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『 二つの流れのあいだ 』
第五章 決める仕事
友哉は大学を卒業し、京都市内の設計会社へ入った。
住宅の改修や、小さな店舗の設計を多く扱う会社だった。歴史的な建物の保存だけをするわけではない。古い家へ新しい台所を入れ、使われなくなった部屋を事務所に変え、予算のなかで残せるものを決める。
入社したばかりの友哉に、建物の行く末を決める仕事は回ってこなかった。現場の寸法を測り、図面を直し、役所へ出す書類を揃えた。
それでも、決めなければ先へ進まないことは毎日あった。
図面の数字が現場と合わない。先輩へ聞こうとすると、先にどうするつもりかと尋ねられる。二つの方法を並べると、どちらを選ぶのかと返される。
「間違っててもええから、先に自分の案を言え」
上司の野口から、何度も言われた。
現場から戻った夕方、野口は友哉の机の横へ立った。
「今日、施主さんに何を説明した?」
「柱を残す方法と、替える方法です」
「それだけ?」
友哉は図面を見た。
「残した場合の費用と、工期も」
「じゃあ、吉沢君はどっちがいいと思ってる?」
友哉は少し考えた。
「残したほうです」
「最初からそう言えばええやん」
野口はそれだけ言って自分の席へ戻った。
友哉は、少し拍子抜けした。もっと理由を聞かれると思っていた。けれど、仕事では自分の考えを言ったあとに、必要な理由を足せばいいらしい。全部を完璧に説明してからでなければ口を開けないと思っていた自分のほうが、仕事を難しくしていた。
設計会社へ入って半年ほど経ったころ、友哉は初めて現場で怒られた。
図面の寸法を一つ間違えていた。大きな事故にはならなかったが、職人が予定を変えることになった。
事務所へ戻ると、野口は怒鳴らなかった。ただ、なぜその数字を選んだのかを聞いた。
友哉は答えた。前の図面をそのまま写したからだと。
野口は、写した理由ではなく、自分で確かめなかった理由を聞いた。
友哉は何も言えない。
間違えれば、図面を引き直す。現場へ謝りに行く。材料を発注したあとなら、金がかかる。
仕事では、前の人がそうしたからという理由は通らない。自分で見て、自分で決める。その結果を自分で引き受ける。
友哉はその数字を見ながら、前の図面を写しただけで、自分では確かめなかったことを思い出した。
それからしばらくして、友哉は古い住宅の改修現場に関わった。
施主は高齢の夫婦で、長く住んできた家をできるだけ残したいと言った。けれど、冬になると台所が寒く、階段には手すりが必要だった。
友哉は図面を引きながら、残すことと変えることの境目を考えた。
古い建具を残すなら、断熱の方法を別に考える必要がある。手すりを付ければ、壁の一部を補強しなければならない。
どちらかを選べば、別のところへ影響が出る。現場では、それを「納まり」と呼ぶ。人間のほうにも、たぶん同じようなものがある。けれど、そこには図面がない。
友哉は図面の上で、残す線と消す線を何度も引き直す。
葵の顔が一瞬浮かんだ。
友哉は図面へ目を戻した。仕事は仕事だった。昔なら、何でも一つの答えへつなげていたかもしれない。今は、そのままにしておける。
矢部は父親の建築会社へ入った。
会うたびに言ったが、最初の一年は現場の掃除と資材運びがほとんどだった。二年目から見積書を作り、職人と現場へ行くようになった。
友哉と矢部は、月に一度ほど飲んだ。学生時代と違い、仕事の話が増えた。
金沢の茜とは、ときどき連絡を取った。
茜は地元の出版社に就職した。観光案内や地域の小冊子を作る会社で、旅館の仕事は週末に手伝っているという。
友哉が担当した町家改修の記事を、茜の会社が載せたこともあった。
『友哉さん、名前出てましたね』
『端に一行だけ』
『一行でも、決めた仕事でしょう』
友哉は、その言葉にすぐ返事ができなかった。
三年目の春、古い店舗を菓子店へ改修する仕事で、友哉は初めて一つの現場を任された。
残してほしいと店主が言った柱は、内部まで腐食していた。補強して残すこともできるが、費用は大きく増える。新しい柱へ替えれば予算には収まる。
友哉は一晩考え、翌日、店主に両方の方法を説明した。
「吉沢さんは、どっちがええと思います?」
友哉は、逃げ道がなくなった気がした。学生のころなら、店主が決めやすいように両方の良さを並べて終わっていたかもしれない。
逃げられない聞き方だった。
「残したいです。ただ、見えないところまで全部昔のままにする必要はないと思います。傷んだ部分を替えて、この柱がここにあった形を残します」
言い終わると、店主はすぐに答えなかった。友哉も急かさなかった。柱には、長く触られてきた手の跡が黒く残っている。
店主はしばらく柱を見てから、友哉の案で頼むと言った。
決まったあとも、不安は消えなかった。工事が終わり、店が開き、その柱のそばで客が菓子を選んでいるのを見たとき、ようやく息ができた。
帰りの電車で、友哉はその日のことを思い返した。大きな決断をしたわけではない。柱を残すかどうかを決めただけだった。それでも、自分の考えを先に言ったことが、以前より少しだけ自然になっていた。
駅を出るころには、もう暗くなっていた。友哉は明日の予定を思い、必要な図面を思い出した。仕事のことを考えながら歩くと、葵のことが頭から消えるわけではない。それでも、二つを同じ場所に置いて歩けるようになっていた。
菓子店の柱を残す工事が終わった夜、友哉は一人で店の前に立った。
閉店後のガラス越しに、昼間は見えなかった柱の継ぎ目が見えた。
古い部分と新しい部分は、完全には馴染んでいない。それでも、店主は残してよかったと言った。
友哉はその言葉を聞きながら、昔の自分なら、もっときれいに見せようとしたかもしれないと思った。
傷を隠し、違いを消し、最初からそうだったようにする。
けれど、残すことは、何も変えないことではない。
新しい材は新しいまま、古い材は古いまま残る。昼の光が当たれば、その違いはよく見える。それでも店は一つだった。友哉は、それでいいと思った。
鴨川へ向かう道で、友哉は葵の顔を思い出した。連絡はしなかった。いまは、連絡しないことを自分で選んだ。
葵が、なぜしんどかったのか、今なら少しだけ分かるような気がする。分かった、と言い切るほどの自信はない。あの頃の葵の顔を思い出すと、まだ胸の奥に小さな棘が残っている。
葵が選ぶたび、友哉は横で「それでええ」と言っていた。
あのときは、それで葵が自由になると思っていた。
今なら、葵が一人で二人分を選んでいたことが分かる。
スマートフォンを取り出したが、葵の名前は開かなかった。
通知には、会社の連絡と宅配便の到着予定、それから学生時代の同級生が送ってきたどうでもいい動画が一つ並んでいた。人が死んだ夜でも、荷物は届くし、誰かは動画を送ってくる。世の中は、こちらの事情に合わせて速度を落としてくれない。
そのことが、友哉にはありがたいような、腹立たしいような気がした。
いまさら分かったと伝えることが、葵のためになるとは思えなかった。
スマートフォンをポケットへ戻した。
それでよかったのかは、分からない。分からないままでも、翌朝は会社へ行かなければならない。目覚ましを止め、顔を洗い、冷蔵庫の牛乳を飲む。人間は、分からないことを抱えたままでも、案外きちんと朝飯を食べる。
分かったからといって、葵に連絡はしなかった。大学を卒業する前、葵が同じ学部の西村亮と付き合っていることを、矢部から聞いていた。
亮は建築設備を学び、卒業後は海外の仕事もある設備会社へ入った。大学で何度か顔を見たことがある。課題の班が同じになったこともあった。
自分の考えをはっきり言う男だった。人の意見を聞かないのではなく、違えば違うと言い、そのあとにどうするかを話した。
葵が亮を選んだ理由を、友哉は聞いていない。
聞かなくても、自分との違いばかりが目についた。
