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第十七章 残すもの、渡すもの

 

 フィールドリンクの報告は、京都市内の外からも届くようになった。

 

 学生が実家へ帰ったとき、父親の工場で見つけた工夫。アルバイト先で、客を待たせなくなった注文の取り方。留学生が気づいた、外国人にも意味が伝わる案内の書き方。

 

 山下は、報告が届くたび、すぐ顧客へ持っていくのをやめた。

 

 その会社が本当にどこへ行きたいのか。最初に見せられた困り事の奥に、何があるのか。それを聞いてから、紹介する相手を選んだ。

 

 ある老舗旅館では、外国人客への案内を変えたいという相談があった。

 

 学生は、玄関で靴を脱ぐ場所が分からないことを報告した。宏は、英語の案内を増やせば済むと考えた。

 

 現場を見た宏は、英語のできる仲居だけが、若い仲居へ説明を移していることに気づいた。帳場の脇には、客からよく聞かれることをまとめた手書きのノートがあり、表紙に〈来年からの案内〉と書かれていた。女将も打ち合わせのたび、「来年から困らんように」と口にした。

 

 山下は、女将に尋ねた。

 

「ほんまに変えたいのは、玄関ですか」

 

「ほかに、どこがあります」

 

「英語のできる仲居さん一人に、何でも任せてはると聞きました。来年から困らんようにする資料ばかり増えてます」

 

 女将の顔から笑みが消えた。

 

「その人、来年、辞めはるんと違いますか」

 

「誰から聞かはったんです」

 

「聞いてません。けど、あのノートも、若い人への教え方も、残る人のための準備に見えました。玄関の話だけやったら、女将さんが私らを呼ばはると思えへんかったんです」

 

 長い沈黙のあと、女将は茶を替えさせた。

 

「新しいお茶が出たら、話が続くいうことですか」

 

「余計なことまで覚えはりましたな」

 

 女将は、ようやく仲居の退職を話した。

 

 佳織は、外国人対応に成功した別の旅館の女将を紹介した。二人は同じ席で、うまくいった話より、最初に従業員から反対された話を長くした。

 

 宏は、案内板より先に、仲居たちが同じ質問へどう答えているかを見た。真由美は、英語のできる人を新しく雇う費用と、いまいる人が少しずつ覚える費用を並べた。

 

 導入後、女将は言った。

 

「英語のできる仲居が、英語の説明ばっかりせんようになりました。やっと、お客さんの顔を見る時間ができました」

 

 京都テクノリンクの仕事は、機械を紹介するだけではなかった。

 

 困っている会社と、もう同じことには困っていない会社をつなぐ。その間へ入り、成功した理由と失敗した理由を聞き、相手の会社で残すものを決める。必要なら機械を入れ、人の動きを変え、結果が出るまで通う。

 

 顧客が買ったのは、成功した会社の真似ではない。

 

 自分の会社で失敗する可能性を小さくしながら、新しいものへ進む方法だった。

 

 売上が事故前へ戻るまで、一年近くかかった。

 

 同じ売上でも、残る利益は大きくなった。真由美は紹介料だけを利益にせず、調査、設計、導入後の支援へそれぞれ値段をつけた。

 

「紹介だけで取ったら、楽やのに」

 

 山下が言う。

 

「紹介料をようけくれる機械ばっかり、勧めるようになります」

 

「僕を信用してへんのか」

 

「人は信用してます。仕組みは信用してません」

 

 真由美は、うまくいった会社へ支払うノウハウ協力費を先に分けた。

 

「人の信用を守るために、数字で逃げ道をふさぐんです」

 

 山下は返事をせず、判を押した。

 

 宏は、自分一人ですべての現場を見るのをやめた。若い技術者を連れ、機械を開ける前に、人がどう動いているかを見せた。

 

 木崎の工場で、その様子を見られた。

 

「やっと、自分の耳を貸せるようになったな」

 

「貸したら、返ってきませんか」

 

「耳は減らへん。増える」

 

 木崎は機械を動かした。

 

 一定の回転音の中で、若い技術者が耳を澄ませた。

 

 佳織も、以前のように一人で仕事をつながなくなった。

 

 ゴルフ場で聞いた話を、相手の許しを得て町家へ持ち帰る。次に会うときは山下を連れ、現場へは宏を送り、金の話になる前に真由美を入れた。

 

「うち一人のほうが、早いんやけどな」

 

「ほな、一人でしたらええ」

 

 山下が言うと、佳織は首を振った。

 

「うち一人が倒れたら、また全部止まるやろ」

 

 事故のことを、自分から仕事へ結びつけたのは初めてだった。

 

 山下は何も言わなかった。

 

 新しい赤い車は、以前より乗り降りしやすい四ドアだった。色だけは変わらない。

 

「赤は変えへんのやな」

 

「うちが事故に合わせて、何もかも変えると思う?」

 

「残すもんは、残すんやな」

 

「ようやく、京都テクノリンクらしいこと言うようになった」

 

 佳織は助手席を顎で示した。

 

「乗る?」

 

「運転、荒ないやろな」

 

「降りる?」

 

「まだ乗ってへん」

 

 赤い車は、二人を乗せて町家を離れた。

 

第十八章 明日の欄

 

 フィールドリンクを始めて五年、京都テクノリンクは創業七年目を迎えていた。

 

 京都テクノリンクは、二年前に小さなビルへ移っている。創業した町家は、学生が報告を持ち寄り、会社同士が経験を話す場所として残した。

 

 高瀬は大学を卒業し、京都テクノリンクへ入った。沙耶は別の会社へ進んだが、月に一度、学生の集まりへ顔を出した。

 

 春の説明会で、一人の学生が山下へ尋ねた。

 

「僕らの見つけたことが、会社の利益になるんですよね」

 

「なる。ならんかったら、続けられへん」

 

 学生たちが少し身構えた。

 

「そやけど、君らを安う使うて利益にするんやない。君らが、うまくいってる現場を見つける。河村が、ほんまにうまくいってるか確かめる。僕が、それを必要としてる会社を探す。村上が、教えてくれた会社にも金が戻る形にする。大野が、両方の会社を同じ席へ連れてくる」

 

「代表は、何するんです?」

 

 後ろにいた高瀬が聞いた。

 

 笑いが起きた。

 

 以前の山下なら、誰より働くと答えていた。

 

「どこと、どこをつないだらええか決める」

 

「矢印を書く人ですね」

 

「そういうことにしとこ」

 

 説明会が終わり、学生たちが帰り支度を始めたころ、町家の電話が鳴った。

 

 真由美が受話器を取った。

 

「はい、京都テクノリンクでございます」

 

 相手の声を聞き、宏へ渡した。

 

 西陣の帯地問屋の主人だった。

 

〈いや、何も困ってへんのですけどな〉

 

 主人はそう言って、しばらく黙った。

 

 電話の向こうで、何かを引きずる音がした。人の声が重なり、すぐに遠ざかる。

 

〈河村さん、明日、こちらのほうへ来はる用事、ありますやろか〉

 

「何時ごろが、よろしいですか」

 

〈いや、急ぎまへん。ほんまに、近くへ来はるついでで〉

 

 宏が返事をする前に、佳織が顔を上げた。

 

 山下は口を挟まず、宏の返事を待っている。

 

「朝の九時でしたら、伺えます」

 

〈ほな、お茶ぐらい用意しときます〉

 

 通話が切れた。

 

「何も困ってへんのやろ」

 

 山下が尋ねた。

 

「困ってはります」

 

「何で分かる」

 

 佳織が先に笑った。

 

「お茶が出るそうや」

 

 真由美は明日の予定表を確かめた。山科の開始を三十分早められるか連絡し、伏見の担当者にも無理がないことを確かめてから、西陣の欄へ宏の名を書いた。

 

 表で自転車の止まる音がした。

 

 高瀬がフィールドリンクの冊子を持って戻ってきた。

 

「さっきの問屋、報告があります。若い職人が荷を運ぶたび、奥の作業場が止まってます」

 

 宏は、電話の向こうで聞こえた音を思い返した。

 

「明日、一緒に来てもらえますか」

 

「はい」

 

 真由美が町家の灯りを一つ消した。

 

 山下と佳織が先に格子戸を出る。二人は、明日の西陣へ誰を紹介できるか、もう言い合っていた。

 

 宏は鞄を持ち、真由美とあとに続いた。

 

 暮れかけた西陣の道に、家々の灯りが一つずつともっている。戸を閉めた店の奥から、まだ仕事を続ける音が聞こえた。

 

 社員証を返した日の正門が、ふいに浮かんだ。

 

 五年分の私物は、紙袋一つに収まった。その少し先で、長い髪の女が送迎バスを待っていた。

 

 あの日には、まだ名前も知らなかった。

 

 五年会わなかった先輩は、宏のことを忘れていなかった。何をさせるかも決めないまま、町家へ連れてきた。

 

 その町家の前へ、やがて赤い車が入ってきた。

 

 運転していた女は、閉じた戸を見ると、開かない理由より、どうすれば中の人が開けたくなるかを考えた。

 

 三人は、宏の少し先を歩いている。

 

 山下が振り返った。

 

「河村、明日の西陣、何時や」

 

「九時です」

 

「ほな、遅れんなよ」

 

「先輩も来るんですか」

 

「俺が見つけた会社や」

 

「仕事を見つけたのは、フィールドリンクです」

 

 佳織が笑った。

 

「誰の仕事か決めてる間に、明日になるで」

 

 真由美は何も言わず、宏の歩調に合わせた。

 

 町家を出たときには見えなかった月が、屋根の間に出ている。

 

 宏は鞄の中の予定表を開いた。

 

 明日の西陣の欄に、真由美の字で、河村、と書かれていた。

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『 一人分の幅 』

 

後日譚 同じ机

 

三年後、名古屋市は、商店街で続いている小さな取り組みを一冊の冊子にまとめることになった。

 

空き店舗へ新しい店を入れた事例だけではない。

 

一日だけ場所を貸した店。

 

月に一度、店先を使って相談を受ける人。

 

閉店後の客席を、地域の集まりへ開放している喫茶店。

 

売上や来場者数だけでは測れない活動を、始めた人の言葉で残す。

 

企画を出したのは広報課ではなく、産業振興課だった。

 

制作の担当者として、冨永の名前が入っている。

 

四十三歳になった冨永は、最初の打ち合わせで、取材候補の一覧を受け取った。

 

十六の商店街と、二十二の活動。

 

冨永は一覧を上から追い、堀川西商店街のところで指を止めた。

 

「まだ使えますか」。

 

あの言葉を、三年ぶりに見る。

 

活動を説明する者は、河合美里。

 

現場での案内づくりを助言する者として、長谷部京子の名も記されていた。

 

「この人選は、誰が決めたんですか」

 

冨永が尋ねる。

 

「各商店街から推薦してもらいました」

 

産業振興課の職員が答える。

 

「堀川西からは、河合さんと長谷部さんです。河合さんが活動の経緯を話し、長谷部さんには、冊子全体の案内が現場の実情と合っているかを見てもらいます」

 

「全体の?」

 

「十六商店街分です」

 

「業務の依頼先は」

 

「商店街連合会です。謝金も連合会から支払います」

 

冨永は資料を読み直した。

 

「何か問題がありますか」

 

「ありません」

 

冨永は資料を閉じた。

 

第一回の編集会議は、市役所の会議室で開かれた。

 

冨永、産業振興課の職員、冊子のデザイナー、商店街連合会の二人。取材される側から河合が出席し、現場助言者として京子が加わる。

 

京子が会議室へ入ってきたとき、冨永は資料を配っていた。

 

二人とも、出席者一覧に互いの名前があることを知っていた。

 

「お久しぶりです」

 

京子が言う。

 

「お久しぶりです」

 

冨永は資料を一部渡した。

 

「こちらへお願いします」

 

案内したのは、河合の隣だった。

 

冨永との間には、長机が一本ある。

 

デザイナーが、最初の構成案を画面へ映す。

 

表紙には、古い商店街の通りを歩く若い家族の写真。見出しは、

 

「まちを変える、新しい挑戦」

 

となっている。

 

京子は一ページ目を見たまま、何も言わない。

 

河合が先に首を傾けた。

 

「私たち、まちを変えようと思って始めたわけじゃないです」

 

「結果として、変わった部分はありますよね」

 

産業振興課の職員が答える。

 

「それは、ありますけど」

 

河合の言葉が止まる。

 

京子は見出しの下にある小さな文章を読む。

 

若い担い手たちが生み出す、商店街の新たな魅力。

 

「若くない人も出るんですよね」

 

京子が尋ねた。

 

「はい。店主の方には、七十代の方もいます」

 

「表紙を見ると、若い人が古い商店街を変える話に見えます」

 

デザイナーが画面を見る。

 

「その方が、手に取ってもらいやすいかと思いまして」

 

「時計店の人、これを見たら、自分の話じゃないと思うかもしれない」

 

京子は否定するだけで、代わりの見出しを出さない。

 

デザイナーが少し困ったように、冨永を見る。

 

「市としては、どうでしょう」

 

「市の中では、『新たな担い手による商店街活性化事例集』という名称です」

 

「もっと固いですね」

 

「それを表紙へ使うつもりはありません」

 

冨永は取材候補の一覧を開いた。

 

「始めた人だけでなく、長く続けている店が、場所や道具を貸した事例もあります。新しい人が古い店を変えた、という構成では収まらないと思います」

 

「では、何を中心にしますか」

 

問いに、誰もすぐ答えない。

 

会議室の正面には、仮の表紙が映っている。

 

若い家族。

 

古い商店街。

 

新しい挑戦。

 

どれも間違いではない。

 

京子は写真の外側へ目を向けた。そこには、写っていない人が多かった。

 

河合が資料をめくる。

 

「どの活動も、一人では続いてないですよね」

 

「借りたものを、書いたらどうでしょう」

 

河合が言う。

 

「場所、道具、人の手。それがないと続かなかったもの」

 

冨永は一覧へ印をつける。

 

「全事例に、借りたものを尋ねますか」

 

「借りたとは思ってない人もいるでしょう」

 

京子が言う。

 

「手伝ってもらったこと、では?」

 

「広すぎませんか」

 

産業振興課の職員が尋ねる。

 

「それなら、続けるために必要だったもの」

 

冨永が言う。

 

京子はその言葉を聞き、資料の余白へ書く。

 

「人じゃなくてもいいですね。鍵とか、空いてる時間とか」

 

「断られたことも入れられます」

 

「失敗も?」

 

デザイナーが顔を上げる。

 

「必要なら」

 

「市の冊子に?」

 

三年前にも聞いた言葉だった。

 

冨永は少し笑う。

 

「今の形になるまでの話です」

 

京子も、その答えを覚えている。

 

けれど、覚えていますとは言わない。

 

デザイナーは表紙の見出しを消した。

 

白くなった画面へ、新しい文字を仮に入れる。

 

続けるために、借りたもの。

 

「少し地味ですね」

 

産業振興課の職員が言う。

 

「中身には合っています」

 

河合が答えた。

 

京子は画面を見ている。

 

「『借りたもの』だけだと、返したら終わる感じがする」

 

「では、『借りているもの』?」

 

冨永が尋ねる。

 

「今も続いてる話なら」

 

デザイナーが直す。

 

続けるために、借りているもの。

 

会議室の全員が、画面を見る。

 

「今日は、ここまでにしましょう」

 

冨永が時計を見る。

 

予定時刻を五分過ぎている。

 

「次回までに、各取材先へ『続けるために必要だったもの』を聞きます。表紙の言葉は、その答えを見てから決めます」

 

「今、決めないんですか」

 

産業振興課の職員が尋ねる。

 

「先に決めると、答えを見出しへ合わせることになります」

 

冨永が言う。

 

京子は資料を閉じた。

 

「その方がいいと思います」

 

会議が終わる。

 

出席者は資料を重ね、次の日程を確認した。

 

河合が京子へ、駅まで一緒に行こうと声をかける。

 

「少し待って。付箋が落ちてる」

 

京子は机の下へしゃがみ、小さな黄色い付箋を拾った。表には、時計店、と書かれている。

 

冨永が資料を数えている。

 

「一部、足りません」

 

「これじゃないですか」

 

京子が椅子の下から冊子案を一部出す。

 

「ありがとうございます」

 

「前と同じですね」

 

「何がですか」

 

「机の上では、何か一つ足りなくなる」

 

冨永は資料を受け取る。

 

「今日は、早く終わりました」

 

「五分過ぎました」

 

「市役所としては、誤差です」

 

「前は、十二分でも遅れでしたよ」

 

二人は少し笑う。

 

河合が会議室の入口で待っている。

 

廊下には、産業振興課の職員もいる。

 

河合が先に廊下へ出る。

 

京子も資料を抱えて立ち上がった。

 

冨永が会議室の照明を消す。

 

「忘れ物は?」

 

「ありません」

 

「珍しい」

 

「今日は拾う人がいましたから」

 

京子が黄色い付箋を見せる。

 

冨永は笑った。

 

河合が廊下の先から振り返る。

 

「駅まで行きますよ」

 

京子が答える。

 

冨永も資料を抱え直した。

 

「私も駅です」

 

三人は歩き出す。

 

階段を下りる途中で、河合が先へ行く。

 

「先に改札へ行ってます」

 

京子は小さく手を上げた。

 

冨永と並んで歩く。

 

二人の間には、まだ一人分の幅がある。

 

けれど、以前ほど遠くはない。

 

外へ出ると、夕方の商店街を人が行き交っている。

 

冨永は、少しだけ歩く速さを落とした。

 

京子も合わせた。

 

どちらも、そのことには触れなかった。

 

駅までの道は、近道でも遠回りでもなかった。;

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『 一人分の幅 』

 

終章 写らない場所

 

「まだ使えますか」

 

は、その翌年も開かれた。

 

三度目には、参加店が十一店へ増えていた。

 

「つづき」

 

は服の作り替え相談を続け、幸子の店では、古いハンカチを使った包み方を河合たちが教える。

 

種井のラーメン店は、今回もラーメンを出すだけである。

 

ただし、二階を相談場所として貸す予定表は、種井が自分で作った。

 

塚口の喫茶店では、珈琲器具の相談に加え、古くなったカップを植木鉢や小物入れに使う見本を置く。

 

「割れてないカップを植木鉢にするのは、もったいないでしょう」

 

河合が言う。

 

「取っ手が取れたやつだ」

 

「欠けたところ、危なくないですか」

 

「そこは種井に削らせる」

 

「何で俺がやるんだ」

 

隣の店から種井の声が飛んでくる。

 

「お前、椅子を直せるだろ」

 

「椅子とカップは違う」

 

「同じようなもんだ」

 

「全然違う」

 

二人の声が商店街に響く。

 

幸子が鉄板の前から顔を出した。

 

「京子に聞けば?」

 

「私は陶器を直す人じゃないよ」

 

「余計なお世話」

 

の入口で、京子が答える。

 

「じゃあ、誰に聞く」

 

「金継ぎをしてる人、古本屋さんが知ってるって」

 

「また店が増えるな」

 

塚口は嬉しそうに言った。

 

この年、市役所の特別な支援はない。案内図は河合たちが作り、参加店への聞き取りは衣料品店主と幸子が回っている。

 

京子は自分の店の案内だけを作った。

 

冨永は同じころ、港に近い別の商店街を担当していた。

 

古くからの店と、新しく入った店を一冊の小さな案内へまとめる仕事である。

 

最初の打ち合わせで、商店街側から二十七店分の原稿が出された。

 

営業時間、定休日、店の歴史、おすすめの商品。

 

どの店も同じ大きさの枠へ収めることになっている。

 

新しく開いた花店の店主が、原稿を見ながら言った。

 

「店の歴史がないと、書くことが少なく見えますね」

 

「開店して何年ですか」

 

冨永が尋ねる。

 

「半年です」

 

「半年で、何か変えたことはありますか」

 

「花の置き方を三回変えました」

 

「なぜですか」

 

「入口に鉢を置いたら、車椅子の方が入れなくて。中へ移したら、今度は外から花が見えなくなって」

 

「今は?」

 

「低い台にしています。外から見えて、通れるので」

 

冨永は、空いている原稿欄へ書き込んだ。

 

開店半年。花が見えて、人が通れる高さを探して、三度配置を変えました。

 

店主が横から読む。

 

「失敗した話を載せるんですか」

 

「三度目で、今の形になった話です」

 

「市の広報に?」

 

「商店街の案内です。嫌なら、別の話を探します」

 

店主は少し考えた。

 

「それでお願いします」

 

冨永は次の店へ進んだ。

 

会合が終わったあと、同行していた若い職員が資料を抱えて追いつく。

 

「冨永さん、原稿をその場で変えていくんですね」

 

「店の人が読んで決められるから」

 

「市役所へ持ち帰ってから、整えた方が早くないですか」

 

「早いこともある」

 

「今日は?」

 

「持ち帰ったら、二十七店へもう一度聞くことになる」

 

若い職員は資料の厚さを見る。

 

「その方が、遅いですね」

 

「たぶん」

 

夕方、家へ帰ると、潤が黄色いボタンの箱を開けている。

 

十一歳になった潤の手には、箱が前より小さく見えた。

 

「まだ持ってるのか」

 

「使ってる」

 

中には、小さなねじ、切れた紐、使いかけの金具、色の違うボタンが入っている。

 

以前あった消しゴムと金属片はなくなっていた。

 

「何かに使った?」

 

「学校の工作」

 

「何を作った」

 

「もう捨てた」

 

「箱の中身を使って作ったものを?」

 

「作ったから、もういい」

 

冨永には、少しわからない。

 

潤は箱の隅から赤い糸を出し、切れた靴紐へ結び始めた。

 

「それ、何になる」

 

「まだ決めてない」

 

その答えは、二年前と変わらない。

 

綾子が台所から、夕食ができたと呼ぶ。

 

冨永は上着を脱ぎ、家族のいる食卓へ向かった。

 

三度目の催しを一週間後に控えた午後、京子は塚口の店で写真を撮っていた。

 

新しく作った見本を、催しの案内へ載せるためである。

 

取っ手の取れた白いカップに、小さな緑の苗が入っている。土の上には、珈琲豆の形をした木片が二つ置かれていた。

 

「豆まで入れる必要ある?」

 

京子が聞く。

 

「喫茶店らしいだろ」

 

「カップだけでわかる」

 

「入れろ」

 

「写真を見て、珈琲豆も土に入れていいと思う人が出るよ」

 

「木だと書いとけ」

 

「写真に?」

 

「下の説明に」

 

塚口はカウンターの中へ戻った。

 

京子はカップを窓際へ置く。

 

外から入る光は弱い。店内の照明を消すと暗くなり、点けるとカップの縁に白い光が出る。

 

厚紙を一枚立て、照明の反射を弱くする。

 

椅子を少し引き、カメラを構えた。

 

画面の端に、入口から入ってきた男の腕が写る。

 

京子はカメラを下ろさない。

 

男はすぐに気づき、入口の脇へ一歩移った。

 

冨永だった。

 

今日は、市の防火案内を塚口へ渡しに来ている。催しの仕事ではない。

 

それでも、冨永は商店街へ来る途中、京子の店の前を通る道を選んだ。

 

近道だったからだ、と自分に言う。

 

実際、少しだけ近い。

 

けれど、別の道を通っても、仕事には間に合う。

 

店の前を通れば、京子がいるかもしれない。

 

そう思っている自分を、冨永はもう否定しなかった。

 

京子は、そのまま一枚撮る。

 

苗の葉。

 

白いカップ。

 

木で作った二粒の珈琲豆。

 

画面の中に、人は入っていない。

 

「今、入って大丈夫ですか」

 

撮り終わってから、冨永が尋ねる。

 

「もう終わりました」

 

京子は写真を確認する。

 

苗の葉も、白いカップも、木で作った二粒の珈琲豆も、きちんと画面に収まっている。

 

「塚口さんは?」

 

「奥」

 

「市役所か」

 

カウンターの向こうから塚口の声がする。

 

「はい。防火点検の案内です」

 

「そこ置いとけ」

 

「確認していただくところがあります」

 

「京ちゃん、聞いといて」

 

「私の店じゃないよ」

 

京子はカメラを鞄へしまう。

 

冨永はカウンターの端に書類を置き、奥から出てきた塚口へ説明を始めた。

 

消火器の位置。

 

避難口の前へ物を置かないこと。

 

点検日。

 

塚口は、植木鉢にするカップをどこへ置くか聞く。

 

「避難の邪魔にならない場所で」

 

「どこだ」

 

「店内は、私には決められません」

 

「京ちゃん」

 

「入口の棚の上」

 

「そこならいいか」

 

冨永は入口から棚までの幅を見る。

 

「通路へ出なければ」

 

「二人とも、同じようなこと言うな」

 

塚口は書類へ印をつけた。

 

用件が終わるまで、京子は写真を選んでいる。

 

三枚のうち、一枚目は葉が少し揺れている。二枚目は木片の片方がカップの縁に隠れた。三枚目が一番整っている。

 

京子は一枚目を残した。

 

葉が動いている方が、店の窓際に置かれている感じがする。

 

冨永が書類を鞄へ入れる。

 

「催し、続いているんですね」

 

「三度目です」

 

「市へ案内が来ていました」

 

「今度は十一店です」

 

「増えましたね」

 

「塚口さんが、何でも入れようとするから」

 

「京ちゃんが止めるから、十一で済んどる」

 

「止めなかったら?」

 

「二十くらい」

 

塚口は珈琲を二杯、カウンターへ置いた。

 

「飲んでいけ」

 

「仕事中ですので」

 

「珈琲くらい飲めるだろ」

 

冨永は時計を見る。

 

次の訪問まで、二十分ある。

 

「では、一杯だけ」

 

塚口が京子を見る。

 

「京ちゃんも」

 

「私は撮影料に入れてもらう」

 

「頼んだ覚えはないぞ」

 

「河合さんから頼まれたの」

 

「じゃあ河合につけとく」

 

「やめて」

 

京子もカウンターへ座った。

 

二人の間には、椅子が一脚空いている。

 

塚口はその椅子を片づけない。

 

冨永と京子は、向かい合わない。

 

同じ方向を向き、窓の外を歩く人を見る。

 

塚口が奥から声をかける。

 

「二人とも、静かになったな」

 

「仕事の話をしてるだけでしょう」

 

京子が答える。

 

「前からそうだろ」

 

冨永も笑った。

 

「写真、撮れましたか」

 

冨永が尋ねる。

 

「必要なものは」

 

「木の珈琲豆も?」

 

「写ってます」

 

「本物と間違えませんか」

 

「下に説明を入れます」

 

「そうした方がいいですね」

 

「同じこと、さっき塚口さんに言いました」

 

「聞いてなかったんでしょう」

 

「聞いてないふり」

 

塚口が奥から言う。

 

二人は少し笑った。

 

珈琲を飲み終えると、冨永は先に立った。

 

「では」

 

「お仕事、頑張ってください」

 

「長谷部さんも」

 

冨永は店を出る。

 

京子は残った珈琲を飲み、写真をもう一度見る。

 

窓の外を歩く冨永の姿は、画面には残っていない。

 

その日の夕方、冨永は市役所へ戻り、次の商店街の案内原稿を開いた。

 

京子は

 

「余計なお世話」

 

へ戻り、切れた革紐の修理を始める。

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『 棚のない商店街 』 ストーリー 7

 

第十五章 店を持たない店

 

 十月の終わり。

 

 新しいアイデアが出た。

 

 きっかけは、商店街の奥にある古い電器店だった。

 

 店主は七十歳を過ぎている。

 

 店には昔のテレビや電球、乾電池などが並んでいる。

 

 売上は低い。

 

 それでも、店主は店を閉めようとしなかった。

 

「ここを閉めたら、困る人がいるから」

 

 そう言った。

 

「電池一本でも買いに来る人がいる」

 

 涼は店内を見た。

 

 古い商品と、新しい商品が混ざっている。

 

 そこで井上が言った。

 

「この店、売るだけじゃなくて案内所にできないかな」

 

「案内所?」

 

 冴が顔を上げた。

 

「高齢者が困ったときに相談できる場所」

 

 井上が続けた。

 

「例えばスマートフォンの使い方とか」

 

「100円ショップの商品を?」

 

「いや、それだけじゃない」

 

 井上は続けた。

 

「どの店に何があるか分からない人が、ここで聞けるようにする」

 

 涼は電器店を見た。

 

「店を持たない店」

 

「どういう意味?」

 

 志保が聞く。

 

「商品を売る店じゃなくて、商店街全体の商品を案内する店」

 

 それは、今までの発想とは少し違った。

 

 100円ショップの店舗を増やすのではない。

 

 商店街そのものを、一つの店として考える。

 

 そのためには、入口だけでは足りない。

 

 商店街の中にも案内する場所が必要だった。

 

 電器店の店主に話をすると、意外にもすぐ了承してくれた。

 

「暇だからね」

 

 店主は笑った。

 

「人と話すほうが楽しいよ」

 

 翌週から、電器店の前に小さな案内板が置かれた。

 

「商店街のお買い物案内」

 

 欲しい商品を言えば、どの店にあるのか教えてくれる。

 

 歩くのが難しければ、一番近い店を案内する。

 

 何軒か回る必要があれば、順番を考えてくれる。

 

 スマートフォンを持っていない人には、紙に書いて渡す。

 

 それだけだった。

 

 けれど、利用する人は少なくなかった。

 

 ある日、一人の女性が来た。

 

「孫に頼まれたんだけど」

 

 手に紙を持っている。

 

「何をお探しですか?」

 

 店主が紙を見る。

 

「学校で使うもの」

 

 店主が頷いた。

 

「ノートと、赤いペンと、透明な袋」

 

「それなら三軒ですね」

 

 店主は商店街の地図を出した。

 

「まず文房具。その次に日用品。最後に収納用品」

 

 女性は頷いた。

 

「これなら分かる」

 

 そして商店街へ歩いていった。

 

 涼はその様子を少し離れたところから見ていた。

 

 最初に百円ショップを商店街へ分散させようと考えたとき、涼は商品をどう配置するかばかり考えていた。

 

 今は違う。

 

 商店街で何を買えるか。

 

 どう歩くか。

 

 誰に聞けばいいか。

 

 どこで休めるか。

 

 それら全部が一つの店の機能になっている。

 

 商店街が、少しずつ本当に一つの店になり始めていた。

 

 十一月に入ると、数字がさらに動いた。

 

 前年同期比一二・六パーセント。

 

 目標の一五パーセントまで、あと二・四ポイント。

 

 会議室で井上が発表すると、田島が笑った。

 

「あと少しじゃん」

 

「まだ三か月ある」

 

 加藤が言う。

 

「逆に言えば、ここからが難しい」

 

 冴も頷いた。

 

「伸びている数字ほど、さらに伸ばすのは難しくなる」

 

 涼はグラフを見ていた。

 

 数字は上がっている。

 

 しかし、その上がり方が鈍くなっている。

 

 これまでの方法だけでは、一五パーセントには届かない。

 

 何かもう一つ必要だった。

 

 その日の夕方、商店街の会長がプロジェクトチームを集めた。

 

「ちょっと相談がある」

 

 六人が集会所へ行くと、会長の隣に見知らぬ女性が座っていた。

 

 三十代くらい。

 

 商店街の人間ではない。

 

「この人、うちの商店街に店を出したいそうだ」

 

 会長が言った。

 

 涼たちは顔を見合わせた。

 

「どんなお店ですか?」

 

 志保が聞いた。

 

 女性は少し緊張した様子で答えた。

 

「まだ決めていません」

 

「決めてない?」

 

「はい」

 

 女性は笑った。

 

「でも、この商店街なら、何かできる気がして」

 

 涼はその言葉を聞いて、少し驚いた。

 

 空き店舗を埋めるために、こちらから人を探していた。

 

 今は逆に、向こうから来ようとしている。

 

「以前から、この商店街を知っていたんですか?」

 

 冴が聞いた。

 

「子どもの頃に住んでいました」

 

 女性は商店街を見渡した。

 

「結婚して外へ出ましたけど、最近戻ってきたんです」

 

「それで?」

 

「前より、人が歩いているので」

 

 女性は笑った。

 

「ちょっと、気になって」

 

 会長が涼たちを見る。

 

「これ、あんたたちの仕事だろ」

 

 涼は何も言えなかった。

 

 再生の数字を追ってきた。

 

 空き店舗を埋めることを考えてきた。

 

 しかし今、数字とは別のところで、一人の人間がこの商店街に戻ろうとしている。

 

 それは、プロジェクトが始まって以来、初めての出来事だった。

 

 加藤が女性に尋ねた。

 

「どんな店を考えていますか?」

 

「それを、皆さんと一緒に考えたいんです」

 

 会議室の空気が変わった。

 

 六人は顔を見合わせた。

 

 100円ショップの商品を置く。

 

 人を歩かせる。

 

 既存店舗へつなぐ。

 

 売上を上げる。

 

 それだけだったはずのプロジェクトが、いつの間にか別の段階へ進み始めていた。

 

 商店街の外から、人が入ってくる。

 

 そして今度は、その人が自分の店を作ろうとしている。

 

 涼は地図を広げた。

 

 まだ一軒、空いている店舗がある。

 

 そこは、最初から使わないと決めていた場所だった。

 

 駅から遠く、入口からも見えにくい。

 

 だから売れない。

 

 そう考えていた。

 

 しかし、その女性の話を聞いたあと、涼はその店舗を見に行くことにした。

 

 冴もついてきた。

 

 シャッターを開けると、埃っぽい空気が流れ出した。

 

 何もない。

 

 床も壁も古い。

 

 だが、奥に小さな窓がある。

 

 そこから商店街の裏側が見えた。

 

「ここ、悪くないかも」

 

 冴が言った。

 

「俺もそう思う」

 

 二人はしばらく黙っていた。

 

 そのとき、冴が言った。

 

「ねえ、涼」

 

「何?」

 

「もし一年後、この商店街が残ったら」

 

 涼は冴を見る。

 

「そのとき、私たちはどうするんだろうね」

 

 涼は答えられなかった。

 

 一年後。

 

 その言葉を聞いた瞬間、商店街のことだけではなくなった。

 

 このプロジェクトが終われば、六人は元の部署へ戻る。

 

 冴も、自分も。

 

 また別々の仕事になる。

 

 そう考えると、今まで考えないようにしていたものが、急に近くに感じられた。

 

「まだ三か月あるよ」

 

 涼はそう言った。

 

「うん」

 

 冴は笑った。

 

「そうだね」

 

 シャッターの外では、商店街を歩く人の声がしていた。

 

 半年。

 

 その時間が長いのか短いのか、涼にはもう分からなかった。

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連載 小説.       『 京都テクノリンク 』      連載  7回目

 

第十五章 フィールドリンク

 

 学生たちは事故のあとも、街の情報を町家へ送り続けていた。

 

 道が混む時刻、工事で通れない路地、雨の日だけ遅れるバス。それに交じって、頼んでいない報告が増えた。

 

〈電話が鳴るたび、和菓子店の奥で機械の音が止まる〉

 

〈外国人の二人連れが、料理店の献立を見て、戸を開けずに帰った〉

 

〈新しい機械を入れた工房で、年配の職人が若い人へ使い方を聞いていた。二人とも笑っていた〉

 

 山下は三つ目の報告を読み直した。

 

「悪いところやのうて、うまいこといってるところを見つけたんか」

 

「はい。前は、若い職人がすぐ辞める工房やったそうです」

 

 高瀬が答えた。

 

「何で、変わった」

 

「そこまでは分かりません。聞きに行ってもええですか」

 

「会社の中へ、勝手に入ったらあかんで」

 

「分かってます。何を聞くか、先に決めたいんです」

 

 水野沙耶が一枚の紙を出した。

 

「私ら、悪いところを探す調査やったら、会社の人も嫌やと思うんです。うまくいってることを見つけて、どうしてできたか教えてもらうんやったら、話してくれる人がおるんと違いますか」

 

 山下は佳織からの連絡を思い出した。

 

 学生の目を、道だけに使うのはもったいない。

 

「名前、変えよか」

 

「学生ネットワークですか」

 

「学生やなくなったら、終わる名前や。君らが見つけた現場と、次の会社をつなぐ。フィールドリンク、いうのはどうや」

 

 高瀬は紙へ書いた。

 

「ちょっと格好よすぎません?」

 

「名前ぐらい、格好つけさせてくれ」

 

「山下さんが考えたんですか」

 

「いま、考えた」

 

「ほな、みんなにも聞きます」

 

「代表の立場は?」

 

「多数決の一票です」

 

 翌週、学生たちは〈フィールドリンク〉と書いた紙を持ってきた。

 

 下に、小さく説明が添えられている。

 

 ――うまくいっている現場を見つけ、次の現場へつなぐ。

 

「これやったら、何するか分かるな」

 

 山下が言うと、高瀬は首を振った。

 

「まだです。見つけたあと、京都テクノリンクが何するか分かりません」

 

「痛いとこ突くな」

 

 宏が紙を受け取った。

 

「学生が見つけた会社へ、僕が行きます。機械が入ってるだけやのうて、ほんまに仕事が良うなったかを見る。働いてる人にも聞く」

 

「それを、ほかの会社へ紹介するんですか」

 

「同じ機械を勧めるとは限りません。何でうまくいったかを持ち帰ります」

 

 真由美は、調査へ協力してくれた会社にも金を戻すべきだと言った。

 

「会社の中を見せて、失敗した話までしてもらうんです。紹介料をうちだけが取ったら、次は話してもらえません」

 

「学生には?」

 

「見つけた数では払いません。数を競ったら、何でも成功にしてしまいます。話を聞くところまで進んだ案件は、チームへ調査協力費を払います」

 

「めんどくさい仕組みやな」

 

「長う続ける仕組みです」

 

 事故から三か月が過ぎ、京都の朝夕にようやく秋の気配が混じり始めたころ、佳織が町家へ戻った。

 

 退院したその足で、佳織は宏の借りた黒いワゴン車に乗り、町家へ来た。赤いポルシェより乗り降りしやすいというだけで、佳織は車を気に入らなかった。

 

「格好悪い車やな」

 

「乗りやすいです」

 

「それが腹立つ」

 

 町家では、学生たちが待っていた。

 

 拍手をしかけた高瀬を、佳織がにらんだ。

 

「見世物やないで」

 

「すみません」

 

「そやけど、祝いは受け取る」

 

 沙耶が、小さな植木鉢を差し出した。

 

「病室で花は見飽きはったと思って」

 

「枯らしたら、あんたらの責任やで」

 

「佳織さんが水やるんです」

 

「うちの責任やん」

 

 笑い声が古い梁へ上がった。

 

 佳織はフィールドリンクの説明を最後まで聞いた。

 

「うちが寝てる間に、ええこと考えたやん」

 

 山下が胸を張った。

 

「誰が?」

 

「俺が」

 

「名前だけでしょう」

 

 高瀬が言う。

 

「学生に、代表を立ててもらえへん」

 

 佳織は、机に並んだ二組の名刺を見た。

 

「困ってる会社と、もう困ってへん会社をつなぐ。そやけど、うまいこといった話だけ聞いたらあかんで」

 

「何でです?」

 

「人は、人に見せるとき、失敗したとこだけきれいに隠すから」

 

「ほな、どうする」

 

「失敗した話までしてもええと思われる付き合いをする」

 

 山下が笑った。

 

「それが、いちばん難しいんや」

 

「やっと分かった?」

 

 佳織は椅子へ深く座った。

 

 声は事故の前より細い。

 

 それでも、町家の空気は久しぶりに動いていた。

 

第十六章 うまくいった理由

 

 フィールドリンクが最初に見つけたのは、南区の小さな金属加工会社だった。

 

 三年前まで、若い社員が一年も続かなかった。いまは二十代の社員が四人おり、古い機械と新しい測定器を一緒に使っている。

 

 社長は、見学を頼む山下へ言った。

 

「うち、成功した会社やありませんで」

 

「学生は、うまいこといってると言うてます」

 

「学生さんは、外から見るよって」

 

「そやから、中を見せてほしいんです」

 

「失敗した話も?」

 

「そっちのほうが、高う買います」

 

 社長は笑った。

 

「失敗に値段つける会社、初めてや」

 

 宏は二日間、工場へ入った。

 

 新しい測定器より、古い旋盤の横に置かれた小さな白板が気になった。職人が気づいたことを書き、若い社員が質問を書き足している。

 

「これを置いてから、若い人が続くようになったんですか」

 

 社長は首を振った。

 

「反対です。若い子が、置いたんです」

 

 以前は分からないことがあるたび、親方を探した。親方は自分の機械を止め、若い社員のところへ行く。同じ質問をされると、声が荒くなる。若い社員は尋ねることをやめ、失敗して、辞めた。

 

 最後に残った一人が、質問を白板へ書いた。親方は手が空いたときに答えた。別の職人も書き足した。

 

「新しい測定器が良かったんやないんですか」

 

「あれも要りました。そやけど、測定器を入れた最初の年は、二人辞めてます」

 

 宏は、機械の導入実績だけを調べていたら、違う答えを持ち帰るところだった。

 

「何で、白板のこと、外へ出してへんのです」

 

「こんなもん、恥ずかしいやろ。親方と若い子が話もでけへんかったいう証拠や」

 

「その恥ずかしい話を、買わせてください」

 

 社長は宏の顔を見た。

 

「ほんまに金取るんやな」

 

「取ります。御社にも払います」

 

「ほな、もうちょっと格好ええ話にしよか」

 

「格好悪いままでお願いします」

 

 同じころ、西陣の帯地問屋では、若い社員が続かないことに悩んでいた。

 

 山下は、南区の会社をすぐには紹介しなかった。

 

「若い者が辞める理由、何やと思わはります」

 

「根気がないんでしょう」

 

「それだけやったら、うちの仕事はありません」

 

 主人は不機嫌な顔をした。

 

「仕事取りに来て、仕事ない言いますか」

 

「要らんもん売るより、ましです」

 

 山下は店の奥を見た。

 

 若い社員が帳面を抱え、階段を上がっていく。その少しあとを、別の社員が追った。

 

「あの人、何しに上がらはったんです」

 

「在庫見に行ったんでしょう」

 

「一日、何回ぐらい?」

 

「昔からのことです。数えたことありません」

 

「ほな、それを数えさせてください。それでも若い人の根気の話やったら、南区の会社は紹介しません」

 

「何でです」

 

「向こうは、根気をつける方法を売ってるんやありません。質問しても仕事が止まらん方法を教えてくれる会社です」

 

 主人は、階段を上がる社員を見た。

 

「三日だけやで」

 

「三日分は、いただきます」

 

「ちゃっかりしてるな」

 

「続けなあきませんよって」

 

 三日で、社員は百八十六回、階段を上がった。そのうち四十二回は、在庫がないことを確かめるためだった。

 

 宏は数字を主人へ見せたあと、若い社員の携帯電話を見せてもらった。商品札の写真が何百枚も入っている。社員は、次に同じことを尋ねられたとき、階段を上がらなくて済むよう、自分だけの在庫表を作っていた。

 

「何で、私に言わへんかった」

 

「写真で在庫見るなんて、あかん言わはると思て」

 

 主人は返事をしなかった。

 

 南区の会社から買ったのは、白板そのものではない。

 

 若い社員が始めた工夫を、古い社員の顔を潰さず、会社の正式なやり方へ変えるまでの手順だった。

 

 問屋では、携帯電話の写真を事務所でも見られるようにした。古い帳面は捨てず、色名と取引先の呼び方を残したまま、新しい情報を横へ加えた。

 

 一月後、主人は宏を倉庫へ呼んだ。

 

「この子が、客に自分で返事するようになりました。私に聞かんでも、あるかないか分かるよって」

 

「前は、ここまで来はりませんでしたね」

 

「来られへんかったんや。二階から呼ばれて、ない品物探してる間に一日終わってた」

 

 主人は、若い社員と帯地の箱を閉めた。

 

「忙しいのは、商売してる証拠やと思てました。ようけ動いてるだけで、仕事してへん時間があったんですな」

 

 南区の社長を招いた報告会で、主人はその話をした。

 

「うちの白板が、えらい立派になりましたな」

 

「白板は入れてません」

 

「ほな、何を買わはったんです」

 

 問屋の主人は少し考えた。

 

「若い子のしてることを、あかんと言う前に見るやり方ですかな」

 

「そんなええもん、うちにありましたか」

 

「あったことにしといてください。高い金、払いましたよって」

 

 二人は笑った。

 

 京都テクノリンクには、現場調査の費用、やり方を移すための設計料、導入後の支援料が入った。南区の会社にも、ノウハウ協力費が支払われた。フィールドリンクの学生には、次の調査へ使う協力費が戻された。

 

 誰か一人だけが得をする紹介ではなかった。

 

 うまくいった経験が、次の会社で別の形になり、また新しい経験を生んだ。

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「 尾道の坂を下って 」  ⑧ー⑤

 

第七章 三十分の外

 

 里奈のノートに、時刻を書く欄が増えた。

 

 頼まれたことの隣には、終わるはずの時刻も書いた。

 

 それでも、書いたとおりに終わるとは限らなかった。

 

 栗原に頼まれたのは、携帯電話に届いた写真を紙にしてほしい、ということだった。

 

「孫の写真が七枚あるんよ」

 

 栗原は古い携帯電話を里奈へ渡した。

 

「写真屋へ持っていけばええんじゃろ」

 

「この電話ごとですか」

 

「写真だけ外したら、電話ができんようになるじゃろ」

 

「写真を取り出すというのは、そういう意味ではありません」

 

 説明しても、栗原は納得しなかった。結局、里奈は携帯電話を預からず、栗原と一緒に店まで下りることにした。

 

 七枚のはずの写真は、四十枚近くあった。

 

 同じ子どもが、同じ遊具の前で、少しずつ違う顔をしていた。

 

「どれにしますか」

 

「ええのを選んで」

 

「私には選べません」

 

「笑うとるのがええ」

 

「全部笑っています」

 

 一枚ずつ画面を見せた。栗原は、これもええ、それも捨てがたいと言った。選んだ写真を注文するところまでに、一時間かかった。

 

 出来上がりを待ち、坂の上の家へ届けると、二時間近く過ぎていた。

 

 栗原は写真を畳へ並べ、何度も置き換えた。

 

「大きいのを一枚にすればよかったね」

 

「それは、最初に聞きました」

 

「聞かれたときは、分からんかった」

 

 栗原は小銭入れから三百円を出した。

 

 里奈は受け取った。

 

 帰りの石段で掌を開くと、汗で硬貨が湿っていた。

 

 二時間で三百円だった。

 

 写真を選んだ時間も、店で待った時間も、坂を上った時間も、なかったことにはできない。けれど、頼まれる前に金額を言わなかったのは自分だった。

 

 翌週、栗原からまた声がかかった。

 

「今度は、写真を入れる帳面を買うてきて。入れるところまで頼む」

 

「三十分まで三百円です」

 

 里奈は言った。

 

「三十分を過ぎたら、五百円。アルバム代は別です」

 

 栗原は口を少し開けた。

 

「この前は三百円じゃったよ」

 

「この前、先に決めなかったのは私の間違いです」

 

「テルちゃんは三百円でしてくれる」

 

「では、テルさんに頼んでください」

 

 庭の鉢の間でりんごを食べていたテルさんが、顔を上げた。

 

「私は写真を選ばんよ」

 

「選ばんでええ。入れるだけで」

 

「三十分たったら、途中でも帰るよ」

 

「途中で帰られたら困る」

 

 栗原は里奈とテルさんを見比べた。

 

「五百円で、最後までしてくれるん?」

 

「一時間までです。終わらなければ、残りは別の日にします」

 

「細かいねえ」

 

「お金のことは、細かくしておいたほうがいいんです」

 

 どこかで言ったことのある言葉だった。

 

 栗原はしばらく考えたあと、電話台の引き出しから千円札を出した。

 

「先に払う」

 

「終わってからで大丈夫です」

 

「途中で帰られたら困るけえ」

 

 里奈は千円札を受け取り、五百円玉を返した。

 

 アルバムを買い、写真を日付順に並べた。栗原は途中で何度も、これは何月じゃったか、あの子の誕生日はいつじゃったかと言った。

 

 一時間で、最後の一枚まで入った。

 

 栗原は閉じたアルバムの表紙を手でなでた。

 

「三百円でも、できたんじゃない?」

 

「できません」

 

 里奈は答えた。

 

 今度は、笑わずに言えた。

 

第八章 仕事ではない

 

 それから二か月がたった。

 

 里奈のノートには、二十人ほどの名前が並んでいた。

 

 毎週決まって頼む人もいれば、一度きりの人もいた。電話が鳴るたび、空白だった一日のどこかに、人の名前が入った。

 

 朝、鞄へノートを入れるとき、今日は誰の名前が増えるのだろうと思うようになっていた。

 

 ある晩、携帯電話に大阪の元同僚からメールが入った。

 

〈まだ尾道にいるの?〉

 

 里奈は、しばらく考えてから返した。

 

〈いるよ。少し仕事もしてる〉

 

 すぐに電話が鳴った。

 

 美穂だった。大阪の会社で、三年ほど同じ部署にいた。

 

「仕事、見つかったの?」

 

 懐かしい声だった。

 

「見つかったというか、自分でやってる」

 

「何の仕事?」

 

「買い物へ行ったり、郵便を出したり、人の話を聞いたり」

 

「介護?」

 

「介護ではないの。できることだけ。一回三百円で」

 

 電話の向こうが静かになった。

 

「それで暮らせるの?」

 

「家賃が安いから。食事をもらうこともあるし、何とか暮らしていけそう」

 

「里奈」

 

 同僚の声が変わった。

 

「何?」

 

「そんな仕事はしちゃ駄目だよ」

 

 里奈は笑おうとした。

 

「どうして?」

 

「だって、それは仕事なんかじゃないよ」

 

「お金はもらってる」

 

「三百円でしょう。人に恵んでもらってるようなものじゃないの」

 

 里奈は何も言えなかった。

 

「変な人の家に入ったりしてない? 何かあったらどうするの。会社なら守ってくれるけど、今は誰も——」

 

「もう切るね」

 

「里奈、怒ったの?」

 

「怒ってない」

 

「心配してるだけだから」

 

「分かってる」

 

 電話を切った。

 

 机の上には、その日受け取った百円玉が九枚あった。

 

 二人分の買い物。三十分の留守番。病院へ付き添った人からは、昼食代だと言って千円を渡され、断りきれなかった。

 

 里奈は百円玉を一枚ずつ並べた。

 

 九百円。

 

 朝から夕方まで動いて、手元に残ったのは九枚だった。

 

 明日は、そのうち三枚を持って小川の家へ行く。小川は牛乳を受け取ると、別の三枚を里奈の手へ載せる。

 

 昨日まで、そこに迷うことはなかった。

 

 里奈は並べた硬貨を掌で崩した。

 

 床へ落ちた一枚が、箪笥の下へ転がった。

 

 拾う気になれなかった。

 

第九章 来なかった人

 

 翌朝、里奈は布団から出なかった。

 

 九時に小川の牛乳を買うことになっていた。時計が九時を過ぎても、体を起こせなかった。

 

 小川は待っている。

 

 分かっていた。

 

 分かっていることが、余計に苦しかった。

 

 十時前、戸を叩く音がした。

 

「里奈ちゃん」

 

 テルさんの声だった。

 

 里奈は返事をしなかった。

 

「おるんじゃろ」

 

「いません」

 

「ほんなら誰が返事しとるん?」

 

 戸が開いた。鍵をかけていなかった。

 

 テルさんは買い物袋を畳へ置いた。中に牛乳が入っていた。

 

「小川さんが、里奈ちゃんが来ん言うて電話してきたよ」

 

「すみません」

 

「私に謝るん?」

 

 里奈は布団の上へ座ったまま、昨日の電話のことを話した。

 

 途中から涙が出た。止めようとすると、声まで震えた。

 

「机の百円玉を見たら、急に、自分が何をしていたのか分からなくなったんです」

 

 テルさんは隣へ座った。

 

「小川さんに会えません」

 

 テルさんは何も言わなかった。

 

「牛乳を渡したら、小川さんはまた百円玉を三枚出すでしょう。昨日までは、受け取れたんです。今朝になったら、手を出せなくなりました」

 

 テルさんは、しばらく里奈の顔を見ていた。

 

「何か言ってください」

 

「今、何か言うたら、私の話になるよ」

 

 テルさんの手が、里奈の背中に触れた。

 

 子どもをあやすようでもなく、慰めるようでもなく、ただ同じところをゆっくりさすった。

 

 里奈は泣き続けた。

 

「こんなこと、やってられません」

 

「うん」

 

「もう、やめます」

 

「うん」

 

「止めないんですか」

 

「やめるんじゃろ」

 

 テルさんは立ち上がった。

 

「どこへ行くんですか」

 

「田辺さんが、郵便局へ行ってほしい言うとった」

 

「こんなときに?」

 

「田辺さんは、里奈ちゃんが泣いとることを知らんけえ」

 

 テルさんは牛乳だけを残し、部屋を出ていった。

 

 里奈はその背中へ、何も言えなかった。

 

 昼を過ぎてから、里奈は箪笥の下へ手を入れた。昨夜拾えなかった百円玉には、薄く埃がついていた。

 

 翌朝、小川の家へ行った。

 

「牛乳は、昨日もろうたよ」

 

「はい」

 

「今日は何しに来たん?」

 

「昨日、行かなかったことを謝りに」

 

 小川は戸を半分だけ開けたまま、里奈を見た。

 

「それは頼んどらんよ」

 

「でも——」

 

「来週の牛乳は頼む。卵はまだあるけえ」

 

 戸が閉まった。

 

 里奈は、言えなかった言葉を持ったまま坂を下りた。その日からまた、ノートに書いた家を一軒ずつ回った。

 

 六日ほどたった朝、テルさんは「カリフォルニア」と歌ったあと、続きが出てこなかった。窓際に立ったまま、二度息を継いだ。

 

「歌詞を忘れたんですか」

 

「最初から覚えとらんよ」

 

 そう言って、いつもより早く歌をやめた。

 

 その翌日の午後、玄関で何かが床へ当たる音がした。

 

 テルさんが買い物袋を上がり框へ置き、壁へ片手をついていた。

 

「どうしたん?」

 

 春江の声がした。

 

「何でもない。ちょっと暑かった」

 

 里奈が袋を持とうとすると、テルさんは先に持ち上げた。

 

「これは私の頼まれごとよ」

 

 晩ご飯を半分残し、テルさんは早く二階へ上がった。

 

 夜、里奈が様子を見に行くと、もう布団へ入っていた。音楽プレーヤーは枕元に置かれ、イヤホンから小さく曲が漏れていた。

 

「具合が悪いんですか」

 

「眠いだけ」

 

「水、ここへ置きますよ」

 

 返事はなかった。

 

 里奈はコップを机へ置き、その夜は隣へ布団を敷いて眠った。

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『 棚のない商店街 』 ストーリー 6

 

第十三章 三か月目

 

 三か月目の最終日。

 

 プロジェクトチームは、最初の中間報告をまとめていた。

 

 売上は目標を上回った。

 

 来店者数も増えた。

 

 店舗間の回遊率も上がっている。

 

 さらに、既存店舗の一部で売上増加が確認された。

 

 数字だけを見れば、順調だった。

 

 しかし、井上は一つの数字を見つめていた。

 

「これ、おかしくないですか?」

 

「何が?」

 

 涼が聞く。

 

「高齢者の再来店率です」

 

「高い?」

 

「逆です」

 

 井上は画面を回した。

 

「一回目は来る。でも、二回目が少ない」

 

 冴が画面を見る。

 

「どうして?」

 

「分かりません」

 

 データだけでは分からない。

 

 そこで、六人は実際に聞いて回ることにした。

 

 商店街で買い物をしている高齢者に、簡単なアンケートを取る。

 

 なぜ来たのか。

 

 何を買ったのか。

 

 また来たいと思うか。

 

 その中に、一人の女性がいた。

 

 七十代くらい。

 

「一回は来ました」

 

「ありがとうございます」

 

 志保が聞く。

 

「また来たいですか?」

 

「うん」

 

「じゃあ、なぜ今まで来なかったんですか?」

 

 女性は少し困った顔をした。

 

「どこに何があるか分からないから」

 

「案内板がありますけど」

 

「見えるよ」

 

「では……」

 

「でもね」

 

 女性は笑った。

 

「歩くのが大変なの」

 

 六人は黙った。

 

 商店街を歩いてもらう。

 

 それが企画の前提だった。

 

 けれど、高齢者にとっては、歩くことそのものが負担になる場合がある。

 

 目的の商品を探すために、商店街を五百メートル歩く。

 

 それは楽しい人もいる。

 

 しかし、すべての人にとって楽しいわけではない。

 

「だから、買いたいものをまとめて教えてくれたらいいんだけどね」

 

 女性が言った。

 

「そうすれば、一番近い店から順番に回れるでしょう?」

 

 冴が顔を上げた。

 

「それです」

 

 女性は驚いた。

 

「え?」

 

「ありがとうございます」

 

 冴は頭を下げた。

 

 その日の午後、六人は案内システムを作り始めた。

 

 欲しい商品を選ぶ。

 

 現在地を入力する。

 

 最短の順番を表示する。

 

 スマートフォンだけではなく、入口の案内所でも紙にして渡す。

 

「商店街を歩かせるんじゃない」

 

 涼が言った。

 

「歩きたい人には歩いてもらう。でも、歩くのが大変な人には、楽に買える方法を作る」

 

 加藤が頷いた。

 

「それなら、この企画の意味も変わってくるな」

 

 涼は商店街を見た。

 

 再生という言葉を使うと、何かを元に戻すように聞こえる。

 

 しかし、元に戻す必要はない。

 

 今ここにいる人たちに合わせて、商店街の形を変えていけばいい。

 

 その夜、三か月目の中間報告書が完成した。

 

 売上目標達成。

 

 来店者数増加。

 

 回遊率増加。

 

 既存店舗への波及効果あり。

 

 そして、新たな改善策。

 

 翌朝、加藤が黒田へ報告書を送った。

 

 しばらくして返信が届いた。

 

 黒田からだった。

 

「社内で前向きに評価しています」

 

 そこまでは、良かった。

 

 しかし、続きがあった。

 

「ただし、経営会議から追加条件が出ました」

 

 涼は画面を見つめた。

 

「中間報告から三か月後までに、商店街全体の売上を前年比一五パーセント以上増加させること」

 

 誰も声を出さなかった。

 

 三か月で、ようやく形が見えてきた。

 

 それなのに、次の目標はさらに高い。

 

 しかも、100円ショップの売上だけではない。

 

 商店街全体。

 

 昔からある店も含めて。

 

 空き店舗を利用した実験だけでは、届かない数字だった。

 

 加藤がゆっくり立ち上がった。

 

「次は、商店街そのものを動かさないといけない」

 

 涼は窓の外を見た。

 

 夕方の商店街を、人が歩いている。

 

 以前より確かに増えている。

 

 けれど、まだ足りない。

 

 一五パーセント。

 

 その数字の向こうには、六人がまだ見つけていない何かがある。

 

 そしてその頃、藤村冴のもとに一本の電話が入っていた。

 

 大学時代の友人からだった。

 

「冴、今度こっちに戻ってくるんだって?」

 

「うん。仕事でね」

 

「そういえば、永島君も一緒?」

 

 冴は答えなかった。

 

「まだ付き合ってるの?」

 

 その一言に、冴の手が止まった。

 

「……もう、ずっと前に別れてる」

 

「そうだったね」

 

 電話の向こうの友人は、何気なく言った。

 

「でも、また一緒に仕事してるんでしょう?」

 

 冴は窓の外を見た。

 

 商店街の明かりが一つずつ点いていく。

 

「うん」

 

「じゃあ、ちょうどいいじゃん」

 

「何が?」

 

「今度は、ちゃんと話せるんじゃない?」

 

 冴は返事をしなかった。

 

 電話を切ったあとも、その言葉が残った。

 

 ちゃんと話せる。

 

 冴自身、何を話したいのか分からなかった。

 

 別れた理由なのか。

 

 あの頃のことなのか。

 

 それとも、今のことなのか。

 

 ただ一つだけ確かなのは、このプロジェクトが終わるまで、涼と一緒にいる時間はまだ続くということだった。

 

第十四章 十五パーセント

 

 プロジェクト開始から半年後までに、商店街全体の売上を前年比一五パーセント以上にする。

 

 その数字が決まってから、六人の動きは変わった。

 

 それまでは、100円ショップの売上を伸ばすことが中心だった。

 

 しかし、これからは違う。

 

 商店街に昔からある店も含めて、全体の数字を上げなければならない。

 

 月曜日の朝、最初の会議で加藤が言った。

 

「100円ショップを増やすだけでは届かない」

 

 井上が資料を映した。

 

「現在の商店街全体の売上は、前年同期比で七・八パーセント増です」

 

「悪くないじゃん」

 

 田島が言った。

 

「でも一五には届かない」

 

「あと七・二パーセント」

 

 志保が数字を見た。

 

「半年で?」

 

「正確には、残り三か月です」

 

 井上が答えた。

 

 会議室が静かになった。

 

 プロジェクトが始まって三か月。

 

 実証実験の折り返し地点だった。

 

 100円ショップの六店舗は、すでに商店街に馴染み始めている。

 

 客も増えた。

 

 しかし、数字を細かく見ると、課題はまだ多い。

 

 100円ショップの売上は伸びている。

 

 既存店舗も一部は伸びている。

 

 だが、全体を押し上げるには足りない。

 

「商店街全体で何が一番弱い?」

 

 加藤が聞いた。

 

 井上が画面を切り替えた。

 

「夕方です」

 

「夕方?」

 

「午後六時以降の売上が低い」

 

 グラフの線が急に下がっている。

 

「昼間は人が来る。でも、夕方になると帰る」

 

「仕事帰りの人を呼べない?」

 

 志保が言った。

 

「この商店街を通って駅へ向かう人はいるんです」

 

 井上が答える。

 

「でも、立ち寄らない」

 

 涼は地図を見た。

 

 商店街の入口から駅までは十分ほど。

 

 住宅地から駅へ向かう人は、毎日かなりいる。

 

 なのに、その人たちは商店街を通り過ぎる。

 

「昼間の客を増やすより、今いる人を止めるほうがいい」

 

 涼が言った。

 

「どうやって?」

 

 志保が聞く。

 

 涼は答えられなかった。

 

 そのとき、田島が言った。

 

「夕方だけ開ける店があってもいいんじゃない?」

 

「当初使う予定だった空き店舗は、もう全部使ってる」

 

「新しい店じゃなくて、今ある店」

 

「どういうこと?」

 

「例えば八百屋」

 

 田島は地図を見ながら話した。

 

「昼間は普通に営業する。でも夕方になると、仕事帰りの人向けの商品を出す」

 

「惣菜?」

 

「それもある。食材を少量で買えるようにする。今日の夕飯に必要なものだけ」

 

 志保が頷いた。

 

「一人暮らしの人にはいいかも」

 

「それを100円ショップ側とつなげる」

 

 田島は続けた。

 

「小さな保存容器。ラップ。キッチン用品。そういうものを近くに置く」

 

 涼が考えた。

 

「一人分の夕食」

 

「そう」

 

「テーマを作る」

 

 冴が言った。

 

「曜日ごとに変える?」

 

「例えば?」

 

「月曜日は簡単な夕食。火曜日は弁当。水曜日は掃除用品……」

 

「掃除は夕食じゃないだろ」

 

 田島が笑った。

 

「じゃあ、そこは別の日」

 

 会議室に笑いが起きた。

 

 久しぶりだった。

 

 数字の話ばかりしていると、いつの間にか六人とも顔が硬くなっていた。

 

 笑ったあと、加藤が言った。

 

「やってみよう」

 

 その週の金曜日。

 

 商店街の入口に小さな看板が出た。

 

「金曜日の夕方 今日の晩ごはん」

 

 八百屋では、少量の野菜をまとめて販売した。

 

 キッチン用品店には、一人分の調理に使える小さなフライパンや保存容器。

 

 食堂では、持ち帰り用の惣菜を少し増やした。

 

 最初は誰も期待していなかった。

 

 午後五時。

 

 会社帰りらしい男性が一人、商店街に入ってきた。

 

 八百屋の前で立ち止まる。

 

 野菜を見る。

 

 値札を見る。

 

 そして、店に入った。

 

「これ、今日食べる分だけ?」

 

「そうですよ」

 

 店主が答える。

 

「じゃあ、これください」

 

 男性は野菜を買った。

 

 そのまま歩いていく。

 

 数分後、キッチン用品店に入った。

 

 小さな保存容器を手に取る。

 

 それを買って、食堂へ入った。

 

 涼は少し離れたところから見ていた。

 

 一人だった。

 

 買い物袋を持っている。

 

 店に入る。

 

 また出てくる。

 

 その繰り返しだった。

 

 商店街を歩いている。

 

 それは、これまでなかった光景だった。

 

「来たね」

 

 冴が隣に立った。

 

「うん」

 

「でも、一人だけ」

 

「最初は一人でいい」

 

 涼はそう言った。

 

「一人が二人になればいい」

 

 その週、金曜日の夕方企画は続いた。

 

 来店者は少しずつ増えた。

 

 十人。

 

 二十人。

 

 三十人。

 

 大きな数字ではない。

 

 それでも、これまで夕方に人がいなかった商店街に、少しずつ人が残るようになった。

 

 そして、思わぬ効果が出た。

 

 食堂の店主が言った。

 

「夕方の客が増えたから、昼の仕込みを少し変えられる」

 

 八百屋の店主は、

 

「一人暮らしの人が来るようになった」

 

 と言った。

 

 薬局では、

 

「夕方に寄る人が増えたから、ついでに日用品を買う人もいる」

 

 という。

 

 小さな変化だった。

 

 だが、数字は確実に動き始めた。

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連載 小説.       『 京都テクノリンク 』      連載  6回目

 

第十三章 花の向こう

 

 佳織は二日目の夜に目を開けた。

 

 まだ声は出せず、体も動かせない。

 

 数日後に面会の許可がおりると山下は病院に駆けつけ、病室を覗いた。

 看病していた母親に挨拶をしてから、山下が顔を近づけると、佳織は眉を寄せた。

 

「何や、その顔」

 

 佳織は目だけを動かした。

 

「うるさい、いう顔やな」

 

 まぶたが一度、ゆっくり閉じた。

 

 危険な時期を越えても、回復には時間がかかると告げられた。肺の状態が落ち着いたあとも、歩くための訓練が必要になる。

 

 町家では、佳織の椅子だけが空いた。

 

 佳織は京都テクノリンクの社員ではない。営業顧問として契約していたが、毎日町家へ来ていたわけでもなかった。

 

 それでも、仕事の流れは目に見えて変わった。

 

 佳織がゴルフ場で話を聞いたという経営者からの連絡が途絶えた。見積もりまで進んでいた会社は、話を少し先へ延ばしたいと言った。

 

 山下が代わりに訪ねても、同じだった。

 

「大野さん、どうしてはります」

 

「回復してます。僕が責任を持って、話を続けます」

 

「それは、よろしおした」

 

 相手は茶を勧めたあと、見積書を伏せた。

 

「ほな、大野さんが戻らはってから、ゆっくり」

 

 宏が現場を見ても、新しい仕事にはつながらなかった。頼まれた機械なら直せる。しかし、若い者が続かない、毎日せわしない、息子が会社へ戻らないという話は、どこを直せばよいのか分からない。

 

 真由美の帳簿には、保留になった金額だけが並んだ。

 

 値下げ競争から降り、ようやく資金繰りが落ち着き始めたところだった。七か月あったはずの猶予は、新規案件が止まったことで、また短くなった。

 

「大野さんが持ってきた仕事は、ほかより利益が残ってます」

 

「ほな、何で止まるんです」

 

 宏に聞かれ、真由美は帳簿を閉じた。

 

「それが分かったら、経理やのうて、大野さんしてます」

 

 真由美は保留中の案件を、売上予定からすべて外した。既存契約だけで三か月を持たせる表を作り、町家の設備更新を止め、三人の残業代と外注費まで一件ずつ洗い直した。

 

「給与は守ります。学生の通信協力費も削りません。ここを止めたら、会社が次に動く足までなくなります」

 

「ほな、何を削る」

 

「新しい機械と、急がへん広告です。外注先には事情を話して、支払日を二回に分けてもらいます。ただし、先延ばしにはしません」

 

 山下は、追加出資を頼もうとは言わなかった。佳織が突きつけた問いに、また金だけで答えることになるからだった。

 

 答えを持てないまま、病室には花が届き始めた。

 

 外車ディーラー時代の客、西陣の問屋、伏見の酒造会社、祇園の料理店。窓辺だけでは置けなくなり、看護師が廊下へ小さな台を出した。

 

「大野さん、お花屋さんやったんですか」

 

 佳織はまだ笑えず、目元だけを緩めた。

 

 山下は、花に添えられた名刺を一枚ずつ読んだ。

 

 知らない名前のほうが多かった。

 

 ある午後、濃紺の背広を着た男が花を置いて帰ろうとした。山下は廊下まで追いかけた。

 

「すんません。少し、よろしいでしょうか」

 

「何でしょう」

 

「私、京都テクノリンクの山下と申します。大野には、いま、うちの仕事を手伝ってもろてます」

 

「聞いてます」

 

「実は、驚くほど大勢の方が、花や名刺を置いていかはるんです。私らの知らん方も多うて。失礼でなかったら、大野とは、どのようなお付き合いをされてたのか、聞かせてもらえませんやろか」

 

 男は山下を見た。

 

「山下さんは、大野さんと長いんですか」

 

「知り合うてからは、長いです」

 

「一緒に仕事もしてはる」

 

「はい」

 

「それで、お分かりになられませんか」

 

「何を、でしょう」

 

「あの人は、ものを売ったりしません」

 

「ディーラーでは、トップセールスやったと聞いてます」

 

「車をようけ売ったいう意味やったら、そうでしょうな」

 

 男は病室の扉へ目を向けた。

 

「私も一台買いました。けど、車が欲しかったんやありません」

 

「ほな、何で買わはったんです」

 

「社長にならはってから、ご自分でハンドル握ること、なくなりましたなぁ、と言われましてな」

 

 運転手がいるわけではない。会社と家を往復し、休みの日にも社用車へ乗るうち、自分が行きたいところへ行くことを忘れていたという。

 

「それで、外車を?」

 

「休みの日に、自分で走る車を買いました」

 

 男は帽子をかぶった。

 

「大野さんは、京都人の魂いうたら大げさかもしれませんけどな、新しいもんへの憧れを見せてくれはる人です。昔からのもんを捨てなさいとは言わへん。ただ、その隣に、まだ知らん楽しみがあることを見せはる」

 

「佳織が、そんな話を」

 

「そう聞いても分からはれへんのやったら、大野さんを分かるのは難しいんと違いますか」

 

 男は頭を下げ、廊下を歩いていった。

 

 別の日には、ゴルフ仲間だという経営者が来た。

 

「大野とは、どんな話をされてたんです」

 

「何を話しましたかなぁ」

 

「仕事の話やないんですか」

 

「仕事の話もしたでしょうけど、あの人、売り込んできませんよ」

 

「ほな、何しにゴルフへ」

 

「ゴルフしに来てはるんやろ」

 

 経営者は当然のように答えた。

 

「前に、息子が会社へ戻ってこん話をしたんです。半年ほどして一緒に回ったとき、息子さん、まだ東京がええ言うてはりますか、と聞かれましてな」

 

「覚えてたんですか」

 

「私が忘れたい話を、あの人は忘れてへんかった」

 

「それで、うちへ仕事を?」

 

「仕事を頼んだんは、そのあとです。あの人が言う会社やったら、一回ぐらい話を聞いてもええと思た。それだけです」

 

「それだけで、仕事になりますか」

 

「それだけが、なかなかでけへんのやないですか」

 

 三人目は、佳織に腹を立てたことがあるという社長だった。

 

「若い者が続かん言うたら、若い人に根気がないんやのうて、根気がなくなるまで働かせてるんと違いますか、と言われました」

 

「怒らはったでしょう」

 

「そら、腹立ちました。二度と一緒に回るかと思いました」

 

「ほな、何で今日、花を?」

 

「次の月も、あの人、何もなかったように来はったんです。うちの若い子、何時に帰ってます、と聞かれました」

 

「また、その話を?」

 

「逃がしてくれへんのです。そやけど、うちの会社を悪いとは言わへん。若い子も社長も、もうちょっと楽に仕事できる方法、あるんと違いますか、と」

 

 社長は名刺を山下へ渡した。

 

「大野さんが戻らはったら、話の続きをしたいと伝えといてください」

 

 三人から話を聞いても、山下には一つの言葉へまとめられなかった。

 

第十四章 人に惚れる

 

 山下は、創業のころから付き合いのある織物会社の社長を訪ねた。

 

 病室へ届いた花のこと、車を買った男のこと、息子の話を覚えていたこと、若い社員の働き方を叱ったことを順に話した。

 

 社長は最後まで聞き、湯呑みを置いた。

 

「そら、人に惚れるちゅうことやな」

 

「大野はモテまっさかいなぁ」

 

 社長は山下を見て、声を上げて笑った。

 

「何がおかしいんです」

 

「あんた、大野さんのこと、女としてしか見えてへんのか」

 

「そんなこと言うてません」

 

「いま言うたがな」

 

 山下は冷めた茶を飲んだ。

 

「私が言うてる惚れるは、男と女の話やない。その人が言うことやったら、いっぺん聞いてみようと思う。その人に恥かかせんよう、約束は守ろうと思う。会社や肩書やのうて、その人を信用するいうことや」

 

「うちらは、大野が連れてきた仕事を、会社の仕事やと思てました」

 

「違うたんか」

 

「まだ、うちの仕事にはなってへんかったんかもしれません」

 

「ほな、これから、あんたらの仕事にしはったらよろしい」

 

 社長は急須を持ち上げた。茶はもう残っていなかった。

 

「山下はん、こんなことがあったんやけど、話、聞きたいか」

 

「話される前に聞きたいか言われても、困りますわ」

 

「そら、そうやな」

 

 社長は腕時計を外し、机へ置いた。

 

「あんたも腕時計や髭剃り、毎日使うてるやろ」

 

「使うてます」

 

「毎日使うてたら、壊れることもあるわいな」

 

「そら、あります」

 

「いっぺんでも壊れたことある人間が、知り合いの持ってる腕時計を見て、これ、もう十年使うてるけど、いっぺんも壊れてへんで、と言われたら気にならへんか」

 

「気になりますな」

 

「どこが作ったもんか、聞きたならへんか」

 

「聞きます」

 

「同じもん、欲しいと思わへんか」

 

「そんときは……その人の腕時計と同じもんが欲しなります」

 

「そやろ」

 

 社長は腕時計をつけ直した。

 

「京都には古いもんもぎょうさんある。そやけど、新しいもんも、ようけある。京都の人間は新しいもんが嫌いなんやない。むしろ好きなんや」

 

「知ってます」

 

「ほな、何で新しいもんが、なかなか売れへん」

 

「失敗したないからですか」

 

「自分が最初になって失敗したないんや。ほかの人が使うて、ちゃんと動いて、前より良うなったと分かれば、話は別や」

 

 山下は病室の名刺を思い出した。

 

「佳織は、そこに気づいてたんですか」

 

「気づいてたんやろな。あの人、車の説明より、誰がどんな車に乗って、どう変わったかいう話をようしてましたわ」

 

「ほな、車を売ってたんやない」

 

「車も売ってたで。売らんかったらトップにはならへん。ただ、車だけを売ってへんかったいうことや」

 

 山下は、病室に並んでいた名刺の会社名を思い返した。

 

 京都テクノリンクは、困っている会社を探してきた。何が悪いかを見つけ、直す方法を考えた。

 

 矢印は、反対にも向けられる。

 

「困ってる会社を探すだけやのうて、もう困ってへん会社を探したらええんや」

 

「ようやく分かったか」

 

「同じことで困ってた会社が、どう直したかを見せてもらう。どの機械を入れたかだけやない。何で選んで、どう使うたらうまいこといったかまで聞く」

 

「それを、困ってる会社へ持っていく」

 

「そのまま持っていくんやありません。その会社に合うよう、河村が現場を見る。村上が、入れたあとも金が残るか調べる。僕が、どこまで変えたいか社長と話す」

 

「大野さんは?」

 

 山下は、少し考えた。

 

「新しいほうへ行っても大丈夫やと、思わせる」

 

 社長はうなずいた。

 

「それやったら、何を売る会社か、よう分かるな」

 

 山下は立ち上がりかけた。

 

「まだ、話終わってへん」

 

「何です」

 

「あんたとこの会社、経営者の間で何て言われてるか知ってるか」

 

「悪い話ですか」

 

「悪い話やったら、本人には言わへん。ええとこ見つける会社や、言われてる」

 

「それやったら、悪ないでしょう」

 

「そのあとがある。ええとこ見つけるけど、そこは置いといてほしいんやわ、て」

 

「無駄やと分かってるのに、ですか」

 

「分かってる。何で残したいか聞かれたら、本人にも答えられへん。先代が始めたからか、古い社員の仕事をなくしたないからか、長い客がそれを好んでるからか」

 

「ほな、触らんかったらええ」

 

「すぐ、そう決める」

 

 社長は空の急須を置いた。

 

「そこを直してほしいんやない。ほんまに直したいところは、ほかにあるんや」

 

「どこです」

 

「それを言うたら、ややこしいことになる場所や。人かもしれん。息子かもしれん。昔からの取引先かもしれん」

 

「最初に見せられた困り事の奥に、別の困り事がある」

 

「それを見つけるんが、あんたの仕事やろ。河村君は、機械の音と、そこで働いてる人を見たらええ。あんたは、その会社がどこへ行きたがってるか見なあかん」

 

 山下は、置いたままの湯呑みを見た。

 

「分かってます」

 

「分かってたら、いまごろ、そんな顔してへん」

 

 社長は立ち上がった。

 

「お茶、なくなりました。今日はもう帰り、いうことや」

 

 町家へ戻ると、山下は宏と真由美に、聞いた話をそのまま伝えた。

 

 宏は病室から書き写した名刺を見た。

 

「僕らは、困ってる会社の中しか見てませんでした」

 

「僕は、経営者の困り事しか見てへんかった」

 

「大野さんは、困ってへん会社の人とも会うてたんですね」

 

 真由美は、名刺を二つに分けた。困っている会社と、すでに同じ問題を解決した会社である。

 

「この二つをつないだら、仕事になります」

 

「帳簿に入るか」

 

「入るようにするのが、私らの仕事でしょう」

 

 三人の間に、初めて同じ方向を向いた矢印ができた。

この作品は盗用禁止です。

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まるすうじ

 

「 尾道の坂を下って 」  ⑧ー④

 

第四章 三百円を受け取る

 

 商店街のスーパーで、里奈は春江に渡された紙を二度見た。

 

 牛乳、卵、じゃがいも、湿布、封筒。

 

 封筒だけは、どの売り場にもなかった。

 

「文房具は二階よ」

 

 テルさんが言った。

 

「知っています」

 

「ずっと紙を見とるけえ」

 

「間違えないように確認しているんです」

 

「確認しとったら、じゃがいもが出てくるん?」

 

 里奈は紙を畳み、野菜売り場へ向かった。

 

 小川の牛乳と卵を籠へ入れた。じゃがいもは春江の肉じゃがに使う。湿布は小川のものか春江のものか分からなかった。

 

「この湿布は、どちらのですか」

 

「ハルさん」

 

「紙を分けて書いてください」

 

「私が書いたんじゃないよ」

 

「では、春江さんに言ってください」

 

「里奈ちゃんが言えばええじゃろ」

 

 テルさんは、りんごを一つ籠へ入れた。

 

「それは誰のですか」

 

「私の」

 

「会計を分けます」

 

「一緒でええよ」

 

「駄目です」

 

 レジへ行く前に、里奈は籠の中を三つに分けた。小川のもの、春江のもの、テルさんのりんご。レシートも三枚になった。

 

「面倒じゃねえ」

 

「お金のことは、面倒にしておいたほうがいいんです」

 

「何で?」

 

「あとで、もっと面倒にならないためです」

 

 テルさんは返事をしなかった。

 

 店を出ると、里奈は小川の買い物を右手に、春江の買い物を左手に持った。封筒には釣り銭とレシートを入れた。

 

「持とうか」

 

「一人で行けます」

 

「坂は一人で行けるかどうかを聞いとらんよ。重いかどうかを聞いとる」

 

「重いです」

 

「ほんなら持つよ」

 

 テルさんは春江の袋を取った。

 

 小川の家へ着くと、里奈は玄関先で買ったものを一つずつ見せた。小川は封筒から釣り銭を出し、何度か数えた。

 

「三百円、入っとらんよ」

 

「受け取りません」

 

「どうして?」

 

「買い物へ行っただけですから」

 

「買い物へ行ってもらったけえ、払うんよ」

 

 小川は割烹着のポケットから百円玉を三枚出した。

 

「でも、お金がないと——」

 

「誰が言うたん?」

 

 小川の声が少し硬くなった。

 

 里奈はテルさんを見た。テルさんは、玄関脇の鉢に生えた葱を見ていた。

 

「すみません」

 

「謝らんでええけえ、手を出して」

 

 里奈が手のひらを開くと、小川は百円玉を一枚ずつ載せた。

 

「払わんかったら、次に頼みにくいじゃろ」

 

「次も、私に頼むんですか」

 

「嫌なん?」

 

「嫌ではありません」

 

「ほんなら、来週も牛乳をお願い」

 

 小川は戸を閉めかけ、もう一度顔を出した。

 

「卵は要らんよ。まだ六個あるけえ」

 

 戸が閉まった。

 

 里奈は手のひらの三百円を見た。

 

「取ったね」

 

「受け取ったんです」

 

「同じじゃろ」

 

「少し違うと思います」

 

 テルさんは笑い、また坂を上り始めた。

 

 三日目の朝、春江は食卓で言った。

 

「今日までじゃね」

 

 里奈は箸を止めた。

 

「はい」

 

「どうするん?」

 

「まだ決めていません」

 

「決まらんかったら出ていく約束じゃったね」

 

「覚えています」

 

 テルさんが味噌汁をすすった。

 

「忘れたことにしたら?」

 

「あんたが忘れんさい」

 

 春江は里奈を見た。

 

「肉じゃがは昨日作ったね」

 

「はい」

 

「じゃがいもが少し硬かった」

 

「すみません」

 

「もう一回作ったら、柔らこうなるかもしれんね」

 

 里奈は顔を上げた。

 

「それは、もう三日泊まってもいいという意味ですか」

 

「うちは旅館じゃないよ」

 

「分かっています」

 

「裏に小さい部屋がある。昔、縫い物をしよったところ。掃除して、月に一万円」

 

「一万円でいいんですか」

 

「風呂は最後。晩ご飯は三日に一回。買い物は別」

 

「別というのは?」

 

「頼んだら、三百円払う」

 

 里奈はすぐには答えなかった。

 

 泊めてもらうのではない。働く代わりに置いてもらうのでもない。家賃を払い、頼まれたことには金を受け取る。

 

「お願いします」

 

 春江はうなずいた。

 

「ほんなら今日、掃除しんさい。埃は家賃に入っとらんけえ」

 

 テルさんが里奈の茶碗へ、残っていた卵焼きを一切れ置いた。

 

「お祝い」

 

「テルさんが作ったんですか」

 

「ハルさん」

 

「では、テルさんからのお祝いではないでしょう」

 

「私があげたけえ、今は私のよ」

 

 春江が小さく咳をした。

 

「こほ……人の卵焼きで、ええ顔せんさんな」

 

第五章 一人で下りる坂

 

 裏の部屋には、机が一つと古い箪笥があった。

 

 窓を開けると、隣の屋根しか見えなかった。少し身を乗り出せば、その向こうに海の端が見えた。

 

 里奈は机の上にノートを置いた。

 

 最初の頁に、小川の名前を書いた。

 

〈牛乳。一週間に一本。卵は残りを確認。三百円〉

 

 次の頁には、商店街の靴屋の主人を書いた。

 

〈話を聞く。息子のこと。テルさん担当〉

 

 書いてから、里奈は線を引いて消した。話の中身は書かないほうがよいと思った。

 

 その週の終わりに、里奈は一度だけ大阪へ戻った。

 

 月末で部屋を引き払わなければならなかった。朝の電車で出て、電気と水道を止め、冷蔵庫に残っていた調味料を捨てた。

 

 会社から届いた段ボール箱は、開けたときのまま部屋の隅にあった。

 

 マグカップとハンドクリームを、今度は自分の手で別の箱へ詰め直した。必要なものは尾道へ送り、家具は引き取りを頼んだ。

 

 母から電話が来た。

 

「今、どこにいるの」

 

「広島」

 

「広島のどこ」

 

「まだ決めてない」

 

 嘘ではなかった。いつまでいるかは、まだ決めていなかった。

 

「元気なの?」

 

「ご飯は食べてる」

 

「聞いていることが違うでしょう」

 

 里奈は返事をしなかった。

 

 夜の電車で尾道へ戻った。駅前から、空になったキャリーバッグを引いて春江の家まで上った。

 

 三日前には何度も止まった石段を、その日は一度休んだだけで上れた。

 

 玄関を開けると、春江が食卓に肉じゃがを残していた。

 

「じゃがいも、柔らかいですね」

 

「作った人が違うけえ」

 

 テルさんは二階から顔を出した。

 

「おかえり」

 

 里奈は、その言葉に返事をするまで、少し時間がかかった。

 

 翌日の午後、テルさんが戸を叩いた。

 

「上田さんところへ行くよ」

 

「何をするんですか」

 

「行ったら分かる」

 

「先に分からないと、準備ができません」

 

「電球を替える」

 

「脚立はありますか」

 

「知らん」

 

「電球の大きさは?」

 

「丸い」

 

「電球はだいたい丸いです」

 

 上田の家には脚立がなく、電球の口金も、買ってきたものとは違っていた。

 

 二人は一度坂を下り、電器店で交換し、また上った。

 

「先に聞いておけば、一度で済みました」

 

「上田さんも知らんかったよ」

 

「見れば分かります」

 

「見に来るために上ったんじゃろ」

 

「写真を撮って送ってもらえばいいんです」

 

「上田さん、電話は線がついとるよ」

 

 里奈は黙った。

 

 新しい電球が点くと、上田は三百円を里奈へ渡した。テルさんも一緒に働いたから百五十円ずつにしようとしたが、テルさんは受け取らなかった。

 

「私は見とっただけじゃけえ」

 

「坂を二往復したでしょう」

 

「歩くのに金をもろうたら、どこにも行けんようになるよ」

 

 上田の家を出たあと、テルさんは坂の途中で石垣へ手を置いた。

 

「少し休みますか」

 

「電球一つに二往復したけえ、景色も二回見んと損じゃろ」

 

 そう言ったが、海を見ているあいだ、テルさんはしばらく口を開かなかった。

 

 里奈は三百円をノートの間へ挟んだ。

 

 頼まれごとは、少しずつ増えた。

 

 郵便局へ封筒を出しに行った。病院の予約時間を紙へ大きく書いた。携帯電話に届いた孫の写真を、何度も同じ人に見せた。

 

 できないこともあった。

 

 屋根へ上がって雨樋を見てほしいと言われたときは断った。病院でもらった薬を代わりに選んでほしいと言われたときも断った。

 

「屋根、上らんの?」

 

 帰り道でテルさんが言った。

 

「落ちたら、三百円では済みません」

 

「三千円なら?」

 

「上りません」

 

 翌朝、テルさんが二軒分の紙を持ってきた。

 

「どちらへ行きますか」

 

「私は海岸のほう。里奈ちゃんは栗原さん」

 

「一人でですか」

 

「嫌なら私が行くよ」

 

 里奈は紙を受け取った。

 

「行けます」

 

「道、分かる?」

 

「分からなければ聞きます」

 

 テルさんは何も言わず、海岸へ向かう坂を下りた。

 

 里奈は反対側の細い道へ入った。一つ目の角を間違え、行き止まりになった。戻って別の階段を下りると、見覚えのない寺の前へ出た。

 

 約束の時間まで、あと十分だった。

 

 里奈は走らなかった。石段で転べば、もっと遅くなる。近くで鉢植えに水をや

 

第六章 待っていた人

 

 一人で坂を下りるようになってから、里奈は頼まれたことを、何でもノートへ書くようになった。

 

 名前。時刻。すること。預かった金。

 

 一つずつなら、どれも難しくはなかった。

 

 難しくなったのは、同じ日の同じ時刻に、二人から頼まれたときだった。

 

 雨の朝、小川の牛乳を届けた帰りに、靴屋の主人が店から顔を出した。

 

「里奈ちゃん、十分だけ店を見とってくれん?」

 

「これから田辺さんのところへ行くんです」

 

「九時半じゃろ。まだ十五分ある」

 

 主人は腕時計を見せた。

 

「荷物を一つ受け取るだけじゃけえ。すぐ戻る」

 

 田辺は、九時半に家へ迎えに来てほしいと言っていた。眼科へ行く日で、受付の紙を一緒に読んでほしいらしい。

 

 靴屋から田辺の家までは、坂を上っても五分ほどだった。

 

「十分だけですよ」

 

「分かっとる」

 

 主人は傘も差さず、商店街の向こうへ走っていった。

 

 里奈は店の奥から丸椅子を出した。軒先から雨を見ながら、何度も時計を確かめた。

 

 九時二十分になった。

 

 荷物は来なかった。主人も戻らなかった。

 

 店を空けてよいとは言われていない。電話をかけようにも、主人の番号を知らなかった。

 

 九時二十五分、宅配便の車が止まった。

 

 大きな段ボール箱を二つ受け取り、伝票に店の名前を書いた。配達員が車へ戻ったところで、主人が駆けてきた。

 

「助かった。向こうで話が長うなって」

 

「十分の約束でした」

 

「まだ十五分くらいじゃろ」

 

「約束は十分でした」

 

 主人は、濡れた髪を手でなでつけた。

 

「客も来んかったんじゃけえ、同じよ」

 

 里奈は言い返さず、坂へ向かった。

 

 雨で石段の色が黒くなっていた。急ぐと靴の底が滑った。転ばない速さで上るしかなかった。

 

 田辺の家に着いたのは、九時四十二分だった。

 

 玄関は閉まっていた。

 

「田辺さん」

 

 戸を叩いたが、返事はなかった。

 

 軒下に、折り畳みの椅子が一つ出ていた。座面に雨粒が残っている。里奈を待つあいだ、田辺がそこへ座っていたのだと分かった。

 

 里奈は傘を閉じることも忘れ、しばらく椅子の前に立っていた。

 

 坂の下から、電車の音が上ってきた。屋根に落ちる雨のほうが近く、いつもより短く聞こえた。

 

 昼を過ぎて、田辺は一人で戻ってきた。

 

 片手に濡れた診察券を持ち、もう片方の手で石垣に触れながら坂を上ってきた。

 

「すみませんでした」

 

 里奈は坂の途中まで迎えに下りた。

 

「靴屋さんに十分だけ頼まれて、荷物が遅れて、それで——」

 

「病院には間に合うたよ」

 

「受付の紙は?」

 

「看護師さんが書いてくれた」

 

 田辺は里奈の横を通り、家の前まで上った。鍵を出す指が震えていた。

 

「三百円は」

 

 里奈が言うと、田辺は振り返った。

 

「来てくれた日に払うよ」

 

 責める声ではなかった。

 

 それが、かえってつらかった。

 

「次の病院は、いつですか」

 

「来月」

 

「その日は、私に行かせてください」

 

「まだ頼んどらんよ」

 

 田辺は戸を開け、家へ入った。

 

 残された椅子を、里奈は畳んだ。濡れた座面を袖で拭き、玄関脇へ立てかけた。

 

 春江の家へ戻ると、テルさんが台所でりんごの皮をむいていた。細くつながった皮が、膝の間まで垂れている。

 

「田辺さん、行ってしまっていました」

 

「そう」

 

「靴屋さんが戻ってこなかったんです」

 

「そう」

 

「私が悪いと思いますか」

 

 テルさんは途中で切れたりんごの皮を見た。

 

「田辺さんは、誰を待っとったん?」

 

「私です」

 

 それだけでよかった。

 

 里奈は部屋へ戻り、ノートを開いた。

 

 同じ時刻に二つの約束を入れない。終わる時刻を先に決める。遅れると分かったら、頼んだ人へ知らせる。

 

 三行書いてから、最後の一行を消した。

 

 知らせれば遅れてもよい、という意味に見えた。

 

 翌月、田辺の診察日の朝、里奈は約束より二十分早く家の前へ行った。

 

 折り畳みの椅子は出ていなかった。

 

 戸を叩かず、石段に座って待った。

 

 屋根の向こうから朝日が差し、濡れていた石の色が少しずつ乾いていった。

 

 九時になると、戸が開いた。

 

 田辺は帽子をかぶり、診察券を首から下げていた。

 

「早いね」

 

「待つのも、頼まれたうちですから」

 

 田辺は何も言わず、玄関に鍵をかけた。

 

 坂を下りきったところで、田辺が歩みを止めた。ポケットから百円玉を三枚出し、里奈へ渡した。

 

「まだ病院へ着いていません」

 

「今日は来たけえ」

 

 里奈は三枚を握った。

 

 雨の日にもらえなかった三百円と、同じ金ではなかった。

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『 一人分の幅 』

 

第十三章 名前のある仕事

 

催しの翌週、

 

「つづき」

 

の三人は、預かった十一件のうち九件を仕上げた。

 

残る二件は、布が弱く、希望された形へ直せなかった。河合は依頼した二人へ連絡し、直せない理由を説明する。一人はそのまま返してほしいと言い、もう一人は別の部分を使って小さな袋にできないかと尋ねた。

 

三人は、すぐには答えなかった。

 

服を広げ、使える布を測り、翌日もう一度連絡する。

 

京子へ電話はしなかった。

 

二日後、河合が

 

「余計なお世話」

 

へ来た。

 

「袋にすることになりました」

 

「決められた?」

 

「はい。小川が形を三つ作って、佐伯が布の傷みを見ました。私は、お客さんに選んでもらいました」

 

「よかったね」

 

「それだけですか」

 

「相談に来たの?」

 

「報告です」

 

「なら、聞きました」

 

河合は少し物足りなさそうだった。店を出るころには、顔が明るくなっていた。

 

催しの報告会では、相談件数や売上だけでなく、できなかったことも挙げられた。

 

時計店が直せず専門店を紹介した時計。

 

衣料品店が預からなかった制服。

 

「つづき」

 

が中止した布包み。

 

京子が預からず、その場で相談だけしたイヤリング。

 

「できなかったことまで、報告に入れるのか」

 

塚口が言う。

 

「次に同じものが来たとき、最初から説明しなくて済みます」

 

冨永が答える。

 

「市役所は、できんかったことを残すのが好きだな」

 

「できたことも残します」

 

「ホットケーキ二十六枚」

 

「それも、商店街の記録には入っています」

 

「市のには?」

 

「相談件数とは別です」

 

「相変わらず融通が利かんな」

 

塚口は文句を言いながら、報告書の数字を指で確かめている。

 

次回の開催について、冨永は尋ねなかった。

 

河合が自分から口を開く。

 

「春にも、もう一度やりたいです」

 

「今度は雨の入らない季節にしろ」

 

時計店主が言う。

 

「春でも雨は降ります」

 

佐伯が答える。

 

「では、最初から雨の場所を決めておきます」

 

河合が続けた。

 

種井は二階をもう一度貸すと言い、幸子は布包みを今度こそ店先でやりたいと言った。

 

京子は聞いている。

 

「京ちゃん、次も全体を見てくれるか」

 

塚口が尋ねた。

 

「見ません」

 

「どうして」

 

「もう一度できる人が、ここにいるでしょう」

 

京子は河合たちを見る。

 

三人はすぐには喜ばなかった。互いの顔を見て、それから資料へ目を戻した。

 

「困ったときは相談してもいいですか」

 

河合が尋ねる。

 

「何に困っているか決めてからなら」

 

「お金は?」

 

「仕事なら、見積もります」

 

「そこは変わらないんですね」

 

「変える理由がないから」

 

次回の催しは、商店街が主体となって春に開くことになった。

 

市はウェブサイトへ日程を載せる。広報誌の特集は組まない。案内図は

 

「つづき」

 

が作り、参加店への聞き取りは衣料品店主と幸子が回る。

 

冨永と京子が共同で作る仕事は、そこで終わった。

 

翌月、市の広報誌に

 

「まだ使えますか」

 

の記事が載った。

 

雨の日の商店街が写っている。

 

看板を軒下へ移す人。時計を見せる客。服を広げる手。黄色い椅子に貼られた

 

「足元にご注意ください」

 

の紙も、写真の隅に入っていた。

 

記事には、冨永の名前も京子の名前もない。

 

参加した店と、

 

「つづき」

 

の名だけがある。

 

最後に、小さく書かれていた。

 

次回は、商店街が主体となって、春の開催を検討しています。

 

京子は広報誌を店の棚へ置いた。

 

記事を読んだ。

 

自分の名前はない。

冨永の名前もない。

 

それでよかった。

 

それなのに、最後まで読んだあと、京子はもう一度最初のページを開いた。

 

冨永が書いた文章だと、どこかで分かる。

 

言葉の選び方に、あの人の癖がある。

少しだけ固い。

でも、人のことを勝手に決めつけない。

 

読み終えると、京子は笑った。

 

「やっぱり、こう書くんだ」

 

会いたい、と思った。

 

仕事の相談があるわけではない。

聞きたいこともない。

 

ただ、この記事を読んだことを、本人に言いたかった。

 

それだけだった。

 

電話を取ろうとして、手を止める。

 

何と言うのだろう。

 

「記事、読みました」

 

それだけでは、あまりに用事らしい。

 

京子は電話を戻した。

 

代わりに、広報誌をもう一度棚へ置く。

 

会う理由がなくても、会いたいと思う。

 

その気持ちを、まだ自分の中だけに置いておくことにした。

 

塚口は記事を切り抜き、喫茶店の壁へ貼った。ホットケーキ二十六枚について書かれていないと文句を言いながら、客へ何度も見せている。

 

種井は、写真の隅に自分の椅子が写っていることを誰にも言わない。催しのあと、残る三脚も直していた。

 

河合たちは、次の出張相談を三件だけ、自分たちのページで受け付けた。

 

十二月の初め、冨永は冬の防火活動の取材で堀川西商店街を訪れた。

 

担当は組合長である。

 

打ち合わせを終えて駅へ戻る途中、

 

「余計なお世話」

 

の案内板が見えた。

 

京子は店の外で、黒板の文字を書き直している。

 

冨永に気づいた。

 

「こんにちは」

 

「こんにちは」

 

以前なら、立ち止まる理由がないことを確かめたかもしれない。

 

今日は、冨永が先に足を止めた。

 

「春も開くそうですね」

 

「今度は河合さんたちが中心です」

 

「案内図も?」

 

「昨日、最初の案を見せに来ました」

 

「どうでした?」

 

「道が一本抜けてました」

 

「それは困りますね」

 

「自分たちで気づきました」

 

「なら、大丈夫ですね」

 

「たぶん」

 

二人は笑う。

 

挨拶のあと、二人は少し話した。

 

「冨永さんは、今日は?」

 

「防火活動の取材です」

 

「塚口さん、避難口の前に箱を置いてますよ」

 

「見てきます」

 

「余計なお世話でした」

 

「助かります」

 

冨永は喫茶店へ戻る。

 

京子は黒板の続きを書く。

 

二人は、それぞれの仕事へ戻った。