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『 続編 尾道の坂を下って 』

 

第四章 坂の上の若者

 

 若い男は使い込まれた大きなボストンバッグを肩に担ぎ、どこか焦ったような足取りで坂道を上ってきた。汗が額から滴り落ちている。

 

 テルさんはその顔に見覚えがあった。

 

「和樹じゃろ」

 

「あ、テルさん。ハルさんも」

 

 和樹は坂の下にある干物屋『山崎屋』の息子だった。高校を卒業してから、ずっと父親と一緒に店をやっている。潮風と魚の匂いがしみついた作業着ではなく、今日は見慣れない街着を着ていた。どこか固い表情をしている。

 

「ちょうどええところへ来たわ」

 

 テルさんが言う。

 

「何ですか?」

 

「猫」

 

 和樹は手で日よけを作りながら、古い倉庫の屋根を見上げた。

 

「また猫ですか?」

 

「また?」

 

「近所の猫が、よくあそこに上がるんですよ。高いところが好きなくせに、降りられなくなるみたいで。先月も黒猫を助けました」

 

 和樹は手慣れた様子で倉庫の脇へ歩いていき、木組みの陰に隠されていた古い竹梯子を見つけ出した。埃と蜘蛛の巣がついているのを手で払い落とす。

 

「これなら上れます」

 

 そう言ったものの、和樹は梯子に手をかけたまま、すぐには動かなかった。視線が、地面に置いた自分の大きなバッグへと落ちる。

 

 テルさんはその鞄と、和樹のどこか硬い表情をじっと見つめた。

 

「どこ行くん」

 

「……大阪です」

 

「旅行かい?」

 

「仕事です」

 

 和樹は短く答えると、少し困ったように頭をかいた。

 

「今日、親父と喧嘩したんです」

 

「それで大阪へ逃げるんか」

 

「逃げるんじゃないです。前から行くのは決めてました。向こうの居酒屋で働いて、いつか自分の店を持ちたいと思ってて。でも……最後にあいつと一言二言やりあって、そのまま飛び出してきただけです」

 

 和樹が料理を好きになったのは、まだ小学生のころだった。

 

 店の隅で父親の仕事を眺めながら、余った干物を炙って食べたことがある。

 

 父親は「焦がすなよ」と言いながら、焼き上がった魚を一番食べやすい大きさにほぐしてくれた。

 

 あのときは、ただ旨いと思った。

 

 大人になってから、和樹はその魚を客に出す側になった。けれど、父親と同じやり方をすることだけが、自分の将来ではないとも思っていた。

 

「親父の店を嫌いなわけじゃないんです。ただ、自分で一からやってみたいんです」

 

「じゃあ喧嘩は関係ないじゃないか」

 

 和樹は拍子抜けしたように、ふっと笑った。

 

「……たぶん」

 

 テルさんは容赦なく、古い梯子を指さした。

 

「猫を助けてから行け」

 

「……分かりましたよ」

 

 和樹は苦笑いしながら鞄を置き、梯子を倉庫の軒先にしっかりと立てかけた。一段ずつ踏みしめるたび、古い竹がギシギシと重い音を立てる。

 

「いました! 瓦の隙間に挟まってます」

 

 屋根の上から声が響いた。しかし、ミーは怯えているのか、瓦とトタンの奥深くへ逃げ込もうとしていた。

 

「届くか?」

 

 ハルさんが下から叫ぶ。

 

「あとちょっとです……痛っ! 引っかかれた……よし、捕まえた!」

 

 和樹が身を乗り出す。その間、テルさんは下で必死に梯子の脚を両手で押さえていた。

 

「落ちるなよ」

 

「大丈夫ですって」

 

「若いもんはな、だいたい大丈夫と言って落ちるんじゃ。わしの知り合いも昔……」

 

「不吉な話は降りてからにしてください!」

 

 格闘すること数分、和樹は腕に赤く引っかき傷を作りながらも、ミーをしっかりと抱き抱えて降りてきた。

 

 ミーは無傷だった。栗原さんの家へ連れて行くと、栗原さんは涙ぐみながら何度も頭を下げ、冷えた缶ジュースと自家製の漬物を手渡した。

 

 栗原さんの家を出たあと、テルさんは立ち去ろうとする和樹の背中に声をかけた。

 

「和樹」

 

「はい?」

 

「大阪でもな、困ったら意地を張らんと誰かに頼め」

 

「……急に人生相談ですか」

 

「猫一匹助けられん人間が、一人で生きていけるかい。困ったときは頼むんじゃ。頼られたほうも、案外嫌じゃないもんじゃぞ。お前の親父だって、頼られりゃ嬉しいはずじゃ」

 

 和樹は一瞬驚いた顔をしたが、やがて爽やかに笑った。

 

「覚えておきます」

 

 テルさんはすっと手を出した。

 

「三百円」

 

「えっ、何でですか?」

 

「今の説教代じゃ」

 

 和樹は呆れ果てた顔をしながらも、財布から百円玉を三枚取り出し、テルさんの手のひらに載せた。

 

「高いなあ」

 

「安いくらいじゃわ」