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『 続編 尾道の坂を下って 』

 

最終章 花火の夜

 

 その日は、尾道の夏を告げる住吉神社の祭りの夜だった。

 

 夕刻が近づくにつれ、尾道水道の沿道には色鮮やかな露店が立ち並び、ソースの焦げた匂いや甘い綿菓子の香りが潮風に乗って漂い始めた。

 

 浴衣を着た子どもたちが下駄の音をカランコロンと鳴らして駆け抜け、遠くの対岸にも祭りの灯りがポツポツと点り始める。町全体が、年に一度の特別な熱気に包まれていた。

 

 駅の改札口前で、大きなボストンバッグを抱えた和樹が佇んでいた。

 

 いよいよ、大阪行きの電車に乗る時間が迫っている。見送りに来ていたのは、テルさん一人だった。

 

「忘れ物はないんか」

 

 テルさんが腰に手を当てて尋ねる。

 

「ないですよ」

 

「本当に?」

 

「たぶん」

 

「『たぶん』じゃ困るんじゃ。切符はあるんか」

 

 和樹は苦笑いしながら鞄のポケットをまさぐり、乗車券と父親からもらった古い写真を確かめた。

 

「大丈夫です。全部入ってます」

 

「それならええ」

 

 テルさんは短く頷いた。

 

 ホームに黄色い警告音が響き、ゆっくりと電車が滑り込んできた。和樹はドアの前で立ち止まり、テルさんに向かって軽く頭を下げた。

 

「テルさん、親父のこと、たまに見てやってください」

 

「あんな頑固オヤジ、誰も見たくもないわ」

 

 テルさんはそっぽを向いたが、扉が閉まる直前、思い出したように財布をガサガサと漁り始めた。増えた小銭の中から、小さな銀色のコインを三枚取り出すと、和樹の手の中に強引に押し付けた。

 

「これ持っていけ」

 

「……また三百円ですか?」

 

「今度は返さなくてええ。投げて捨てるなり、好きにしろ」

 

「何に使えばいいんですか」

 

「困ったときに自分で考えろ。大阪の街で腹が減ったら、これでうどんでも食え」

 

和樹は手のひらの三百円を見つめ、やがて爽やかな笑顔を浮かべた。

 

「……ありがとうございます。行ってきます」

 

 プシューッとドアが閉まり、電車がゆっくりと走り出す。窓越しに和樹が手を振るのを、テルさんは小さく手を振り返しながら見送った。電車が夜の闇へと消えていくまで、テルさんはホームに立ち続けていた。

 

 ヒュゥゥゥゥ……と、空を切り裂くような高い音が響いた。

 

 ドーン!

 

 一発目の大きな花火が尾道の夜空に打ち上がり、大輪の光が海面を鮮やかに染め上げた。遅れて届くお腹に響く重低音が、尾道水道の街並みに重く反響する。

 

 その音を、ハルさんの家の茶の間で、ポータブルレコーダーが静かに拾っていた。

 

 ハルさんは新しい乾電池に入れ替えたカセットレコーダーを窓際に置き、録音ボタンを押していた。花火の音、遠くの波音、人々の歓声、露店の笛の音。街に満ちるあらゆる生きている音が、磁気テープの中に重ねられていく。

 

 その頃、坂の下から一人の女性が歩いてきていた。

 

 両手に重い荷物を持った里奈だった。

 

 足元のアスファルトの感触。踏み締めるたびに太腿にかかる確かな負荷。少し歩いただけで息が上がり、胸の奥が温かくなる。

 

 平らじゃない道を、里奈は噛み締めるように歩いていた。

 

 坂の途中で、寺の石垣にもたれかかって花火を見上げていたテルさんが、足音に気づいて振り返った。

 

 二人の視線が交差する。

 

 里奈は立ち止まり、額の汗を拭うと、深く息を吸い込んだ。

 

「……ただいま」

 

 テルさんはしばらくの間、黙って里奈の顔を見つめていた。何ヶ月か前よりも少し痩せたような、けれどどこか吹っ切れたような晴れやかな表情。

 

 テルさんは深く刻まれた顔のシワを少しだけ緩め、いつものぶっきらぼうな声で言った。

 

「腹、減っとるか?」

 

 里奈は拍子抜けしたように、けれど心底嬉しそうに笑った。

 

「少し」

 

「じゃあ、何か食べて帰ろう。栗原さんとこで煮物をもらったんじゃ」

 

「うん」

 

 二人は並んで坂を歩き始めた。

 

 里奈がなぜ戻ってきたのか、大阪で何があったのか、テルさんは聞かなかった。ただ、当たり前のように隣を歩いた。

 

 ヒュゥゥゥ……ドーン!

 

 二発目、三発目の花火が打ち上がり、夜空を赤や金に染め上げた。

 

 坂の上から、祭りの提灯の明かりが温かく二人を照らしている。

 

 里奈はふと足を止め、振り返って坂の下を見た。

 

 遠くの大阪にも、京都にも、これから大阪へ向かう和樹の先にも、それぞれの夜がある。

 

 上り坂の途中で立ち止まる人もいれば、来た道を戻る人もいる。知らない町へ向かう人もいる。

 

 その途中で、誰かとすれ違う。猫を捜す。古いカセットの歌を聴く。三百円を渡したり、手渡されたりする。

 

 そういうことが、あとになって思いがけず残ることもある。

 

 ハルさんの家の窓から、カセットレコーダーの小さな回る音が聞こえる気がした。

 

 花火の音。潮騒の音。祭りの熱気。そして、坂道を行き交う人々の足音。

 

 テルさんが振り返る。

 

「どうした、里奈。足が止まっとるぞ」

 

「今朝早くについて、ずーっと歩いていたんです」

 

「朝から、ずーっとかい。若いね」

 

「尾道は久しぶりだから、海沿いも山沿いもこの前に来た時は、ほとんど歩けてなかったので、ぶらぶら歩いてたんです」

 

「どうだった?」

 

 テルさんは打ち上がる花火を見ながら聞いた。

 

 里奈の目には涙が溢れて、花火が二重にも三重にも滲んで見えた。

 

「無理して帰っとこんでも良かったのに」

 

 その横顔を見てテルさんが言った。

 

「無理してません。久しぶりに会えたんですよ」

 

 テルさんは里奈の荷物に手をかけた。

 

「明日から、いやでも会えるよ」

 

 二人が坂の方を振り返ると、今夜も温かい灯りがついていた。

 

(おわり)