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『 二つの流れのあいだ 』

 

第三章 浅野川の朝

 

 朝食のあと、友哉は一人で旅館の周りを歩いた。雪は屋根の上に残っていたが、道路は人が歩ける程度に溶けていた。

 

 店の前では、年配の男性が雪を端へ寄せていた。通り過ぎる人が挨拶をすると、男性も手を止めて返す。

 

 友哉も頭を下げた。

 

 それだけのことなのに、少し気持ちが軽くなる。

 

 角を曲がると、浅野川が見えた。昨夜より明るい。川底の石がところどころ見え、雪の残る岸と水の境目がはっきりしていた。

 

 橋の上に立つと、向こう岸の家の台所から人の声が聞こえる。窓を開けているわけではない。けれど、生活の音が川を越えてくる。

 

 鴨川では、河原の広さのために音が遠くなる。浅野川は、町のすぐそばを流れていた。

 

 友哉は、その違いを覚えておこうと思った。建物の違いだけでなく、人と町の距離の違いとして。

 

 夕食には、治部煮、焼き魚、蟹の酢の物が並んだ。料理を作ったのは茜の父、嶋倉和夫だった。

 

 矢部は一口ごとにうまいと言い、近江町市場の店を茜に聞いた。友哉は広間の柱を見ていた。床から一メートルほどのところで継がれ、下だけ新しい材に替わっている。

 

「あの柱、根継ぎしてますね」

 

 茜が振り返った。

 

「傷んだ下の部分だけ替えてる。全部取り替えんでも残せるから」

 

「建築、勉強してるんですか」

 

 茜は友哉の顔ではなく、柱の継ぎ目を見ていた。人そのものより、いま話題になっているものを見ているらしい。その距離感が、友哉には心地よかった。

 

「まだ勉強してるだけ」

 

 友哉は、少しだけ背筋を伸ばした。建築の話になると、葵と付き合っていたころも言葉が増えた。その記憶が浮かび、すぐに口を閉じる。

 

 茜は柱を見ていた。

 

「毎日見てるのに、知りませんでした」

 

 友哉は少し得意になった。葵なら、そういうときに笑った。褒めているのか、呆れているのか分からない笑い方だった。

 

 友哉は食事へ目を戻した。

 

 夜になって雪が強くなった。浅野川を見に行くと言い出したのは矢部だったが、玄関へ下りる前に、明日の予定を調べると言って部屋へ戻った。

 

 雪の夜、浅野川の音は思っていたより近かった。

 

 橋の下を流れる水は暗く、街灯が途切れる場所では何も見えない。けれど、音だけは途切れずに続いていた。

 

 友哉は欄干に手を置いた。京都にいるときも川はいつも流れている。鴨川を見れば、今日が終わることも、次の日が来ることも自然に思えた。

 

 浅野川では、まだ何も知らない。その知らなさが、かえって静かだった。

 

 茜は川を見ていた。友哉は横顔を見ながら、葵なら今の沈黙をどう受け取っただろうと考えた。

 

 以前なら、その問いだけで気持ちが重くなった。今は、考えたあとで川へ目を戻せる。

 

 葵と茜を比べているわけではない。ただ、違う人と同じ場所に立つことで、自分が相手によってどう変わるのかが少し見え始めていた。

 

 玄関では、茜が案内すると言って待っていた。

 

 友哉は矢部を呼びに戻ろうとした。

 

「矢部さんから、友哉さんと行ってきたらって言われました」

 

 茜はもうコートを着ていた。

 

 外へ出ると、雪が街灯の明かりのなかへ斜めに落ちていた。橋を渡る人は少なく、向こう岸の家には明かりがあった。鴨川の夜より、川の音が近くにあった。

 

 茜は欄干に手を置いた。

 

「鴨川は、夜でも人が多い」

 

「一度だけ行きました。みんな、好きなところに座ってて、自由やなと思いました」

 

 茜は川を見ていた。

 

「人との距離が近いんです。いいこともあるけど、見せたくないことまで近くなることもあります」

 

 茜はそこで言葉を切った。友哉は続きを待った。待っている自分に気づいて、少し驚いた。

 

 友哉は、何を見せたくないのか聞こうとした。茜の横顔を見て、やめた。

 

 聞かないことと、相手の言葉を待つことは、同じではない。そんなことを、友哉は少しずつ考え始めていた。

 

「旅館、継ぐんですか」

 

 聞いてから、友哉は余計なことを聞いた気がした。茜の人生に、初対面の自分が線を引くような質問だった。

 

 茜は友哉を見て、少し笑った。

 

「京都の人って、初めて会った日にそこまで聞くんですか」

 

 茜は川面へ目を戻した。すぐには答えなかった。友哉は、答えない時間にも返事があることを、まだ知らなかった。

 

「まだ決めてません。出版社で働いてみたいと思ってるので」

 

 友哉は、聞けば答えてくれることもあるのだと知った。

 

 翌朝、矢部が眠っているうちに一人で外へ出た。

 

 雪はやみ、屋根と植木に薄く残っていた。犬を散歩させる老人、自転車で通り過ぎる高校生、店先を掃く人。前日に見た観光の町ではなく、人が一日を始める町が広がっていた。

 

 古い家の前で、年配の女性が竹箒を軒へ伸ばしていた。枯れ葉に届かない。友哉が見ていると、女性のほうから声をかけてきた。

 

「お兄さん、悪いんやけど、あれ取ってもらえんかね」

 

 頼まれたことが、なぜかうれしかった。役に立つほどのことではない。それでも、観光客として歩くのとは違う朝になった。

 

 友哉は竹箒を受け取った。背伸びをすると、乾いた葉がまとまって落ちた。

 

「ありがとう。近くの人?」

 

「京都から来ました。水棲に泊まってます」

 

「嶋倉さんとこ。あそこはよう手ぇ入れとる」

 

 旅館の名前より先に、暮らしている人の名前が出てくる。

 

「建物、見たら分かるんか」

 

 女性は友哉の顔を見て笑った。

 

「軒ばっかり見て歩いとったから」

 

 見られていたのは自分のほうだった。

 

 旅館へ戻り、玄関を開ける。

 

「ただいま」

 

 言ったあとで、友哉は自分でも驚いた。旅館へ戻ってきただけなのに、帰宅したときの言葉が出た。

 

 口から出て、友哉は足を止めた。

 

 花を生け替えていた静枝が顔を上げた。

 

「お帰りなさい」

 

「すみません。旅館やのに」

 

「どうして謝るんです。いい言葉ですよ」

 

 静枝は笑いながら言った。花を生ける手は止まらない。言葉を直すより、花の向きを直すほうが簡単なのかもしれなかった。

 

 静枝は花の向きを少し変えた。

 

「何度も来てくださる方には、ただいまとおっしゃるお客様もいます」

 

 その日の午前、茜が近江町市場へ仕入れに行くことになった。和夫が会合で出られず、静枝は帳場を離れられない。

 

 友哉は、自分も行っていいかと聞いた。

 

「観光じゃないですよ」

 

「荷物持つ。邪魔やったら帰る」

 

 茜は少し考え、裏からもう一台の自転車を出してきた。

 

 市場では、魚屋も八百屋も茜を知っていた。和夫が来ない理由を聞き、静枝の腰の具合まで尋ねる。茜はそのたびに答え、友哉を京都から来た宿泊客だと紹介した。

 

 店先には電子決済の小さな札が並んでいた。昔ながらの木箱の横に、見慣れない四角いコードが貼ってある。古い町は、古いままでは商売ができないらしい。友哉はそれを見て、少し安心した。残すことと変えることは、建物だけの話ではなかった。

 

「宿泊客に荷物持たせとるんか」

 

 魚屋の主人が笑った。

 

「自分からついてきたんです」

 

「変わった兄ちゃんやな」

 

 友哉は、鰤の入った箱を持ち直した。

 

 京都では、毎日同じ食堂へ行っても、料理を受け取るときに礼を言うだけだった。アパートの管理人とは、家賃と設備の話しかしたことがない。古い建物を見に町へ出ても、格子や軒の写真を撮って帰った。

 

 金沢に来て二日も経っていないのに、名前も知らない人から箒を渡され、魚屋から変わった兄ちゃんと呼ばれていた。

 

 不思議だった。けれど、嫌ではなかった。知らない人に声をかけられると、胸のどこかが少しだけほどける。京都では、ほどける前に帰ってしまっていたのかもしれない。

 

 市場での仕入れを終えると、二人は旅館へ戻った。

 

 市場から戻ったあと、友哉は玄関先で靴を脱ぎながら、自分が旅館の中を少し知っていることに気づいた。

 

 朝、和夫が魚を受け取る場所。静枝が帳場で電話を取る場所。茜が出入りする裏口。客が通る廊下と、働く人が使う狭い通路。

 

 建物の図面には、こういう違いは描かれない。

 

 同じ一つの建物でも、使う人によって通る場所が違う。そこに生活が重なっていた。

 

 友哉は、建築を学んで三年になる。けれど、建物を使う人の一日を考えたことはほとんどなかった。

 

 そのことが少し恥ずかしかった。頬が熱くなるほどではない。ただ、図面の余白に、最初からあったはずの線を一本見落としていたような気がした。帰ってから見つければ、もっと恥ずかしい。友哉は図面を丸めず、そのまま鞄へ入れた。

 

「友哉さん、昨日よりよう喋りますね」

 

 茜は笑ったが、からかっているようには聞こえなかった。友哉は返事を探した。京都で黙っていた理由を、金沢の人に説明するのは難しかった。

 

「京都では、あんまり喋らない人なんですか」

 

 友哉には答えられなかった。京都で自分がどういう人間だったのか、京都を離れて初めて聞かれた気がする。