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『 二つの流れのあいだ 』
第四章 帰る町
京都へ戻った日の夜、友哉は荷物を片づけた。金沢で買った菓子と小さな土産が机の上に残った。
葵のために買ったものではない。それでも、もし一緒にいたら渡していただろうと思う。
友哉は箱を開けず、そのまま引き出しへ入れた。
大学へ戻ると、講義はいつも通りだった。教員は提出された模型について話し、学生たちはメモを取る。
友哉は図面の余白へ、金沢で見た階段の納まりを描いた。古い階段を全部取り替えるのではなく、傷んだところだけ直す方法だった。
隣の学生が、画面を見ながら「これ、生成AIに聞いたら早い」と言った。別の学生が、でも課題は自分で考えろと先生に言われた、と笑った。友哉は聞きながら、建物も人間も、早く答えを出すことだけが正しいわけではないと思った。けれど、昔の自分なら、その考えさえ誰かの受け売りにしていたかもしれない。
講義が終わっても、友哉はしばらく製図室に残った。
以前なら、葵へ連絡する時間だった。今は連絡しない。
そのことを寂しいと思いながら、それでも自分で決めたこととして受け止めた。
夕方、鴨川へ出る。
水はいつも通り流れている。金沢へ行ったことで、川が変わったわけではない。自分が川を見る位置だけが変わった。
金沢にいたのは四日間だった。
兼六園の雪吊りを見た。長町の土塀を歩き、金沢城の石垣を見た。石川近代文学館では、展示された原稿の書き直しに足が止まった。
矢部は、建物を見に来たのか人の消した字を見に来たのか分からないと言った。
友哉にも分からない。
ただ、京都にいるときより、立ち止まることが増えていた。茜が旅館について話すとき、静枝が宿泊客の名前を呼ぶとき、和夫が市場から届いた魚を確かめるとき、その人が何を見ているのか気になった。
帰る日の朝、茜は大学の講義があると言って、浅野川の橋まで見送りに来た。
「今度は京都にも来てください」
友哉はその言葉を、社交辞令だとは思わなかった。だからこそ、すぐに返事ができなかった。
茜は橋の向こうを見た。
「行きたいです。鴨川も、もう一度見たいし」
「友哉さん、京都の何を知ってるんですか」
友哉は笑った。自分も同じだった。京都に住んでいる。それだけで、京都を知っているつもりになっていた。
橋の上で茜と別れた。友哉は一度だけ振り返った。茜はまだそこにいたが、川のほうを見ていた。
京都へ戻ると、大学もアパートも出かける前と変わっていなかった。
金沢から戻ったばかりの週末、友哉は洗濯物を干しながら、旅館の窓から見た屋根を思い出していた。京都の屋根にも雪は積もる。けれど、金沢の屋根は雪が来ることを最初から知っているように見えた。
物の形には、その場所で暮らしてきた時間が残る。そう考えると、京都の古い家も、ただ古いから残っているわけではない気がした。誰かが直し、誰かが住み続け、誰かがまた直す。その繰り返しの途中に、自分が一日だけ立っていたのだと思った。
友哉はベランダから通りを見下ろした。向かいの家では、洗濯物を取り込む女性がいた。隣のマンションでは、宅配便の配達員が何度もインターホンを鳴らしている。金沢で見たものと同じではない。それでも、町は建物だけでできていないということだけは、少し分かった。
翌朝、友哉はいつもの道を歩いた。角のクリーニング店が開き、店の人が道路へ水を撒いている。向かいの古い家は、一階だけが喫茶店に改装されている。毎日通っていたのに、店主の顔も、家に住んでいる人のことも知らなかった。
友哉は大学へ向かう途中で、何度も足を止めた。
以前なら、古い家を見つけると外観だけを見ていた。格子の形、軒の高さ、改修された部分。写真に残して、あとで課題の参考にする。
その日は、店の前を掃く人が気になった。
向かいの家から出てきた女性と挨拶を交わしている。クリーニング店の前では、店主がシャッターを上げながら隣の店へ声をかけた。
建物だけを見ていたときには、見えていなかった町が広がっていた。
友哉は少し遠回りをして大学へ向かった。遅刻するほどではない。これまでなら選ばなかった道だった。
広いと思った。
以前から同じ幅だったはずなのに、向こう岸までの距離が目についた。河原には一人で本を読む人も、並んで座る恋人たちもいた。人は多いのに、それぞれの間には何もない場所が残されていた。
浅野川では、橋の上に立てば向こう岸の家の窓が見えた。どちらがいいということではない。違う川を知ったことで、毎日見ていた川の形が初めて見えた。
友哉は三度、葵の名前を開いては閉じた。四度目に短い文を打ち、送信した。送ってしまうと、急に画面を見るのが嫌になった。
『話したい』
返事はその日の夜に来た。
『何を?』
友哉は画面を見ながら考えた。金沢へ行ったこと。知らない人と話したこと。自分が京都では町の人とほとんど関わっていなかったこと。
それらを葵に話そうとして、やめた。話しているうちに、また自分の答えを聞かせることになりそうだった。
『会って話したい』
二日後、二人は大学の近くの喫茶店で会った。
葵はコートを脱がず、友哉の向かいに座った。注文した紅茶には手をつけなかった。
「いろんな人に会って、少し分かった気がする」
葵は黙っていた。
「俺、前は葵に何でも決めさせてた。そやけど、今度は――」
「もう一回、やり直したい」
葵の目が、友哉から外れた。
「金沢へ四日行って、何が分かったん?」
言い返せなかった。
「友哉が何か考えたんは分かる。でも、私は、もう戻らへん」
葵は紅茶を一口も飲まず、席を立つ。
友哉は追わなかった。
金沢で少し違う自分になったと思っていた。けれど葵には、旅行から帰った友哉が、自分の答えを持ってきただけに見えたのかもしれない。
その答えを、葵が受け取ると思っていた。断られることまで、友哉は考えていなかった。
その夜、友哉は仕事から戻ると、冷蔵庫の扉を開けた。卵が二つと、半分残った豆腐がある。葵と付き合っていたころなら、冷蔵庫の中身を見て、明日の夕食を一緒に決めることもあった。今は一人で決める。決めると言っても、卵を焼くか豆腐を味噌汁に入れるか、それだけのことだった。
それでも、その小さな選択を自分でしていることが、以前より少し大事に思えた。人間は大きな決断だけで変わるのではない。毎日の小さなところで、自分の手を使っているかどうかでも、少しずつ変わるのかもしれない。
数日後、矢部は水棲へ電話をかけた。
友哉には知らせなかった。
茜が京都へ行きたいと言っていたことを思い出し、大学の建築展を見に来ないかと誘った。旅館の建物について学生に聞けるかもしれないと付け加えると、茜は一度母に相談すると答えた。
翌週、来られるという連絡があった。
矢部が友哉に話したのは、その前日だった。
「明日、京都駅、十一時」
友哉は食堂の箸を置いた。
「京都見たい言うてたやろ」
「俺に何も言わんと呼んだん?」
「言うたら、また考えるやろ。来てええんか、俺が案内してええんか、葵に悪ないか」
友哉は矢部を見た。
「考えへんでええ日もある」
矢部は、言ったあとで友哉を見なかった。友哉にとって、その言葉は妙に残った。考えることをやめるのではなく、考えた末に何もしないのでもない。ただ、その日だけは決めていいということだった。
矢部は残っていたうどんを食べた。
翌日、京都駅の中央口から茜が出てきた。金沢で会ったときと同じ紺色のコートだった。矢部を見つけて手を上げ、隣にいる友哉に気づくと、少しだけ歩みが遅くなった。
「聞いてませんでした」
二人が矢部を見る。
「京都案内、俺一人では心細いやろ」
建築展を見たあと、矢部は父親から呼ばれたと言って帰った。
「最初から、そのつもりやったんでしょう」
茜は矢部の背中を見ながら笑った。
「友哉さん、迷惑でした?」
「昨日は迷惑やと思った。今は、来てくれてよかった」
口にしてから、以前なら言わなかった言葉だと思った。
二人は友哉の大学へ行った。製図室には模型と図面が残り、茜は友哉の課題を一つずつ見た。旅館の階段や柱について質問し、友哉は分かる範囲で答えた。
大学を出ると、友哉のアパートまで歩いた。
「京都って、もっとどこも観光地やと思ってました」
茜はコインランドリーとコンビニの間にある細い道を見た。
友哉のアパートは、築二十年ほどの三階建てだった。外壁の一部が塗り直され、色がわずかに違っている。
茜は向かいの古い家を見ていた。
「あそこ、誰が住んでるんですか」
「学生やと思う。会ったら頭下げるくらい」
「大学までの道で、知ってる人は?」
友哉は歩いてきた道を振り返った。
「管理人さんと、食堂の人くらいかな」
「三年住んでるんですよね」
責められたわけではない。茜は、自分が金沢で尋ねられたことを京都で尋ね返しているだけだった。
茜と京都を歩いた日、友哉は自分のアパートの前で足を止めた。
三年近く住んでいた。駅までの道も、近くのスーパーも知っている。けれど、隣の家の人の顔を知らなかった。茜はそれを責めなかった。だからこそ、友哉には答えにくかった。
建物の中には、朝から機嫌の悪い人も、洗濯物を干す人も、隣へ醤油を借りに行く人もいる。図面には、そういう人は一人も描かれていない。友哉は、自分がその部分をほとんど見てこなかったことに気づいた。
その日の帰り、友哉は食堂で店員に名前を呼ばれた。いつも同じ席に座るから覚えられていただけだったが、それだけで少しうれしかった。古い町家も、改装した店も、寺の屋根も見た。けれど、そこに住む人とはほとんど話したことがない。
「俺、京都に住んでるだけやったんかもしれへん」
言葉にすると、少し情けなかった。三年も住んで、知っているのは建物の形ばかりだった。
茜は何も言わなかった。
鴨川へ出ると、茜は橋の上で足を止める。
河原では学生がボールを投げ合い、少し離れて恋人たちが座っていた。自転車が何台も通り過ぎていた。
「浅野川と、どっちが好き?」
友哉は、聞いたあとで自分が昔と同じ質問をしていることに気づいた。答えをもらいたいのではなく、自分の中にある二つを並べてみたかった。
友哉が聞くと、茜はしばらく二つの岸を見た。
「浅野川は、向こうの人が何してるか見えます。鴨川は、見えない代わりに、こっちで好きにしていられる」
「決めなくていいんじゃないですか。違う川なんですから」
二人は河原へ下りる。
金沢の話をした。大学の話をした。茜は卒業後、出版社を受けたいが、母から旅館を手伝ってほしいとも言われていると話した。
「どっちにするんですか」
「今、決めることと、決めないことを決めるのは違うでしょう」
茜は川を見ながら言った。友哉は、その言葉をすぐには理解できなかった。けれど、分からないまま覚えておこうと思った。
友哉には、その違いがすぐには分からない。
葵から、何でも私に決めさせると言われたことを思い出した。葵は、すべての答えを友哉に出してほしかったのではないのかもしれない。一緒に考えている友哉の考えを、聞きたかっただけなのかもしれない。
そう思ったところで、あの日の葵の気持ちまで分かったわけではない。分からないものを、分かったことにしない。そのくらいは、前よりできるようになった。
川上から風が吹き、茜の髪が頬にかかった。茜は話しながらそれを耳へ戻した。
対岸の道に、葵がいた。
由美と並んで歩いていたが、葵だけが河原を見ている。友哉と目が合ったのかは分からない。葵はすぐ前を向き、由美と歩いていった。
友哉は声をかけなかった。
茜はそれ以上聞かなかった。
その少し前、由美から散歩に誘われ、葵は久しぶりに鴨川まで来ていた。友哉が金沢で知り合った女性を京都へ案内していることは、何も知らなかった。
友哉は、その女性の話を聞いていた。以前のように、相手が話し終えるのを待っているだけではない。ときどき自分から何かを言い、女性が答えると、また考えていた。
自分と別れたことで変わったのか、その女性と会ったから変わったのか。葵には分からなかった。
ただ、友哉が変わり始めたからといって、自分が戻らなければならないわけではない。葵は由美と並び、河原から目を離した。
浅野川と鴨川は、遠く離れた別の川だった。金沢へ行くまで、友哉のなかで二つが並ぶことはなかった。いまは鴨川を見ると浅野川を思い出し、違う町を知ったことで、京都で毎日見ていた人の姿も少し気になるようになった。
見えるようになったからといって、分かったわけではない。そのことだけは、急いで結論にしなくてもよかった。
