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『 長崎 名前のない写真 』

 

第一章 長崎駅

 

 長崎駅を出ると、海から来た風が思いのほか強く頬を撫でた。

 

 京都を出るときには、まだ夏の朝の蒸し暑さが身体にまとわりついていたのに、駅前へ出た途端、潮の匂いを含んだ風がそれを少しだけ押し流してくれる。空は高く、山の斜面には家々が重なるように建っていた。

 

 その景色を見た瞬間、中谷孝は、これまで写真でしか知らなかった長崎が、思っていたよりずっと近い場所にあるような気がした。

 

 駅前の広場では、観光客がそれぞれの方向へ歩き始めている。キャリーケースを引く人もいれば、スマートフォンを片手に案内板を探している人もいる。路面電車の線路が道路を横切り、その向こうには市街地が続いていた。

 

 孝は、持っていた小さなカメラをバッグから取り出した。普段なら、初めて訪れた街では、まず一枚撮る。

 

 けれど、ファインダーを覗く前に、山の斜面へ目が向いた。京都にはない景色だった。

 

 街が平らに広がるのではなく、建物が山へ向かって積み上がっている。家と家の間を縫うように坂道が伸び、その先にさらに別の家が見える。地図を見ただけではわからない街の形が、目の前にそのまま現れていた。

 

 後ろから浩一の声がした。

 

 高木浩一は、肩から下げたバッグを持ち直しながら、山の斜面を眺めている。京都の大学では孝と同じ学部に通っていて、今回の旅行も最初に言い出したのは浩一だった。その隣には米田涼子がいる。

 

 涼子は駅前の案内板をスマートフォンで撮影していた。画面を見せながら、何かを話している。孝は笑った。

 

 何気ないやり取りだったが、涼子は案内板と山の斜面を見比べている。その会話を聞いて、孝はようやく旅行が始まったという気がした。

 

 京都では三人とも大学の講義やアルバイトに追われている。夏休みに入ってからも、それぞれ予定があり、四人でまとまった時間を取るのは簡単ではなかった。

 

 それでも浩一が長崎へ行こうと言い出し、涼子が乗り気になり、孝も特に予定がなかったことから話がまとまった。もう一人、長崎で合流する人がいる。中村沙羅。

 

 京都で浩一と親しくしている親戚の子で、現在は長崎で暮らしている。今回の旅行では、彼女が地元を案内してくれることになっていた。その沙羅から、駅に着いたら連絡してほしいと言われている。

 

 孝がスマートフォンを取り出したところで、浩一が先に画面を覗き込んだ。沙羅からのメッセージは届いていなかった。駅前で待つことにした。孝は再び周囲を見渡した。長崎という街は、観光地として知っているつもりだった。

 

 大浦天主堂、グラバー園、出島、眼鏡橋、平和公園。学校で習った歴史もある。写真で見た場所も多い。

 

 けれど、実際に駅前に立ってみると、それらが単独で存在しているわけではないことがわかる。この街には、この街の時間がある。

 

 外国との交流が盛んだった時代もあれば、キリシタンへの厳しい弾圧があった時代もある。幕末には海外へ向かう人や海外から来る人たちがこの港を通り、近代化の波が押し寄せた。

 

 そして八月九日という日を境に、街の姿は大きく変わった。そんな長い時間の上に、今の長崎がある。

 

 孝はそこまで考えて、自分でも少し意外に思った。

 

 単なる観光旅行のつもりだったのに、駅を出たばかりで、妙に歴史のことが気になっている。そのとき、スマートフォンが震えた。沙羅からだった。駅の東口にいるという。三人は案内板を頼りに歩き始めた。

 

 しばらくすると、向こうから一人の女性が歩いてくるのが見えた。

 

 白いシャツに、薄い色のパンツ。肩から小さなバッグを下げている。観光客とは少し違う歩き方をしているのが、遠目にもわかった。周囲の建物を確かめることもなく、迷わずこちらへ向かってくる。浩一が手を上げた。

 

 沙羅も気づいたらしい。四人が揃った。初対面の孝と沙羅は簡単に挨拶を交わした。沙羅が笑った。

 

 その様子を見て、涼子が駅前の景色を見回した。沙羅はすぐには答えず、駅前の向こうに見える山を見た。そして、少し考えてから、歩き出した。

 

 「まず、普通の長崎を見たほうがいいと思う」

 

 観光名所を案内するのではなく、最初にそう言ったことが、孝には少し意外だった。沙羅は大通りを避け、駅から少し離れた道へ入っていく。観光客の姿が減っていく。商店の前を通り、住宅街へ入る。

 

 古い家と新しい家が並び、その間を細い坂が上っている。孝は歩きながら、何度も振り返った。

 

 駅前の大きな建物が少しずつ遠ざかっている。代わりに、長崎で暮らす人たちの生活が近くなってくる。洗濯物。自転車。小さな商店。玄関先に置かれた植木鉢。観光地の写真には写らないものばかりだった。

 

 それが、なぜか新鮮だった。坂の途中で、沙羅が立ち止まった。古い石垣の前だった。

 

 石垣には小さな祠が組み込まれている。観光案内板もない。説明する札もない。

 

 ただ、道を歩いている人なら見落としてしまいそうな場所に、古い祠が残されている。沙羅は祠を見ていた。孝は、その横顔を見ながら、初めて少しだけ不思議に思った。沙羅は長崎の案内役として来ている。

 

 だから、この街のことを多少知っていてもおかしくない。

 

 けれど、いま見つめている祠には、観光客に向けるような視線がなかった。昔から知っている場所を見るような目だった。そのことを尋ねようとしたとき、沙羅のスマートフォンが鳴った。

 

 画面を見た沙羅の表情が、ほんの少し変わった。母親からの連絡だった。

 

 内容を確認したあと、沙羅はスマートフォンをバッグへ戻した。三人は顔を見合わせた。もちろん、断る理由はない。沙羅が先に歩き始める。その後ろを三人がついていく。坂道の先に、古い家が見えてきた。白い壁。木製の雨戸。

 

 小さな庭。

 

 観光地にある古い町家とは違い、いまも誰かが暮らしている普通の家だった。沙羅が玄関を開ける。中から、少し湿った木の匂いがした。祖母は奥の部屋にいた。四人が挨拶をすると、祖母は笑顔を見せた。

 

 そして、孝たち三人を一人ずつ見る。最後に沙羅へ目を戻した。沙羅が頷く。祖母は嬉しそうに笑った。

 

 それから、ふと孝の手元にあるカメラを見た。ほんの一瞬だけ、視線が止まった。孝は気づかなかったふりをした。旅行に来た学生がカメラを持っている。それだけのことだ。そう思った。しかし、その日の夕方。

 

 四人が祖母の家を出たあと、沙羅の母から一通の連絡が届くことになる。

 

「今日、家で撮った写真は消しておいて」