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『 続編 尾道の坂を下って 』

 

第三章 猫捜索

 

「猫がおらん」

 

 日差しが傾き始めた午後、ハルさんの家の狭い縁側で、テルさんが不機嫌そうに吐き捨てた。

 

 ハルさんは手元のお茶をゆっくりと啜り、湯呑みを膝の上に置くと、気のない声で返した。

 

「それは猫だからな」

 

「意味が分からん」

 

「猫っちゅうのは、どっかへ行く生き物なんじゃ。人間なら探す前に自分から『いまどこにおる』と電話でもしてくるが、猫はそうはいかん」

 

「電話なんかしてくるわけなかろうが。猫がスマホ打てるかい」

 

 テルさんは眉間にしわを寄せた。

 

「栗原さんとこのミーじゃ。昨日の夕方から姿が見えんようになってな、栗原さんが心配してオロオロしとるんよ。ご飯も喉を通らんって」

 

「昨日からか。そりゃ心配じゃな」

 

「ほうよ」

 

「お前、探したんか」

 

「探したわ」

 

「どこを」

 

「そこらへんじゃ」

 

「……それを世間では『探した』とは言わんのじゃ」

 

 ハルさんはため息をつき、呆れたように首を振った。テルさんはむっとした表情になり、腰の手ぬぐいを硬く握りしめた。

 

「じゃあハルさん、一緒に探してくれ」

 

「いくら?」

 

「三百円」

 

「安い。わしの膝の痛みを舐めるなよ」

 

「猫一匹探すのに三百円もありゃ上等じゃろ」

 

「猫に値段をつけるな」

 

「じゃあ何で最初に『いくら』って聞いたんじゃ」

 

 言いはぐれたハルさんは言葉を詰まらせ、観念したように重い腰を上げた。「よっこいしょ」と声を上げながら立ち上がる。

 

「……たく、骨が折れるわ。栗原さんの家のお茶菓子狙いじゃからな」

 

 二人は格子戸を開け、外へ出た。

 

 坂の向こうから吹いてくる風が、古い町の匂いを運んできた。

 

 尾道の路地は、猫の天国でもあるが、人間にとっては迷路そのものだ。家々の隙間に張り巡らされた細い石段、年月の経った黒い板塀、倒れかけたトタン屋根。車が入っていけない狭い路地が幾重にも交差し、地元の人間でも時々迷うことがある。

 

 歩き出すとすぐに、塀の上で日向ぼっこをしている三毛猫が目に入った。日陰の自転車の前輪の下に丸くなっている黒猫もいれば、すでにシャッターの降りた古い商店の軒先で薄目を開けてあくびをしている猫もいる。

 

「おい、ミー」

 

 テルさんが声をかけると、三毛猫は「ニャ」と一言鳴いて、プイと横を向いた。

 

「違うな。あいつはもっと図々しい顔をしとる」

 

 ハルさんが評する。

 

 栗原さんの愛猫であるキジトラの「ミー」の姿はどこにもなかった。

 

 テルさんは猫を見つけるたびに、腰をかがめて声をかけた。

 

「ミーか?」

 

「……全部違う」

 

 ハルさんが後ろから呆れ顔で突っ込む。

 

「分かって探しておるわ」

 

「分かっとるなら一匹ずつ聞くな」

 

 坂道を上り、人のすれ違えないほど狭い細い路地を抜けたときだった。途中で豆腐屋の店主や、洗濯ものを干していた近所のおばあさんと立ち話をしつつ進む。

 

 路地の角にある石垣の上に、一匹の大きな虎猫が佇んでいた。精悍な顔つきをした野良猫だ。耳の端が少し欠けており、街の裏事情を知り尽くしたような風格がある。

 

 ふつう、人が近づけば素早く姿を消すはずだが、その虎猫は逃げようともせず、じっとテルさんとハルさんの顔を見つめていた。

 

 テルさんが慎重に一歩踏み出す。

 

 すると虎猫はくるりと向きを変え、尾をピンと立てて優雅に歩き出した。少し進んでは振り返り、二人を見る。

 

「……ついて来いってことかね」

 

 ハルさんが呟いた。

 

「怪しいな。騙されておらんか」

 

 テルさんは疑いながらも、虎猫のあとに続いた。

 

 虎猫が足を止めたのは、路地の奥にある古い木造倉庫の前だった。かつては船具の保管に使われていたらしい、傷みの激しい建物だ。壁の木板は黒く腐食し、ツタが絡まりついている。

 

 虎猫は倉庫の前で立ち止まると、ゆっくりと屋根を見上げた。

 

 ふたりも釣られて顔を上げる。

 

 錆びたトタンと瓦が交差する屋根の向こうから、かすかに、けれど切迫した小さな鳴き声が聞こえてきた。

 

『ミィ……ミィ……』

 

「いる」

 

 テルさんが声を弾ませた。

 

「おったな。……で、どうやって上がるんじゃ?」

 

 ハルさんは腕を組み、高く聳える倉庫の壁を見上げた。おばあさん二人で登れるような高さではない。

 

「ハルさん、肩車してくれ」

 

「命を落とす気か。わしが潰れるわ」

 

 途方に暮れて二人が見合っていたそのとき、坂の下からカツカツと忙しない足音が近づいてきた。大きなボストンバッグを肩に担いだ若い男が、息を切らしながら歩いてくるのが見えた。