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『 長崎 名前のない写真 』

 

第二章 写真の中の家

 

 祖母の家を出てから、四人はしばらく坂を下った。

 

 先ほどまでいた家が見えなくなると、沙羅はスマートフォンを取り出し、母から届いたメッセージをもう一度読み返した。画面には、短い文章が残っている。――今日、家で撮った写真は消しておいて。理由は書かれていない。

 

 母親から突然そんなことを言われれば、普通なら何か聞き返すだろう。けれど沙羅は、すぐには返信しなかった。歩きながら何度か画面を見ては、電源を落とす。その仕草を見ているうちに、孝の中にも小さな違和感が生まれていた。

 

 祖母の家で写真を撮ったのは、孝だけではない。涼子も何枚か撮っている。

 

 浩一もスマートフォンで室内を撮影していた。

 

 観光旅行なのだから、それ自体は珍しいことではない。古い家に興味を持って写真を撮ることもある。

 

 それなのに、なぜ母親は「今日、家で撮った写真」と限定したのだろう。

 

 しかも、祖母の家を出てすぐだった。孝は歩きながら、カメラの中に残っている写真を思い返した。玄関。庭。居間。古い箪笥。壁に掛かった写真。特に変わったものは写っていない。

 

 そう思いながらも、カメラを取り出して確認する気にはなれなかった。沙羅の家族に関わることなのだから、勝手に調べるようなことは避けたほうがいい。坂の途中に小さな公園があった。四人はそこにあるベンチで休むことにした。

 

 長崎の街は、少し歩いただけでも京都とは違う疲れ方をする。坂道そのものが珍しいというより、平らな場所が少ないため、歩いている間ずっと身体のどこかに力が入っている。沙羅はベンチに座ると、ようやく母親へ返信した。

 

 何を撮った写真なのか。なぜ消さなければならないのか。その二つを尋ねたらしい。

 

 返信が来るまでの間、四人はそれぞれ別の方向を見ていた。公園の向こうに住宅が続いている。屋根の高さが少しずつ違い、家と家の隙間から、遠くの山が見える。

 

 孝は、その景色を見ながら、祖母の家で感じたものを思い返していた。あの家には、観光地にはない時間があった。

 

 古い家具や写真が残っているからというだけではない。祖母自身が、何かを守るように暮らしているように感じた。特に印象に残っているのは、居間の壁に掛かっていた一枚の写真だった。

 

 孝は、そこに写っていたものを正確には覚えていない。古い長崎の街並み。何人かの人。その奥に、特徴のある建物。

 

 ただ、写真を撮ったとき、祖母が一瞬こちらを見たことだけは覚えている。その視線を思い出したところで、沙羅のスマートフォンが震えた。母親からだった。沙羅は画面を見て、少し眉を寄せた。浩一が尋ねる。

 

 沙羅はすぐには答えず、母から送られてきた文章を三人にも見せた。

 

 そこには、祖母の家の写真についてではなく、もっと古い話が書かれていた。

 

 祖母は昔から、家の中にある一枚の写真だけは人に見せようとしなかった。

 

 その写真が、今日、アルバムからなくなっていることに母親が気づいたという。沙羅は顔を上げた。

 

 「私、そんな写真があるなんて知らなかった」

 

 それは、三人に話しかけたというより、自分自身に確かめているような言い方だった。孝は、祖母の家で撮った写真を思い出した。

 

 もし母親が心配しているのが、その古い写真そのものではなく、そこに写っているものだったとしたら、自分たちが撮った写真の中にも何かが写り込んでいる可能性がある。それでも、すぐにカメラを確認する気にはなれない。

 

 四人とも、同じことを考えているようだった。やがて沙羅が、母親へもう一度尋ねた。

 

 すると、今度は少し長い返信が届いた。祖母は若い頃から、ある古い写真を持っていた。写真には、戦前の長崎の街が写っている。それだけなら珍しくない。

 

 問題は、その写真に写っている人物について、祖母が誰にも話そうとしなかったことだった。母親自身も、子どもの頃に一度だけ見たことがあるという。そのとき祖母は、写真を取り上げるようにして隠した。

 

 理由を聞いても教えてくれなかった。

 

 ただ、「この写真に写っている人のことは、もう誰も話さないほうがいい」と言われた。

 

 それ以来、母親も写真のことを聞かなかった。孫である沙羅が知らないのも当然だった。涼子は黙ってその文章を読んでいた。さっきまでの旅行気分が、少しずつ遠ざかっている。

 

 けれど、誰も「事件だ」とは考えていない。

 

 長崎には古い家が多く、祖父母の代から残された写真や手紙がある家庭も珍しくないだろう。家族の中だけで守られてきた事情があることも、決して不思議ではない。

 

 むしろ、それを外から来た四人が勝手に掘り起こすほうが間違っている。そう考えた孝は、カメラをバッグへ戻した。それが一番いいと思った。浩一も賛成した。

 

 沙羅は少し迷っていたが、母親からも「今日は友達と過ごして」と言われたらしい。

 

 四人は公園を出た。

 

 

 午後は大浦へ向かった。

 

 坂道を歩いていると、街の雰囲気が少しずつ変わっていく。古い洋館や教会が見え始め、観光客の数も増えてきた。

 

 大浦天主堂へ続く道には土産物店が並び、修学旅行生や外国人観光客の姿も多い。沙羅は、三人の歩く速度に合わせながら、建物のことを簡単に説明した。

 

 詳しい歴史を語るというより、この坂を上れば教会が見えるとか、この先を曲がると海が見えるといった、実際に暮らしている人間だから知っている案内だった。それがかえって自然だった。

 

 孝は歩きながら、長崎という街の不思議さを感じていた。教会があり、そのすぐ近くに寺がある。

 

 洋館の向こうに日本家屋があり、坂の下には現代的なビルが建っている。

 

 異なる時代のものが、取り壊されずに残りながら、現在の街の中で一緒に暮らしている。

 

 歴史を一つずつ見ていくというより、街そのものが長い時間を抱えているようだった。

 

 大浦天主堂を見学したあと、四人は坂を下り、少し離れた場所のベンチで休んだ。涼子がスマートフォンの写真を整理している。そこには今日撮った街の写真が並んでいた。坂。石垣。教会。港。そして、祖母の家。

 

 涼子の指が止まった。

 

 画面に映っているのは、祖母の家の居間だった。何気なく撮った一枚。窓のそばに置かれた古い箪笥。壁に掛かった写真。その手前に、小さな木製の箱が写っている。涼子は、そこを拡大した。箱は古びている。

 

 蓋に小さな金具がついている。その金具の形が、妙に気になった。画面を見せられた孝は、写真をしばらく眺めた。

 

 木箱そのものには見覚えがない。祖母の家で見た記憶もない。けれど、箱の横に置かれた紙のようなものに目が止まった。紙には、何か数字が書かれているように見える。写真の解像度では読めない。涼子が元の画像を開き直す。

 

 少し拡大する。数字らしきものが浮かび上がった。

 

9

 

 誰も言葉を発しなかった。そう考えることはできる。

 

 祖母の家には古いものがたくさんあった。数字の一つが写っているくらいなら、何の意味もない。それでも、沙羅は画面を見たまま動かなかった。しばらくして、彼女は母親へ写真を送った。返信はすぐには来なかった。

 

 四人は再び歩き始めた。

 

 坂を下りながら、孝は自分でも説明できない違和感を抱えていた。まだ何も起きていない。

 

 祖母の写真がなくなったことも、古い数字が写っていたことも、単独で考えれば大したことではない。なのに、それらが一つの線になり始めているように感じる。その感覚を、孝は振り払おうとした。

 

 旅行なのだから、余計なことを考えずに楽しめばいい。そう思って、港のほうへ目を向けた。海面に夕方の光が伸びている。遠くに船が見える。その景色を眺めていると、スマートフォンが震えた。沙羅の母親からだった。

 

 届いた文章は短かった。

 

 ただ、今度は「写真を消して」という言葉ではなかった。

 

「その写真、誰にも送らないで。特に、9が写っていることは言わないで」

 

 孝は、そこで初めて胸の奥に冷たいものを感じた。母親は、数字のことを知っている。それも、ただ知っているだけではない。何かを恐れている。

 

 けれど、四人がその意味を尋ねる前に、沙羅のスマートフォンへ、もう一通のメッセージが届いた。今度は母親からではなかった。知らない番号だった。文章は一行だけ。

 

「その写真を撮った場所には、もう行かないでください。」

 

 長崎の港には、夕暮れの光が静かに広がっていた。観光客の笑い声も聞こえる。路面電車が遠くを走っている。街は何も変わっていない。

 

 けれど四人の旅行は、このとき初めて、昨日までとは違う場所へ足を踏み入れていた。