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『 二つの流れのあいだ 』
第七章 同じ旅館
葵の実家から帰って数か月が過ぎた夏、友哉は会社から一週間の休暇を取った。行き先を決めるまで、時間はかからなかった。もう一度、水棲へ行きたかった。
水棲で過ごす一週間は、旅行というより仕事に近かった。
朝食のあとに建物を見て、午後は修繕の必要な場所を図面へ落とす。夜になると浅野川を歩く。
茜は出版社の仕事を休み、旅館の帳場に立っている。疲れているはずなのに、客が来れば笑顔になる。
友哉は、その笑顔を見ながら、仕事とは誰かの前で自分を整えることでもあるのだと思った。
自分も会社では同じことをしている。疲れていても、施主の前では図面を開き、問題点を説明する。
ただ、旅館ではそれが生活そのものになっていた。
茜が仕事を辞めるか、旅館を続けるか迷っていることを知ったとき、友哉はすぐに答えを出そうとはしなかった。
昔なら、相手が迷っていると、自分の考えを先に渡していた。相手のためだと思っていたが、自分が待つのが苦手だっただけかもしれない。
今は、茜が黙って考えている時間を待てる。相談されれば、自分の考えも言う。ただ、最後の決定まで自分の手に取ることはしない。茜が黙っているあいだ、友哉は湯呑みの縁を指でなぞっていた。
そのことに気づいたのは、旅館で過ごす時間が半ばを過ぎたころだった。
金沢駅の鼓門は、学生のころに見たものと変わらなかった。駅前には新しい店が増え、外国人旅行者の姿が目立っていた。友哉は荷物を持って浅野川まで歩いた。
水棲の玄関には、同じ木の札が掛かっていた。
柱も格子も、遠目には昔と変わらなかった。しかし近づくと、庇の板金が新しくなり、雨樋の一部が取り替えられていた。二階の壁には細い亀裂が増えていた。
引き戸を開けると、帳場に茜がいた。
茜は立ち上がり、学生のころと同じように少し首を傾けた。
「連絡せんと来て、ごめん」
「宿泊の予約は入ってました。名前を見て、同じ人かなと思ってたんです」
静枝の姿がない。
茜の母は、二週間前から入院していた。春から体調を崩していたが、帳場を休まず、ある朝立てなくなった。過労と貧血で、しばらく治療が必要だという。
和夫と茜で客を減らしながら営業を続けていた。茜は出版社を休職していた。
「閉めることも考えたんです」
茜は宿帳を閉じた。
「でも、予約してくださってるお客さんがいたから。全部断るのも、お母さんが嫌がって」
客室へ案内される途中、昔と同じ階段が鳴った。
「直すところ、ほかにいっぱいあるんです」
茜は、少し困ったように笑った。
友哉は宿泊客として来た。しかし、茜が一人で布団を運んでいるのを見ると、手を貸した。翌朝は玄関を掃き、朝食の膳を広間へ運んだ。
旅館の仕事が分かるわけではない。客から食事の内容を聞かれれば茜を呼び、電話が鳴っても勝手には取らなかった。できることだけを尋ね、その答えを待って動いた。
和夫は最初、客にさせることではないと言った。三日目には、倉庫から替えの座布団を出してくれと頼んだ。
午後、客が出払うと、友哉は建物を見て回った。
水棲で働く日が続くうち、友哉は旅館の一日の流れを覚えていった。
朝は早い。客が起きる前に廊下の掃除が始まり、厨房では和夫が出汁を取る。茜は帳場と厨房を行き来し、電話が鳴れば手を止める。
予約の電話のほかに、ネットから入った予約を確認する作業もある。外国からの客には翻訳の画面を開き、道順を聞かれれば地図を送る。古い旅館なのに、帳場の隅には新しい端末が置かれている。
茜は帳場の新しい端末を見ながら、旅館を残すというのは昔のままにすることではない、と言った。友哉は返事をしなかった。言われなくても、柱の傷を見れば分かる気がした。
昼を過ぎると少し静かになる。その時間に建物の傷んだ場所を調べる。
雨漏りは屋根だけの問題ではない。壁の中へ水が入り、柱の一部まで傷んでいる。修理するなら、見えるところだけでは足りない。
友哉は図面へ書き込んだ。
建物を残すためには、見えない場所へ手を入れる必要がある。
雨漏りの跡、建具の歪み、床の沈み。すぐ危険なものと、次の修繕まで待てるものを分け、簡単な図面に落とした。
茜が図面をのぞき込んだ。友哉は、自分にできることと、できないことを分けて考えた。
「旅館の修繕を俺一人ではできへん。調べて、誰に頼むかは考えられる」
学生のころ、この旅館のために自分が何をできるかなど考えたこともなかった。いまなら、自分が学び、働いてきた側から関われる。
休暇の終わる前日、茜と浅野川を歩いた。
夏の川には冬とは違う光があり、橋の下で子どもが水へ足を入れている。向こう岸の店から、食器を重ねる音が聞こえた。
「こんなときに言う話じゃないんですけど」
茜は立ち止まらずに言った。
「私、友哉さんのこと、ずっと好きでした」
茜は笑った。告白した人の笑い方ではなかった。言わずにいたものを、ようやく手から離した人の顔だった。
友哉はすぐに返事ができなかった。
茜は友哉を見なかった。
茜から気持ちを告げられた夜、友哉は一人で部屋へ戻った。
窓を開けると、浅野川の音が聞こえる。
茜は自分を好きだと言った。
うれしかった。胸の奥が少し熱くなった。その熱を、友哉はすぐに葵の名前で冷まそうとはしなかった。
茜といると、自分の考えを言っても相手の答えを待てる。学生のころの自分なら、そんなことさえ恋愛の始まりだと思っていたかもしれない。
それでも、葵への気持ちは残っている。
残っていることを、茜への返事にしてはいけない。友哉は窓を開け、長いあいだ浅野川の音を聞いた。
「今すぐ何かしてほしいわけじゃないです。言わないまま、また京都へ帰られるのが嫌やっただけです」
茜はそこで初めて友哉を見た。目には涙がなかった。それがかえって、長いあいだ考えていたことなのだと分かった。
友哉は、茜の言葉を自分の返事で急いで閉じたくなかった。
二人は橋まで歩き、旅館へ戻った。
出発する朝も、友哉は朝食を運び、客室の布団を片づけた。和夫に建物の図面を渡し、京都へ戻ってから相談できる会社を探すと話した。
玄関で靴を履き、茜に向き直った。
「俺には、まだ気持ちを伝えていない人がいる」
茜はしばらく友哉の顔を見た。
「その人には、友哉さんのことを決めてもらわないでくださいね」
茜はそれだけ言って、玄関のほうへ歩いた。友哉は追わなかった。追えば、茜がせっかく自分で言った言葉まで、友哉が受け取る形に変えてしまいそうだった。
友哉は、すぐには答えられなかった。
昔なら、自分が傷つかないように、相手の答えを先に決めていた。茜はそのやり方を見抜いていた。
友哉には、その意味が分かった。
茜はそれ以上何も言わなかった。いつもの声で「気をつけて」とだけ言った。
浅野川の橋を渡る途中、友哉は一度だけ振り返った。水棲は見えなかった。屋根の一部が、通りの家々の間から見えるだけだった。
昔と同じようにあると思っていた旅館も、人が手をかけなければ残らない。
何もしないことが、相手を傷つけないとは限らない。友哉は、仕事でそのことを何度も見るようになった。決めなければ、現場の誰かが決める。遅れれば、別の誰かが頭を下げる。恋愛も、たぶん似ていた。そう思っても、葵へ説明する気にはならなかった。今さら説明しても、昔の時間は戻らない。
