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『 賀茂川の向こう側 ――68歳からの物語 』
十 賀茂川の向こう側
春が深くなった頃、二人は賀茂川のほとりを歩いた。
冬の名残をまだ少し含んだ風が川面を渡っていたが、土手の草はもうすっかり春の色になり、遊歩道を行き交う人の服装も軽くなっている。川辺に腰を下ろして話す若い人たちの姿も増え、犬を連れて歩く人、自転車で通り過ぎる人、ゆっくりと川を眺めながら歩く人が、それぞれの時間を賀茂川の流れの中へ置いていくように見えた。
涼太が少し先を歩いている。
翔子は、その背中を眺めながら歩いた。
四十五年前にも、こんなふうに歩いたことがあった。
あの頃の涼太はもっと若く、背筋も今より伸びていて、歩く速度も速かった。翔子も負けないようについて歩いた。どこへ行くのか決めていなくても、二人で歩いていることが楽しく、日が傾いてくると、まだ帰りたくないと思った。あの頃は、この先に何十年もの時間が待っていることを疑わなかったし、その時間の中で自分たちがどんな人生を送ることになるのかなど、考えもしなかった。
未来を知らないまま歩いてきたのだと、翔子は六十八歳になって初めて実感した。
あのときから四十五年が過ぎている。
川の向こうに目をやると、春の光を受けた木々の葉が風に揺れていた。四十五年前と同じ鴨川が流れているのに、見ている自分はもうあの頃の自分ではない。
翔子には健二と過ごした年月があり、涼太にも、元妻や家族と生きてきた年月がある。笑った日も、腹を立てた日も、うまくいかなかったことも、それぞれの人生に残っている。
それを消して、二人の時間だけを新しく作る必要はない。そこまで生きてきたからこそ、今こうして隣を歩ける。
翔子は、そう思いながら歩いた。
しばらく歩いたところで、涼太が振り返った。
「疲れた?」
「少し」
そう答えると、涼太はそれ以上何も聞かず、歩く速度を落とした。
翔子も歩幅を合わせる。
それだけだった。
けれど翔子には、その何気ないことが妙に嬉しかった。
若い頃なら、好きだという言葉や、これから先も一緒にいるという約束を求めていたかもしれない。今は、疲れたときに歩く速度を合わせてくれる。そのことのほうが心に残る。
翔子は、涼太の少し後ろを歩きながら、そのことを考えていた。
昔の二人は、もっと先を急いでいた。
今の二人は、急ぐ必要がない。
歩く速度が違えば、どちらかが合わせればいい。
それだけのことが、四十五年を生きてきた二人には大切だった。
賀茂川の水は、二人の足元を離れて、ゆっくりと南へ流れていく。
同じ場所に見えても、そこを流れている水は一瞬ごとに変わっている。
過ぎた時間を取り戻すことも、若い頃の二人に戻ることもできない。それでも、これからの時間は残っている。
そう思うと、翔子の気持ちは少し軽くなった。
*
家に戻ると、玄関には涼太の靴が置かれていた。
以前なら、自分の靴だけが並んでいた場所である。長い一人暮らしの間に、その光景にもすっかり慣れていた。誰かが来れば靴が増え、帰ればまた一足になる。それが当たり前だった。
今は違う。
涼太の靴が一足あるだけで、玄関の空気まで少し違って見える。
洗面所へ行くと、鏡の前には翔子の歯ブラシの隣に、涼太の歯ブラシが一本並んでいる。冷蔵庫を開ければ、翔子一人なら買わなかったものが入っていることもあるし、食卓にはいつの間にか二人分のものを置くことが増えた。
涼太は大阪の家を手放さない。仕事のある日は大阪へ行き、向こうの人間関係や家族との関係も続いている。翔子も、それを変えようとは思わなかった。
翔子には翔子の、涼太には涼太の人生がある。四十五年という時間は、簡単にひとつにはならない。
そこには二人だけにしか分からない出来事があり、喜びも、苦しさも、後悔も、言葉にできない思いも、それぞれの人生の中に残っている。
過ぎた時間を、今の二人に都合のいい形へ並べ直す必要はない。そのまま残して、これからの時間を始めればいい。
夕方になり、食事を済ませる頃には、窓の外が少しずつ暗くなっていた。
涼太は翌朝の仕事のことを考え、大阪へ戻ることにした。
玄関で靴を履く涼太を見ながら、翔子はいつものように「気をつけて」と言った。
「明日、戻るよ」
「うん」
それ以上の言葉は出てこなかった。
昔なら、別れ際にはもっと何か言いたかっただろうと思う。帰らないでほしいと伝えたくなったかもしれないし、いつ戻ってくるのか何度も確かめたかもしれない。
けれど今は、明日戻ると言われたことだけで十分だった。
戻ってくる人がいる。
それを知っているだけで、見送る寂しさは違っていた。
涼太が玄関のドアを開けると、夜の冷えた空気が細く入り込んできた。
ドアが閉まる。
翔子はしばらくその場に立っていた。
静かだった。けれど、以前とは違う。玄関の靴も、洗面所の歯ブラシも、椅子の位置も、誰かがいた気配を残している。
翔子は、そういうものを眺めながら、少しだけ笑った。
明日になれば、また朝が来る。
そう思って寝室へ向かった。
*
翌朝、翔子はいつもの時間に起きた。
長年の習慣は、生活が変わっても簡単には変わらない。カーテンを開け、窓を少し開ける。朝の光と、まだ冷たさの残る空気が入ってきた。
京都の朝が、ゆっくり動き始めている。
翔子は台所へ行き、湯を沸かした。
コーヒーを淹れるためにカップを出そうとして、手が止まった。
いつもの癖なら、一つでいい。
一人分なら、それで足りる。
けれど、その日は棚の中を少し眺めてから、もう一つのカップを取り出した。
それをテーブルの向かい側に置く。
何か特別なことをするつもりではない。ただ、そうしたかった。
コーヒーを二つのカップに注ぐと、白い湯気が細く立ち上った。翔子はその湯気を眺めながら、ふと四十五年前のことを思い出した。
あの頃の二人には、長い未来があった。どこへでも行ける気がしていた。その未来を、二人は別々に生きてきた。
結婚をして、家族をつくり、それぞれの暮らしを守った。楽しいことも苦しいこともあった。もう二度と会わないと思っていた時期もある。
四十五年後、昔の記憶は思いがけない場所から戻ってきた。
四十五年前へ戻るのでも、若い頃の続きを始めるのでもない。四十五年分の時間をそれぞれに抱えたまま、今の二人として向かい合う。
健二と生きた年月も、涼太が生きてきた年月も消えない。それがあるから、今の二人には若い頃にはなかったものがある。
翔子は、二つのカップを見つめた。
窓の外には賀茂川が見える。
朝の光を受けた川面が、細かな光を散らしながら流れている。
四十五年前にも、同じ川が流れていた。
けれど、あの頃の翔子が見ていた賀茂川と、今の翔子が見る賀茂川は、同じではない。
川は変わらないように見えても、その流れの中には一瞬として同じ水がない。
過ぎてしまった時間は戻らない。だからこそ、今ここにある時間を大切にしたいと思う。
翔子は、二つ目のカップをテーブルの中央へ少しだけ寄せた。
そのとき、玄関のほうから音がした。
鍵が回る音だった。
翔子は顔を上げた。
聞き間違いではない。
もう一度、鍵の回る音がする。
玄関のドアが開いた。
「おかえり」
自分でも驚くほど自然に、その言葉が口から出た。
「ただいま」
涼太の声が返ってきた。
翔子は、思わず笑った。
涼太は台所へ入ってくると、テーブルの上の二つのカップに気づいた。
何も言わない。
翔子も、何も言わなかった。
涼太が椅子を引き、いつものように腰を下ろす。
翔子は向かい側のカップを涼太の前へ静かに置いた。
窓の外では、賀茂川が流れている。
昨日も、その前の日も、四十五年前も、賀茂川は流れていた。
これから先も、きっと流れ続ける。
流れを眺めながら、翔子はカップに手を添えた。
温かいコーヒーの熱が、指先からゆっくりと伝わってくる。
向かいには涼太がいる。
四十五年前とは違う顔をして、四十五年前とは違う人生を生きてきた涼太が、今、同じ朝の中にいる。
翔子は何も言わず、もう一度カップを両手で包んだ。
窓の向こうで、賀茂川の水が光を受けながら流れていく。
その向こうに京都の街が広がっている。翔子は、今まで歩いてきた道を思った。
長かった。だからこそ、四十五年前の二人には見えなかった景色が、今は見えている。
向かいでは、涼太もカップを手にしている。
言葉はなかった。それでも、その沈黙は寂しくなかった。
翔子は窓の外へ目を戻した。
賀茂川は、何も知らないように、いつもの速さで流れている。
その流れを見ながら、翔子は静かにコーヒーを口にした。
