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『 続編 尾道の坂を下って 』
第二章 十五年ぶりの電話
尾道の坂の上にある古びた木造家屋の庭先で、テルさんは洗濯物を干していた。
海からの風が、今日は一段と強い。潮の匂いを乗せた強い突風が吹き抜けるたび、竹の物干し竿がぎしぎしと音を立てて軋んだ。
テルさんはしわの寄った白いシャツの裾を両手で丁寧に引き伸ばし、頑丈な木製の洗濯ばさみでしっかりと挟み込んだ。
「飛んでいくなよ」
誰に聞かせるでもなく、風にはためく洗濯物にそう話しかける。
長年、この坂の上の古い家で一人で暮らしているテルさんにとって、家の中や庭にある物たちに声をかけるのは、ごく当たり前の日常の仕草だった。
庭の隅には、先代から受け継いだ小さな花壇がある。そこには紫陽花や百日草が植えられており、時期になると小さな花を咲かせる。
テルさんは毎朝、井戸水を汲んで花壇に撒くのを欠かさない。
そのとき、格子戸越しに家の中から甲高い電子音が響いた。
電話だった。
テルさんは手を止め、腰をかばうようにしながらゆっくりと家の中へ入った。
黒ずんだ廊下の突き当たり、畳の部屋の文机の上に置かれているのは、使い込まれて塗装の剥げかけた古い携帯電話だった。画面には小さな傷が幾つも入っている。
画面には、何年も登録されたまま、一度も点滅することのなかった名前が表示されていた。
――千鶴。
京都に嫁いだ、三つ下の妹だった。
「……何じゃろ」
独り言を呟きながら、テルさんは不器用な手つきで通話ボタンを押した。耳に受話口を当てる。
「もしもし」
『お姉ちゃん?』
スピーカー越しに聞こえてきたその声を聞いた瞬間、テルさんの皺の刻まれた表情が、ぴくりと動いた。
かすかに掠れた、けれど聞き覚えのある高めの声。幾年月を経ても変わらない、妹の声音だった。
「千鶴か」
『うん』
「どうした」
『どうしたって……電話しただけよ』
「十五年ぶりに?」
受話音の向こうで、千鶴がふっと小さく息を漏らして笑った。
『そうね。十五年ぶり』
それ以上、二人はすぐには言葉を重ねることができなかった。
十五年のあいだに、互いの声を聞かないまま過ぎた誕生日も、正月も、家族の知らせもあった。話そうと思えば話せたのに、どちらも最初の一言を見つけられなかった。
それでも、互いに電話を切ろうとはしなかった。細い回線の向こうで、尾道の風の音と京都の部屋の静けさだけが、途切れずに続いていた。
『……元気?』
千鶴が問いかける。
「元気じゃよ」
『本当に? どこも悪くない?』
「私は丈夫なんよ。病院なんか滅多に行かんわ」
昔、体調を崩して周囲に無理やり病院へ連れて行かれたことなど綺麗さっぱり忘れたような口ぶりに、受話器の向こうの千鶴が苦笑する気配が伝わってきた。
『ふふ、昔からそういう強がりだけは変わらないね。お母さんもよく言ってたよ、「テルは頑固で強がりだから」って』
「お袋がそんなこと言っとったんかい」
『言ってたよ。何度も』
テルさんも、口元を緩めた。
それから二人は、取り立てて重要なわけでもない、たわいもない近況を二言三言かわし、そのまま静かに電話を切った。
だが、一度繋がった糸が切れることはなかった。
翌週の同じ時間帯にも、千鶴から電話があった。
「今日は京都も雨よ」
「こっちは風が強いわ」といった、気候の話から始まる短い会話。
その次の週の土曜の夕方にも、また電話が鳴った。
十五年の空白は、一気に埋まるわけではない。けれど、毎週の短いやり取りが、固く閉ざされていた扉を少しずつ押し開けていった。
数週間後の夜、京都の古い町家で、千鶴は押し入れの奥深くにしまい込んであった茶箱を取り出した。
埃を払い、蓋を開けると、中には黄色く変色した紙箱や古い写真が何枚も重なっていた。長年触れられていなかった紙の匂いが、ふわっと部屋に広がった。
その束を一枚一枚手繰り寄せていた千鶴の手が、ふと止まった。
和歌山の白浜で撮った一枚の写真だった。
青い海と白い砂浜を背にして、家族四人がぎこちなく並んでいる。
中央には、若き日の父親が破顔一番、大きな笑顔を浮かべて立っている。その隣の母親は、カメラを意識して少し照れたような、はにかんだ表情を浮かべていた。
幼い千鶴は親の前にしゃがみ込み、無邪気に両手を大きく広げている。
そして、テルさんはその輪の少し端の方に、すっと背筋を伸ばして立っていた。
写真を裏返すと、鉛筆の薄い文字で「昭和四十八年 八月 白浜」と書かれていた。
千鶴はその写真を灯りの下に引き寄せ、しばらくの間、じっと見つめ続けた。
写真の中の若いテルさんの目は、どこか遠くを見つめているようでもあり、家族を静かに見守っているようでもあった。自分を殺して家族を支えようとしていた姉の幼さが、そこに残っていた。
千鶴は吐息を漏らすと、机の引き出しから上質な和紙の封筒を取り出した。写真の端を傷つけないようにそっと中に入れ、丁寧に封をした。
この一枚を、尾道にいる姉に送ることにした。
封筒を持つ指先には、長いあいだ閉じていた記憶の重みが残っていた。
十五年という時間を、一枚の写真が埋めることはできない。それでも、写真には写真にしかできない仕事がある。言葉になる前の時間を、そのまま手渡すことだ。
