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『 花びらの積もる道 』
第五章 小さな間違い
鶴山公園で洋子と別れてから数日後、千穂の担当する展示が始まった。
表町の空き店舗には、岡山へ移ってきた人たちの写真や文章が並んだ。県外から飲食店を開いた夫婦。子どもの進学をきっかけに来た家族。定年後に移り住んだ亨と洋子。
亨の紹介文の横には、旭川から見た岡山城の絵が掛けられていた。
黒い城の周りには、思いのほか多くの色が使われている。川面には薄い青と灰色が重なり、空には淡い黄色が残っていた。近くで見ると、何度も線を消した跡が分かった。
初日の朝、千穂は開場前の店内を一人で見て回った。
説明文を読み、写真の傾きを直し、来場者用の用紙を入口へ置く。
亨の絵の前で足が止まった。
〈知らない町ではなく、これから暮らす町として岡山を見るようになりました〉
千穂が聞き取りをもとに書いた文章である。
その下には、亨の言葉として、
〈同じ景色でも、昨日と今日では違って見えます〉
と添えた。
写真の角が少し浮いていた。千穂は両手で押さえた。
手を離すと、また同じところが浮いた。
開場すると、近所の人や買い物途中の客が少しずつ入ってきた。大きな展示ではない。それでも昼前には、十人ほどが店内にいる時間もあった。
「この絵を描いた方、今日は来られますか」
年配の女性に尋ねられ、千穂は受付の予定表を見た。
「午後一時頃に来られる予定です」
「岡山城の話を聞いてみたいわ」
「お伝えしておきます」
女性は絵の前へ戻った。
千穂は予定表へ印をつけようとして、手を止めた。
亨が来るのは一時ではない。
二時だった。
予定表には、はっきり二時と書いてある。数字の二には、千穂自身が赤い丸までつけていた。
女性を追いかけた。
「すみません。澤口さんが来られるのは二時でした」
「あら、そうなの」
「申し訳ありません」
「それなら、買い物してから戻ってきます」
女性は気にした様子もなく店を出た。
時間を一つ間違えただけだった。
千穂は受付へ戻り、予定表をもう一度見た。
二時という数字が、一時に見えるはずはない。
それでも、口から出たのは一時だった。
午後、亨は予定どおり二時前に来た。
絵の前で待っていた女性に声をかけられ、岡山城について話し始めた。
「黒いお城ですけど、黒だけでは描けないんですね」
「そうなんです。黒やと思うてるものの中にも、いろんな色がありますから」
女性は絵へ顔を近づけた。
「ここは、紫ですか」
「黒にしたかったんですけどね」
「紫に見えます」
「ほな、紫なんでしょう」
亨が笑った。
千穂は受付から二人を見ていた。
母は、亨の名前を聞いただけで窓を閉めた。住所も電話番号も教えるなと言った。
いま絵の前で笑っている男性と、母の閉めた窓が結びつかなかった。
亨が女性との話を終え、受付へ来た。
「今日は、何時までおったらええですか」
「四時までお願いしています」
千穂は予定表を指で確かめてから答えた。
「先ほど、時間を間違えて伝えてしまって」
「僕の来る時間を?」
「一時と。すぐに訂正しました」
「そうですか」
「ご迷惑はかけていません」
亨は千穂の顔を見た。
「疲れてるんやないですか」
「大丈夫です」
「展示が始まるまでは、忙しかったでしょう」
「仕事ですから」
少し強い声になった。
亨は何も言わず、入口に置かれた用紙を一枚取った。
表を見て、裏を見た。
「これ、裏にも書くところがあるんですね」
「はい。ご意見があれば」
「表だけやと思うてました」
「そう思う方もいるかもしれませんね」
千穂は用紙の置き方を変えた。
裏にも記入欄があると分かるよう、一枚だけ裏返して置いた。
それだけで少し落ち着いた。
夕方、展示を閉め、市役所へ戻った。
机の上には、別の部署から届いた書類が置かれていた。展示の報告をまとめる前に、その書類へ目を通さなければならない。
パソコンを開くと、朝送ったメールへの返信が来ていた。
〈添付されている紹介文が、別の方のものになっています。ご確認ください〉
千穂は送信済みのメールを開いた。
亨の絵の写真に、飲食店を開いた夫婦の紹介文を添付していた。
ファイル名はよく似ている。
それでも、送る前には必ず開いて確かめてきた。今日だけ確かめなかったのか、確かめたのに見ていなかったのか、思い出せなかった。
正しいファイルを送り直した。
〈大変失礼いたしました〉
と書き、送信ボタンを押した。
「松山さん」
隣の席から同僚が声をかけた。
「もう七時ですよ」
時計を見ると、思っていたより一時間近く遅かった。
「いま終わります」
「最近、遅いですね」
「展示が始まったばかりだから」
千穂は書類を片づけ、パソコンの電源を切った。
机の上に、赤いボールペンが一本残った。自分のものではないと思い、隣の机へ置いた。
隣の同僚が見た。
「それ、松山さんのですよ」
「そうだった?」
「名前、貼ってあります」
ペンには〈松山〉と書いた細いシールが巻かれていた。
千穂は黙って鞄へ入れた。
市役所を出ると、昼の暖かさが消え、風が冷たくなっていた。
西川緑道公園の近くまで歩き、途中のベンチへ腰を下ろした。
帰宅する人たちが、足早に通り過ぎていく。
千穂は携帯電話を取り出し、母へ電話をかけた。
三度鳴って、順子が出た。
「もしもし」
「お母さん、いま大丈夫?」
「今日は、そちらから聞くのね」
「いつも聞いてるでしょう」
「仕事は終わったの?」
「いま帰るところ」
千穂は西川の水面を見た。街路樹の影が、街灯の光で揺れている。
「展示が始まったよ」
「そう」
「澤口さんの絵も掛けた」
順子は何も言わなかった。
「今日、会場に来た」
「そう」
「お母さんと、付き合っていたの?」
電話の向こうが静かになった。
千穂は返事を待った。
「そうよ」
予想していた言葉だった。
それでも、知らなかった頃へは戻れなくなった。
「いつ頃?」
「大学生の頃」
「どうして別れたの」
「その話はしたくない」
「澤口さんも、何も話さない」
「亨に聞いたの?」
順子の声が変わった。
「聞いてない。向こうから話すことではないと言われた」
「そのとおりよ」
「二人とも、相手に聞けと言って、聞いたら話さない」
「あなたに関係のないことだから」
「関係のない人を、私の仕事へ持ち込まないで」
順子が黙った。
千穂自身にも、なぜそんな言い方をしたのか分からなかった。
亨を展示へ呼んだのは自分である。母の名前を出したのも自分だった。
水の上を、小さな葉が一枚流れてきた。街灯の下へ入ると見え、光を過ぎると消えた。
「ごめん」
千穂は言った。
「今日、少し疲れてるみたい」
「仕事で何かあったの?」
「何もない」
母が使ったのと同じ言葉が、口から出た。
「千穂」
「もう帰る。切るね」
電話を切り、携帯電話を鞄へ入れた。
画面が消える直前、時刻が七時二十六分と表示された。
千穂はもう一度取り出して見た。
七時二十六分だった。
翌朝、千穂は出勤してすぐ、展示会場へ届ける来場者用の用紙を封筒へ入れた。
宛名を書き、庁内便の箱へ入れた。
席へ戻ると、机の上に同じ用紙が残っている。
封筒へ入れたのは、別の会議で使う資料だった。
千穂は立ち上がり、庁内便の箱へ走った。
回収前だった。封筒はまだ残っている。
封を開け、書類を入れ替えた。
誰にも迷惑はかからなかった。
千穂は古い封筒を細かく破り始めた。
四つに破れば捨てられるのに、八つに破った。さらに半分にしようとして、紙で指の腹を切った。
血は出なかった。
白い筋だけが、しばらく残った。
