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「 尾道の坂を下って 」  ⑧ー⑦

 

第十三章 二冊目のノート

 

 テルさんが退院して一週間は、里奈がほとんどの頼まれごとを引き受けた。

 

 春江は、食卓の塩の瓶を戸棚へしまった。テルさんが探すと、何も知らない顔で味噌汁を飲んだ。

 

「ハルさん、塩は?」

 

「こほ……うちには、そんなもんないよ」

 

「昨日まであったよ」

 

「病院の先生が持って帰ったんじゃろ」

 

 テルさんは里奈を見た。

 

「私ではありません」

 

「まだ何も聞いとらんよ」

 

 そう言いながら、醤油差しへ手を伸ばした。

 

 春江が大きく咳をした。

 

「ゲホッ」

 

 テルさんの手が止まった。

 

「今のは怒っとる咳じゃね」

 

「分かっているなら、戻してください」

 

 里奈が言うと、テルさんはおとなしく醤油差しを置いた。

 

 朝食のあと、里奈はノートを開いた。

 

 九時、小川の牛乳。十時、田辺の病院。午後一時、栗原の写真。三時半、上田の家の水道。

 

「上田さんの水道は、直せませんよ」

 

「水が止まらんけえ、見てほしいんじゃって」

 

「見るだけなら行きます。直すのは水道屋さんです」

 

「先に言うん?」

 

「先に言います」

 

 上田の台所では、蛇口から細い水が途切れず落ちていた。里奈は元栓の場所を確かめ、商店街の水道屋へ電話をかけた。修理が終わるまで一緒に待った。

 

 上田が三百円を出したので、里奈は受け取らなかった。

 

「一時間以上かかりましたから、五百円です」

 

「直したんは、水道屋じゃろ」

 

「電話をして、来てもらうまで待つのを頼まれました」

 

 上田はしばらく財布の中を探り、五百円玉を一枚出した。

 

「テルちゃんは三百円じゃったよ」

 

「次はテルさんに頼んでください」

 

「テルちゃんは、水道屋が来る前に帰るけえ」

 

 里奈は笑わなかった。

 

「では、五百円です」

 

 上田も笑わなかった。それでも、次に洗面所の水が流れにくくなったときは、初めから五百円玉を用意して待っていた。

 

 できないことも、前よりはっきり断った。

 

 夕方、知らない男から、駅の近くで声をかけられたことがある。

 

「部屋を片づけてほしい。三百円でええんじゃろ」

 

「初めての方の家へ、一人では行きません」

 

「昼ならええんか」

 

「知っている方から紹介してもらってください」

 

「面倒じゃねえ」

 

「そうですね」

 

 里奈は名前も聞かず、その場を離れた。

 

 坂を一つ上りきったところで初めて振り返ると、男はもういなかった。

 

 頼まれた時刻をノートへ移していくと、午前だけが埋まる日もあれば、午後の一件のために一日を空けておく日もあった。

 

 月の終わりに数えると、一番多い月でも三万一千八百円だった。

 

 家賃の一万円を封筒へ入れ、食費と日用品を引く。大阪に残した預金へ手をつけずに済む月はなかった。

 

 雨の日、靴の底から水がしみた。

 

 新しい靴を買おうと店の前まで行き、値札を見て帰った。翌朝、春江から厚紙をもらい、中敷きの下へ入れた。

 

「こほ……そんなもん、すぐ破れるよ」

 

「今月は持ちます」

 

「来月は?」

 

 里奈は答えず、靴ひもを結んだ。

 

 栗原は、写真を頼むときは里奈を呼ぶようになった。小川は急がない買い物ならテルさん、時間が決まっている病院なら里奈、と使い分けた。

 

 田辺が、里奈の都合がつかない日に、近所の女性と病院へ行くこともあった。

 

 自分が行かなくても、頼まれたことが済む日がある。そのことにほっとする日と、少し寂しくなる日があった。

 

 ノートが二冊目になるころには、朝の海の色が変わっていた。

 

 夏の間は窓から白く光っていた水面が、風の強い日には細かく揺れた。坂を上る人の服も、半袖から上着へ変わった。

 

 二冊目の最初の頁に、里奈はまた小川の名前を書いた。

 

 名前の横には、頼まれたことだけを書いた。聞いた話の中身は書かなかった。預かった金と釣り銭は、その場で一緒に確かめた。

 

 ノートを閉じた午後、里奈は商店街へ下りた。

 

 帰ってくると、春江の家の前に、見慣れない男が立っていた。

 

第十四章 見慣れない男

 

 背広の上着を腕に掛け、小さな鞄を持っている。

 

「お父さん」

 

 男は振り返った。

 

「やっと会えた」

 

 半年ぶりに見た父は、少し痩せていた。髪にも、前より白いものが増えていた。

 

 春江が玄関から出てきた。

 

「こほ……里奈ちゃんのお父さん?」

 

 父は背筋を伸ばした。

 

「娘がお世話になっています」

 

「家賃はもろうとるよ」

 

「それでも、ありがとうございます」

 

「こほ……お礼なら、娘さんに言うたらええ。うちも買い物を頼んどるけえ」

 

 父は里奈を見た。

 

 テルさんは廊下の奥に立っていた。いつものように歌ってもいなければ、父へ話しかけもしなかった。

 

「ここで話す?」

 

 里奈が聞くと、父は家の中をもう一度見た。

 

「外へ出よう」

 

 二人は駅前の喫茶店へ入った。

 

 父はコーヒーを頼み、里奈は何も頼まなかった。

 

「何か飲め」

 

「要らない」

 

「店に悪いだろう」

 

 里奈は紅茶を頼んだ。

 

 運ばれてくるまで、二人は黙っていた。

 

「大阪には戻らない」

 

 里奈が先に言った。

 

「美穂さんという人から、前の課長へ連絡があったそうだ」

 

「前の会社」

 

「その課長が、退職のときの緊急連絡先を見て、うちへ電話してきた。広島の尾道にいると聞いた」

 

「美穂に電話したの?」

 

「お母さんがした。住所までは知らなかった。駅前で聞いても分からんから、商店街を歩いて、三百円で買い物をする大阪の女を知らないかと聞いた」

 

「そんな聞き方をしたの」

 

「ほかに説明のしようがなかった」

 

 父はカップの取っ手に指を掛けたまま、まだ飲まなかった。

 

「知らない人の家へ一人で行って、金をもらっているそうじゃないか」

 

「頼まれたことをしているの」

 

「危ない仕事だと言っていたぞ」

 

「危なくない仕事なんてないでしょう」

 

「言葉の問題じゃない」

 

 父の声が大きくなり、隣の席の客が一度こちらを見た。

 

 里奈はノートを鞄から出した。

 

 誰に、いつ、何を頼まれたか。預かった金をどう記録しているか。夜の依頼や、知らない男性一人の家へは行かないこと。できない仕事は断っていること。

 

 父は黙って聞いた。

 

「ひと月の収支は出しているのか」

 

「出してる」

 

「健康保険は」

 

「払ってる」

 

「年金は」

 

 里奈は答えるまで、少し間が空いた。

 

「今月は、まだ」

 

「預金を使っているんだな」

 

「うん」

 

 父はコーヒーを一口飲んだ。

 

「あのころ、お前はそんな顔で仕事の話をしなかったな」

 

「どんな顔?」

 

「知らん」

 

 父は窓の外を見た。

 

 駅前の道路の向こうで、海が光っていた。

 

「前の課長が、別の部署で欠員が出るかもしれないと言っていた」

 

 里奈は紅茶の中の薄い色を見た。

 

「戻れば雇ってもらえる、という話?」

 

「面接はするそうだ。お前が望むなら、連絡をくれと言っていた」

 

「お父さんが頼んだの?」

 

「向こうから言った」

 

 父は少し間を置いた。

 

「私なら頼んだかもしれんがな」

 

「今日は帰る」

 

「一緒には帰らない」

 

「分かっている」

 

 父は伝票を取った。

 

「だが、この先のことは、よく考えろ。来月の保険料まで、支払いを待ってくれるわけじゃない」

 

「分かってる」

 

「分かっていないから言っている」

 

 父はレジへ向かった。

 

 里奈は少し遅れて立ち上がった。

 

 駅の改札まで見送った。

 

 父は切符を通してから振り返った。

 

「母さんに電話しろ」

 

「うん」

 

「今日中に」

 

「分かった」

 

 それだけ言い、父はホームへ向かった。

 

 里奈は父の姿が見えなくなっても、しばらく改札の前に立っていた。