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『 長崎 名前のない写真 』

 

第八章 八月八日の記憶

 

 「1945年8月8日」という日付を見つめていると、孝は、これまで自分たちが追いかけてきた数字の意味が、少しずつ別の形を取り始めていることを感じた。

 

 9と17。4。そして、8月8日。

 

 これまで数字は、古い灯籠や地図、写真の片隅に現れていた。それぞれが何を指しているのかはわからなかったが、少なくとも誰かが意図して残した可能性が高い。

 

 その数字が、長崎の歴史の中でもっとも大きな断絶が生まれる前日に結びついている。

 

 それだけで、四人の目の前にあるものの重さが変わった。母親は、紙を手にしたまま黙っている。

 

 その横顔には、驚きよりも、むしろ「いつかこの日が来るのではないか」という覚悟に近いものが浮かんでいた。

 

 孝は、それが気になった。母親は、この紙の存在を初めて知ったわけではないのではないか。

 

 そんな疑いが浮かんだものの、すぐに尋ねることはしなかった。家族の中で長い間隠されてきたことには、それなりの理由がある。まして、祖母が行方不明になり、ようやく戻ってきたばかりなのだ。

 

 ここで無理に聞き出せば、かえって何か大切なものを壊してしまうかもしれない。そのとき、母親が古いアルバムを閉じた。

 

 紙の端を指で撫でるようにしてから、ゆっくりと顔を上げた。

 

 「祖母が、昔、一度だけ話してくれたことがあります」

 

 声は静かだった。それまで聞いていた話とは少し違う。

 

 祖母が若かった頃、家族には弟がいた。少年は、八月九日の混乱の中で姿を消した。家族は死亡したものとして扱ったが、遺体が確認されたわけではない。それでも、祖母だけは最後まで納得しなかった。

 

 少年が亡くなったのではなく、誰かに連れていかれたのではないかと考えていたらしい。なぜそんな考えを持ったのか、その理由は祖母自身も語らなかった。

 

 ただ、八月八日の夜、少年が家を出る前に、一人の外国人男性が訪ねてきたという。その男性は、長崎港に関係する仕事をしていた人物だった。

 

 戦争によって外国人との往来が制限される中でも、長崎には海外とのつながりを持つ人々が残っていた。

 

 商取引だけではなく、文化や宗教、人の往来によって築かれてきた関係は、政治的な状況が変わったからといって完全に消えるものではない。その男性が何をしに来たのか。祖母は、そこだけは話さなかった。

 

 ただ、男性が帰ったあと、少年も家からいなくなった。そして翌日、八月九日を迎えた。

 

 家族が暮らしていた地域も大きな被害を受け、家屋や記録の多くが失われた。戦争の混乱の中で、少年の消息を追うことはできなくなった。それでも祖母は、少年が単純に亡くなったとは考えなかった。

 

 その後何十年も、少年が最後にいた場所を探し続けたという。祭りの日に灯籠を持って出かけたのも、そのためだった。灯籠を一つ置き、そこから別の場所へ移動する。それを毎年繰り返していた。まるで、誰かに道を示すように。

 

 話を聞きながら、孝は昨日の地図を思い出していた。

 

 長崎港から出島、寺町、浦上へ伸びていた一本の線。それは単なる観光地を結んだ線ではなかったのかもしれない。祖母が何十年もかけて追い続けた道だった可能性がある。

 

 そして、その道の途中に9や17、4という数字が残されていた。

 

 もしそうなら、「九番から四番へ」という言葉は、ある場所から別の場所へ何かを移したことを意味しているのかもしれない。

 

 何を移したのか。なぜ移す必要があったのか。そして、なぜ八月八日なのか。そこまで考えたとき、浩一がスマートフォンを見せた。古い資料を調べているうちに、ある記録を見つけたという。

 

 戦前の長崎港に関係する外国人の記録だった。名前はすぐには判読できない。

 

 古い文字を画像処理して拡大すると、どうにか一部だけ読める。

 

 そこには、外国人男性の名前と、その人物が使っていた倉庫の場所が記されていた。

 

 そして、その倉庫の住所の横に、小さく「九」の文字がある。

 

 浩一は、その記録をさらに調べた。

 

 現在の地図に重ねると、倉庫があった場所は、長崎港からそれほど離れていない。しかし、そこは現在では建物が建て替えられ、当時の姿は残っていない。それでも、古い地図には地下へ続くような線が描かれている。

 

 昨日見たものと同じだった。孝は画面を見つめた。

 

 これで「地下」というものが、偶然ではなくなったように感じられる。

 

 古い倉庫。地下への入口。祖母の家にあった木箱。浦上の地下室。そして、黒く塗りつぶされた少年の写真。いくつもの断片が、ようやく一つの方向を向き始めている。しかし、そのとき母親が、静かに首を横に振った。

 

 「その場所には行かないほうがいいと思います」

 

 声に迷いはなかった。四人は母親を見る。

 

 母親は、しばらく窓の外を眺めたあと、祖母が数年前に一度だけ口にした言葉を思い出した。

 

 「あの人たちは、まだ探している」

 

 祖母は、そう言ったという。何を探しているのか尋ねても答えなかった。

 

 ただ、八月になると決まって不安そうになり、古いアルバムを確認していた。その理由を母親が理解したのは、今回の出来事が起きてからだった。誰かが、まだ少年の痕跡を探している。そのために祖母の家を調べた。

 

 写真を持ち去った。

 

 祖母を連れ出した。そして今度は、四人が持っている写真を狙っている。そこまで考えれば、四人がこれ以上関わることは危険だった。京都へ戻る。それが一番安全なのかもしれない。しかし、そこで一つの疑問が残った。

 

 なぜ、四人に写真を送る必要があったのか。

 

 誰かが四人を監視しているのであれば、写真を見せる必要などない。むしろ、何も知らせずに放っておいたほうが都合がいいはずだった。それなのに、知らない番号から何度も写真が届く。

 

 近づくなと言いながら、次の場所を示してくる。これは脅迫なのか。

 

 それとも、誰かが四人を利用して、別の人物に何かを伝えようとしているのか。孝には、その違いがまだわからなかった。

 

 

 祖母の家を出たあと、四人はすぐにホテルへ戻らず、近くの小さな喫茶店に入った。窓際の席からは坂道を歩く人々が見える。観光客の姿もあれば、買い物袋を提げた地元の人もいる。

 

 長崎という街の中では、何十年も前の出来事を追いかけている四人のほうが、むしろ場違いな存在に思えた。

 

 涼子は、テーブルの上にスマートフォンを置き、これまでに撮った写真を一枚ずつ確認していた。観光で撮った写真。祖母の家。灯籠。石垣。浦上。出島。写真を並べていくと、意外なことに気づく。

 

 「9」が写っている写真には、すべて同じ方向を示すものが写り込んでいた。

 

 最初は気のせいだと思った。しかし、祖母の家の写真では窓。灯籠の写真では路地。石垣では坂。浦上では古い建物。どれも、写真の構図の中で右奥へ視線を誘導するように配置されている。

 

 誰かが撮影した写真なら、意図的にそうした構図にすることもできる。しかし、四人が無意識に撮った写真まで同じ方向を示している。

 

 それは、偶然にしては妙だった。孝は、そこで一つの可能性を考えた。

 

 写真そのものが手掛かりなのではなく、写真を撮った場所を順番にたどることによって、何かが見えてくるのではないか。つまり、9や17は目的地ではない。写真の中にある別の要素を見つけるための印なのかもしれない。

 

 そう考えると、昨日の地下室の写真も違って見えてくる。壁に貼られた祖母の写真。黒く塗りつぶされた少年。そして、その背後にある壁。壁には数字がいくつも刻まれていた。孝は、昨夜撮った写真を再び拡大した。

 

 数字を一つずつ確認する。9。17。4。そして、もう一つ。

 

12。

 

 それまで誰も気づかなかった数字だった。12は、少年の写真のすぐ下に刻まれている。浩一が地図を開く。

 

 もし数字が場所を示しているのなら、12にも対応する場所があるはずだ。古い地図を探す。

 

 すると、現在は存在しない古い住所の中に「十二番」という区画が見つかった。

 

 場所は、長崎港から少し離れた丘の上だった。その付近には、戦前には小さな礼拝所があったらしい。しかし、現在は跡形もない。

 

 さらに調べると、その礼拝所が使われていた時期には、外国人との交流があったことも記録されている。キリシタンの歴史。外国との交流。戦争。原爆。戦後。

 

 これまで別々に見えていた長崎の歴史が、少しずつ一本の線として重なってくる。それは、単なる秘宝探しのような話ではない。誰かが守ろうとした記憶が、時代を越えて残っている。その記憶を、誰かが消そうとしている。

 

 そして、祖母はその間で何十年も何かを守ってきた。そこまで考えたところで、沙羅が窓の外を見た。

 

 道路の向こうに、昨日の車が停まっている。今度は運転席に人影があった。四人は一斉に動かなかった。車内の人物も、こちらを見ているようには見えない。ただ、しばらくすると車が動き出し、坂を下っていく。

 

 孝は、その方向を見ながら、あることに気づいた。車が向かった先は、長崎港ではない。浦上でもない。

 

 昨日の地図に示された「4」の場所へ向かう道だった。

 

 四人は、ここで初めて、相手の動きを待つという選択をした。自分たちから追うのではなく、相手がどこへ向かうのかを見る。それなら危険も少ない。しかし、十分ほど経ったところで、沙羅のスマートフォンが震えた。

 

 知らない番号からだった。今度は文章ではなく、音声ファイルが一つ添付されている。

 

 再生すると、しばらく雑音が続いた。風の音。遠くで人の声がする。そして、その奥から低い声が聞こえた。

 

 「九番を見つけたなら、もう戻れない」

 

 音声はそこで切れている。四人は顔を見合わせた。誰の声なのかはわからない。けれど、最後に一つだけ、はっきり聞こえた音があった。鐘の音。長崎のどこかで鳴っている鐘の音だった。

 

 浩一が、スマートフォンの音声をもう一度再生する。鐘は三回鳴っている。その間隔を聞いていた孝は、ふと気づいた。

 

 昨日見つけた古い地図には、数字だけではなく、いくつかの小さな印があった。その一つが、教会の鐘を示す記号に似ている。

 

 そして、その記号の位置を現在の地図に重ねると、次の場所が浮かび上がった。それは、四人がまだ一度も訪れていない場所だった。山の斜面にある、古い教会跡。そこには現在、建物は残っていない。

 

 しかし、戦前の記録には、その場所について一つの記述が残っていた。

 

「地下に、古い記録を保管する場所あり」

 

 孝は画面を見つめた。そして、ゆっくりと顔を上げた。長崎の街は、夕暮れを迎えようとしている。

 

 この街では、何百年もの間、人が信じ、隠し、守り、失い、また探してきたものが、地面の下に眠っている。四人が今追っているものも、その一つなのかもしれない。ただし、そこへ行けば何かがわかるという保証はない。

 

 むしろ、そこへ行ったことで、今まで知らずに済んでいたことまで知ってしまう可能性がある。それでも、翌朝になれば、四人はその教会跡へ向かうことになる。

 

 なぜなら、その夜遅く、沙羅の母親から新しい連絡が届いたからだった。祖母が、病院のベッドの上で初めて自分から口を開いた。そして、こう言ったという。

 

「あの子は死んでいない。八月九日の朝、誰かが連れて行った」

 

 その言葉の直後、祖母は一枚の紙を母親に渡した。

 

 そこには、長い年月を経ても消えない筆跡で、たった一つの場所が記されていた。

 

「十二番」

 

 そして、その下には、四人がまだ知らない名前が書かれていた。