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『 風を聴く 』

 

第一章  昭和の記憶と、古いミシンの声

 

八畳の茶の間の柱で、黒漆塗りの柱時計が「カチ……コチ……」と、重く湿った金属音を刻んでいた。

 

半世紀以上、この鈴木家の歳月を見守り続けていた大振りな柱時計だ。文字盤の白い漆喰には細かな亀裂が走り、真鍮製の振り子がゆらりと揺れるたび、振り子室のガラス窓に秋の薄光が小さく反射する。

 

昭和二十七年二月十二日。俊子が亡き夫・貞男とともにこの熱田の地に小さな家を建て、足踏みミシンを持ち込んでお直しと洋裁の店を開いたあの日から、この時計は変わらぬ刻みを続けている。

 

毎週日曜日の朝、俊子が背伸びをして真鍮のネジを巻くたび、「ギシギシ、ガチリ」と骨身に響く手応えを返してきた。八十八歳になった今では、そのネジを回すだけでも手首の関節へ走る痛みを耐えなければならない。

 

ふと柱時計の短針と長針を見やると、午後二時十二分を指していた。

 

「……ふぅ」

 

俊子は飴色の陶器の湯飲みを持ち上げ、冷めかけた渋茶を細く喉へ流し込んだ。

 

立ち上がろうとするたび、膝の関節の中で乾いた骨同士が擦れ合うような鈍い感覚が走る。畳の上に両手をつき、一度「よっこいしょ」と息を整えなければ体が持ち上がらない。すり足をしなければ一歩も進めない自分の足元を見つめながら、俊子は静かに小さな息を吐き出した。

 

茶の間を満たしているのは、庭の古ぼけた柿の木越しに差し込む、黄みを帯びた秋の陽光だけだった。

 

畳の縁は緑の糸がすっかり擦り切れ、い草の匂いはとうの昔に失われている。代わりに部屋を満たしているのは、朝晩に膝へ貼り替える湿布薬のツンとしたハッカの匂いと、古い木造家屋特有の湿ったホコリの匂いだった。

 

俊子の視線は、床の間の脇に置かれた大きな黒い塊へと自然に向けられた。

 

古い風呂敷を被せられた、足踏みミシンである。

 

風呂敷の隙間から覗く「SINGER」の金文字は、長年の油と汗ですっかり擦れかけていた。その鋳物のミシンは、俊子が二十代半ばの折、戦後の混沌とした時代を生き抜くために、夫と二人で工面して買い求めた人生の相棒だった。

 

夫の貞男は、病に倒れて三十代の若さで逝ってしまった。幼い息子の陽一を抱え、路頭に迷いそうになった俊子を支えたのは、この一台のミシンだった。

 

近所の人々から持ち込まれる着物の仕立て直し、ズボンの裾上げ、子供の通学バッグの縫製。

 

昼夜を問わず、鋳物の重いペダルを「カタカタカタカタ……」と踏み鳴らし続けた日々。滑車が勢いよく回り、ミシン油の甘く香ばしい匂いが部屋中に漂う中で、型紙に引いた線のうえをハサミが「シャキリ、シャキリ」と心地よい音を立てて進んでいく。針穴に細い糸を通し、幾重にも重なった硬い布地を貫く瞬間の、胸がすくような緊張感と達成感。あの音が、あの手触りが、俊子と息子を生かしてくれたのだった。

 

だが、今、目の前にかざした自分の手を見つめてみる。

 

指の関節は太く歪に曲がりくねり、皮膚は干し柿のようにカサカサに乾いている。ペダルを踏み込む足力も、細かな針穴を見極める視力も、すべては時の流れの中に置いてきてしまった。

 

俊子は膝の上でしわくちゃの手をさすり、静かに目を細めた。

 

サッシの鍵を閉め忘れていた縁側から、「ギィ……」と木枠が擦れ合う微かな音が聞こえた。

 

引き戸がわずか数センチだけ開き、ひんやりとした秋の冷気がすーっと畳の表面を流れ込んでくる。ホコリを軽く舞い上げたその隙間から、毛並みの乱れた大きな茶トラの猫が、滑り込むように姿を現した。

 

右の耳の先がサクラの花びらのように大きく欠けている。鼻筋には一本の薄い白傷痕があり、野良猫にしては骨太でガッシリとした体つきをしていた。どこか世の中の酸いも甘いも噛み分け、すべてを舐めきったような不遜な雰囲気を漂わせている猫だった。

 

猫は音もなく畳の上を歩き、俊子の座布団からちょうど一歩だけ離れた日当たりの良い場所にドカリと腰を下ろした。そして、金色の大きな瞳で俊子の顔をじっと見つめてきた。

 

「……やあ。今日も来たのかい」

 

俊子が話しかけても、猫は擦り寄ってくるわけでもなく、前足に唾液をつけて耳の後ろを面倒そうに撫で上げるだけだった。

 

その瞬間——

 

俊子の頭の中に、音としての声ではなく、意味が直接刻み込まれるような不思議な感覚が流れ込んだ。少し低く、世擦れした中年男のような太い響きを伴っている。

 

――(相変わらず、ハッカの匂いが鼻につく部屋だな、ばあさん。少しは換気でもしたらどうだ)

 

俊子は静かに微笑んだ。ここ数ヶ月、午後のこの刻限になると繰り返されている、二人だけの対話だ。

 

「この年になるとね、湿布は着物と同じで身につけておらんとおちつかんのだよ。ハッカの匂いが嫌なら、外の冷たい風でも嗅いでおればいいがね」

 

俊子が呟くように答えると、猫は毛繕いする前足をピタリと止め、俊子の曲がった膝と腫れぼったい関節を見やった。

 

――(骨がキーキーと安っぽいトタンみたいに軋んでいるのが、庭の塀のところまで聞こえてくるぜ。そんな体で、何をぼんやり考えているんだ?)

 

「昔のことさ。あのミシンでね、服をたくさん縫ったもんだよ。一日が飛ぶように過ぎていったねぇ……。あの頃は夜が明けるのも忘れて針を動かしておったよ」

 

俊子が部屋の隅のミシンへ視線を送ると、猫はぴくぴくと髭を揺らした。

 

――(過去の思い出に浸るってヤツか。人間ってのは本当に不便な生き物だな。過ぎ去った昔のことばかり追いかけて、今、自分の鼻の頭を吹き抜けていく風の匂いにも気づかないんだからな)

 

「生意気な猫だねえ……」

 

俊子は小さく苦笑した。

 

猫は大きくあくびをひとつすると、ピンク色の口内を見せ、前足を胸の下に深く折り込んで、後ろ足をすべて体の下に丸く収める姿勢をとった。

 

――(まあいいさ。この部屋で聴く風の音は、外のカラスどもの汚い鳴き声や、野良犬の遠吠えよりはマシだ。少し休ませてもらうぜ)

 

「ゆっくりしていきな。あいにく煮干しは切らしておるけどね」

 

俊子は目を閉じ、猫の隣でゆっくりと息を吸い込んだ。

 

縁側を吹き抜けていく秋風が、庭の柿の木の乾燥した葉を「シャラシャラ……」と乾いた音で揺らしている。

 

その時、頭上から微かな音が聞こえた。

 

「ギシ……」

 

二階の古い木造の床板が、そっと体重をかけるように重く軋む音。続いて、小さな固形物を床に落としたような「コツン」という乾いた音が響いた。

 

俊子は静かに目を開け、黒ずんだ天井を見上げた。猫もまた、欠けた右耳をピクピクと動かし、金色の瞳を天井の板目へと向けた。

 

一年前から遮光カーテンで固く閉ざされたままの、孫娘・沙耶香の部屋から聞こえる音だった。』