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『 一人分の幅 』

 

後日譚 同じ机

 

三年後、名古屋市は、商店街で続いている小さな取り組みを一冊の冊子にまとめることになった。

 

空き店舗へ新しい店を入れた事例だけではない。

 

一日だけ場所を貸した店。

 

月に一度、店先を使って相談を受ける人。

 

閉店後の客席を、地域の集まりへ開放している喫茶店。

 

売上や来場者数だけでは測れない活動を、始めた人の言葉で残す。

 

企画を出したのは広報課ではなく、産業振興課だった。

 

制作の担当者として、冨永の名前が入っている。

 

四十三歳になった冨永は、最初の打ち合わせで、取材候補の一覧を受け取った。

 

十六の商店街と、二十二の活動。

 

冨永は一覧を上から追い、堀川西商店街のところで指を止めた。

 

「まだ使えますか」。

 

あの言葉を、三年ぶりに見る。

 

活動を説明する者は、河合美里。

 

現場での案内づくりを助言する者として、長谷部京子の名も記されていた。

 

「この人選は、誰が決めたんですか」

 

冨永が尋ねる。

 

「各商店街から推薦してもらいました」

 

産業振興課の職員が答える。

 

「堀川西からは、河合さんと長谷部さんです。河合さんが活動の経緯を話し、長谷部さんには、冊子全体の案内が現場の実情と合っているかを見てもらいます」

 

「全体の?」

 

「十六商店街分です」

 

「業務の依頼先は」

 

「商店街連合会です。謝金も連合会から支払います」

 

冨永は資料を読み直した。

 

「何か問題がありますか」

 

「ありません」

 

冨永は資料を閉じた。

 

第一回の編集会議は、市役所の会議室で開かれた。

 

冨永、産業振興課の職員、冊子のデザイナー、商店街連合会の二人。取材される側から河合が出席し、現場助言者として京子が加わる。

 

京子が会議室へ入ってきたとき、冨永は資料を配っていた。

 

二人とも、出席者一覧に互いの名前があることを知っていた。

 

「お久しぶりです」

 

京子が言う。

 

「お久しぶりです」

 

冨永は資料を一部渡した。

 

「こちらへお願いします」

 

案内したのは、河合の隣だった。

 

冨永との間には、長机が一本ある。

 

デザイナーが、最初の構成案を画面へ映す。

 

表紙には、古い商店街の通りを歩く若い家族の写真。見出しは、

 

「まちを変える、新しい挑戦」

 

となっている。

 

京子は一ページ目を見たまま、何も言わない。

 

河合が先に首を傾けた。

 

「私たち、まちを変えようと思って始めたわけじゃないです」

 

「結果として、変わった部分はありますよね」

 

産業振興課の職員が答える。

 

「それは、ありますけど」

 

河合の言葉が止まる。

 

京子は見出しの下にある小さな文章を読む。

 

若い担い手たちが生み出す、商店街の新たな魅力。

 

「若くない人も出るんですよね」

 

京子が尋ねた。

 

「はい。店主の方には、七十代の方もいます」

 

「表紙を見ると、若い人が古い商店街を変える話に見えます」

 

デザイナーが画面を見る。

 

「その方が、手に取ってもらいやすいかと思いまして」

 

「時計店の人、これを見たら、自分の話じゃないと思うかもしれない」

 

京子は否定するだけで、代わりの見出しを出さない。

 

デザイナーが少し困ったように、冨永を見る。

 

「市としては、どうでしょう」

 

「市の中では、『新たな担い手による商店街活性化事例集』という名称です」

 

「もっと固いですね」

 

「それを表紙へ使うつもりはありません」

 

冨永は取材候補の一覧を開いた。

 

「始めた人だけでなく、長く続けている店が、場所や道具を貸した事例もあります。新しい人が古い店を変えた、という構成では収まらないと思います」

 

「では、何を中心にしますか」

 

問いに、誰もすぐ答えない。

 

会議室の正面には、仮の表紙が映っている。

 

若い家族。

 

古い商店街。

 

新しい挑戦。

 

どれも間違いではない。

 

京子は写真の外側へ目を向けた。そこには、写っていない人が多かった。

 

河合が資料をめくる。

 

「どの活動も、一人では続いてないですよね」

 

「借りたものを、書いたらどうでしょう」

 

河合が言う。

 

「場所、道具、人の手。それがないと続かなかったもの」

 

冨永は一覧へ印をつける。

 

「全事例に、借りたものを尋ねますか」

 

「借りたとは思ってない人もいるでしょう」

 

京子が言う。

 

「手伝ってもらったこと、では?」

 

「広すぎませんか」

 

産業振興課の職員が尋ねる。

 

「それなら、続けるために必要だったもの」

 

冨永が言う。

 

京子はその言葉を聞き、資料の余白へ書く。

 

「人じゃなくてもいいですね。鍵とか、空いてる時間とか」

 

「断られたことも入れられます」

 

「失敗も?」

 

デザイナーが顔を上げる。

 

「必要なら」

 

「市の冊子に?」

 

三年前にも聞いた言葉だった。

 

冨永は少し笑う。

 

「今の形になるまでの話です」

 

京子も、その答えを覚えている。

 

けれど、覚えていますとは言わない。

 

デザイナーは表紙の見出しを消した。

 

白くなった画面へ、新しい文字を仮に入れる。

 

続けるために、借りたもの。

 

「少し地味ですね」

 

産業振興課の職員が言う。

 

「中身には合っています」

 

河合が答えた。

 

京子は画面を見ている。

 

「『借りたもの』だけだと、返したら終わる感じがする」

 

「では、『借りているもの』?」

 

冨永が尋ねる。

 

「今も続いてる話なら」

 

デザイナーが直す。

 

続けるために、借りているもの。

 

会議室の全員が、画面を見る。

 

「今日は、ここまでにしましょう」

 

冨永が時計を見る。

 

予定時刻を五分過ぎている。

 

「次回までに、各取材先へ『続けるために必要だったもの』を聞きます。表紙の言葉は、その答えを見てから決めます」

 

「今、決めないんですか」

 

産業振興課の職員が尋ねる。

 

「先に決めると、答えを見出しへ合わせることになります」

 

冨永が言う。

 

京子は資料を閉じた。

 

「その方がいいと思います」

 

会議が終わる。

 

出席者は資料を重ね、次の日程を確認した。

 

河合が京子へ、駅まで一緒に行こうと声をかける。

 

「少し待って。付箋が落ちてる」

 

京子は机の下へしゃがみ、小さな黄色い付箋を拾った。表には、時計店、と書かれている。

 

冨永が資料を数えている。

 

「一部、足りません」

 

「これじゃないですか」

 

京子が椅子の下から冊子案を一部出す。

 

「ありがとうございます」

 

「前と同じですね」

 

「何がですか」

 

「机の上では、何か一つ足りなくなる」

 

冨永は資料を受け取る。

 

「今日は、早く終わりました」

 

「五分過ぎました」

 

「市役所としては、誤差です」

 

「前は、十二分でも遅れでしたよ」

 

二人は少し笑う。

 

河合が会議室の入口で待っている。

 

廊下には、産業振興課の職員もいる。

 

河合が先に廊下へ出る。

 

京子も資料を抱えて立ち上がった。

 

冨永が会議室の照明を消す。

 

「忘れ物は?」

 

「ありません」

 

「珍しい」

 

「今日は拾う人がいましたから」

 

京子が黄色い付箋を見せる。

 

冨永は笑った。

 

河合が廊下の先から振り返る。

 

「駅まで行きますよ」

 

京子が答える。

 

冨永も資料を抱え直した。

 

「私も駅です」

 

三人は歩き出す。

 

階段を下りる途中で、河合が先へ行く。

 

「先に改札へ行ってます」

 

京子は小さく手を上げた。

 

冨永と並んで歩く。

 

二人の間には、まだ一人分の幅がある。

 

けれど、以前ほど遠くはない。

 

外へ出ると、夕方の商店街を人が行き交っている。

 

冨永は、少しだけ歩く速さを落とした。

 

京子も合わせた。

 

どちらも、そのことには触れなかった。

 

駅までの道は、近道でも遠回りでもなかった。;