいと笑っいる。
「まあ、ええやん」
そう言って皆を座敷へ促した。
「今日は仕事の話なしや。飲んで食べて、昔の話したらええ」
「竹森さんが言うと信用できへんな」
黒田がすかさず返す。
「お前、仕事の話ばっかりするからや」
竹森が笑うと、黒田も肩をすくめて笑い返した。
玄関に残っていた仕事の空気が、少しずつほどけていった。
森川は、座敷へ向かう皆の顔を順番に見た。
三村はいつものように手際よく動き、山科は細かなところまで気にしている。
黒田はまだ仕事の続きをするように段ボールを見ていた。
仲谷は窓の外へ目を向け、竹森はそんな皆を少し離れたところから眺めている。
それぞれ歳を重ねた。
写真に収めれば、昔とは別人に見えるかもしれない。
それでも、こうして同じ場所に並ぶと、不思議なほど昔の現場が近く感じられた。
座敷の窓からは川が見える。
仲谷が窓際へ寄り、流れを眺めながら呟いた。
「昔、ここで撮影したことあったな」
三村も窓の外へ目をやった。
「二十年ほど前やったか」
記憶をたどるように、ゆっくりと言った。
森川は川へ目をやった。
流れを眺めていると、背後から黒田の声が聞こえる。
「まだ仕事ちゃう言うてるやろ」
森川が振り返る。
黒田は例の段ボールを前にしたまま、悪びれる様子もない。
「置く場所だけ決めたらええやん」
「それを仕事言うてるんや」
森川が返すと、皆が笑った。
さっきまで残っていた仕事の緊張が、そこでようやく消えた。
座敷には湯気の立つ茶が用意されていた。
廊下の向こうからは、料理の支度をする音がかすかに聞こえてくる。
器の触れ合う音や、人の行き交う気配が、静かな旅館の中に柔らかく響いていた。
今夜は、この部屋を囲むだけだ。
酒を飲み、料理を食べ、昔の仲間と他愛のない話をする。
それなら、それでいい。
森川が貴船へ来るまでの数週間、仲谷から届く連絡はどれも短かった。
最初のメッセージも、余計な説明はなかった。
「久しぶりに集まりませんか」
それだけだった。
森川はその一文を何度か読み返した。
仕事の依頼という感じではない。
何か大きな用事があるようにも思えなかった。
だから森川は、昔の仲間と酒を飲むために貴船へ行くのだと思っていた。
黒田と酒を飲んでいたときにも、そんな話が出た。
もう六十五を過ぎた。
いつまで元気でいられるかなんて、誰にも分からない。
身体が動くうちに、一度くらいみんなで集まって騒ごう。
昔、撮影で世話になった貴船の旅館なら、安く泊めてもらえるらしい。
そんな話を、酒の合間に何度かしていた。
森川は仲谷から届いた文面をもう一度読み返し、しばらく画面を見つめていた。
同窓会。
その言葉を頭の中で繰り返す。
昔の仲間が集まるだけなのに、なぜか少しだけ妙な響きがあった。
まだ何も始まっていないのに、そこには時間の長さまで含まれているように思えた。
昔の仲間が集まれば、自然と昔の話になる。
「あのときは大変やったな」
そんな話をしているうちに、誰かが決まって言う。
「もう、あれから何年や」
そこから年齢の話になる。
身体の具合や、昔より酒が弱くなったこと。
いつまで仕事ができるのか。
そんな話が続いて、最後には誰かが言うのだ。
「次はいつ集まれるか分からんからな」
森川は、そういう話を嫌っているわけではなかった。
自分たちが歳を重ねたことくらい、分かっている。
ただ、今の自分たちを、昔の写真の横へ並べるようなことはしたくなかった。
過ぎた時間を数えるより、今ここにいることだけを考えていたかった。
森川は返信欄を開いた。
少し考えてから、一行だけ送った。
その夜、竹森から電話があった。
「森川、来るんやな」
電話の向こうから、竹森の声がした。
「珍しいな。お前が何も企んでへんとは」
「何も企んでへんわ」
「ほんまか?」
竹森が笑う。
森川も笑った。
それだけ話して、電話を切った。
森川はスマートフォンを机の上へ置いた。
もう返事を待つ必要はない。
行くと決めた。
それ以上、理由を考える必要もなかった。
窓の外は、すっかり暗くなっていた。
明日の予定も、その次の日の予定も、今は何もない。
仕事の段取りも決まっていない。
ただ貴船へ行って、酒を飲んで、昔の仲間と話す。
それだけの予定だった。
それで十分だと、森川は思った。
