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『 5年越しの手紙 』
第二章 記憶の影と、付き合っていた頃の日々
新幹線の中で流れる車窓を見つめながら、美穂の脳裏には、どうしても振り払うことのできない「あの頃」の記憶が溢れ出していた。
大学の写真サークルの部室。
放課後の斜光が差し込む古い木造校舎の三階で、藤田明夫と出会った。
明夫は一つ年上で、建築学科に通っていた。
いつも部室の隅で、古いカメラ誌や建築の作品集を黙々とめくっているような静かな男だった。
二人の距離が縮まったのは、サークルの合宿で訪れた信州の小さな街だった。
他の部員たちが華やかな景色や集合写真を撮り合う中、明夫は路地裏の古びた洋館の、歪んだ窓ガラスに反射する光ばかりを静かにレンズに収めていた。
「どうして、そんな場所ばかり撮るの?」
美穂が声をかけると、明夫は驚いたように振り返り、少し照れくさそうに眼鏡の奥の目を細めた。
「人が通り過ぎてしまうような場所にも、ちゃんと時間が残っているからさ。光の当たり方ひとつで、昨日とは違う顔を見せる。そういう静かな時間を留めておきたいんだ」
その言葉に、美穂の胸は強く打たれた。
明夫の見る世界は、いつも優しく、細やかで、温かかった。
交際が始まってからの日々は、穏やかで満ち足りていた。
大学を卒業し、美穂が現在の出版社に就職してからも、二人の関係は変わらなかった。
週末になると、阿佐ヶ谷の小さな明夫のアパートでよく過ごした。
六畳間の畳の上に、明夫が買ってきてくれた安ワインと、美穂が作った簡単な煮込み料理を並べた。
明夫は小さなローテーブルの上に建築の図面やスケッチブックを広げ、美穂は横で雑誌の赤字入れをした。
「美穂、見て」
明夫が見せてくれたスケッチには、木の温もりを大切にした小さな平屋の住宅が描かれていた。
「いつか自分の設計事務所を持ったら、こんな家を建てたいんだ。中庭があって、どこにいても小さな光が入ってくるような家」
「素敵……。事務所ができたら、私、一番に取材に行くね。『今注目の若手建築家』って、見開きの大特集にしてあげよう」
「はは、頼もしいな。じゃあ、その第一号の家には、美穂にも住んでもらわないと」
他愛もない会話。
けれど、そこには何の疑いもない未来が横たわっていた。
明夫の祖母・和子さんが上京してきたときのこともうっすらと覚えている。
阿佐ヶ谷の部屋に泊まった和子さんは、「明夫は昔から不器用で、言葉の少ない子やけどな、人の痛みがわかる優しい子なんよ」と、美穂の手を両手で温かく包み込んでくれた。
美穂は「知っています。明夫さんの優しさに、いつも助けられています」と笑顔で応えたのだった。
それなのに――。
五年前の十一月、明夫の父親が病気で倒れたという連絡が入った。
大阪の実家へ帰る明夫を阿佐ヶ谷の駅で見送ったとき、明夫は「父さんの経過を見て、週末には戻るよ。美穂、寒くなったから風邪ひくなよ」と言って、美穂の頭を優しく撫でてくれた。
それが、明夫の温かな体温を感じた最後の瞬間だった。
一週間が過ぎ、二週間が過ぎても、彼は戻らなかった。
電話をかけてもコール音が鳴り響くだけで出ず、メッセージの既読もつかなくなった。
そして十二月のある夕刻。
一方的に告げられた別れ。
『ごめん。俺たち、もう会えない。……俺のことは、もう忘れてくれ』
阿佐ヶ谷のアパートは、家具も荷物もすべて綺麗に消え去り、そこにはただ冷たい畳の匂いだけが残されていた。
理由も分からず捨てられたという絶望。
当時の美穂の変化に、真っ先に気づいたのは埼玉の実家の両親だった。
年末、痩せこけ、青白い顔をして帰省した美穂を見て、母親の恵子は言葉を失ったという。
食事を出しても一口か二口で箸を止め、夜になると自室で押し殺した咽び泣きを漏らす娘。
『美穂、どうしたの? 明夫さんと何かあったの?』
母親が心配して何度も尋ねたが、美穂は『何でもない、ちょっと仕事が忙しいだけ』と首を振るばかりだった。
父親の正雄も、居間で新聞を広げながらも、黙って辛そうに娘の様子を伺っていた。
年が明けても美穂の塞ぎ込みは治まらず、見かねた母親が東京のアパートまで手料理を持って何度も足を運んでくれた。
『美穂、理由は言わなくてもいい。でもね、あなたは何も悪くないことだけは忘れないで。自分を責っちゃダメよ』
母の言葉に、美穂は母の膝に顔を埋めて声を上げて泣いた。
けれど、心の底に穿たれた「自分は突然捨てられた」という巨大な穴は、どれだけ家族の手厚い愛情を受けても、埋まることはなかった。
「理由が分からない」という恐怖だけが、美穂の心の奥に消えない傷として残った。
