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『 花びらの積もる道 』

 

第八章 短い電話

 

 休暇の一日目、千穂は目覚まし時計を止めたあとも、布団の中にいた。

 

 眠っていたわけではない。

 

 仕事へ行く時間が過ぎ、いつもなら西川沿いを歩いている頃になっても、身体を起こせなかった。

 

 枕元の携帯電話には、職場からの連絡は入っていない。

 

 二日間は仕事のメールも見ないようにと、上司から言われていた。

 

 見てはいけないと思うと、見たいものだった。

 

 千穂は携帯電話を取り、職場のメールを開こうとした。暗証番号を入れるところで閉じた。

 

 展示会場で何か起きていないだろうか。

 

 亨の絵は無事に返されるだろうか。

 

 礼状は正しい宛先へ届くだろうか。

 

 引き継ぎに書き忘れたことはなかったか。

 

 仕事のことをやめようとすると、今度は母の部屋で見た封筒が浮かんだ。

 

〈費用の半分です〉

 

 半分とは、何の半分だったのだろう。

 

 金額を二つに分ければ、責任も二つに分かれるのか。

 

 母はその金を使わなかった。返しもせず、捨てもせず、千穂が生まれたあとまで持っていた。

 

 千穂は寝返りを打った。

 

 自分が生まれたとき、母は失った子どもを思い出した。

 

 そう聞いた瞬間から、昔の記憶まで違って見えた。

 

 熱を出した夜、母が朝までそばにいたこと。

 

 小学校の入学式で、父より先に泣いたこと。

 

 店へ連れていかれ、何枚も服を着替えさせられたこと。

 

「その色は、千穂には暗いわ」

 

 母はそう言って、次の服を出した。

 

 千穂は着替えるのが嫌で泣いた。

 

 あのとき母が見ていたのは、自分だったのだろうか。

 

 午前十時を過ぎた頃、順子から電話がかかってきた。

 

 千穂は画面を見たまま、すぐには出なかった。

 

 呼出音が切れた。

 

 しばらくして、もう一度鳴った。

 

「もしもし」

 

「今日は仕事でしょう」

 

 順子は挨拶より先に言った。

 

「休み」

 

「平日に?」

 

「休暇を取ったの」

 

「自分で?」

 

 千穂は答えなかった。

 

「仕事で何かあったのね」

 

「少し間違いが続いただけ」

 

「どんな間違い?」

 

「日付を一日間違えたり、礼状を入れ忘れたり」

 

「それで休まされたの?」

 

「休むように言われただけ。三日後には戻る」

 

 順子は黙った。

 

「私と亨のことを知ってから?」

 

「お母さんのせいだとは言ってない」

 

「でも、前にはなかったことでしょう」

 

「分からない」

 

「千穂」

 

「ほんまに分からんの。仕事をしてても、急に考えるから。お母さんは、どうして一人で病院へ行ったんだろうって。澤口さんは、そのあと普通に就職して、結婚したのかなって。お父さんは、何も知らずにお母さんと暮らしたのかなって」

 

 順子は何も言わなかった。

 

「知らん方がよかったのかもしれない」

 

 千穂が言った。

 

「でも、もう知ってしもうたから」

 

「そうね」

 

「どうしたら、知らなかったときみたいに戻れるの」

 

「戻れないわ」

 

 順子は静かに答えた。

 

 千穂は目を閉じた。

 

 大丈夫よ、と言ってもらいたかったのかもしれない。

 

 何が大丈夫なのかは分からなかった。

 

「でも、あなたが背負うことではないの」

 

「そう言われても、頭から出ていかない」

 

「分かってる」

 

「お母さんには分からんよ。お母さんは、ずっと知ってたんだから」

 

 順子は返事をしなかった。

 

「ごめん。もう少し寝る」

 

「何か食べなさい」

 

「あとで」

 

「冷蔵庫に何かあるの?」

 

「ある」

 

「何が?」

 

「知らない」

 

「それでは、ないのと同じでしょう」

 

「お母さん」

 

「何?」

 

「電話、切るよ」

 

「そう」

 

 千穂は電話を切った。

 

 順子は津山の部屋で、消えた画面を見ていた。

 

 娘に話さなかったのは、守るためだと思っていた。

 

 自分の過去は自分の中に置いておけばよい。夫にも、娘にも、持たせる必要はない。

 

 だが、偶然知った千穂は、事実だけを渡され、その置き場所を持っていなかった。

 

 順子は寝室へ入り、段ボール箱の前へ座った。

 

 底をテープで留めた箱には、古い封筒と手帳が戻してある。

 

 亨から送られた金も、そのままだった。

 

 箱の蓋を開けた。

 

 封筒を取り出しかけ、戻した。

 

 亨に会いたいとは思わない。

 

 許すつもりもなかった。

 

 順子は箱を閉めた。

 

 立ち上がると、膝にテープの切れ端がついていた。指で取り、屑籠へ捨てた。

 

 岡山では、その日の午後、展示の撤去が行われた。

 

 亨は指定された時刻に表町の会場へ出向いた。

 

 自宅へ届けてもらう予定だったが、朝になってから、自分で取りに行くと連絡した。

 

 会場では、千穂の後輩が作品を包んでいた。

 

「お世話になりました」

 

 亨が声をかけると、後輩は手を止めた。

 

「こちらこそ、ありがとうございました。アンケートでも、澤口さんの絵がよかったという声が多かったです」

 

「松山さんは?」

 

 尋ねてから、仕事を外れた質問だと思った。

 

「昨日からお休みです」

 

「体調を崩しはったんですか」

 

「少し疲れてるみたいで。展示が始まる前から、ずっと忙しかったですから」

 

 後輩は、それ以上話さなかった。

 

 亨も聞けなかった。

 

 包まれた絵を抱え、表町商店街を歩いた。

 

 少し先に、洋子の働く花屋がある。

 

 店先で、洋子が若い店員と花の器を動かしていた。

 

 亨に気づくと、手を上げた。

 

「絵、取りに来たの?」

 

「うん」

 

「もう終わったんやね」

 

「今日で」

 

「あとで、ゆっくり見せて」

 

 洋子は店員に呼ばれ、奥へ戻った。

 

 店先の花は、白と薄い桃色だった。

 

 少し離れたところに、黄色い花が一鉢置かれている。

 

 順子が動かしたのだろうか。

 

 洋子が自分で動かしたのだろうか。

 

 亨には分からなかった。

 

 亨は絵を抱え直し、その場を離れた。

 

 家へ帰ると、絵を二階へ運んだ。

 

 机には、宛名だけを書いた便箋が伏せてある。

 

〈松山順子様〉

 

 亨は便箋を裏返した。

 

 手紙を書くことばかり考えていた。

 

 書けば、自分の言いたいことを相手へ送れる。

 

 順子が読みたいかどうかは、書き終えてから考えるつもりでいた。

 

 それでは、四十数年前と変わらない。

 

 自分の時間で考え、順子の時間を待たせる。

 

 亨は便箋を引き出しへ戻した。

 

 その頃、順子は岡山市役所の代表番号へ電話をかけていた。

 

「移住された方の展示について、お尋ねしたいのですが」

 

「どのようなことでしょうか」

 

「出展されていた澤口亨さんへ、伝言をお願いできますか」

 

「個人の連絡先はお伝えできませんが、こちらからご本人へ確認することはできます」

 

「それで結構です」

 

「お名前を伺ってもよろしいですか」

 

 順子は一度、息を吸った。

 

「松山順子です」

 

 小坂ではなく、いまの姓を名乗った。

 

「澤口さんに、千穂のことで話があります、と伝えてください。私の電話番号を渡していただいて構いません」

 

 職員が番号を復唱した。

 

 順子は一つずつ聞いた。

 

 最後の数字だけ、職員が間違えた。

 

「そこは、七です」

 

「失礼いたしました。七ですね」

 

「はい」

 

 電話を切ると、順子はダイニングテーブルの前へ座った。

 

 自分の電話番号なのに、紙へ書いて確かめた。

 

 間違っていなかった。

 

夕方近く、市役所から亨へ連絡が入った。

 

「松山順子さんから、伝言をお預かりしています」

 

 亨は椅子から立ち上がった。

 

「千穂さんのことで、お話があるそうです」

 

 職員が電話番号を読み上げた。

 

 亨は机にあった紙へ書いた。

 

 最後の数字は七だった。

 

「もう一度、お願いします」

 

 数字を一つずつ復唱した。

 

「以上で間違いありません」

 

「ありがとうございます」

 

 電話を切った。

 

 紙を机へ置いた。

 

 四十数年前、順子の実家の番号は暗記していた。公衆電話から何度もかけた番号だった。

 

 手帳を見なくても、指が勝手に動いた。

 

 いま目の前にあるのは、松山順子の番号である。

 

 亨は受話器を取った。

 

 一度置いた。

 

 もう一度取った。

 

 数字を押すと、呼出音が鳴った。

 

 一度目。

 

 二度目。

 

 三度目で、順子が出た。

 

「もしもし」

 

 四十数年ぶりに聞く声だった。

 

 若い頃より低く、落ち着いていた。

 

 それでも、順子の声だと分かった。

 

「澤口です」

 

 電話の向こうで、短い沈黙があった。

 

「連絡をいただいたと聞きました」

 

「千穂が、仕事を休まされました」

 

「今日、会場で聞きました」

 

「私たちのことを知ってから、間違いが続いているそうです」

 

「そうですか」

 

「そうですか、だけ?」

 

 亨は受話器を握り直した。

 

「すみません」

 

「私に謝るんですか」

 

「いや」

 

「では、誰に?」

 

 亨は答えられなかった。

 

「このままにはできません」

 

「はい」

 

 順子は黙った。

 

 亨が次に何を言うか、待っている。

 

 昔も、順子は待った。

 

 亨は考えると言った。

 

 考えている間にも、時間は過ぎていた。

 

「会うて、話せませんか」

 

 亨が言った。

 

 電話の向こうで、順子が息をした。

 

「千穂のためです」

 

「分かってます」

 

「岡山で会います。あの子を呼ぶ前に、二人で話しましょう」

 

「どこにしますか」

 

「旭川の京橋の近くで」

 

「分かりました」

 

「明後日の午後二時」

 

「行きます」

 

 用件は、それだけだった。

 

 元気だったかとは聞かなかった。

 

 結婚したことも、夫を亡くしたことも、洋子と暮らしていることも、互いに知っていた。

 

 知っているだけで、何も尋ねなかった。

 

「では、明後日に」

 

 順子が言った。

 

「はい」

 

 亨は受話器を置かなかった。

 

 順子も切らなかった。

 

 電話の向こうから、ごく小さな音が聞こえた。

 

 時計か、冷蔵庫か、順子が指で何かを触っている音かもしれない。

 

「何か?」

 

 順子が言った。

 

「いや」

 

「では、切ります」

 

「はい」

 

 電話が切れた。

 

 通話時間は、二分四十七秒だった。

 

 亨は受話器を置いた。

 

 四十数年前、順子の母に長電話を叱られた夜、二人は一時間近く話していた。

 

 何を話したのかは、ほとんど覚えていない。

 

 母親の声が途中へ入ったことだけは、二人とも覚えていた。

 

 順子は津山の部屋で、携帯電話をテーブルへ置いた。

 

 画面には、登録していない番号が残っている。

 

 澤口亨。

 

 名前を登録する必要はなかった。

 

 明後日に会えば、そのあと電話をすることはない。

 

 順子はそう思った。

 

 番号を消そうとして、指を止めた。

 

 消すのは、会ってからでよい。

 

 台所へ行き、湯を沸かした。

 

 茶葉を入れすぎ、濃い茶になった。

 

 一口飲んだが、淹れ直さなかった。

 

 岡山では、亨が二階から下りてきた。

 

 洋子は居間で、新聞を畳んでいた。

 

「電話、長かった?」

 

「いや」

 

「誰から?」

 

 亨は少し間を置いた。

 

「市役所から」

 

「絵のこと?」

 

「うん」

 

 嘘ではなかった。

 

 市役所から電話はあった。

 

 そのあと、誰へ電話したかを言わなかっただけである。

 

「お茶、飲む?」

 

「いや、ええ」

 

「今日は、いらん日なんやね」

 

 洋子は立ち上がり、自分の湯呑みだけを台所へ運んだ。

 

「洋子」

 

「何?」

 

「明後日の午後、出かけるから」

 

「どこへ?」

 

「京橋の方」

 

「絵を描きに?」

 

 亨は洋子の背中を見た。

 

「人に会う」

 

 洋子が振り返った。

 

「市役所の人?」

 

「そうや」

 

 今度は、嘘だった。

 

「分かりました」

 

 洋子は台所へ入った。

 

 流しへ置いた湯呑みを、すぐには洗わなかった。

 

 亨は食卓へ座った。

 

 自分の前には、空の湯呑みさえなかった。

 

 明後日、四十数年ぶりに順子と会う。

 

 そのことを考えると、若い頃の顔ばかりが浮かんだ。

 

 いま会うのは、小坂順子ではない。

 

 夫を亡くし、娘を心配して、自分へ連絡してきた松山順子だった。

 

 亨は机に残した電話番号を思い出した。

 

 最後の数字は七である。

 

 忘れないようにと何度も復唱したため、ほかの数字より強く残っていた。