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『 鴨川の向こう側 ――68歳からの物語 』

 

二 安土の石段

 

 安土城跡へ向かう日は、朝からよく晴れていた。

 

 京都を出る頃にはまだ少し肌寒かったが、空は明るい。翔子は歩きやすい靴を選んだ。六十八歳になってから、出かけるときに最初に考えるのは、どれだけ長く歩けるかになった。

 

 良子と待ち合わせ、長谷川と合流する。三人で石段を上り始めた。

 

 大手道は幅が広く、石段がまっすぐ上へ伸びている。

 

 長谷川は歩きながら、安土城が一五七六年に築かれたこと、標高一九九メートルの安土山にあったこと、岐阜と京都を結ぶ要所だったことなどを話した。

 

「この石段、ずいぶん幅がありますね」

 

 良子が言うと、長谷川は頷いた。

 

「この幅なら、馬に乗ったまま大手門まで馬で行けるように考えられていたんじゃないか、と見る人もいます」

 

 翔子は石段を見た。人が二人、三人と並んでも余裕がある。

 

 若い頃なら、そんなことは考えずに歩いていた。

 

 長谷川の説明を聞きながら、翔子は石の表面を眺めた。

 

 何百年もの時間を踏んできた石。その上を、今の自分も歩いている。

 

 途中で、翔子は前方から歩いてくる一人の男性とすれ違った。

 

 ほんの一瞬だった。

 

 年齢は自分と同じくらいに見えた。

 

 白髪が混じっている。眼鏡をかけていたかどうかも、はっきりしない。

 

 けれど、すれ違う瞬間に見えた目元と、口元の線に、翔子はなぜか視線を止めた。

 

 男性も、一度こちらを見た。

 

 目が合ったような気がした。

 

 それだけだった。

 

 翔子は数歩進んでから、思わず振り返った。

 

 男性はもう別の観光客の向こうにいた。

 

 涼太に似ている。

 

 そう思った。

 

 けれど、涼太だとは思わなかった。

 

 いや、思えなかった。

 

 もし、あの人が涼太だったら。

 

 二人が最後に顔を合わせたのは、大学を卒業する頃だった。

 

 それから、四十五年近く会っていない。そんなことが本当に起こるのだろうか。

 

 翔子は前を向いた。良子と長谷川は少し先を歩いている。

 

「どうしたの?」

 

 良子が振り返った。

 

「ううん。何でもない」

 

 翔子はそう答えた。

 

 そのあとも長谷川の説明は続いた。

 

 石垣のこと、城の構造のこと、信長がここで過ごした四年間のこと。

 

 良子が質問するたび、長谷川の歩く速度が少し落ちる。

 

 翔子はその後ろを歩きながら、さっきの男性がいた場所を何度も見た。

 

 けれど、もう姿はない。石段と観光客の背中だけが続いている。

 

 帰りの電車で、良子が撮った写真を見せてくれた。

 

 翔子は画面を覗き込みながら、何も言わなかった。

 

 似た人を見ただけ。そう言えば、それで終わる。なのに、口に出す気にはなれなかった。

 

 京都へ戻ると、いつもの家が待っていた。

 

 窓を開け、湯を沸かし、コーヒーを淹れる。

 

 いつもの順番なのに、手が一度だけ止まった。

 

 カップを置いたとき、安土で見た男性の目元が、また浮かんだ。

 

 涼太だったのだろうか。

 

 もし違っていたら、自分は何をこんなに考えているのだろう。

 

 翔子は自分でも可笑しくなった。たった一度、すれ違っただけなのに。

 

 翌日も、その次の日も、ふとした瞬間に男性の顔が浮かんだ。

 

 顔全体は思い出せない。目元と口元だけが残り、その曖昧さがかえって気になった。

 

 昔の涼太の顔を、翔子ははっきり思い出せなくなっていた。

 

 残っているのは、歩く速度や振り返る仕草のほうだった。

 

 だからこそ、目の前を通り過ぎた男性の姿が、記憶のどこかに触れたのかもしれない。

 

 翔子は、まだ答えを出そうとはしなかった。

 

 ただ、もう一度その人を見たいと思った。それだけだった。、