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「 尾道の坂を下って 」 ⑧ー⑧
第十五章 返事をしない五日間
その夜、里奈は母へ電話をかけた。
呼び出し音が一度鳴っただけで、母は出た。
「里奈?」
「今日中に電話しろって、お父さんが」
「お父さんに言われなかったら、しなかったの」
里奈は答えなかった。
電話の向こうで、テレビの音が小さくなった。
「どんなところに住んでいるの」
「古い家。坂の上」
「寒くない?」
「まだ大丈夫」
「冬の服、ほとんど置いていったでしょう」
「送って」
初めて、自分から実家へ何かを頼んだ。
母はすぐには返事をしなかった。
「どこへ送ればいいの」
里奈は春江の家の住所を伝えた。番地は、もう見なくても言えた。
「帰ってこいとは言わないの?」
「言ってほしいの?」
「分からない」
「いちばん困る答えね」
春江と同じことを、母も言った。
里奈は少し笑った。
「お父さんは、何て?」
「よく考えろって」
「なら、よく考えなさい」
母はそれ以上聞かなかった。
電話を切ると、机の上に父が置いていった名刺があった。前の課長の名前と、会社の電話番号が、父の字で裏に書かれている。
里奈は名刺をノートへ挟んだ。
翌朝も、電話はしなかった。
小川の牛乳を買い、栗原の写真を受け取り、田辺の診察日を確かめた。
小川は牛乳を冷蔵庫へ入れながら聞いた。
「お父さん、帰ったん?」
「帰りました」
「里奈ちゃんも帰れ言われた?」
「言われたような、言われなかったような」
「来週の牛乳は?」
「まだいます」
「ほんなら、また頼む」
小川は三百円を渡した。
来週もいると答えた自分に、里奈は少し安心した。同時に、来月のことは答えていないと気づいた。
二日目の夜、月の収入をもう一度数えた。
三万一千八百円。これまでで一番多かった月の数字だった。
机の引き出しには、かかとの減った靴の値段を書いた紙が入っていた。その下には、健康保険の納付書と、手をつけた預金の残高を書いた紙があった。
里奈は今月の収入から納付額を引いた。残った数字を、靴の値段を書いた紙と見比べた。
里奈は名刺をノートから出した。
まだ電話はしなかった。
三日目、靴屋の主人に呼び止められた。
「十分、店を見とって」
「これから田辺さんのところです」
「十分ぐらい、ええじゃろ」
「三時なら来られます」
「今、行きたいんよ」
「では、今日はできません」
主人は困った顔をした。
「テルちゃんは?」
「海岸のほうへ行きました」
「ほんなら三時にする」
主人は店へ戻った。
三時に行くと、丸椅子が一つ出してあった。
「遅いよ」
「三時です」
「分かっとる」
主人は腕時計を見せた。針は三時になるところだった。
十分後、主人は本当に戻ってきた。
「今日は早かったですね」
「あんた、次は帰るじゃろ」
主人は五百円玉を一枚出した。
「三百円です」
「前に待たせた分」
「それは田辺さんへ払ってください」
里奈は五百円玉を受け取らず、用意されていた百円玉を三枚取った。
四日目、実家から段ボール箱が届いた。
セーターと厚い靴下の間に、新しい運動靴が入っていた。
値札は外してあった。
靴の中に、母の字で紙が一枚入っていた。
〈合わなければ替えます〉
帰ってこいとも、そこで頑張れとも書かれていなかった。
里奈は古い靴から厚紙を抜いた。水を吸って柔らかくなり、端が崩れていた。
新しい靴を履き、坂を下りた。
足の裏に石段の角を感じなかった。
五日目の昼、里奈は駅前まで下りた。
海沿いのベンチに座り、名刺の番号へ電話をかけた。
「水野です」
名乗ると、前の課長はすぐに分かった。
「お父さんから聞きました。欠員が出るそうですね」
「来月、一人辞める。前と同じ営業事務だが、部署は別になる」
「電話も取りますか」
「取るよ」
海の向こうを船が横切った。白い波が、遅れて岸へ届いた。
「また取れなくなるかもしれません」
「そうかもしれない」
課長は、簡単に大丈夫だとは言わなかった。
「面接で、今の水野さんにできることと、できないことを聞く。それで会社が決める。水野さんも、戻るかどうか決めたらいい」
「いつまでに返事をすればいいですか」
「一週間。急がなくていい」
里奈は、海を見た。
「もう五日、考えました」
その場では、面接を受けるとだけ答えた。
電話を切ってからも、里奈はしばらくベンチに座っていた。
尾道へ来た日は、海が見えたから電車を降りた。
今、目の前にある海は、どこかへ行けとも、ここへ残れとも言わなかった。
里奈は自分で立ち上がった。
第十六章 帰るほうへ
父が帰ってから五日目の晩、里奈はテルさんに、父との話と、前の課長へ電話をしたことを話した。
二人は春江の家の前の石段に座っていた。坂の下を電車が通り、音だけが屋根の間を上ってきた。
「お父さん、正しいと思いますか」
「知らん」
「テルさんなら、何と言いますか」
「大阪へ戻りんさい」
里奈はテルさんを見た。
「どうしてですか」
「働いて、稼げるだけ稼いで、親孝行もしんさい」
「テルさんまで、そんなことを言うんですか」
「四十になっても、まだ頼まれ仕事がしたかったら、尾道へ帰ってくればええ」
「四十まで十年あります」
「すぐよ」
「テルさんは待てるんですか」
「待たんよ」
里奈は腹が立った。
「私に続けろと言うと思っていました」
「一回も言うとらんよ」
「では、今までのことは何だったんですか」
「里奈ちゃんが勝手にしたんじゃろ」
「勝手にって——」
テルさんが手を出した。
「三百円」
「何ですか」
「あんたの悩みを聞いたんじゃけ。ほら」
「まだ三十分たっていません」
「長うなりそうじゃけ、先にもらう」
里奈は財布から百円玉を三枚出した。腹が立っていたので、テルさんの手へ一枚ずつ強く置いた。
「痛いよ」
「仕事でしょう」
「追加料金かと思うた」
里奈は笑ってしまった。
笑うと、目に涙が浮かんだ。
「戻ったら、負けたことになりませんか」
「誰に?」
「分かりません」
「ほんなら、勝たんでもええじゃろ」
二人は黙って海を見た。
今日は靴屋へ三時に行った。朝に呼ばれても、三時なら行けると言った。主人は不満そうな顔をしたが、三時まで待った。
明日も同じことができるかは分からない。大阪へ戻れば、また電話の音が怖くなるかもしれない。
けれど今度は、エレベーターの前で立ち尽くすより先に、自分にできないことを言えるかもしれなかった。
「私、大阪へ戻ります」
里奈が言った。
「そう」
「もう少し驚いてください」
「私が言うたんじゃけ」
「寂しくないんですか」
「三百円で聞くよ」
「もう払いました」
「ほんなら、あと二十分話して」
里奈は、何も話さなかった。
テルさんも急かさなかった。
二人の前を、最後の電車の明かりがゆっくり通り過ぎた。
最終章 尾道の坂を下って
里奈が尾道を離れる朝、春江はいつもどおり七時に朝食を出した。
味噌汁と卵焼きと、少し焦げた鮭だった。
「今日ぐらい、豪華にしてくれてもいいでしょう」
「鮭があるよ」
「焦げています」
「焦げたところは、テルちゃんにあげんさい」
テルさんが自分の皿を里奈の前へ出した。
「卵焼きと替えて」
「嫌です」
三人で朝食を食べた。
春江は、別れの言葉を何も言わなかった。
里奈が鞄を持って玄関へ出ると、紙袋を一つ渡した。中にはりんごが二つ入っていた。
「頭がようなるけえ」
「それはテルさんの話です」
「一つはテルちゃんが入れた。もう一つは私」
「ありがとうございます」
「肉じゃが、まだ少し硬いよ」
「今度来たときは、柔らかくします」
「いつ来るん?」
「分かりません」
「いちばん困る答えじゃね」
春江はそう言って、引き戸を閉めた。
テルさんがキャリーバッグを持った。
「自分で持てます」
「知っとるよ」
「では、返してください」
「駅まで三百円」
「取りすぎです」
二人で坂を下りた。
里奈が初めて上った坂とは違う道だった。半年の間に何度も通ったのに、その朝は町が少し遠く見えた。
家の中から食器の音がした。洗濯物を干す人がいた。寺の鐘が一度鳴った。
商店街で、小川が待っていた。
「大阪へ帰るんじゃって?」
「はい」
「来週の牛乳は?」
「テルさんに頼みました」
「卵は要らんよ」
「まだあるんですか」
「昨日買うたけえ」
小川は里奈の手へ百円玉を三枚載せた。
「何のお金ですか」
「今までの分」
「毎回もらいました」
「ほんなら、大阪で最初に頼まれたことの分」
「まだ何も頼まれていません」
「先に払うたら、誰かに頼まれるじゃろ」
里奈は返そうとした。
小川はもう背を向けていた。
駅のホームで、里奈はテルさんからキャリーバッグを受け取った。
「テルさん。四十歳になったら、戻ってくるかもしれません」
「遅いねえ」
「そのときまで元気でいてください」
「十年も?」
「待たなくていいです」
「ほんなら、帰ってこんでもええよ」
「そう言われると、帰ってきたくなります」
電車が入ってきた。
里奈は乗り込み、窓際に立った。
半年前、里奈はこのホームで列車を降りた。
扉が閉まった。
テルさんが何か言ったが、聞こえなかった。
里奈は窓へ耳を近づけた。
テルさんは口の横に手を当て、もう一度言った。
「三百円、もろうてないよ」
里奈が財布を出す前に、電車が動き始めた。
テルさんの姿が小さくなり、駅の屋根の向こうへ消えた。
数か月後、里奈は大阪の同じ会社で働いていた。
復職ではなく、欠員が出た部署で改めて雇われた。以前と同じ営業事務だった。
昼前、隣の席の同僚が電話を切り、大きく息を吐いた。
「どうしたの?」
「工事の日程が合わなくて。三か所へ電話しないといけないんだけど、見積書も今日までで」
「電話は、いつまで?」
「一か所は昼まで。あとの二つは夕方でもいい」
「私は一時から打ち合わせがあるから、昼までの一か所ならできる」
「それ、私に頼む?」
同僚は里奈を見た。
「いいの?」
「頼むなら」
「お願いします」
「分かりました」
里奈は相手の会社名と担当者、昼までに決めることを紙に書いた。残りの二か所には、同僚の名前が残った。
書いた紙を手元へ置き、受話器を取った。
尾道では、テルさんが坂を下っていた。
右手に牛乳、左手に封筒を持っている。
イヤホンはしていなかった。
下手な英語で、「夢のカリフォルニア」を歌っていた。
坂の下から声がした。
「テルちゃん、三十分ええ?」
靴屋の主人が、店の前に丸椅子を二つ出していた。
「今、急いどる」
「帰りでええけえ」
「三百円?」
「今日は五百円払う」
「長うなるん?」
「長うなる」
「ほんなら、三百円でええよ」
テルさんは、帰りに寄ると約束した。
海は、屋根と屋根の間に見えたり、消えたりした。
テルさんは道を確かめることもなく、頼まれた家へ向かって、尾道の坂を下りていった。
(完) 2026 / 07 / 25
