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『 鴨川の向こう側 ――68歳からの物語 』
六 会わない時間
涼太が待ち合わせに来なかった。午後一時。一時十分。一時半。翔子は何度もスマートフォンを見た。メッセージはない。電話をかけても出ない。
以前なら、少し遅れているだけだと思っただろう。電車が遅れているのかもしれない。仕事が長引いたのかもしれない。けれど、今は違った。事故ではないか。倒れているのではないか。そんな考えが次々に浮かんだ。自分でも驚いた。涼太が来ないだけで、こんなに落ち着かなくなる。
そのことが、翔子の中に残った。若い頃なら、相手が来なければ腹を立てただろう。今は、怒るより先に心配になる。自分も同じように年を取っている。二時近くになって、涼太が走ってきた。
「悪い。スマホの電池が切れてた」
翔子は何も言わなかった。怒る気にもなれない。
「どうした?」
「……事故にでも遭ったのかと思った」
涼太の顔から笑いが消えた。
「ごめん」
それだけだった。帰り道、翔子は一人で鴨川を歩いた。川面が光っている。風が少し冷たい。涼太が元気でいる。それだけで、こんなに安心する。
会える日は嬉しい。来ない日は心配になる。帰ったあとは少し寂しい。また会いたいと思う。翔子は、その気持ちに無理に名前をつけなかった。
そんな小さな心配が、いつの間にか生活の中へ入ってきた。数日後、今度は涼太から電話があった。
「この前、心配かけたから」
「もういいわよ」
「そう言われると、余計に悪かったと思うな」
翔子は笑った。
「じゃあ、次から気をつけて」
「分かった」
それで話は終わった。けれど、その日から涼太は、京都へ来る前に必ず連絡するようになった。翔子も、涼太が大阪へ帰るときには、
「着いたら連絡して」
と言うようになった。
約束というほどのものではない。それでも二人の間には、いつの間にか小さな習慣ができていた。会わない時間にも、相手がいる。それが翔子には新しかった。
誰かが自分の生活に入ってくれば、食事の時間を考え、予定を合わせ、相手の体調まで気にすることになる。生活は少し面倒になる。それなのに、その面倒が嫌ではない。一人の暮らしは自由だったが、二人で過ごすには、その自由を少し手放す必要がある。翔子は、その不自由さを久しぶりに心地よいと思った。
夫と暮らしていた頃は、誰かを心配することが日常だった。健二が帰る時間を気にする。食事を用意する。体調を気にする。長い結婚生活の中では、それらは愛情なのか義務なのか分からなくなっていた。今は違う。
自分から選んで、誰かのことを気にしている。その違いが、翔子には少し嬉しかった。一人で何でもできることだけが、自立ではないのだと思った。
会わない時間があると、かえって相手の存在が分かる。帰れば、それぞれの生活へ戻る。それでも一人になると、さっきまで隣にいた人を思い出す。そのことが、翔子には少し怖く、同時に嬉しくもあった。
その夜、翔子は久しぶりに早く眠った。朝、目を覚ますと、涼太から短いメッセージが届いていた。
――今日はありがとう。
翔子は、何に対する「ありがとう」なのだろうと思った。来てくれたことか。心配させたことか。それとも、何も言わずに隣にいたことか。考えているうちに、どれでもいいような気がした。
