この作品は盗用禁止です。
AIに登録してネット監視していますので、ご注意ください。
『 風を聴く 』
第三章 迫る足音と、畳の上の葛藤
ガラガラと激しい音を立てて玄関の引き戸が開いたのは、日の傾きかけた午後四時過ぎのことだった。
「お義母さん、入りますよ」
挨拶もそこそこに履物を脱ぎ捨て、上がりこんできたのは俊子の義理の妹にあたる京子だった。その後ろから、夫の雄一が所在なげに頭を下げながら続いて入ってくる。
京子は手に持っていたスーパーのポリ袋を茶の間のテーブルへ「ドン」と遠慮がちに置いた。中には安売りの煎餅と箱入りの栄養ドリンクが入っている。
「いやぁ、今日も暑いねぇ。お義母さん、お身体どうですか。膝、相変わらず痛むんでしょう」
京子は甲高い声でまくし立てながら、座布団も勧められないうちに畳の上へドカリと腰を下ろした。その目線は、茶の間の煤けた天井や、角の剥げかけたタンスの隅々までを素早く舐めるように動いている。
「京子さん、雄一さん。わざわざすまないねぇ。お茶でも入れようかい」
俊子が膝に手を当てて立ち上がろうとすると、雄一が慌てて手を出して制した。
「あ、いいですいいですお袋、座っててください。僕らが勝手にやりますから」
雄一の顔には濃い疲労の色が刻まれていた。今年で六十になる雄一は、長年勤めた地元の中堅自動車部品メーカーで昨年役職定年を迎え、給与は全盛期の三分の一近くまで下がっていた。さらに、一人息子の住宅ローンの連帯保証人になっており、その返済補填と、パート勤めで肩を壊した京子のマッサージ通い代で、家計は常に火の車だった。
「お義母さんね、単刀直入に言わせてもらうけど」
京子が膝を乗り出し、声を一段低くした。
「この家の件、そろそろ本気で考えてもらわないと困るのよ。先週も言ったでしょう? 不動産屋の田中さんがね、今のうちに売れば、土地代だけで二千八百万円は下らないって言ってるの。この辺りも最近は建売住宅が増えてきて、今が一番の売り時なのよ」
「……」
俊子は黙って冷めたお茶の湯飲みを見つめた。
「お義母さんだって、もう八十八でしょう? 正直いつ倒れたっておかしくない年齢じゃない。こんな古い木造住宅で一人暮らしなんて、万が一火事でも出したらどうするの? 陽一さん夫婦だって、自分の暮らしで手いっぱいで、お義母さんの介護なんてできるわけないじゃない」
「京子、言い方がちょっときついぞ……」
雄一が横から弱々しく口を挟んだが、京子はそれを溜息混じりに遮った。
「きつく言いたくて言ってるんじゃないわよ。雄一さん、あなただって昨日の夜、通帳見て頭抱えてたじゃない。……お義母さん、雄一だって退職金も減らされて、毎月本当にギリギリなのよ。亡くなったお義父さんが残してくれたこの土地を整理できれば、少しは息が突けるの。……身勝手なのは分かってるのよ。でもね、私たちだって、どうしようもないの」
京子の声に混ざる震えと切実さは、容赦なく俊子の胸を突いた。
悪意から言っているのではないことは、俊子にも分かっていた。京子たちもまた、物価高と将来への不安、減っていく蓄えの中で追い詰められているのだ。余裕のない人間が放つ言葉は、時に暴力以上の重みを持って人に襲いかかる。
「京子さん。この家はね……」
俊子がゆっくりと口を開きかけた時、台所の陰から由香里が姿を見せた。お茶を載せたお盆を手にしているが、その表情は硬くこわばっていた。
「叔母さん、失礼です。お義母さんはまだここでお元気に暮らしていらっしゃいます。家を売るなんて、お義母さんの意向を無視して進める話ではありません」
「あら、由香里さん」
京子は顔を曇らせ、力なく首を左右に振った。
「意向を無視してるわけじゃないのよ。あなたたちだって、本当は困ってるんじゃないの? 二階の……沙耶香ちゃんのことだってあるでしょう。あの子、もう一年もあんな状態で……東京のマンションのキャンセル料やら何やらで、陽一さんの給料だって限界じゃない。家を整理すれば、沙耶香ちゃんのこれからのことだって、少しは選択肢が増えるかもしれないでしょう?」
京子の目には、単なる欲深さだけではない、この家全体が行き詰まっていることへの歪んだ焦りと憐れみが浮かんでいた。
「沙耶香のことは関係ありません!」
由香里の声が怒りで震えた。お盆の上の湯飲みが「カタカタ」と小さく音を立てる。
「関係なくないでしょう! 一族の問題なのよ! 陽一さんはどこへ行ったの? 今日は休日でしょう?」
「陽一は……撮影の仕事です」
「仕事? どうせ大した稼ぎにもならない単発の撮影でしょう。カメラマンなんて不安定な職業に固執して、家族を養う責任も果たせないで……」
「お父さんを悪く言わないで!」
突如、二階から響き渡った叫び声に、茶の間の全員が息を呑んだ。
階段を激しい足音を立てて駆け下りてきたのは、沙耶香だった。髪はボサボサで、目元は赤く腫れ上がっている。
「沙耶香……!」由香里が驚いて駆け寄ろうとするが、沙耶香はそれを振り払い、京子を鋭い眼光で睨みつけた。
「何も知らないくせに勝手なこと言わないで! お父さんは必死で働いてる! おばあちゃんも、この家でずっと暮らしたいって言ってるじゃないの! 私たちのことを言い訳にして、おばあちゃんからこの家を奪わないで!」
沙耶香の剣幕に、京子は一瞬気押されて息を呑んだ。
京子の視線が、目の前で激しく肩を揺らす沙耶香の青白い顔、やつれた目元、そしてボサボサの髪へと向けられた。
その目に走ったのは、怒りだけではなかった。
一年ぶりに見る姪の痛々しい姿に対する、居心地の悪い動揺と、痛みを直視できない人間特有の目を背けるような狼狽だった。京子は小さく唇を震わせ、何かを言いかけて……言葉を呑み込んだ。
「……沙耶香ちゃん。あなた……そんな風になっちゃって……」
京子の声からトゲが抜け、かわりに悲痛な呆れが零れ落ちた。
「……もういいわ。今日は帰りましょう」
京子は立ち上がり、逃げるようにバッグを持ち上げた。雄一も小さく頭を下げ、妻の後に続いた。
「京子さん、雄一さん。苦しい思いをさせて、本当に申し訳ないねぇ……」
俊子が畳の上に手をつき、低く頭を下げた。京子は玄関の引き戸の手前で立ち止まり、振り返ることなく、静かに呟いた。
「……お義母さん。私たちはね、誰も悪者になりたくないだけなのよ」
引き戸が静かに閉まり、余計に重い静寂が残された茶の間に落ちた。
沙耶香は膝から崩れ落ちるように畳の上に座り込み、荒い息をついていた。
「沙耶香……」
由香里が手を伸ばそうとしたが、沙耶香は「触らないで!」と拒絶し、再び二階へと駆け上がってしまった。
茶の間には、気まずい静寂と、冷めきったお茶だけが残された。
俊子は静かに目を閉じ、胸の奥で重く溜まった息を吐き出した。
その時、サッシの隙間から滑り込んできた茶トラの猫が、俊子の膝のすぐ脇にそっと寄ってきた。
金色の瞳で俊子を見上げ、静かに耳をピクピクと動かしている。
――(まったく人間ってのは、狭い縄張りと金銭(カネ)のために、どうしてあんなに醜く吼え立てるのかねぇ)
猫の呆れたような声が、俊子の頭の中に届いた。
俊子は小さく苦笑し、カサカサに乾いた手で猫の背中を撫でた。
「困ったもんだねぇ……。みんな、生きるのに一生懸命なだけなんだよ」
――(一生懸命ねぇ。外の冷たい風に吹かれて、自分の足で獲物の一匹でも捕まえてくれば、あんな無駄な苛立ちも吹き飛ぶんだがな)
猫はフンと鼻を鳴らし、俊子の膝に小さく頭を押し当ててきた。その温もりが、俊子の凍えかけた心に微かな温かさを運んできてくれた。
