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『 5年越しの手紙 』

 

第一章  踏み出せない一歩と、擦れ違う演奏会

 

都心の夜景を見下ろす、築地のWeb出版社。

 

午後七時を回り、フロアの照明が少し落とされたオフィスで、白石美穂はパソコンの画面に向かってカタカタとキーボードを叩いていた。

 

二十八歳。

 

ライフスタイルWebメディア『Transit』のシニアエディターとして、過密な編集スケジュールをこなす毎日を送っている。

 

「美穂ちゃん、今日の入稿、チェック終わったよ」

 

低く落ち着いた声とともに、デスクの脇に温かいマグカップが置かれた。

 

香ばしいほうじ茶の香りが立ち上る。

 

見上げると、同僚でありパートナーでもある佐伯哲也が、優しく目を細めて微笑んでいた。

 

三十歳。

 

メディア事業部の営業デスクを務める彼は、社内でも信頼が厚く、誰に対しても分け隔てなく誠実な男だった。

 

「ありがとう、哲也さん。助かる……」

 

「無理しないでね。明日からの大阪出張も控えてるんだから」

 

二人の関係が始まって、もう二年になろうとしていた。

 

周囲の同僚たちからも「お似合いのカップル」として温かく見守られており、哲也は美穂の仕事に対する熱意を誰よりも理解し、支えてくれていた。

 

先月には、彼から「来年の春あたり、品川か恵比寿あたりで一緒に住む部屋を探さないか」という言葉ももらっていた。

 

(本当なら……すごく幸せなはずなのに)

 

美穂は温かいマグカップを両手で包み込みながら、胸の奥に落ちている小さな冷たい澱(おり)を感じていた。

 

哲也のことは、心から大切に思っている。

 

彼の優しさも、誠実さも、自分に向けられる真っ直ぐな好意も、すべて愛おしい。

 

けれど――彼の踏み込んだ申し出に対して、美穂はどうしても「はい」とうなずくことができなかった。

 

一緒に暮らす物件のサイトを見せられても、どこか言葉を濁し、深い関係へと踏み出す最後の最後で、無意識に一歩引いてしまう。

 

「美穂」哲也が少し表情を曇らせ、美穂の顔を覗き込んだ。

 

「……どうしたの? 最近、どこか遠くを見ているみたいだ。僕、何か気に触ること言ったかな」

 

「ううん、そんなことないの。哲也さんは何も悪くないよ。ただ……ちょっと仕事の疲れが溜まってるだけ」

 

美穂は咄嗟に作り笑いを浮かべ、視線を画面に戻した。

 

心の中で自分が嫌になる。

 

なぜ自分は、こんなにも自分を大切にしてくれる哲也に対して、心の本当の扉を開くことができないのか。

 

理由を説明しようにも、自分自身がその理由に向き合うことを恐れ、頑なに心を閉ざしてしまっていた。

 

「哲也さーん! 今日の打ち合わせ資料、確認してもらっていいですか?」

 

屈託のない明るい声とともに立ち上がったのは、半年前に入社してきた編集部の若手、杉村愛香だった。

 

二十四歳の愛香は、人懐っこく素直な性格で、誰からも愛されるタイプだった。

 

彼女が哲也に向ける親しみやすさはごく自然なもので、そこに悪意や計算らしきものは感じられない。

 

「あ、愛香ちゃん。いいよ、今行く」

 

哲也が美穂のデスクを離れ、愛香の席へと向かう。

 

愛香は「ありがとうございます!」と笑顔を向け、PC画面を覗き込ませた。

 

美穂が自ら作った距離の隙間に、愛香がごく自然に収まっている。

 

哲也も愛香を無下に扱うようなことはしない。

 

美穂は手元の書類を整理するフリをしながら、ぎゅっと唇を噛み締め、視線を落とした。

 

胸の痛み。

 

けれど、自分自身が哲也との距離を拒み、彼の手をほどいている以上、愛香の自然体な振る舞いを責める権利などどこにもないのだ。

 

*

 

その日の夜、哲也は美穂を会社の近くの静かなイタリアンバルに誘った。

 

ワイングラスを傾けながら、哲也がポケットから二枚のチケットを取り出した。

 

「これ……今週の木曜日の夜、サントリーホールであるサックスとピアノのコンサートなんだ。美穂、前に行きたいって言ってたでしょ? 奇跡的に良席が取れたんだ」

 

チケットに記された日付は、美穂が大阪へ出張する前日の夜だった。

 

「……ごめん、哲也さん」美穂は目を伏せた。「木曜日は、大阪出張の最終準備があって……夜遅くまで編集部に残らなきゃいけないの。せっかく取ってくれたのに、本当にごめんね」

 

それは半分は本当で、半分は嘘だった。

 

準備は繰り上げれば終わるものだった。

 

けれど、コンサートの後の穏やかな時間の中で、哲也から再び将来のことを切り出されるのが怖くて、逃げてしまったのだ。

 

哲也は一瞬、寂しげな笑みを浮かべた。

 

「そうか……仕事なら仕方ないね。気をつかわないで」

 

「……誰か、他の人と行ってきて。無駄にしちゃうのは勿体ないから」

 

自分が口にした言葉でありながら、胸がちくちくと痛んだ。

 

哲也は小さく息を吐き、「わかった。考えておくよ」とだけ言った。

 

そして、木曜日の夜。

 

予定通り残業をしていた美穂の耳に、編集部の給湯室から愛香の声が届いた。

 

「ええ、今夜哲也さんとサントリーホールなんです。美穂さんが行けなくなっちゃったみたいで、代わりに誘っていただいて……すごく楽しみ!」

 

愛香の声に浮ついた自慢の響きはなく、ただ素直に楽しみにしている様子だった。

 

だからこそ、美穂の心にはいっそう重く響いた。

 

悲しい。

 

苦しい。

 

それなのに、自分からその手を解いてしまったのだ。

 

夜九時半。

 

すべての出張準備を終え、美穂がオフィスを出ようとしたとき、スマートフォンの画面が光った。

 

哲也からのメッセージだった。

 

『コンサート終わったよ。愛香ちゃんも喜んでくれてた。……でもね、やっぱり僕は、美穂と一緒に行きたかったな。美穂と聴きたかった』

 

画面に浮かんだその一文を見た瞬間、美穂の目からハラハラと涙がこぼれ落ちた。

 

どこまでも誠実で、自分を求めてくれる哲也の言葉。

 

それが痛いほど嬉しく、そして同時に、自分の不甲斐なさがたまらなく情けなかった。

 

どうしても彼との心の距離を縮められないまま、美穂は翌朝、逃げるような想いを抱えて品川駅から新幹線に乗り込み、大阪への出張へと向かったのだった。