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『 賀茂川の向こう側 ――68歳からの物語 』

 

九 そばにいる

 

 涼太が大阪の家を手放せないことも、翔子には分かっていた。元妻と選んだ家具や息子の写真、仕事机が残っている。

 

「全部捨てるのは無理だな」

 

「捨てなくていいんじゃない?」

 

 翔子は答えた。自分も健二の物を全部処分できない。人の人生は、必要な物だけを選んで持っていけるほど簡単ではない。

 

 涼太は大阪の家を残すことにした。仕事のある日は大阪へ行き、月の何日かを京都で過ごす。完全に一緒になると決める前に、二人でいる時間を重ねていく。その曖昧さが、今の二人にはちょうどよかった。

 

 ある夜、翔子は寝室の前で立ち止まった。健二と使っていた家具が残っている。涼太がそこへ入ることに、突然ためらいが生まれた。

 

「無理に変えなくていいよ」

 

 涼太はそう言った。

 

「俺も、大阪の家を全部消すつもりはない」

 

 翔子は顔を上げた。過去を消さなくても、今の暮らしは始められる。その言葉が、すっと胸に入ってきた。

 

 涼太の物が少しずつ家に増えていった。最初は歯ブラシ一本だった。それがシャツになり、仕事用の鞄になった。物が増えるたび、家の輪郭が少しずつ変わっていく。

 

 翔子はもう「いつまで続くのだろう」と考えなかった。今日一緒に食事をし、明日の予定を話す。その積み重ねの先で、次の形が見えてくる。

 

 結婚するのか。籍を入れるのか。家をどうするのか。大阪の仕事をどうするのか。考えれば現実の問題はいくらでも出てくる。だから二人は、まだ決めなかった。

 

 涼太が大阪へ戻る夕方、玄関が閉まると家は少し静かになる。それでも、帰る場所が別にあっても、心には隣にいた人の気配が残っている。

 

 夜になって、涼太から短いメッセージが届く。

 

――着いた。

 

 翔子は、

 

――お疲れさま。

 

 と返した。

 

 それだけだった。若い頃なら、もっと話した。もっと会いたいと言った。もっと先のことを確かめようとした。今は、無事に着いたことが分かればいい。

 

 翌朝、翔子はカーテンを開けた。静かな朝の中に、また会いたい人がいる。

 

 未来というのは、十年先のことだけではない。次に会う日も、今日の夕方も、明日の朝も、今の翔子には未来だった。

 

 六十八歳になって、そんな未来ができたことを、翔子は静かに嬉しいと思った。