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『 二つの流れのあいだ 』
第六章 遅すぎる日
友哉が三年目の春を終えてから、さらに一年が過ぎたころ、亮が葵と婚約したことを聞いた。
河原町の店で飲んでいるとき、矢部が取引先の担当者から聞いたと言った。
「西村、葵と婚約したらしい。来月から海外やて」
矢部は事務的に言った。余計な顔をしないようにしているのが、友哉には分かった。だから、かえって胸に入ってきた。
亮の会社は東南アジアのホテル建設に設備担当として加わっていた。期間は一年半。葵とは帰国後に式を挙げるらしい。
友哉は、おめでとうと言う相手もいないまま、そうかと答えた。
葵が、自分とは別の人と生きることを決めた。
その事実を前にしても、友哉の生活は続いた。翌朝には現場へ行き、午後は改修を希望する家の調査をした。梁の位置を測り、床下を覗き、夕方には事務所で図面を直した。
仕事をしている間だけは、葵のことを考えなかった。昼休みにスマートフォンを見ると、葵の名前があるような気がして、画面を伏せた。実際には会社の連絡しか来ていない。来ていないのに、少し腹が立った。誰に腹を立てているのか、自分でも分からなかった。
亮が亡くなったのは、海外へ渡って八か月後だった。
建設現場から宿舎へ戻る途中、乗っていた車が事故に遭った。同乗していた現地の技術者と亮が亡くなった。
矢部から電話があったのは、その日の夜、十時を過ぎてからだった。
「亮、どうしたんや」
「俺にも分からん。取引先から聞いただけや」
矢部はそこで一度、言葉を切った。何をどこまで話していいのか、自分にも分からないようだった。
矢部の声が少し遠く聞こえた。友哉は、電話を耳から離してからもしばらく、受話口の向こうにいる亮を待っているような気がした。
友哉は電話を切ったあとも、しばらく事務所の机から動けなかった。
亮の顔を思い出した。大学の演習で、設備の配管をどこへ通すか意見が分かれたとき、亮は自分の案を図面へ描き、友哉の案もその横へ描いた。二枚を見比べ、こっちのほうが短いから友哉のでいこうと言った。
友哉が負けたくないと思っていた相手は、もういなかった。
葬儀には行かなかった。
行ってはいけないと思ったわけではない。葵のそばへ行けば、また自分の気持ちを持ち込んでしまう気がした。
大学の同級生だった者たちが何人か参列したことを、あとで由美から聞いた。葵は亮の両親のそばに座り、ほとんど顔を上げなかったという。
亮の葬儀のあと、友哉は何度か葵へ連絡しようとしてやめた。
メッセージを打っては消す。大丈夫かと書けば、何が大丈夫なのか分からない。何かできることがあればと言えば、できないことを押しつけるように思える。
結局、何も送らなかった。
それが正しいとも思えなかった。正しいことをしたいのに、何もしないことしか選べない夜がある。スマートフォンの画面は暗くなり、友哉の顔だけがぼんやり映った。
葵の今の生活を、友哉は知らない。
どの距離から近づけばいいのかも分からない。
だから、しばらく時間を置いた。
葬儀からひと月ほど経ったころ、友哉は葵の実家を訪ねた。仕事の忙しさに追われるうち、葵のことを考えない時間も増えていた。けれど、ふとした瞬間に、あの日の玄関が浮かぶ。時間が経てば自然に落ち着くと思っていたが、実際には、消えるのではなく、考えられる形に変わっていった。
行く前に連絡はしなかった。電話に出てもらえなければ何も伝えられないと思った。何を伝えたいのか、自分でもはっきりしていなかった。
葵が玄関へ姿を見せる。
髪は後ろで束ね、化粧をしていなかった。痩せたというより、体のなかから何かが抜けてしまったように見えた。
「矢部から聞いた。心配で」
友哉の言葉を聞くと、葵の顔が変わった。
「こんなときに来るなんて、やっぱりあんたは私のこと考えてへんのやね」
葵の声は静かだった。その静かさが、友哉には怖い。怒鳴られれば、謝ることもできる。けれど、静かな人の傷には、どこへ手を置けばいいのか分からない。
葵の声は大きくなかった。怒鳴られるより、友哉には近づけなかった。
亮を亡くした葵に、昔の恋人である自分が会いに来る。そのことが葵にどう見えるかを、友哉は玄関の前に立つまで考えていなかった。
心配だから来た。それは本当だった。その言葉の奥に、もう一度自分を見てほしいという気持ちがなかったとは言えない。
友哉は、それ以上何も言わずに帰った。
葵は扉を閉めたあと、玄関に座り込んだ。
友哉の顔を見た瞬間、学生のころの自分が戻ってきた。あのころの自分なら、友哉が来た理由を最後まで聞いたかもしれない。亮を失った自分が、友哉に何を求めるのか考えたかもしれない。
そのことが耐えられなかった。
亮がいなくなったところへ、友哉が立っているように見えた。友哉がそうしようとしたのではないと分かっていても、玄関の扉を開けておくことはできなかった。
友哉は駅まで歩いた。
駅へ着くと、売店で温かい紅茶を買った。すぐに電車へ乗る気にはならず、駅を出てから歩いた。
遠回りになる道を選んだのは、すぐに部屋へ帰りたくなかったからだ。
心配していた。
それだけではなかった。
葵の人生の中に、もう一度自分の場所ができるのではないか。そんな期待が、玄関へ立った瞬間には確かにあった。
その期待を自分で認めるのが嫌だった。
帰り道、友哉は「心配で」と言った自分の声を何度も思い出した。そのたび、足が少し遅くなった。
友哉は、買った紅茶の蓋を指で押した。まだ温かかったが、開ける気にはならなかった。歩いているうちに冷めてしまうだろうと思った。
歩きながら、昔の自分と同じように、今も傷つくことを避けようとしているのではないかと考えた。
会社では、図面の前で「どちらでもいい」と言わなくなった。
違うと思えば違うと言う。人の話も最後まで聞く。
そのくせ、葵の前へ立つと、昔の癖が戻る。
それでも葵の前に立つと、昔と同じところへ戻っていた。心配だと言えば、心配している自分を許してもらえる気がした。会いたいと言えば、自分の願いを認めることになる。それが怖くて、別の言葉に隠した。
玄関の前で閉じた扉を思い出す。
駅までの道で、友哉は一度だけ立ち止まった。
それから、また歩いた。
