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『 花びらの積もる道 』
第六章 開けなかった箱
千穂の間違いは、そのあとも続いた。
会議の開始時刻を三十分早く手帳へ書き、誰も来ない部屋で一人待った。
出展者へ返す写真を別の封筒へ入れ、宛名を書く前に気づいた。
電話を受けながら用件をメモしたはずなのに、受話器を置くと、相手の名前だけがなかった。
どれも、その場で直せた。
誰かを怒らせたわけでもない。金銭的な損害も出ていない。
そのことが、かえって気になった。
小さな間違いは、謝れば終わる。終わるので、次の間違いまで誰も覚えていない。
「松山さん、この頃、少し変ですよ」
同じ展示を担当する後輩に言われた。
「何が?」
「同じことを何度も確認しているから」
「間違えないために確認してるの」
「確認したことを、また確認してます」
「それの何が悪いの?」
「悪いとは言ってません」
後輩は机の上の書類へ目を落とした。
「ただ、前は一度で合うてましたから」
悪意がないことは分かっていた。
千穂は書類の端を揃えた。
「展示が終われば落ち着くから」
「それなら、ええんですけど」
後輩は自分の席へ戻った。
千穂はパソコンの画面を見た。
亨から届いたメールが開いたままになっている。
〈本日はありがとうございました。絵の返却については、展示終了後に改めてご連絡ください〉
仕事上の短い文章だった。
母のことは一言も書かれていない。
千穂はメールを閉じた。
閉じてから、もう一度開いた。
文章は同じだった。
午後、展示会場から電話が入った。
「今日の三時から、商店街の方たちとの打ち合わせですよね」
現地の担当者が言った。
千穂は手帳を開いた。
打ち合わせは、翌日の三時と書いてある。
「明日ではありませんか」
「今日で伺っていますが」
「少々お待ちください」
千穂は共有の予定表を開いた。
今日の日付の欄に、打ち合わせの予定があった。
自分が手帳へ書き写すとき、一日ずらしていた。
「申し訳ありません。すぐに伺います」
資料を鞄へ入れ、上司の席へ行った。
「打ち合わせの日付を間違えていました。いまから表町へ行ってきます」
上司は壁の時計を見た。
「私が行きます」
「でも、私の担当です」
「いまから行っても、落ち着いて話せないでしょう」
「大丈夫です」
「大丈夫ではないから、間違えたんじゃないですか」
強く叱られたわけではなかった。
上司は手元の書類を裏返し、場所を空けた。
「資料を置いてください」
「説明は私の方が」
「松山さん」
名前を呼ばれ、千穂は口を閉じた。
「今日は帰ってください」
「体調は悪くありません」
「体調が悪くなくても、休んだ方がいい日はあります」
千穂は鞄から資料を出した。
上司は受け取り、中を確かめた。
「この資料で全部ですね」
「はい」
答えたあと、不安になった。
「少し待ってください。確認します」
「いま確認したでしょう」
「念のためです」
千穂は資料を取り返し、一枚ずつ数えた。
必要なものは揃っていた。
「全部あります」
「そうですか」
上司はもう一度受け取った。
「気をつけて帰ってください」
机へ戻り、途中の仕事を片づけようとすると、
「明日でいいです」
と、背中から声がした。
市役所を出ると、まだ三時前だった。
西川沿いには明るい日差しが残り、ベンチでは親子が菓子を食べていた。母親が袋を持ち、子どもが中へ手を入れている。同じ菓子を何度もつかむので、母親が袋を遠ざけた。
千穂は岡山駅まで歩いた。
自宅へ帰るつもりだった。
改札の前で津山線の時刻を見た。
次の列車は十五分後に出る。
千穂は津山行きの切符を買った。
母には連絡しなかった。
列車の中で何度か携帯電話を出した。電話帳から〈母〉を開き、発信の印に指を置いた。
押さずに閉じた。
仕事で間違いを重ねていること。上司から帰るように言われたこと。母と亨のことが頭から離れないこと。
どれから話しても、母には同じことを言われる気がした。
私のせいにしないで。
津山駅へ着いたのは、五時前だった。
順子は、突然訪ねてきた娘を見て驚いた。
「どうしたの」
「別に」
「仕事は?」
「早く終わった」
「そんな顔で?」
順子は千穂を玄関へ入れた。
上着を受け取ろうとすると、千穂は自分で椅子の背へ掛けた。
「夕食、食べていく?」
「何でもいい」
「何でもいいが、いちばん困るのよ」
「あるものでええよ」
「あるものを言っても、あなたは食べたくないと言うでしょう」
「今日は言わない」
「今日だけ?」
「お母さん、何でも聞き返さんと気が済まんの?」
「あなたが何も言わないからでしょう」
千穂は黙った。
目の下に、薄い影がある。
「仕事で何かあったの」
「何もない」
順子は娘の顔を見た。
以前、自分も同じ言葉を使った。
「千穂」
「少し休ませて」
千穂は寝室へ入り、壁際の段ボール箱の前へ腰を下ろした。
「まだ開けてないの?」
「必要のないものだから」
「半年もそのままなら、捨てればいいでしょう」
「簡単に言わないで」
「私が片づけようか」
「触らなくていい」
順子の声が強くなった。
千穂は箱から母へ目を移した。
「その中にも、私には見せられないものがあるの?」
「いま、その話をしているんじゃないでしょう」
「何の話をしてるの。お母さんは何も話さんじゃない」
「仕事で何があったのか、先に話しなさい」
「お母さんと澤口さんのことを考えてて、日付を間違えた」
順子の表情が変わった。
「私たちのことと、あなたの仕事は関係ないでしょう」
「そう言われても、頭から離れんのよ」
「昔、付き合っていた。それだけ話したでしょう」
「それだけで、どうしていまも会えないの?」
「千穂」
「お父さんと結婚したあとも、ずっと澤口さんのことを思ってたの?」
「何を言ってるの」
「だったら、どうして」
「あなたに説明する必要はないわ」
「私が仕事で会わなければ、聞かない。でも二人とも、私の前で何かを隠してる。澤口さんは何も言わない。お母さんは会うことさえ拒む。それで関係ないと言われても、分からんよ」
「分からなくていいこともあるの」
「誰が決めるの?」
順子は何も返さなかった。
千穂の肩が、小さく上下していた。
怒っているのではない。息を整えようとしている。
順子は、台所へ水を取りに行こうとした。
「どこへ行くの」
「水を持ってくるだけよ」
「いらない」
「喉が渇いているでしょう」
「お母さんは、そうやって違うことをする」
「水を持ってくることが?」
「話したくないことがあると、窓を閉めたり、お茶を入れたりする」
順子は寝室の入口で立ち止まった。
「今日は帰りなさい」
「もう列車に乗りたくない」
「では、ここで休みなさい。箱には触らないで」
千穂が立ち上がった。
「どうして、そんなに触らせたくないの」
「あなたには関係のないものだから」
「また、それ?」
順子は一番下の箱を奥へ押そうとした。
上に載っていた箱が傾いた。
千穂が手を伸ばして支えた。
下の箱の底が、片側だけ抜けた。
古い手帳や封筒が床へ滑り落ちた。
順子は膝をついた。
「触らないで」
千穂も、散らばったものへ手を伸ばした。
二人の間に、一通の封筒が落ちていた。
〈小坂順子様〉
古い字で書かれている。
差出人は、澤口亨だった。
順子が封筒を取ろうとした。
千穂の手が先に触れた。
「返して」
「これ、澤口さんから?」
「返しなさい」
封筒は長い年月で糊が弱くなっていた。千穂が持ち上げると口が開き、折り畳まれた便箋と古い紙幣が落ちた。
順子は紙幣を拾った。
千穂は便箋を見た。
読もうとしたわけではなかった。
開いた紙の中央に、短い文章があった。
〈先日は渡せなかったので送ります。費用の半分です。足りなければ知らせてください〉
「何の費用?」
順子は紙幣を封筒へ戻そうとした。古い札は幅が合わず、角が引っ掛かった。
床には、病院の領収書も落ちていた。
産婦人科の名前と、大学四回生の冬の日付がある。
「お母さん」
千穂が領収書へ手を伸ばした。
「見ないで」
順子は先に拾い、紺色の手帳へ挟んだ。
「何の手術?」
「知らなくていい」
「また、それ?」
千穂の声が震えた。
「澤口さんとの間に、何があったの」
順子は床へ座ったまま、封筒を見た。
四十数年前、津山の母へ電話をかけた夜を思い出した。
「何かあったん?」
母は、すぐに気づいた。
「何もない。声が聞きたかっただけ」
順子はそう答えた。
受話器の向こうで、母はしばらく黙っていた。
その夜に言えなかったことを、いま娘が聞いている。
「子どもができたの」
千穂の顔から表情が消えた。
「私と、亨の間に」
部屋の外で、冷蔵庫の音が止まった。
静かになったのではなかった。
それまで鳴っていたものが、一つなくなっただけだった。
「産まなかったの?」
「産めなかった」
「澤口さんに、そう言われたの?」
順子は首を振った。
「何も言わなかった」
「何も?」
「少し考えさせてほしいと言ったまま、答えを出さなかった」
「どれくらい待ったの」
「覚えてない」
「覚えてないわけないでしょう」
「毎日待っていたから、何日だったかは覚えてないの」
順子は古い紙幣を見た。
「私の身体は待ってくれなかった。それで、一人で病院を探した」
「一人で行ったの?」
「来なくていいと言ったから」
「それで、本当に来なかったの?」
順子は、紙幣の角を指で伸ばした。
千穂は壁へ背を預け、その場に座り込んだ。
「このお金、あとから送ってきたの?」
「そう」
「受け取ったんだ」
「返そうと思った」
「返してないじゃない」
「返すには、手紙を書かなければならなかったから」
「お金だけ送り返せばよかったでしょう」
「そうね」
「使わなかったの?」
「使えると思う?」
「じゃあ、どうして持ってたの」
順子は答えなかった。
古い紙幣は、いまでは店へ持っていっても使えるかどうか分からない。使わなかったことで、許さなかったつもりだった。
捨てなかったことで、何を残したかったのかは分からない。
「どうして、いままで」
千穂が言った。
「誰に話せばよかったの」
「お父さんは知ってたの?」
「全部は話していない」
「どこまで?」
「前に好きだった人がいたことは知ってた」
「子どものことは?」
順子は首を振った。
「私が生まれたときは?」
「何?」
「その子のことを思い出した?」
順子はすぐに否定できなかった。
千穂の目が揺れた。
「思い出したの?」
「思い出したことはある」
千穂は顔を伏せた。
「でも、あなたを代わりだと思ったことは一度もない」
「同じじゃないの」
「同じではないわ」
「どう違うの」
「思い出すことと、代わりにすることは違うでしょう」
「生まれたばかりの私を見ながら、別の子を思い出したんでしょう」
「そうよ」
順子は嘘をつかなかった。
千穂の顔が上がった。
「あなたが生まれたとき、私はうれしかった。指が五本あることも、爪が小さかったことも覚えてる。看護婦さんが、髪の多い赤ちゃんだと言ったことも」
「そんなことを聞いてるんじゃない」
「でも、私はそのことを覚えてる」
順子は娘へ手を伸ばしかけた。
千穂は、わずかに身体を引いた。
順子は手を膝へ戻した。
「うれしいだけじゃなかったんでしょう」
「そうよ」
「怖かった?」
「怖かった」
「何が?」
「あなたまで、いなくなるんじゃないかと思った」
「私は、その子じゃない」
「分かってる」
「分かってたら、そんなふうに思わないでしょう」
「人は、分かっていることだけを思うわけじゃないのよ」
「ずるい言い方」
「そうね」
順子は床に散らばった手帳や封筒を集めた。
亨から送られた紙幣を封筒へ戻そうとしたが、指が震え、また角が引っ掛かった。
千穂が手を伸ばした。
順子は封筒を渡さなかった。
「入らないんでしょう」
「入るわよ」
「さっきから入ってないじゃない」
「古くなって、封筒が縮んだの」
「紙は、そんなに縮まないよ」
「では、お札が大きくなったんでしょう」
千穂は母を見た。
「こんなときまで、何を言ってるの」
「入らないんだから、仕方ないでしょう」
順子は紙幣を二つ折りにしようとした。
「折らない方がいいよ」
「もう折り目がついてるわ」
「そうだけど」
千穂は手を引いた。
順子は紙幣を元の折り目に沿って畳み、封筒へ入れた。
窓の外が暗くなり始めている。
千穂が立ち上がった。
「帰るの?」
「少し外を歩いてくる」
「もう暗くなるわよ」
「子どもじゃない」
千穂は上着を取り、玄関へ向かった。
「千穂」
順子が呼び止めた。
娘は振り返らなかった。
「あなたに、亨を憎んでほしくて話したんじゃない」
千穂は玄関の扉に手を掛けた。
「お母さんが話したんじゃない。私が見つけたの」
扉が閉まった。
順子は散らばったものを一つずつ箱へ戻した。
手帳。
病院の領収書。
亨の封筒。
夫のネクタイを買った店の古い伝票まで出てきた。
順子は一番上に封筒を置いた。
箱の底は抜けている。
持ち上げれば、また全部落ちる。
順子は箱をその場所に置いたまま、寝室の明かりを消した。
暗くなっても、白い封筒だけがしばらく見えていた。
