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『 賀茂川の向こう側 ――68歳からの物語 』

 

八 涼太の四十五年

 

 涼太が自分の結婚生活について話したのは、その少しあとだった。

 

 妻とは長く一緒に暮らしたが、十年前に離婚している。息子が一人いる。大きな出来事があったわけではない。仕事が忙しくなり、家に帰る時間がずれ、話すことが減った。

 

 離婚する少し前の冬の夜、帰宅した涼太を妻が待っていた。

 

「話があるの」

 

 涼太は仕事のメールを確認してからでいいか、と言った。妻はしばらく黙っていた。

 

「あなた、最近、家にいてもここにいないよね」

 

 その言葉を、涼太は否定できなかった。家族のために働いているつもりだった。それでも、目の前にいる人と話すことを後回しにしてきたことは事実だった。

 

 離婚したあとも、その夜のことは残った。自分だけが悪かったとは思わない。それでも、もっと早く話せばよかったとは思っている。

 

 その後悔は、四十五年前の翔子との別れにも重なった。あの頃も、互いに分かっているつもりでいた。卒業後の進路や住む場所について、譲らなかった。大きな喧嘩があったわけではない。ただ、話し合う時間が足りなかったのだと思う。

 

「離婚してから、少し分かったことがある」

 

 涼太は賀茂川を見ながら言った。

 

「一緒にいることより、話すことのほうが大事だったのかもしれない」

 

 翔子は黙って聞いた。自分にも思い当たることがあった。健二とは長く一緒に暮らした。言葉にしなくても分かることが増えた。それは安心でもあったが、分からなくなったことまで分かったつもりになっていたのではないか。

 

 涼太も翔子も、互いの四十五年を知らない。涼太は、健二と暮らした翔子を知らない。母親になった翔子も、一人で暮らしてきた翔子も知らない。翔子も、涼太がどんな仕事をし、どんな家庭を作り、何を失ってきたのか知らない。

 

 だから二人は、再会したというより、もう一度知り合っているのかもしれない。

 

 四十五年かけてできた空白を、数週間で埋める必要はない。急がずに、少しずつ知ればいい。翔子は、そう思うようになった。