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『 長崎 名前のない写真 』
第十五章 地下にある一番
京都へ戻る新幹線の窓から、夕暮れの景色がゆっくり後ろへ流れていった。
長崎を離れてしまえば、これまでの出来事が少しずつ現実味を失っていくのではないかと、孝は思っていた。
数日前までなら、旅行先で古い写真を見つけたことも、祖母の家に残された木箱のことも、歴史を題材にした少し不思議な出来事として受け止めていたかもしれない。
窓に映る自分の顔を見ながら、孝は何度も同じことを考えていた。自分の名前が、八十年以上前の手帳に残されていた。祖父は長崎から何かを持ち帰っていた。
そして、その「何か」が、現在の自分たちの家に残されている可能性がある。
長崎で出会った男は、祖父から記録を受け取ったことがあると言った。その人物は、祖父が最後まで守っていたものを知っている。
ならば、祖父は自分の家族に何も話さなかったのではなく、話せなかったのかもしれない。孝には、その違いが大きいように思えた。何も知らなかったのなら、祖父はただ過去を忘れた人になる。
しかし、知っていて語らなかったのなら、その沈黙には理由がある。
列車が京都へ近づくにつれ、その理由が少しずつ重く感じられてきた。車内では、四人ともほとんど話さなかった。
これまでなら、見つかった情報を整理するために、互いの考えを口にしていたはずなのに、今はそれぞれが自分の中で考えている。
涼子は撮った写真を整理し、浩一は古い地図と現在の地図を照合している。沙羅は母親とのメッセージを読み返していた。それぞれの沈黙が、むしろ四人の距離を近づけているようだった。同じものを見ている。
ただ、見えているものが少しずつ違う。京都駅に着いたのは、夜だった。
長崎へ出発したときには、旅行から戻れば日常に戻れると思っていた。
しかし、改札を抜けた瞬間、孝はその考えが完全に間違っていたことを知った。京都の街は、何も変わっていない。
駅前には人が行き交い、タクシーが並び、観光客が大きな荷物を引いて歩いている。それなのに、孝だけが以前の自分ではない。長崎へ行く前には、自分の家の歴史など考えたこともなかった。祖父が何をしていたのか。
曾祖父がどこで暮らしていたのか。なぜ祖父が八月になると長崎の話を嫌がったのか。
そんなことは、もう確かめようとも思っていなかった。知らないことは、知らないままでいい。それが家族というものだと思っていた。
けれど、知らないことの中に、自分たちが今も暮らしている場所の秘密が隠されているのなら、話は変わってくる。翌朝、孝は父の家へ向かった。
父は玄関まで出てきたが、孝の後ろに涼子たち三人がいるのを見て、少し驚いた。長崎で何があったのか。そのことを説明するには時間がかかる。しかし、父は何も尋ねなかった。
おそらく、電話で聞いた話だけでも、すでに何かを察していたのだろう。居間には、祖父の箱が置かれていた。
長い年月、物置の奥にしまわれていた箱。外側には傷が多く、角は擦り切れている。それでも、鍵を使わずに開けることはできなかった。父が小さな工具を使って蓋を開ける。
中には、古い写真と書類、それから布に包まれた冊子が入っていた。孝は、その冊子を見た瞬間、長崎の四番を思い出した。黒い手帳とよく似ている。
ただし、こちらの表紙には数字がない。代わりに、小さな十字の印が刻まれていた。父は、それを見ても何も言わなかった。孝は父の顔を見た。長い沈黙のあと、父はようやく祖父について話し始めた。
祖父は戦後、長崎から京都へ戻ってきた。そのとき、何かを持って帰った。それは家族には見せなかった。
ただ、父がまだ子供だった頃、一度だけ祖父が箱を開けているところを見たことがあるという。そのとき祖父は、父に気づくと、ひどく怒った。普段、声を荒らげるような人ではなかった。それなのに、そのときだけは違った。
父はその理由を聞かなかった。聞けば、祖父がさらに苦しむような気がしたからだという。
孝は、その話を聞きながら、祖父の姿を思い出そうとしていた。自分が子供の頃に会った祖父は、すでに高齢だった。庭に出て植木を眺めたり、新聞を読んだりする、ごく普通の老人だった。
長崎の話をしているところなど、見たことがない。けれど、一度だけ覚えている。八月九日の朝だった。
テレビから長崎の平和祈念式典の映像が流れていた。祖父は、その画面を見たまま、何も言わなかった。幼かった孝には、それが不思議だった。祖父はいつもなら、テレビのニュースに何かしら反応する。
しかし、その日だけは、画面を見つめたまま動かなかった。今になって思えば、あの沈黙にも理由があったのだろう。
父が布に包まれた冊子を開いた。最初の頁には、名前がいくつも並んでいる。長崎で見たものと同じだった。
ただし、こちらには名前だけではなく、その人がどこへ移ったのかが記されている。海外。京都。大阪。東京。
そして、名前の横に「消息不明」と書かれた人もいる。
孝は一頁ずつめくった。記録そのものは古い。ところどころ墨が滲み、紙が破れている。しかし、最後の数頁だけは比較的新しい。そこに、祖父自身の筆跡があった。
「昭和二十年八月九日以後、記録を京都へ移す」
その下に、別の文章が続いている。
「長崎に残すことは危険である」
さらに、その下には一人の名前があった。高瀬宗一郎。そして、もう一人。エリアス・ローレンス。この二人の名前は、長崎でも何度も出てきた。しかし、二人の名前の間には、今まで見たことのない記述がある。
「記録の中身を知る者は、二人だけではない」
孝は頁をめくる手を止めた。さらに下には、別の名前が書かれていた。それは、祖父自身の名前だった。そして、その横に、
「最後の一人」
と記されている。父は、その文字を見ても何も言わなかった。おそらく、初めて見るのだろう。
孝は、祖父が最後まで何を守ろうとしていたのか、少しだけ理解できた気がした。祖父は、記録そのものを守っていた。その記録に書かれた人々が、誰だったのか。どこへ行ったのか。どのような人生を送ったのか。
その事実を、誰かが後から消したり書き換えたりしないように。ただ、それだけだったのかもしれない。
ところが、最後の頁を開いたとき、そこに別の文字があった。祖父の筆跡ではない。もっと新しい筆跡だった。そこには、
「一番は、まだ開けてはいけない」
と書かれている。孝は思わず顔を上げた。長崎で見つけた四番。港の十七。そして、京都の一番。
数字が場所を示しているなら、一番はこの家の地下にあるということになる。だが、この家には地下室などない。父もそう言った。少なくとも、自分が住んでいる限り、そんなものは見たことがない。
それでも、孝は家の図面を見せてもらった。
父が古い書類の束から取り出した建築図面には、現在の家には存在しない空間が描かれていた。地下ではない。家の基礎の下に、小さな空洞がある。しかも、その入口は現在の床下収納の位置と重なっている。
孝は、しばらく図面を見つめた。父が知らなかったのは当然だった。
その空間は、家が建てられたときから存在していたわけではない。古い家を改修した際に、誰かが意図的に作ったものだった。そして、その改修を行った年が、昭和二十一年。長崎から祖父が京都へ戻った翌年だった。
部屋の空気が変わった。誰も急いで床を開けようとはしなかった。
ここまで来てしまうと、単なる謎解きではない。
そこに何が入っているのかを知ることは、祖父が生涯隠してきたものを知ることになる。それは、家族にとっても大きな意味を持つはずだった。父は、床下収納の蓋を開けた。その下には、確かに古い木の板がある。
板を外すと、さらに下へ続く空間が現れた。
高さは人が立てるほどではない。けれど、奥に何かが置かれている。古い木箱だった。その箱の側面には、長崎で見たものと同じ印が刻まれている。そして、その下に数字がある。
1。
孝は、そこで初めて理解した。祖父は、長崎から何かを持ち帰った。それを京都の家の地下に隠した。そして、その存在を誰にも知らせないまま亡くなった。しかし、なぜか誰かがそれを知っている。
だからこそ、長崎で四人を待っていた人物がいた。だからこそ、祖母は四番について知っていた。
だからこそ、父の家にある箱まで、誰かが探している。孝は木箱に手を伸ばした。その瞬間、スマートフォンが震えた。長崎からだった。知らない番号。届いたのは、たった一枚の写真だった。京都の家の地下。
今、四人が立っている場所を、外から撮影した写真。撮影時刻は、ほんの数分前。
孝は画面を見たまま、背筋が冷たくなるのを感じた。自分たちがここにいることを、誰かが知っている。しかも、その人物は家の外にいる。窓の向こうへ目を向ける。夜の京都の街に、いくつもの明かりが見える。人の姿もある。
車も走っている。けれど、その中に誰が自分たちを見ているのかはわからない。
父が、ようやく木箱の蓋に手をかけた。箱は、長い年月を経ているにもかかわらず、不思議なほどきれいだった。蓋の中央には、小さな金属製の鍵穴がある。鍵はない。しかし、孝は長崎で見た古い鍵を思い出した。四番の鍵。
そして、祖母の家から消えた鍵。もし、それらが同じものなら、この一番の箱も開けられる。
ただ、その前に孝は箱の裏側を見た。そこには、数字ではなく一つの文章が刻まれていた。古い文字だった。それでも、読むことはできた。
「一番を開ける者は、最後の名前を知る。」
孝は、その言葉を見つめた。長崎で守られてきた名前。消された名前。書き換えられようとしている名前。そして、自分の名前。最後の名前とは誰なのか。それがわからないまま、孝は箱の鍵穴に指を触れた。
すると、外から車のブレーキ音が聞こえた。窓の向こうに、一台の黒い車が止まった。
その車から降りた人物を見て、沙羅が息をのんだ。長崎の墓地で会った男だった。男は家の前に立つと、玄関を見上げた。
そして、まるでここへ来ることを最初から知っていたかのように、ゆっくりと玄関のチャイムを押した。その瞬間、地下の木箱の中から、かすかな音がした。鍵がないはずなのに、内部で何かが外れたような音だった。
孝は箱を見つめた。蓋の隙間から、古い紙が一枚だけ滑り出ている。
そこには、祖父の字で、まだ誰も読んでいない一行が記されていた。
「長崎を焼いた日、私が見たのは炎ではなかった。」
