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『 長崎 名前のない写真 』

 

第十六章 炎の向こう側

 

 玄関のチャイムが、もう一度鳴った。

 

 その音を聞きながら、孝は地下の木箱から滑り出た紙を見つめていた。祖父の筆跡は、長崎の冊子に残されていたものよりも細く、ところどころ震えている。

 

 それでも、その一行だけは、書き手が何十年ものあいだ胸の奥にしまい続けてきた記憶を、ようやく言葉にしようとしているように見えた。

 

「長崎を焼いた日、私が見たのは炎ではなかった。」

 

 その意味を考えようとしたとき、玄関の向こうで父の声がした。訪ねてきた男と何か話している。

 

 距離があるため、言葉までは聞き取れない。ただ、父の声に警戒の色が混じっていることだけはわかった。孝は、紙を折ってポケットに入れた。それから、木箱の蓋を閉じる。まだ開けるべきではない。

 

 祖父がそう残したのなら、少なくとも今、この場所で開ける理由はない。

 

 何より、外にいる人物が誰なのかを確かめるほうが先だった。四人は地下の空間から上がった。父は玄関の扉を開けていなかった。

 

 インターホンのモニターに映っているのは、長崎の墓地で会った男だった。男は玄関前に立ったまま、こちらを見上げている。

 

 孝は、その顔を見ているうちに、長崎で感じた違和感の正体が少しわかってきた。この男は、四人を追っているのではない。四人よりもずっと前から、この家を探していた。そして、ようやく辿り着いたのだ。父が扉を開けた。

 

 男は一歩だけ中へ入り、玄関に立ったまま家の中を見回した。そこに懐かしさがあるようにも、警戒しているようにも見える。長崎で会ったときとは、明らかに様子が違っていた。

 

 墓地では、彼は四人に対して警戒心を隠そうとしなかった。しかし今は、その警戒心の奥に、長い時間をかけて探し続けた場所へようやく戻ってきた人間のような疲労が滲んでいる。彼は父に名乗った。

 

 その名前を聞いて、孝は驚いた。高瀬ではない。エリアスでもない。

 

 それは、長崎で見た古い記録の中に一度だけ登場した名前だった。

 

川村誠一。

 

 孝は、その名前を聞いた瞬間、祖父の冊子を思い出した。

 

 名前の横に「京都」と書かれていた人物。

 

 その人物がどこへ移ったのかについては、記録が途切れていた。まさか、生きているとは思っていなかった。男は、長崎で起きていることをすべて話すつもりはないと言った。

 

 ただ、四人が長崎から持ち帰ったものがあるなら、それを見せてほしいという。父は応じなかった。当然だった。

 

 見ず知らずの男が突然現れ、祖父の箱を見せてほしいと言っている。しかも、その男は長崎で四人を追うように現れ、今度は京都の自宅まで来ている。信用できる理由など、どこにもない。それでも川村は帰ろうとしなかった。

 

 玄関の脇に置かれた古い写真立てに目を向け、その中にある一枚の写真を見つけると、静かに近づいた。それは、孝が子供の頃に撮った家族写真だった。祖父も写っている。川村は、その写真の祖父をしばらく見つめた。

 

 そして、懐かしむように目を細めた。

 

 その表情を見て、孝はようやく、この男が祖父と本当に会ったことがあるのだと感じた。長崎で聞いた話が、初めて現実のものとしてつながった。祖父と川村は、戦後になってから何度か会っていた。

 

 川村の父親もまた、長崎で記録を守る側にいたという。しかし、原爆によって多くのものが失われた。家族も、家も、記録も。

 

 それでも、川村の父親は一つだけ持ち出した。古い記録の束だった。それを預かったのが、高瀬宗一郎だった。そして高瀬が亡くなる前に、さらに別の人物へ渡した。それが孝の祖父だった。

 

 つまり、孝の祖父は最初から記録の持ち主だったわけではない。受け取った最後の人物だった。

 

 川村は、その経緯を話しながら、長崎で起きていることを説明した。近年、古い資料を調べている人物がいる。

 

 その人物は歴史研究者を装って、長崎各地に残る古文書や個人蔵の記録を集めている。表向きには、失われつつある資料を保存する活動だった。けれど、本当の目的は別にある。記録を集めたあと、一部を書き換える。

 

 名前を入れ替え、日付を変え、関係を断ち切る。

 

 そうすることで、かつて存在した人間のつながりを別の歴史へ置き換えてしまう。なぜそんなことをする必要があるのか。そこまで話したところで、川村は言葉を止めた。彼にも、すべての理由はわかっていないという。

 

 ただ一つ確かなのは、過去を書き換えれば、現在の人間関係まで変わってしまうということだった。

 

 長崎には、キリシタンの時代から幕末の開港、外国人居留地、戦争、原爆、戦後復興へと続く長い歴史がある。その過程では、表に残った歴史だけでは説明できない人々の移動があった。誰が誰を助けたのか。

 

 誰が誰に記録を渡したのか。誰が国境を越えて逃げたのか。

 

 そうした細かな事実の一つが変わるだけで、後の歴史の見え方は大きく変わる。だから記録は守られなければならなかった。孝はそこで、祖父の言葉を思い出した。

 

「長崎を焼いた日、私が見たのは炎ではなかった。」

 

 川村は、その文章を知らなかった。孝が見せると、しばらく黙って読み返した。そして、初めて動揺した。祖父がそれを書いたことを、川村は知らなかったという。だが、その文章の意味には心当たりがある。

 

 原爆が投下された日、祖父は長崎にいた。そのこと自体は、すでにわかっていた。

 

 しかし、祖父が見たものについては、家族にも誰にも語らなかった。川村によれば、祖父はその日、爆心地から少し離れた場所にいた。そこで炎を見た。当然、街のいたるところで火が上がった。

 

 しかし、祖父が最後まで忘れられなかったのは、その炎ではない。焼け跡の中で、一人の少年が何かを探していた。

 

 少年が探していたのは、家族でも食べ物でもなかった。一冊の小さな手帳だった。その手帳には、戦前から長崎に住んでいた人々の名前が記されていた。宗教を理由に迫害された者。外国人との関係を疑われた者。

 

 戦時中に監視された者。それぞれが、なぜそこにいたのか。どこへ移ったのか。誰とつながっていたのか。

 

 そうした記録だった。少年は、その手帳だけを探していた。そして、祖父は少年を助けた。これが、すべての始まりだった。孝は、長崎で見つけた黒い手帳を思い出した。あれは単なる名簿ではなかった。

 

 何十年にもわたって、人間の移動と関係を記録したものだった。そして、その最初の頁には、まだ知られていない名前がある。

 

 川村は、孝が持っている木片を見た。その印は、少年が持っていた手帳にもあったという。では、その少年は誰だったのか。川村は、そこで初めて祖父の本名を口にした。孝の祖父は、少年から手帳を受け取った。

 

 しかし、少年自身は、その後行方がわからなくなった。死んだのか。海外へ渡ったのか。別の名前で生きたのか。

 

 誰にもわからない。ただ、少年が最後に残した言葉だけが記録されている。

 

「名前を消さないでほしい。」

 

 その言葉を聞いたとき、孝は胸の奥に重いものが落ちるような感覚を覚えた。長崎で見つけた記録の意味が、ようやく見えてきた。それは秘密を守るための記録ではなかった。忘れられないための記録だった。

 

 誰かが生きていたことを、誰かを愛していたことを、誰かを助けたことを、戦争や災害や時代の都合によって消さないために残されたものだった。祖父が守っていたのは、秘密ではない。人間だった。

 

 そのことを理解した瞬間、孝は地下の木箱を思い出した。一番。最後の名前。祖父が最後に守った記録。

 

 川村は、箱を開けるべきではないと言った。

 

 少なくとも、ここにいる全員が内容を理解できる準備ができていないうちは。しかし孝は、もう迷っていなかった。

 

 祖父が何十年も守ったものなら、自分が知らないままにしておく理由もない。地下へ戻る。床下の空間は、先ほどよりも暗く感じられた。木箱を取り出し、長崎で見つけた鍵を差し込む。鍵は、驚くほど静かに回った。蓋を開ける。

 

 中には、黒い布で包まれた一冊の手帳があった。

 

 その表紙には「1」とだけ刻まれている。

 

 そして、その横に小さな紙片が置かれていた。紙には祖父の字で、こう書かれていた。

 

「この名前だけは、私の代で終わらせる。」

 

 孝は、その意味を理解できなかった。

 

 なぜ、名前を残すために生きてきた祖父が、この名前だけは終わらせようとしたのか。手帳を開く。最初の頁には、長崎で見た人々の名前が並んでいた。その中に、これまで一度も出てこなかった人物の名前がある。

 

 その人物の横には、住所ではなく、一つの記号が記されている。

 

 そして、その記号の意味を説明するように、祖父の筆跡が続いていた。

 

「この人物が、すべての始まりである。」

 

 孝は、名前を読んだ。その瞬間、沙羅が息をのんだ。その名前は、沙羅の祖母が話していた人物と同じだった。さらに、その下には、驚くべき記述があった。その人物は、キリシタンの家系に生まれた。

 

 しかし、長崎で外国人と接触するようになり、幕末には外国との交易に関わった。明治になってから京都へ移り、その後、孝の家の土地を手に入れた。つまり、孝の家そのものが、長崎から京都へ移された記録の一部だった。

 

 長崎から京都へ。宗教弾圧の時代から開港へ。外国との交流から戦争へ。そして原爆から戦後へ。

 

 一冊の手帳は、単なる家族の記録ではなく、長崎と京都を結ぶ一人の人間の人生を中心にして、何代もの人々の歴史をつないでいた。だが、最後の頁には、さらに別の名前があった。それは、現在生きている人物の名前だった。

 

 孝は、その名前を見て、手帳を閉じた。自分たちが長崎で出会った人物ではない。

 

 長崎で自分たちを追っていた人物でもない。もっと身近な人物。これまで四人が何度も話をしていた人物だった。そして、その名前の横には、祖父の筆跡で一言だけ記されている。

 

「この人だけは、何も知らない。」

 

 その瞬間、孝はようやく気づいた。

 

 これまで自分たちが「敵」だと思っていた人物の中に、本当は敵ではない人間がいる。

 

 逆に、味方だと思っていた人物の中に、記録を書き換えようとしている人間がいる。長崎で起きたことは、まだ終わっていない。むしろ、京都へ戻ったことで、謎は最も近い場所へ移ってきたのだった。

 

 その夜、四人は誰も眠れなかった。窓の外では、京都の街が静かに夜を深めている。

 

 孝は机の上に置いた一冊の手帳を見つめていた。長崎で始まったと思っていた旅は、もう旅ではない。自分の家族が何を守り、何を隠し、何を失ってきたのか。それを確かめるための時間になっていた。

 

 そして手帳の最後に残された現在の名前が、明日の朝になれば、四人の前に現れることになる。その人物が何も知らないのなら、なぜ祖父は名前を残したのか。

 

 もし、何かを知っているのなら、なぜ祖父は「何も知らない」と書いたのか。

 

 孝は、まだ答えを出せなかった。ただ一つだけ、確かなことがある。

 

 長崎の街で出会った謎は、京都へ戻った今も、四人のすぐそばで息をしている。

 

 そして、明日になれば、その謎の中心にいる人物と向き合わなければならない。その人物の名前を、孝はもう一度手帳で確認した。そこには、こう書かれていた。

 

米田涼子。