この作品は盗用禁止です。

AIに登録してネット監視していますので、ご注意ください。

 

 

『 風を聴く 』

 

第二章   二階の暗闇と、奪われた光

 

一階の茶の間から伸びる古い木造階段は、斜度が急で、一段踏みしめるたびに「ミシミシ……」と湿った悲鳴を上げた。

 

その階段を上がった突き当たりにあるのが、沙耶香の部屋だった。

 

ドアの隙間からは、昼間であっても一切の光が漏れてこない。重厚な遮光カーテンが二重に締め切られ、薄っぺらい室内には濃密で冷たい暗闇が淀んでいた。

 

部屋に充満しているのは、締め切った部屋特有の埃っぽい空気と、飲みかけのペットボトルから漂うわずかなポリエチレンの匂い、そして皮膚の奥から発せられるような汗の匂いだった。

 

沙耶香はベッドの上で丸くなり、膝を抱えるようにして頭まで薄い毛布をかぶっていた。

 

スマホの画面から放たれる青白い光だけが、毛布の隙間から漏れ、彼女の青白い頬と落ち窪んだ目元を浮かび上がらせている。

 

「……っ」

 

指先がSNSの画面をスクロールするたび、心臓が肋骨の内側を「ドクン、ドクン」と不規則に叩いた。

 

タイムラインには、かつてモデル事務所に所属していた頃の知り合いや、同年代のモデルたちの華やかな投稿が並んでいる。ストロボの光を浴びながらカメラの前で笑顔を見せる姿、アパレルの撮影風景、自分らしく生きていることを誇る言葉たち。

 

かつては自分も、その光の中にいたはずだった。

 

被写体としてレンズの前に立ち、表現者の一部になれることが自分の誇りだと信じて疑わなかった。

 

すべてが崩れ去ったのは、一年前の秋のことだ。

 

ポートレートの自主制作で知り合った男から「良い撮影スポットがある」と誘われ、ついていった都内のアパートの地下スタジオ。そこにあったのは、まっとうな撮影などではなかった。

 

ドアに鍵をかけられた瞬間の金属音。逃げ場のない狭い部屋で向けられた、執拗で冷酷なレンズ。拒絶する声をかき消すような荒い息遣いと、無遠慮に焚かれるストロボのフラッシュ。アダルトモデルとしてのポーズを強いられ、性的で過激な要求を突きつけられた悪夢のような時間。

 

ピカッ、ピカッと強烈な光が視界を白く染め上げるたび、自分という人間の尊厳が剥ぎ取られ、消費されるモノとして刻み込まれていく恐怖。

 

レンズの奥にある、歪んだ欲望を含んだ瞳。

 

「モデルなんて、撮られてナンボだろ? 嫌なら最初からこんな仕事すんなよ」

 

男が放った嘲笑が、今も耳の奥で鼓膜を破らんばかりに反響していた。

 

警察に駆け込んだものの、証拠の不十分さや「同意の上だったのではないか」という無神経な取り調べの言葉に二次被害を受け、沙耶香の心は完全にポッキリと折れた。

 

外へ出ようとすると吐き気が止まらなくなり、街中でカメラを抱えた人影を見るだけで過呼吸を起こした。レンズを向けられることは当然のこと、カメラの存在そのものが自分を切り刻む凶器に変わってしまったのだ。

 

逃げるように東京のアパートを引き払い、熱田の祖母の家へ逃げ帰ってきてから一年。

 

沙耶香は、二階の部屋から一歩も出ない生活を続けていた。

 

「沙耶香、入るわよ」

 

コンコン、とノックもそこそこにドアが開き、母・由香里が入ってきた。

 

部屋に差し込んできた廊下の光に、沙耶香は「うっ」と眩しそうに目を細め、毛布を固くかぶり直した。

 

「また暗い部屋でスマホ見て……。カーテンくらい開けたらどうなの? 風を通さないと体に悪いわよ」

 

由香里の声には、隠しきれない苛立ちと疲弊が滲んでいた。

 

由香里は部屋の奥へと歩き、遮光カーテンをシャッと強く引き開けた。突如として差し込んできた秋の強い陽光が、部屋の埃をキラキラと浮き立たせ、沙耶香の散らかった服の山を惨めに照らし出した。

 

「やめてよ! 開けないでって言ってるでしょ!」

 

沙耶香は毛布の中から悲鳴のような声を張り上げた。

 

「いつまでそうやって泣き寝入りしているつもりなの? もう一年よ? 働くなり何なり、これからどうするのか少しは考えなさい!」

 

「ほっといてよ! 私の勝手でしょ!」

 

「勝手じゃないわよ! あなたの部屋の費用だって、東京のキャンセル料だって、誰が出したと思っているの? お父さんだって、あなたのことでずっと心を痛めて……」

 

「お父さんにお金を払ってもらったから何!? お父さんだって、私の気持ちなんて何も分かってないじゃない! カメラマンのくせに、私の本当の姿なんて見てくれたことなかった癖に!」

 

感情を爆発させる沙耶香の言葉に、由香里は息を呑み、悔しそうに唇を噛み締めた。

 

二人を繋ぐ空気は、冷たく刺々しい刃物のように研ぎ澄まされていた。

 

由香里は溜息をつき、ドアの取っ手に手をかけた。

 

「……おばあちゃんがね、下でお茶を淹れてくれたわよ。少しは降りてきて、顔を見せたらどう? いつまでもあの人に心配かけるんじゃないわよ」

 

バタン、とドアが重く閉じられ、部屋に再び静寂が戻った。

 

カーテンの隙間から差し込む一すじの光の中に、埃が静かに舞っている。

 

沙耶香は毛布の中で膝を抱え、声を押し殺して泣いた。悔しさと、申し訳なさと、どうしようもない自分への憎しみが胸の奥から押し寄せてくる。

 

自分でも分かっているのだ。祖母の俊子が、脚の痛みを堪えながら自分のために食事を作ってくれていることも、心配して声をかけてくれていることも。

 

けれど、光の下へ出るのが怖かった。カメラの前に立ち、笑顔を作ることを強いられたトラウマから抜け出せなかった。

 

その時だった。

 

「カリ、カリ、カリ……」

 

部屋の窓の外、古びたアルミサッシの網戸から、微かな音が聞こえた。

 

沙耶香が涙を拭い、そっと毛布から顔を出すと、開け放たれた窓の縁に、大きな茶トラの猫が立ち上がっていた。

 

右の耳が欠けた、近所でよく見かける野良猫だ。

 

猫はサッシの木枠に前足の爪を立て、「カリ、カリ」とリズミカルに掻いている。

 

指先で引っ掻くのを止め、部屋の中にいる沙耶香と目が合うと、逃げるでもなく、金色の大きな瞳でじっと沙耶香の顔を見つめてきた。

 

「……何よ」

 

沙耶香が掠れた声で呟くと、猫は「フン」と鼻を鳴らすように息を吐き、窓枠の上にドカリと腰を下ろした。

 

その姿はまるで、この部屋の重苦しい暗闇など最初から存在しないかのように、あまりにも平然としていた。