この作品は盗用禁止です。

AIに登録してネット監視していますので、ご注意ください。

 

 

『5年越しの手紙』

 

第四章 止まっていた針と、豊中への靴音

 

阪急梅田駅のコンコースの片隅、巨大な円柱の陰に身を寄せながら、美穂は震える手でスマートフォンを取り出した。

 

画面には、予約していた新幹線の指定席チケットが表示されている。

 

新大阪発、午後六時三分。

 

あと二十分。

 

走れば間に合う時間だった。

 

右手に握りしめた白い封筒を見つめる。

 

和紙の冷たい感触が、脳裏に記憶を呼び覚ます。

 

美穂は唇を強く噛み締め、スマートフォンの画面を操作して新幹線の予約を翌日の便へと変更した。

 

そして、哲也へのメッセージ画面を開く。

 

『ごめんね、取材で確認したいことが追加で出てきてしまって、今夜は大阪にもう一泊することになったの。明日には帰るね』

 

送信ボタンを押すと、数十秒もしないうちに哲也から返信が届いた。

 

『了解! 出張お疲れ様。最近ちょっと忙しそうだったから、無理しないでゆっくりしてね』

 

語尾の温かな気遣いに、美穂の胸が締め付けられた。

 

(哲也さん……ごめんね。でも、私、この過去に決着をつけないと、前に進めないの)

 

五年前、姿を消した彼を探して一人で彷徨ったときに耳にした「豊中」という地名。

 

美穂は駅前のビジネスホテルに宿を取り、翌朝早く、阪急宝塚線に乗り込み、豊中駅へと向かった。

 

*

 

翌朝、秋の澄み渡った空気の中、阪急宝塚線の車窓からは大阪北部の静寂な住宅街が流れていた。

 

服部天神、庄内、岡町……駅を通過するたびにガタゴトと鳴る線路の振動が、そのまま美穂の心臓へと響いていく。

 

豊中駅の改札を抜けると、冷たい秋風が美穂の頬を掠めた。

 

駅から伸びる人工デッキを降り、坂道の住宅街へと足を踏み入れた。

 

五年前のあの冬、宛てもなく彼を探し回ったときと同じ坂道。

 

沿道には古い邸宅と新しい住宅が入り組んで立ち並び、庭木からは赤く熟した柿の実が秋の光を受けて揺れていた。

 

坂の中腹、かつて明夫が「親父が昔からやってる小児科なんだ」と愛おしそうに話していた場所へと辿り着いた美穂は、その場に立ち尽くした。

 

そこに広がるのは、木枠の看板を掲げた小児科医院ではなかった。

 

新しく敷き詰められたアスファルト。

 

均等に引かれた白い線。

 

黄色のロック板が光を反射する、だだっ広いコインパーキングだった。

 

「……嘘……」

 

呆然と佇む美穂の背後で、シャリシャリと小さな箒の音が聞こえた。

 

パーキングのすぐ隣、木造の米屋の店頭で、割烹着を着た年配の女性が落ち葉を掃いていた。

 

美穂は乾いた声を振り絞った。

 

「あの……すみません。昔、ここに『藤田医院』がありましたよね……? 孫の明夫さんのご家族を……探しているのですが」

 

女性は竹箒の手を止め、懐かしむような、どこか哀愁を帯びた眼差しで美穂の顔を見つめた。

 

「藤田さんのところかいな。……お医者さんやったお父さんが亡くなってから、もう医院も家も畳んでしもてな。更地になったんよ。……おばあちゃんの和子さんなら、ここから歩いて十分ほどのケアハウスにおるよ。明夫くんが必死になって探して、手配したところや」

 

「和子さんが……ですか?」

 

「そうや。あの子、おばあちゃんのことだけは本当に大切にしとったからな……」

 

女性に教えられた住所をメモし、美穂は深く頭を下げた。

 

パーキングの冷たいアスファルトを見つめ直しながら、胸の中に、未知の胸騒ぎが広がり始めていた。

 

住宅街の最奥にあるケアハウス『陽だまりの家』。

 

ガラス張りの明るいエントランスに入ると、ほのかに消毒液とお茶の匂いが混ざり合った空気が美穂を包み込んだ。

 

受付で事情を話し、面会簿に記入すると、温和な目元をした施設長が出迎えてくれた。

 

「和子さんは今、一階のデイルームでお日様に当たっておられますよ。昔のことと今のことが重なってしまうことも多いのですが……とても穏やかに過ごされています」

 

施設長に導かれ、静かな廊下を歩く。

 

突き当たりの大きなガラス窓からは、やわらかな秋の木漏れ日が出入りの激しい車椅子を優しく照らしていた。

 

その光の真ん中に、白髪をきれいに切り揃えた小さな女性が、車椅子に深く腰掛けて外の庭を眺めていた。

 

――和子さんだった。

 

かつて阿佐ヶ谷の部屋で「明夫をよろしくお願いしますね」と美穂の手を包んでくれたあのおばあちゃん。

 

美穂は胸が詰まり、車椅子の脇へ歩み寄り、その前にそっとかがみ込んだ。

 

「和子さん……お久しぶりです。白石美穂です。覚えていますか……?」

 

和子さんはゆっくりと首を巡らせ、ぽかんとした瞳で美穂を見つめた。

 

やがて、和子さんのシワの寄った目元が、ふっと蕾がほころぶように緩んだ。

 

痩せた温かな手が伸びてきて、美穂の右手を固く包み込む。

 

「あら……咲恵さんかいな。忙しいのに、今日も来てくれたんか」

 

「え……?」

 

美穂の手の中で、指先がかすかに震える。

 

「咲恵さん、今度来る時はな、甘いリンゴを持ってきてな。明夫も咲恵さんも、いつも仕事帰りに寄ってくれて……ほんまに、ありがとな……」

 

和子さんは愛おしそうに美穂の手を撫で続けた。

 

その温もりは本物だったが、向けられている情愛の対象は、自分ではなかった。

 

ふと車椅子の側面のポケットに目をやると、そこに小さな木製のフォトフレームが差し込まれていた。

 

写真の中では、和子さんを真ん中に挟んで、穏やかな笑みを浮かべる明夫と、上品で優しそうな女性が肩を寄せていた。

 

裏側には、角張ったあの明夫のペン字で、『2024年 秋 家族で』と書き添えられている。

 

咲恵さん――それが、いまの明夫の妻の名前だった。

 

和子さんの中では、美穂はもう、明夫の妻になっていた。

 

「……はい。和子さん」

 

美穂は声を整え、和子さんの手を優しく包み返した。

 

「……今度、持ってきてもらいますね。明夫さんのために」

 

和子さんは「そうかい、ありがとうねぇ」と満足そうに何度も頷き、再び穏やかな顔で庭の木漏れ日へと視線を戻した。美穂は静かに立ち上がり、深々と頭を下げてデイルームをあとにした。