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『 長崎 名前のない写真 』

 

第十三章 京都へ戻る前に

 

 翌朝になっても、四人の気持ちは長崎の街から離れなかった。

 

 ホテルの窓から見える山の斜面には、昨夜と同じように家々が並び、その間を細い坂道が縫うように続いている。路面電車が通り過ぎ、朝の街が少しずつ動き始めている。観光地として見れば、どこにでもある旅先の朝なのだろう。

 

 けれど、孝には、その景色の一つ一つが別の意味を持って見えた。

 

 自分たちは長崎の歴史を見に来た。

 

 キリシタンの歴史を知り、外国との交流によって形づくられた街を歩き、原爆によって一度大きく姿を変えた街が、どのように現在へ続いているのかを見てみたいと思っていた。

 

 ところが、いつの間にか、その歴史の中に自分の家の名前が入り込んでいた。

 

 しかも、それは祖父の代より前の話であり、本人さえ詳しく知らなかった過去だった。

 

 朝食を終えたあと、四人はすぐに荷物をまとめず、テーブルの上に昨夜の写真を並べた。九番。十二番。四番。そして、祖父の箱。

 

 それぞれが別々の出来事だと思っていたものが、少しずつ一本の線につながり始めている。ただし、その線の先に何があるのかは、まだ見えない。

 

 むしろ、わかってきたことよりも、わからなくなったことのほうが多かった。たとえば、エリアス・ローレンスの存在である。

 

 彼はユウスケを助けた人物なのか、それとも単にユウスケと関わっただけなのか。高瀬宗一郎との関係も不明なままだった。

 

 さらに、四番に現れた二人の男のうち、一人は古い記録を守ろうとしているように見え、もう一人はそれを探しているように見えたが、どちらが味方なのかさえ断定できない。

 

 そして何より、昨夜、車の窓から顔を見せた女性のことがある。沙羅が見覚えのある顔だと言った女性。祖母の古い写真に写っていた人物によく似ていた。

 

 しかし、写真に写っている女性は、祖母と同じ世代の人間だった。仮に本人であれば、現在生きているとは考えにくい。ならば、娘なのか、孫なのか。あるいは、顔立ちが似ているだけの別人なのか。それすら確認できていない。

 

 四人の中で、最も現実的な判断をしたのは涼子だった。

 

 まず祖母の母親、つまり沙羅の曽祖母にあたる人物について、家族関係を確認する必要がある。そこから辿れば、昨夜の女性が誰なのか見えてくるかもしれない。だが、沙羅は首を横に振った。母親に聞けば、たぶん何か知っている。

 

 けれど、今の段階で聞けば、祖母が隠してきたことを無理に掘り返すことになる。その躊躇には、孝にも理解できるものがあった。歴史を調べることと、家族の記憶に踏み込むことは、同じではない。

 

 歴史上の人物なら、名前を調べ、資料を読み、わからなければ仮説を立てればいい。しかし、家族の過去には、生きている人間の感情が残っている。知らないほうがよかったことまで知ってしまう可能性がある。

 

 それでも、今回は避けて通れそうになかった。孝の父から届いたメールが、そのことをはっきり示している。

 

 祖父の箱が見つかった。中に孝の名前が書かれた写真が入っている。帰る前に、長崎で確認してほしいことがある。最後の一文が気になった。父は、何を確認してほしいのか書いていない。

 

 孝が電話をかけると、父はしばらく黙ったあと、ようやく話し始めた。祖父の箱を見つけたのは、父ではなかった。

 

 家の物置を整理していたとき、箱の存在に気づいたらしい。鍵はなかったが、蓋はすでに少し開いていた。中を確認すると、古い写真と紙の束が入っていた。そして、一枚の写真に孝の名前が書かれていた。

 

 父が不思議に思って裏返すと、写真の裏には日付があった。

 

1986年8月9日。

 

 孝が生まれるより前の写真だった。

 

 そのため、父は最初、孝の名前ではなく別の「孝」という人物のことだと思ったという。

 

 しかし、写真の裏に書かれた住所を見て考えが変わった。そこは、現在の孝の家の住所と同じ地域だった。

 

 父はそこで初めて、祖父が残したものが、自分の家族と長崎を結ぶ何かではないかと考えた。さらに、箱の底には一枚の紙が敷かれていた。そこには、祖父の字でこう書かれていた。

 

「長崎で九番を見たら、京都へ戻る前に海を見ること。」

 

 孝は、その言葉を聞いた瞬間、昨夜までの出来事が頭の中で一気につながった。九番。海。京都へ戻る前。それは、四人がこれから行くべき場所を示しているのではないか。父は続けた。

 

 祖父は長崎から帰ってきたあと、しばらくの間、毎年八月九日に海を見に行っていたらしい。どこの海なのかはわからない。ただ、京都に住んでからも、その習慣だけは何年も続いていた。孝は電話を切ると、四人の顔を見た。

 

 誰も「観光に行こう」とは言わなかった。

 

 けれど、もう一度だけ長崎の海を見る必要があることは、全員が理解していた。

 

*

 

 四人が向かったのは、長崎港だった。

 

 朝の港には、観光客だけでなく、仕事へ向かう人や船を待つ人の姿がある。海は穏やかで、昨夜までの緊張が嘘のようだった。孝は、港の端に立って海を見た。祖父は、何を見ていたのだろう。海そのものなのか。船なのか。

 

 それとも、その向こうにある場所なのか。

 

 九番で見つけた古い記録には、外国人との交流や宗教に関する名前がいくつも残されていた。長崎には、外から人が入り、外へ人が出ていく歴史がある。

 

 江戸時代には限られた場所だけが海外との窓口となり、幕末には外国人居留地が生まれ、近代には港がさらに大きな役割を担った。その一方で、浦上には長いあいだ信仰を守り続けた人々がいた。

 

 そして、原爆によって街の多くが失われた。それでも港は残った。

 

 船が出入りし、人が行き来し、記憶もまた別の土地へ運ばれていった。

 

 孝は、祖父の箱も、そのようにして長崎から京都へ運ばれたのではないかと思った。ところが、海を眺めていると、涼子が少し離れた場所から孝を呼んだ。港の古い倉庫の一つに、見覚えのある印があるという。

 

 四番で見たものと同じだった。

 

 小さな十字と、その下に刻まれた数字。

 

17。

 

 孝は倉庫へ近づいた。扉には鍵がかかっている。観光客が勝手に入れる場所ではない。それでも、印の位置だけは確認できた。四番の地下室で見つけたものと同じ形だった。すると、浩一が古い地図を取り出した。

 

 倉庫の位置を確認する。そこから海側へ線を引くと、長崎港の一角にある小さな桟橋へつながる。

 

 さらに地図を遡ると、そこには戦前の港湾施設があったことがわかった。つまり、九番、十二番、四番は、それぞれ独立した場所ではない。人と物を移動させるための経路に沿っている。

 

 記録を守る人間が、必要なものを一か所に置かず、複数の場所へ分散していた可能性が高い。そのとき、沙羅が倉庫の前に置かれていた古い金属板に気づいた。錆びていて読みにくい。けれど、そこには英語と日本語が並んでいる。

 

 そして、その下に小さく「L」と刻まれていた。

 

 ローレンス。四人は顔を見合わせた。エリアス・ローレンスは、単なる外国人ではなかった。この港を使って、何かを運んでいた可能性がある。何を運んだのか。人なのか。書類なのか。宗教に関わるものなのか。

 

 それとも、もっと別のものなのか。まだわからない。ただ、孝には一つの仮説が浮かんだ。

 

 四番に残されていた「名前」の記録は、人間そのものを隠すためのものだったのではないか。

 

 禁教の時代、信仰を持つことを知られれば命に関わることがあった。

 

 外国との往来が厳しく制限されていた時代には、外国人と接触すること自体が危険だった。

 

 そして戦争になれば、敵国と関係する人物の名前はさらに危険なものになる。だから、名前を消した。あるいは、別の名前に置き換えた。けれど、本当に消してしまえば、その人が生きていた証までなくなる。

 

 そこで誰かが、秘密の記録として名前を残した。九番。十二番。四番。それぞれに分けて。

 

 長崎という街の歴史の裏側には、表の歴史には残らなかった人々の記録が、ひっそりと受け継がれてきたのかもしれない。孝は、そこまで考えてから、ふと違和感を覚えた。ならば、なぜ自分の名前がそこにあるのか。

 

 自分の家族は、何を受け継いだのか。その答えは、京都にある祖父の箱の中に残されているはずだった。

 

*

 

 港を離れる頃には、昼近くになっていた。京都へ戻る列車の時間が迫っている。四人は駅へ向かった。しかし、途中で沙羅のスマートフォンが鳴った。母親からだった。祖母が目を覚ましたという。

 

 そして、目を覚ました祖母が最初に尋ねたのは、沙羅たちがもう京都へ帰ったかどうかだった。

 

 沙羅がまだ長崎にいると伝えると、祖母は少し黙り、それから一つだけ伝えてほしいことがあると言った。四番へ行ったか。沙羅は答えなかった。すると祖母は、それでいい、と言った。行ったことを責めているのではない。

 

 ただ、四番を見たのなら、もう長崎を離れてはいけないという。理由を尋ねると、祖母はこう答えた。

 

 「京都に帰る前に、もう一人だけ会わなければならない」

 

 その名前を聞いた瞬間、沙羅の表情が変わった。

 

 祖母が口にしたのは、高瀬宗一郎でも、エリアス・ローレンスでもなかった。昨夜、四番の前から立ち去った人物でもない。それは、四人がまだ一度も聞いたことのない名前だった。

 

中谷孝の祖父。

 

 孝は、言葉を失った。祖父はもう亡くなっている。会えるはずがない。しかし、祖母は続けた。会うのは本人ではない。祖父が最後まで守っていた場所へ行けばいい。そこには、祖父が誰にも渡さなかった最後の記録が残っている。

 

 場所を尋ねると、祖母は一度だけ咳き込み、それから静かに住所を告げた。長崎市内。四番から遠くない。

 

 しかも、その場所は現在、観光案内には載っていない小さな古い墓地だった。電話が切れたあと、四人は駅へ向かう足を止めた。京都へ戻る列車は、まだ間に合う。しかし、ここで帰れば、二度と見つけられないかもしれない。

 

 孝は、自分の中にある恐怖と好奇心が、ようやく同じ方向を向いたことを感じていた。これはもう、自分だけの問題ではない。

 

 祖母も、父も、亡くなった祖父も、そして長崎で何十年ものあいだ名前を守ってきた人々も、どこかで同じ一本の線につながっている。四人は駅とは反対の道へ歩き始めた。その途中、孝は何気なく後ろを振り返った。

 

 駅の前に、一人の女性が立っている。昨夜、車の窓から顔を見せた人物だった。女性はこちらを見ている。

 

 追ってくる様子はない。ただ、孝たちがどちらへ向かうのかを確かめているようだった。孝が立ち止まると、女性はゆっくり手を上げた。その手には、一枚の白い封筒があった。

 

 そして女性は、それを駅前のベンチに置くと、そのまま人混みの中へ消えていった。孝が封筒を拾う。表には何も書かれていない。中には、一枚の写真だけが入っていた。写真は、長崎ではなかった。京都だった。

 

 孝が生まれる前の、古い京都の町並み。写真の中央に、若い祖父が立っている。

 

 その隣には、見知らぬ外国人男性がいる。そして、二人の後ろに、現在の孝の家が写っていた。写真の裏には、こう記されていた。

 

「長崎で始まったのではない。」

 

 その下に、もう一行。

 

「すべては、京都から始まった。」

 

 孝は写真を握ったまま、しばらく動かなかった。長崎を調べるために来たはずだった。

 

 けれど、自分たちが追いかけていた謎の出発点は、最初から長崎ではなかったのかもしれない。そして、その先にあるのは、祖父の過去だけではない。孝自身の家に、今も残されている何かだった。

 

 四人は、京都へ帰る列車を見送った。

 

 そして、祖母から告げられた古い墓地へ向かって歩き始めた。長崎で過ごす予定だった最後の日が、もう一日延びることになった。しかし四人はまだ知らなかった。墓地で待っているのが、祖父の残した記録だけではないことを。

 

 そして、その墓地には、四番の地下室で見つかった黒い手帳の最後の頁に記された名前が、もう一つ残されていることを。』