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『 鴨川の向こう側 ――68歳からの物語 』

 

四 写真の向こう側

 

 大阪から彩花が帰ってきたのは、その数日後だった。

 

 彩花は三十五歳。母親の家に来ると、冷蔵庫を開けたり、郵便物を見たり、必要なことを手伝ったりする。翔子の様子が少し違うことにも、すぐ気づいた。

 

 テーブルの上に写真が二枚置かれている。

 

「お母さん、この写真どうしたの?」

 

 翔子は少し迷ってから、正直に話した。

 

 安土で見かけた男性のこと。涼太に似ていたこと。三千院で長谷川が撮った写真に、その人が写っていたこと。

 

 彩花は黙って写真を見た。

 

「この人、お父さんが聞いたら怒るかな」

 

 翔子がそう言うと、彩花はすぐには答えなかった。

 

「たぶん、怒るかもしれない。でも、お母さんが今、少しでも楽しく過ごせるなら、それでいいと思う」

 

 翔子は娘の顔を見た。

 

 翔子は返事をせず、写真の端を指で押さえた。父親を忘れていいと言われたわけではない。けれど、忘れないまま先へ進んでもいいのだと、娘は言ってくれているように思えた。

 

「写真、もっと大きくできない?」

 

 彩花が言った。

 

「お父さんのパソコンとプリンター、まだ使えるでしょう」

 

 二人で写真を拡大した。

 

 大きくすると、顔はかえってぼやけた。それでも、目元と口元の形が少し分かる。

 

 翔子は画面を見つめた。

 

「お母さん、この人なの?」

 

 翔子は答えられなかった。

 

「分からない。でも……似てる」

 

 その夜、翔子は二枚の写真を枕元に置いた。

 

 翌朝、押し入れを開けた。

 

 大学の卒業アルバムがあるはずだった。

 

 古い箱を一つずつ動かす。アルバムは、奥のほうにあった。

 

 ページをめくる。

 

 学生時代の自分の写真がある。その少し先に、涼太の写真があった。

 

 翔子は、しばらくその顔を見つめた。

 

 四十五年前の自分と涼太。

 

 どうして別れたのだろう。

 

 理由は、はっきりと思い出せなかった。大きな喧嘩をしたわけではない。どちらかが裏切ったわけでもない。ただ、卒業後の進路や住む場所について、互いに譲らなかった。その程度のことだったのだと思う。

 

 翔子は、もう一度涼太の写真を見た。

 

 そのとき、口元の近くに小さなほくろがあることに気づいた。

 

 翔子は立ち上がった。

 

 拡大した写真を取りに行く。

 

 画面の男性の口元を見る。

 

 ぼやけている。けれど、同じ場所に、かすかな黒い点が見える。

 

 翔子は息を止めた。

 

 やっぱり、涼太だったのだ。

 

 そう思った瞬間、胸の奥にあったものがほどけた。安心したのか、懐かしかったのか、自分でも分からない。目に涙が浮かんだ。

 

 四十五年前の恋人が、あの安土にいた。

 

 しかも、向こうもこちらを見た。

 

 そこで初めて、涼太も自分に気づいたのではないかと思った。

 

 その日の午後、卒業アルバムの近くにあった古い同窓会名簿を探した。前島涼太の名前と住所が残っている。

 

 電話番号はなかった。

 

 翔子は、電話をかけるより手紙のほうがいいと思った。突然電話をして、相手の生活に入り込むのはためらわれた。手紙なら、相手が自分の都合で返事を決められる。

 

 便箋を出した。

 

 何を書けばいいのか分からない。

 

 安土で見かけたこと。写真に写っていたこと。もしかしたら、あなたではないかと思っていること。

 

 それだけを書いた。

 

 もし自分が涼太だと分かったのなら、涼太も自分に気づいたのだろうか。

 

 確かめたかった。

 

 翔子は手紙を封筒に入れた。

 

 ポストへ向かう。

 

 投函したあと、胸の奥が少し軽くなった。もう、自分にできることはない。