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『 一人分の幅 』

 

第十二章 催しの日

 

十一月最初の日曜日、京子は八時二十五分に

 

「余計なお世話」

 

 の格子戸を開けた。

 

 空は明るい。

 

 昨夜用意した透明なケースは、使わずに済みそうだった。

 

 白地に黒い文字の案内を店先へ置く。

 

 まだ使えますか。

 

 アクセサリーの留め具交換。切れた紐やチェーンの修理。片方だけになったイヤリングの作り替え相談。

 

 大切な品は、その場で確認し、預からない場合がある。

 

 できることより、できないことの方が目立つ。それでも、持ってきた人が店先で初めて断られるよりはいい。

 

 八時半、

 

「つづき」

 

 の三人が元洋品店を開けた。

 

 河合は予約表を入口へ置く。小川は、頼まれていない布包みの見本まで持ってきていた。佐伯は預かり票を受付順に並べ、番号が抜けていないか二度確かめている。

 

「布包み、やるの?」

 

 京子が聞いた。

 

「時間があれば」

 

 小川が答える。

 

「服の相談が十三件あるでしょう」

 

「相談の間が空いたら」

 

「誰が空いたと決める?」

 

 三人は顔を見合わせた。

 

「そのとき、三人で」

 

 河合が言う。

 

「なら、見本だけ置いておけばいい」

 

 京子はそれ以上言わなかった。

 

 九時、冨永と福田が商店街へ来た。

 

 二人とも市の腕章をつけている。冨永の鞄には全体案内と連絡先一覧、福田はカメラと記録用紙を持っていた。

 

「本部は、塚口さんの店の前です」

 

 冨永が言う。

 

「本人は、催しの案内より珈琲を勧めますよ」

 

 京子が答える。

 

「通常営業ですから、止められません」

 

「一杯の注文は任意でしょう」

 

「店内を利用する場合は、一品お願いします」

 

「覚えてたんですね」

 

「掲載した文章ですから」

 

 昨日までと同じように話せる。

 

 冨永が資料を持ち、京子が店の案内を確認する。

 

 どちらも、相手の顔色をうかがわない。

 

 少し離れたところにいる相手が何を考えているかは、以前より分かる。

 

 九時半、参加店の案内がすべて出た。

 

 時計店は濃紺。

 

 衣料品店は深い赤。

 

 喫茶店は茶色。

 

 古本店は灰色。

 

「つづき」

 

 は青と緑。

 

 色は違う。上の一行だけが、数十メートル先まで繰り返されている。

 

 午前十時、催しが始まった。

 

 最初に時計店へ来た男性は、腕時計を三本持っていた。

 

 店主は一本ずつ裏蓋を見て、二本は電池交換、残る一本は専門の修理業者へ出す必要がある

と説明する。

 

「ここでは直らないの?」

 

「うちでは無理だ」

 

「看板に修理って書いてあるでしょう」

 

 男性が案内を見る。

 

 そこには、動かない時計は修理できるか確認します、と書かれている。

 

「確認したら、うちでは無理だった」

 

「そういう意味か」

 

「そういう意味だ」

 

 男性は不満そうな顔をした。男性は二本を置き、残る一本は教えられた専門店へ持っていくと言った。

店主は、少し離れたところにいる京子を見る。

 

「二本は仕事になった」

 

「一つは?」

 

「うちの仕事じゃなかった」

 

 店主は、自分でそれを言った。

 

 衣料品店には、ボタンの取れたコートや、裾のほつれたスカートが持ち込まれる。

 

 古本店では、背表紙の外れた文庫本を店主が直していた。

 

 塚口の喫茶店では、珈琲器具の写真を見せる人より、ホットケーキを食べる客の方が多い。

 

「催しの客か、いつもの客かわからんな」

 

 塚口が冨永へ言う。

 

「分ける必要がありますか」

 

「報告に困るだろ」

 

「相談件数だけ数えます。ホットケーキは店で」

 

「市役所は役に立たんな」

 

 言いながら、塚口は嬉しそうだった。

 

 十一時前、綾子と潤が商店街へ来た。

 

 潤は黄色いボタンをつけた段ボールの箱を、紙袋へ入れている。

 

 冨永は本部で、案内図を見せていた。

 

「お父さん」

 

 潤が走りかけ、綾子に腕をつかまれる。

 

「走らない。人が多いから」

 

 冨永が二人に気づく。

 

「来たのか」

 

「これを見てもらう」

 

 潤が紙袋を持ち上げた。

 

「長谷部さんに?」

 

「うん」

 

「順番を待つんだぞ」

 

「分かってる」

 

 綾子は店の並びを見る。

 

「あなたは、ここにいるの?」

 

「四時まで」

 

「では、私たちは回ってくるね」

 

 二人は脇道へ入った。

 

 京子の店には、すでに客が二人待っている。

 

 潤は紙袋を抱え、壁際に立った。綾子はイヤリングの棚を見ている。

 

 以前迷った緑色の石が、まだ残っていた。

 

「それ、まだあったんですね」

 

「今日は、黒い服だから合いますよ」

 

「では、いただきます」

 

「一か月以上考えましたね」

 

「忘れていただけです」

 

「それでも残ってた」

 

 綾子は鏡の前で耳へ当てる。

 

「どうですか」

 

「今日の服には、よく合います」

 

「今日だけ?」

 

「次は、服を選んでください」

 

 綾子が笑う。

 

「やっぱり余計なお世話ですね」

 

 順番が来ると、潤は箱を作業台へ置いた。

 

 表に黄色いボタンが二つ並んでいる。糸は裏側で何度も絡まり、段ボールへ食い込んでいた。

 

「何を入れる箱?」

 

「まだ決めてない」

 

「作ってから決めるの?」

 

「うん」

 

 京子は裏側を見る。

 

「今は取れない。でも、段ボールが破れたら取れる」

 

「直せる?」

 

「裏に布を入れれば強くなる。自分でやる?」

 

「教えて」

 

 京子は二時の枠を紙へ書いた。

 

「今はほかの人が待ってるから、二時に来て」

 

「予約?」

 

「黄色いボタンの予約」

 

 潤は紙を財布へ入れた。

 

 綾子と潤が店を出る。

 

 冨永は本部から二人の姿を見つけたが、声をかけなかった。潤は商店街の案内を一枚ずつ読み、綾子は買ったイヤリングの袋を鞄へしまっている。

 

 正午前、空が暗くなった。

 

 アーケードの外から風が入る。衣料品店の前に出した赤い案内が、一度、歩道側へ傾いた。

 

 冨永は空を見上げた。

 

「二十パーセントですね」

 

 京子が通りの向こうから言う。

 

「四回に一回の方でした」

 

 十二時十分、雨が落ちてきた。

 

 最初は屋根を細かく鳴らす程度だった。数分後には、商店街の入口が白くなる。

 

 横から吹き込んだ雨が、店先の机へかかる。

 

「透明ケースを出して」

 

 河合が言う。

 

 佐伯が案内を入れ、小川が机を軒下へ引く。

 

 雨を避ける人が一斉にアーケードへ入り、通路が狭くなった。濡れた傘、自転車、買い物袋。店先へ出した机と看板が、歩く人の邪魔になる。

 

 冨永は福田へ案内図を渡した。

 

「本部と両端だけ残して、看板は軒下へ。移動した店を書いてください」

 

「衣料品店の服は?」

 

 福田が尋ねる。

 

 京子はすでに店の前へ向かっていた。

 

「今、畳ませない方がいい」

 

 相談台には三人分の服が広がっている。急いで重ねれば、誰のものか分からなくなる。

 

「今見ている服だけ持って、一人ずつ店内へ入ってください。残りは番号を確かめてから運びます」

 

 衣料品店主が入口の棚を奥へ押す。

 

「一人ずつなら入れるよ」

 

 冨永は通路からその様子を見る。

 

「ここは任せます」

 

 京子が言う。

 

「お願いします。私は時計店の前を空けます」

 

 二人は別の方向へ動いた。

 

 打ち合わせる必要はなかった。相手が何を守ろうとしているかは分かっている。

 

 元洋品店では、古本店の商品と「つづき」の相談台が重なっていた。

 

 小川が布包みの実演台まで運ぼうとしている。

 

「それもやるの?」

 

 京子が聞く。

 

「来る人がいるかもしれないから」

 

「服の相談は?」

 

「五件あります」

 

 佐伯が答えた。

 

 河合は布と予約表を見る。

 

「布包みは中止にします。見本だけ、棚へ置かせてください」

 

 古本店主が空いた一段を指した。

 

「ここなら濡れませんよ」

 

 小川は少し不満そうだったが、布を畳んだ。

 

「次は、晴れた日にやる」

 

「そのとき三人で決めて」

 

 京子が言う。

 

「分かってます」

 

 小川は言い返した。

 

 京子は笑った。

 

「なら大丈夫」

 

 午後一時、時計店の前で屋根の継ぎ目から水が落ち始めた。

 

 床が濡れ、客が一人足を滑らせかける。

 

 種井がラーメン店から、以前がたついていた椅子を二脚持ってきた。

 

「ここを挟めばいい」

 

「その椅子、大丈夫?」

 

 幸子が言う。

 

「直した」

 

 種井は一脚を床へ置き、手で揺らす。

 

 もうがたつかなかった。

 

 二脚の間へ、冨永が「足元にご注意ください」と書いた紙を貼る。

 

 客は自然に左右へ分かれた。

 

「催しで初めて役に立ったな」

 

 塚口が言う。

 

「ラーメンも出してる」

 

「それはいつもだろ」

 

「いつもの仕事が一番だ」

 

 種井は店へ戻った。

 

 午後二時、綾子と潤が京子の店へ戻る。

 

「予約した」

 

 潤が財布から紙を出す。

 

「覚えてたね」

 

 京子は作業台を空けた。

 

 絡まった糸を小さなはさみで切る。段ボールの裏へ厚手の布を貼り、穴を開ける。

 

「ここから、自分で」

 

 針へ糸を通し、潤へ渡す。

 

 潤が急いで引くと、糸が輪になる。

 

「止めて。無理に引かない」

 

 京子は潤の指を押さえず、輪の場所を示した。

 

「こっちを少し戻す」

 

 潤が針を戻す。絡まりがほどける。

 

 店の外では、冨永が濡れた案内を新しい紙へ替えていた。格子戸の向こうに潤の背中が見える。京子は手を出さず、横から指で場所を示している。

 

 冨永は店へ入らなかった。

 

 自分がいなくても、潤は自分で針を動かしている。

 

 三十分後、黄色いボタンは、前より平らに箱へついた。

 

「今度は取れない?」

 

「段ボールが濡れなければ」

 

 潤は箱を両手で持つ。

 

「お父さんに見せる」

 

「何を入れるか決めた?」

 

「まだ」

 

「なら、まだ使えるね」

 

 潤はうなずいた。

 

 午後三時を過ぎると、雨が弱くなった。

 

 移動した相談台は元へ戻さない。残り一時間のために服や本を動かせば、預かり番号を間違える可能性がある。

 

 河合がそう判断し、冨永が案内図だけを書き直した。

 

 京子が口を出すところはなかった。

 

 午後四時、催しは終了した。

 

 相談は四十三件。

 

 その場で終わった修理は二十件。

 

 預かりは十一件。

 

 専門店を案内したものが五件。

 

 何もせず持ち帰ったものが七件。

 

「何もしなかったのも数えるんですか」

 

 河合が尋ねた。

 

「相談した結果でしょう」

 

 冨永が答える。

 

「直さないと決めたのも?」

 

「その人が決めたことです」

 

 京子は離れたところで聞いていた。

 

 同じ答えを、自分もしたと思う。

 

 塚口だけは、ホットケーキの数を市の記録へ入れろと言い張った。

 

「二十六枚」

 

「相談件数ではありません」

 

「客が増えた証拠だろ」

 

「商店街の報告へ別に書きます」

 

「別でも入るならいい」

 

 片づけが終わったのは、午後六時だった。

 

 濡れた看板を拭き、机を戻し、預かり品の番号を確かめる。

 

 京子が自分の店へ戻ろうとすると、冨永が本部の長机を畳んでいた。

 

「終わりましたね」

 

「はい」

 

「うまくいったと思います?」

 

 京子が尋ねる。

 

「予定通りではありませんでした」

 

「それは見れば分かります」

 

「予定通りでなかったのに、誰も市役所の指示を待たなかった」

 

「市役所としては困りません?」

 

「助かりました」

 

 冨永は机の脚を畳む。

 

「長谷部さんは、どう思います?」

 

「私がいなくても、河合さんたちが実演を中止した」

 

「少し残念ですか」

 

「少し」

 

「それなら、うまくいったんでしょう」

 

「そうですね」

 

 二人は濡れた通りを見る。

 

 必要なときには声をかける。

 

 相手が動いているときは邪魔をしない。

 

 片づける場所が分かれば、いちいち尋ねない。

 

 京子は、畳んだ机の端を押さえた。

 

 その手を離す。

 

「冨永さん」

 

 京子が言う。

 

「はい」

 

「今日、一緒に仕事ができて、嬉しかったです」

 

「私もです」

 

 冨永は少し笑った。

 

 その言葉を口にしただけなのに、仕事の報告とは違うところへ声が届いた気がした。

 

 京子も、言ってから少し目を伏せる。

 

 嬉しかった。

 

 仕事がうまく進んだからだけではない。

 

 冨永が通りの向こうにいると、何となく安心した。

 

 自分が忙しくしているとき、あの人も同じ商店街のどこかで動いていると思うと、少し楽しかった。

 

 ただ、会えた日は、帰り道が少し短く感じる。

 

「また、仕事があれば」

 

「そのときは連絡します」

 

「仕事がなくても?」

 

 京子が顔を上げる。

 

 冨永は一瞬だけ考えた。

 

「珈琲くらいなら」

 

 京子が笑う。

 

「それ、仕事じゃないですよ」

 

「そうですね」

 

「でも、飲みたいです」

 

 冨永は答えなかった。

 

 答えなくても、顔に少し出ていた。

 

「また、仕事があれば」

 

「そのときは連絡します」

 

「仕事がなくても?」

 

 京子が顔を上げる。

 

 冨永は一瞬だけ考えた。

 

「珈琲くらいなら」

 

「塚口さんに怒られますよ。二人とも仕事中に来たって」

 

 京子が笑う。

 

「それなら、仕事のある日に」

 

「それがいいですね」

 

 二人はそれ以上話さなかった。

 

「では、お疲れさまでした」

 

「お疲れさまでした」

 

京子は脇道へ入り、冨永は残った資料を抱えて駅へ向かった。

 

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「 尾道の坂を下って 」  ⑧ー③

 

第三章 三百円分の話

 

「仕事を辞めたのは、三日前です」

 

 里奈は、畳の上の三百円を見ながら話し始めた。

 

 テルさんは布団の上に座り、膝を抱えていた。

 

「大阪で、住宅設備を扱う会社に勤めていました。営業事務です。見積書を作ったり、工事

の日程を決めたり、お客さんからの電話を受けたりしていました」

 

 テルさんは何も言わなかった。

 

「五年いました。嫌な会社ではなかったんです」

 

 里奈は、そこで一度言葉を切った。

 

 嫌な会社ではなかった。

 

 ひどい上司がいたわけでもない。給料が払われなかったこともない。残業は多かったが、

もっと遅くまで働く人もいた。

 

 それがかえって、辞めた理由を説明しにくくしていた。

 

「電話で怒るお客さんがいたんです。取り付けた給湯器の調子が悪いって。一度、修理の人

が行ったんですけど、異常はなかった。それでも毎日、電話してきました」

 

 テルさんは黙っている。

 

「何度聞いても、同じ話なんです。夜になると音がする。前の給湯器ではしなかった。修理

の人は分かってくれない。そうやって、二十分も三十分も話すんです」

 

 里奈は、自分の声が少し早くなっていることに気づいた。

 

「忙しい時間だったので、言ったんです。ご用件だけお願いします、って。修理が必要なら

手配します。必要でなければ、ほかのお電話もありますから、と」

 

 翌日、その客から会社へ手紙が届いた。

 

 製品への苦情ではなかった。

 

 五年前に夫が亡くなったこと。家の中で聞こえる小さな音に、一人で耐えるのが怖いこ

と。給湯器が故障していないのなら、そのように誰かから何度でも言ってほしかったこと。

 

 最後に、電話の女性を責めないでください、と書いてあった。

 

「課長は私を叱りませんでした。忙しかったから仕方がないと言いました。手紙をコピーし

て、担当者全員に回しただけです」

 

 その翌朝、里奈は会社が入っているビルの前まで行った。

 

 自動ドアが開いた。中へ入った。しかし、エレベーターのボタンを押せなかった。

 

 後ろから来た人に道を譲り、壁際へ寄った。三基あるエレベーターが何度も一階へ下りて

きて、そのたびに扉が開いた。

 

 どれにも乗れなかった。

 

「それから二週間、休みました。会社からは、しばらく休んでいいと言われました。でも、

戻っても、また電話が鳴ると思ったら……」

 

 里奈は両手を握った。

 

「私は、その人の話を毎日聞いていました。でも、何も聞いていなかったんです」

 

 テルさんは、まだ何も言わない。

 

「私が悪かったと思いますか」

 

 返事はなかった。

 

「聞いていますか」

 

 テルさんがうなずいた。

 

「では、何か言ってください」

 

「聞くだけじゃけえ」

 

「三百円払いました」

 

「まだ十五分よ」

 

「時間の問題ですか」

 

「三十分三百円じゃもん」

 

 里奈は少し腹が立った。

 

「私は真面目に話しているんです」

 

「うん」

 

「だったら、何か思うでしょう」

 

「思うよ」

 

「何を?」

 

「それを言うたら、私の話になるじゃろ」

 

 里奈は黙った。

 

 外を電車が通った。坂の下で鳴り始めた音が、屋根の間を上ってきて、少し遅れて消え

た。

 

「続きを話して」

 

 テルさんが言った。

 

「もうありません」

 

「大阪を出るところまで来とらんよ」

 

 里奈は、退職を伝えた日のことを話した。

 

 課長は電話口で、もう少し休んでから決めてもよいと言った。里奈はその言葉を聞きなが

ら、自分がいなくても仕事が進んでいることに気づいた。

 

 机の引き出しに残した私物は、同僚が段ボール箱へ入れて送ってくれた。

 

 マグカップ。予備のストッキング。使いかけのハンドクリーム。何のために取っておいた

のか分からない付箋。

 

 五年間が、宅配便の箱一つで戻ってきた。

 

「今朝、その箱を開けたら、部屋にいるのが嫌になりました。それで駅へ行きました」

 

「尾道に知り合いは?」

 

「いません」

 

「来たことは?」

 

「ありません」

 

「何で降りたん?」

 

「海が見えたからだと思います」

 

「海なら、もっと手前にもあったじゃろ」

 

「知りません。気づいたのが尾道だったんです」

 

 里奈は息を吐いた。

 

「これで全部です」

 

 テルさんは枕元の時計を見た。

 

「あと七分」

 

「もういいです」

 

「三百円分、聞くよ」

 

「話すことがありません」

 

「ほんなら黙っとったらええ」

 

 二人は黙って座った。

 

 里奈には、その七分が長く感じられた。

 

 テルさんは慰めなかった。会社を辞めて正解だったとも、逃げてもよいとも言わなかっ

た。

 

 里奈の顔を見ようともしない。ただ、そこにいた。

 

 やがて、テルさんが時計を見た。

 

「三十分」

 

 畳の上の百円玉を三枚拾った。

 

「本当に取るんですか」

 

「払うたら、貸し借りなしじゃけえ」

 

「何か一つくらい言ってください」

 

 テルさんは三枚の硬貨を手の中で転がした。

 

「そのお客さん、里奈ちゃんの名前を知っとったん?」

 

「電話では名乗っていました」

 

「手紙には書いとった?」

 

「書いていません。電話の女性を責めないでください、と」

 

「ほんなら、その人は里奈ちゃんを責めたかったんじゃないね」

 

「それは分かっています」

 

「里奈ちゃんも、その人を傷つけたかったわけじゃない」

 

「当たり前です」

 

「二人とも悪いことするつもりはなかったのに、二人ともつらかったんじゃね」

 

 テルさんは三百円を小さな缶へ入れた。

 

「明日の朝になったら、それでええことにしたら?」

 

「そんな簡単に——」

 

「簡単じゃないけえ、朝まで寝るんよ」

 

 テルさんはイヤホンを耳へ入れ、布団に横になった。

 

 里奈は、まだ何か言いたかった。

 

 けれど、何を言いたかったのか、自分でも分からなかった。

 

 電気を消した。

 

 暗闇の中で、小さく「グッドナイト・ベイビー」が漏れていた。

 

 翌朝、里奈は下手な英語で目を覚ました。

 

 テルさんが窓際に立ち、海を見ながら歌っている。

 

「何時ですか」

 

「六時半」

 

「春江さんは七時と言っていたでしょう」

 

「私は七時とは言われとらんよ」

 

「音を小さくしてください」

 

「歌は音を小そうしたら歌えん」

 

「イヤホンで聴けばいいでしょう」

 

「朝は町にも聴かせるんよ」

 

 廊下の下から、小さな咳がした。

 

「こほ……近所は聴きたくないよ」

 

 春江の声だった。

 

「ハルさん、起きとったん?」

 

「こほ……起こされたんよ」

 

 里奈は布団の中で笑った。

 

「何がおかしいん?」

 

「別に」

 

 一階へ下りると、春江はすでに食卓に座っていた。三人分の茶碗と味噌汁が並んでいる。

 

「春江さんが作ったんですか」

 

「こほ……朝ご飯ぐらいは作れるよ」

 

「足が痛い言うとったじゃろ」

 

「口は痛うないよ」

 

 春江は小さな声で答えたが、テルさんには聞こえたらしい。

 

「ご飯は口で作れんよ」

 

「ゴホ……誰が屁理屈を言えいうた」

 

 テルさんは急に姿勢を正した。

 

「里奈ちゃん、今のが怒っとる咳」

 

「分かりやすいですね」

 

「こほ……二人とも、冷めんうちに食べんさい」

 

 朝食の途中で、春江が一枚の紙をテルさんへ渡した。

 

 牛乳、卵、じゃがいも、湿布、封筒。

 

「昨日、牛乳を買ったでしょう」

 

 里奈が言うと、春江が小さく咳をした。

 

「こほ……隣の小川さんの分」

 

「買い物を一緒にしているんですか」

 

「小川さんは、先週から膝が悪いんよ」

 

 テルさんは味噌汁を飲みながら答えた。

 

「三百円もらうんですか」

 

「小川さんからは、もらわん」

 

「どうしてですか」

 

「持っとらんけえ」

 

「お金を?」

 

「うん」

 

「本人がそう言ったんですか」

 

「言わんよ」

 

「では、どうして分かるんですか」

 

 テルさんは箸を止めた。

 

「見たら分かることもあるよ」

 

「見ただけで決めるのは失礼ではありませんか」

 

「ほんなら里奈ちゃんが三百円もろうたら?」

 

「私が?」

 

「買い物、行ってきて」

 

 テルさんは紙を里奈の前へ置いた。

 

「私は、ここに泊めてもらっているんです。お金は受け取れません」

 

「ハルさんの買い物は宿代。小川さんの買い物は別」

 

「同じ店へ行くんですよね」

 

「頼む人が違うけえ」

 

 里奈は春江を見た。

 

 春江は味噌汁を飲んでから、小さく咳をした。

 

「こほ……行ってきたらええ」

 

「でも、三百円は——」

 

 春江の声がさらに小さくなった。

 

 里奈には聞き取れなかった。

 

「何と言ったんですか」

 

「三百円を受け取れるかどうかは、小川さんが決めることじゃって」

 

 テルさんが復唱した。

 

 春江はうなずいた。

 

「分かりました。買い物だけしてきます」

 

「私も行くよ」

 

 テルさんが立ち上がった。

 

「一人で行けます」

 

「店の場所、知らんじゃろ」

 

「昨日、通りました」

 

「小川さんの家は?」

 

 里奈は答えられなかった。

 

「それに、尾道の坂は、上る道と下りる道が同じとは限らんよ」

 

 テルさんは例の音楽プレーヤーをポケットへ入れた。

 

「それはどういう意味ですか」

 

「下りたら分かる」

 

 二人は買い物袋を持ち、家を出た。

 

 朝の坂には、観光客がまだいなかった。家の中から食器の触れ合う音が聞こえ、どこかで

洗濯機が回っている。

 

 テルさんは、昨日とは違う細い道を選んだ。

 

「そっちは駅と反対では?」

 

「近道」

 

「遠ざかっているように見えます」

 

「坂は、真っすぐ下りたら行き止まりになるんよ」

 

 角を曲がるたび、海が見えたり消えたりした。

 

 途中、小さな家の前で、テルさんが立ち止まった。

 

「ここが小川さんの家」

 

「まだ買い物をしていません」

 

「先にお金を預かる」

 

 玄関脇の鉢には、枯れかけ

 

た葱が植えられていた。軒下に干されたタオルは、端がほつれている。

 

 テルさんが戸を叩いた。

 

「小川さん、買い物行ってくるよ」

 

 しばらくして、戸が少しだけ開いた。

 

 小柄な女性が顔を出した。春江よりいくらか若く見えたが、髪は白かった。

 

「今日は、そっちの人が行ってくれるん?」

 

「大阪から来た里奈ちゃん」

 

「大阪から、買い物に?」

 

「昨日、流れてきた」

 

 小川は驚いた顔で里奈を見た。

 

「大丈夫なん?」

 

「買い物くらいできます」

 

 小川は千円札を二枚と、小銭の入った封筒を差し出した。

 

「余ったら、そこへ入れて返して。三百円は別に——」

 

「要りません」

 

 里奈はすぐに言った。

 

 小川は手を止めた。

 

「どうして?」

 

「私は春江さんの家に泊めてもらっています。そのお礼ですから」

 

「私は春江さんじゃないよ」

 

「でも、同じ買い物です」

 

「同じ店で買うても、うちの牛乳はうちの牛乳じゃろ」

 

 里奈は返事に困った。

 

 テルさんは何も言わない。

 

「じゃあ、三百円は帰ってから」

 

 小川は封筒を里奈へ渡した。

 

「ちゃんと持って帰ってくれたら払う」

 

 二人は再び坂を下り始めた。

 

「最初から、こうなると分かっていましたね」

 

 里奈が尋ねた。

 

「何が?」

 

「小川さんが三百円を払うと言うことです」

 

「払いたいんじゃろ」

 

「お金がないんでしょう」

 

「ないよ」

 

「だったら、断るべきです」

 

 テルさんは立ち止まり、里奈を見た。

 

「小川さんは、ただでしてもらう人になりたくないんよ」

 

「でも——」

 

「三百円払うたら、来週も頼めるじゃろ」

 

「無料でも行けばいいでしょう」

 

「里奈ちゃんは来週もおるん?」

 

 里奈は答えられなかった。

 

 テルさんはまた歩き始めた。

 

「ただでしてあげる約束は、する人がおらんようになったら終わる。でも三百円の約束な

ら、別の人にも頼める」

 

「テルさんは、小川さんから受け取っていないでしょう」

 

「私は、たまに晩ご飯もろうとる」

 

「それなら無料ではないじゃないですか」

 

 テルさんが振り返った。

 

「そうよ」

 

 里奈は足を止めた。

 

 自分だけが、無料で助けているのだと思い込んでいた。

 

 坂の下から、商店街が見えてきた。

 

 テルさんはイヤホンを片方だけ耳へ入れ、下手な英語を口ずさみ始めた。

 

 里奈はその後ろを歩きながら、封筒の中の小銭の音を聞いていた。

 

 三百円を受け取ることと、三百円を取ることは、同じではないのかもしれなかった。

 

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「 尾道の坂を下って 」  ⑧ー②

 

第二章 三日だけ

 

 テルさんが買い物を届けた家は、坂の上にあった。古い木造の家で、玄関の前に植木鉢が

並んでいる。花が咲いているものは一つもなかった。土だけの鉢にも水がやってあり、里奈

には、何を育てているのか分からなかった。

 

「ハルさん、帰ったよ」

 

 テルさんが引き戸を開けた。

 

「ここ、あなたの家なんですか」

 

「違うよ」

 

 奥から声がした。

 

「テルちゃんの家になった覚えはないよ」

 

 七十歳をいくらか過ぎた女性が、廊下の突き当たりに立っていた。

 

 白い割烹着を着て、右手に杖を持っている。

 

 髪はきれいに整えられていた。

 

 女性はテルさんではなく、その後ろにいる里奈を見た。

 

「その人、誰?」

 

「大阪から来た人」

 

「名前を聞いとるんよ」

 

「何じゃった?」

 

 テルさんが里奈を振り返った。

 

「水野里奈です」

 

「そうそう。里奈ちゃん」

 

「今、覚えたんじゃろ」

 

「人の名前は、二回聞いたほうが覚えるけえ」

 

 テルさんは靴を脱ぎ、スーパーの袋を廊下へ置いた。

 

「牛乳と豆腐。りんごは四つ入りが高かったけえ、二つだけ」

 

「トイレットペーパーは?」

 

「この人が持っとる」

 

 里奈は、キャリーバッグの上に載せたままだったトイレットペーパーを下ろした。

 

 女性はそれを受け取りながら、もう一度里奈を見た。

 

「泊まるところを探しとるんじゃって」

 

「うちに泊めるとは言うとらんよ」

 

「まだ私も言うとらん」

 

「言う顔をしとる」

 

 テルさんは笑った。

 

 里奈は玄関に立ったまま、靴を脱げずにいた。

 

「突然すみません。宿が見つからなくて。でも、駅へ戻れば——」

 

「帰る電車はあるん?」

 

「あります」

 

「帰りたくないんじゃって」

 

 テルさんが代わりに答えた。

 

 女性は杖の先を床へつき、里奈のキャリーバッグを見た。

 

「何日?」

 

「決めていません」

 

「いちばん困る答えじゃね」

 

「すみません」

 

「謝る前に決めんさい」

 

 里奈は黙った。

 

 今日だけ泊めてもらうと言えばよい。

 

 明日は明日で考える。

 

 それが最も迷惑をかけない答えだと分かっていた。

 

 けれど、一晩だけでは、明日の朝からまた泊まる場所を探さなければならない。

 

「三日、お願いできますか」

 

 女性はテルさんを見た。

 

「三日じゃって」

 

「短いねえ」

 

「あんたは黙っとき」

 

「はい」

 

「テルちゃんに言うとる」

 

 女性は里奈へ向き直った。

 

「何ができるん?」

 

 里奈は答えようとして、言葉に詰まった。

 

 大阪の会社では、営業事務をしていた。

 

 見積書を作り、顧客からの問い合わせに答え、営業担当者の予定を調整した。  

 

 パソコンは使える。表計算も人並みにはできる。

 

 しかし、この家で何ができるかと聞かれても、そのどれも答えにならなかった。

 

「カレーなら作れます」

 

 なぜそれを言ったのか、自分でも分からなかった。

 

 女性の眉が少し動いた。

 

「カレーだけ?」

 

「肉じゃがも、一応」

 

「一応いう料理は、食べるんが怖いね」

 

 テルさんが口を挟んだ。

 

「私はりんごの皮がむけるよ」

 

「あんたに聞いとらん」

 

 女性はしばらく考えていた。

 

「三日だけ。晩ご飯を作ること。風呂は最後。寝るところはテルちゃんと同じ部屋」

 

「ありがとうございます」

 

「まだある。朝は七時。うちは旅館じゃないけえ、昼まで寝る人はいらんよ」

 

「分かりました」

 

「三日たったら?」

 

「その間に、どうするか決めます」

 

「決まらんかったら?」

 

 里奈は少し迷ってから答えた。

 

「出ていきます」

 

 女性はうなずいた。

 

「私は藤井春江。テルちゃんはハルさんいうけど、あんたは春江さんと呼んで」

 

「はい」

 

「テルちゃん」

 

「何?」

 

「その人の荷物、二階へ上げて」

 

「私が?」

 

「連れてきたんじゃろ」

 

 テルさんは露骨に嫌そうな顔をした。

 

「重いんよ。この中にパソコンまで入っとる」

 

「坂の下へ捨ててくる?」

 

 春江が里奈に尋ねた。

 

「自分で運びます」

 

 里奈はキャリーバッグを持ち上げた。

 

 玄関の上がり框で車輪をぶつけ、柱の角にも当てた。

 

 狭い階段を一段上がるごとに、荷物が膝へぶつかった。

 

 テルさんは、後ろから見ていた。

 

「手伝ってくれてもいいんじゃないですか」

 

「自分で運ぶ言うたじゃろ」

 

「普通、そこは手伝うでしょう」

 

「普通は、泊まるところを決めてから大阪を出るよ」

 

 里奈は言い返さず、残りの階段を上った。

 

 二階には六畳ほどの和室が一つあった。

 

 窓際にテルさんの布団が畳まれている。

 

 その隣に小さな衣装箱があり、上には古い携帯音楽プレーヤーとイヤホン、読みかけらし

い文庫本が置かれていた。

 

 壁には何もない。

 

 写真も、カレンダーもなかった。

 

 部屋の隅に、りんごの入った籠だけがあった。

 

「本当にりんごが好きなんですね」

 

「りんごを毎日食べると、頭がよくなるんよ」

 

「初めて聞きました」

 

「私が小学校のとき、毎日食べとったら成績がよかった」

 

「それだけでは証明になりません」

 

「大阪の人は、すぐ証明したがるねえ」

 

「大阪は関係ありません」

 

 テルさんは押し入れから薄い布団を出し、畳の上へ置いた。

 

「そこに敷いたらええよ」

 

「テルさんは、いつからここに?」

 

「何が?」

 

「いつから、この家に住んでいるんですか」

 

「前から」

 

「何年前ですか」

 

「忘れた」

 

「家賃はいくら払っているんですか」

 

「聞きたいことが多いね」

 

「三日後には出なければいけないので、参考にしたいんです」

 

 テルさんは衣装箱の上から音楽プレーヤーを取り、イヤホンのコードをほどいた。

 

「一か月一万円」

 

「安いですね」

 

「買い物と掃除もする」

 

「それで一万円になるんですか」

 

「ならん月もあるよ」

 

「どういうことですか」

 

「ハルさんが病院へ行くときは一緒に行く。夜中に足が痛うなったら起こされる。庭の鉢を

動かす。雨が降ったら洗濯物を入れる」

 

「それは仕事では?」

 

「仕事にしたら、一万円では足りんね」

 

「では、なぜ」

 

「私もここに住みたいけえ」

 

 テルさんは片方のイヤホンを耳へ入れた。

 

「ハルさんも、一人で住みたくない。でも誰かと暮らしとると言うと、面倒を見る人がおる

と思われる。私はハルさんの面倒を見とらんし、ハルさんも私の面倒を見とらん」

 

「でも、お互いに助けていますよね」

 

「たまにね」

 

「それを一緒に暮らすと言うんじゃないですか」

 

 テルさんはもう片方のイヤホンも耳へ入れた。

 

「難しいことは、晩ご飯のあとにして」

 

 音楽を再生すると、布団の上へ仰向けになった。

 

「今から寝るんですか」

 

「昼寝」

 

「春江さんは、昼まで寝る人はいらないと言っていました」

 

「もう昼過ぎじゃけえ」

 

 テルさんは目を閉じた。

 

 里奈は何か言おうとしたが、やめた。

 

 キャリーバッグを開き、着替えを取り出した。

 

 三日分どころか、一週間分は入っている。

 

 大阪の部屋を出るとき、何日留守にするか決められず、手当たり次第に詰めた。

 

 窓を開けると、家々の屋根の向こうに海が見えた。

 

 駅前から見た海より細く、建物の間へ挟まっている。

 

 船が通るたび、その細い海がゆっくり動いた。

 

 下の階から、春江の声がした。

 

「テルちゃん、買うてきたりんご、傷んどるよ」

 

 テルさんは目を閉じたまま答えた。

 

「傷んどるとこ取ったら、食べられる」

 

「一つはあんたが食べんさいよ」

 

「頭がようなりすぎる」

 

「元が元じゃけえ、心配せんでええ」

 

 里奈は思わず笑った。

 

 テルさんが片目を開けた。

 

「何がおかしいん?」

 

「仲がいいんですね」

 

「よくないよ」

 

 下から春江の声がした。

 

「聞こえとるよ」

 

「耳だけはええんよ」

 

 テルさんはまた目を閉じた。

 

 夕食は、カレーになった。

 

 里奈は春江から渡されたエプロンを着け、台所に立った。

 

 冷蔵庫には豚肉が少しと、玉ねぎ、人参、使いかけの生姜があった。

 

 じゃがいもはなかった。

 

「買ってきましょうか」

 

「坂を下りるん?」

 

「スーパーまで行けば」

 

「帰ってきたら、晩ご飯が夜中になるよ」

 

 春江は台所の椅子に座り、里奈の手元を見ていた。

 

「じゃがいもなしで作ります」

 

「さっきまで、カレーなら作れる言うとったのに」

 

「じゃがいもがないとは思いませんでした」

 

「あるもので作るんが料理じゃろ」

 

 里奈は玉ねぎを切り始めた。

 

「春江さんは、テルさんとどうやって知り合ったんですか」

 

「買い物」

 

「最初から頼んだんですか」

 

「商店街で、あの子が喫茶店におったころにね。私が牛乳を二本買うたら、家まで持ってい

こうか言うた」

 

「親切だったんですね」

 

「違うよ。三百円くれ言うた」

 

 里奈は包丁を止めた。

 

「最初からですか」

 

「知らん人の牛乳を、ただで持って上がるほど暇じゃない言うてね」

 

「テルさんらしいですね」

 

「三百円払うたら、次の週も来た。頼んでもないのに」

 

「それからずっと?」

 

「途中から、帰らんようになった」

 

 春江は何でもないことのように言った。

 

「どういうことですか」

 

「ある晩、雨がひどう降ってね。泊まっていけ言うたら、次の日もおった。その次の日も」

 

「追い出さなかったんですか」

 

「三日たったら出ていけ言うたよ」

 

 里奈は振り返った。

 

 春江は里奈を見ず、玉ねぎの皮を一枚、指先で拾っていた。

 

「それで何年いるんですか」

 

「忘れた」

 

 テルさんと同じ答えだった。

 

「では、私も三日を過ぎたら——」

 

「あんたは出てもらうよ」

 

 春江はきっぱり言った。

 

「テルちゃん一人で、十分ややこしいけえ」

 

「分かっています」

 

 里奈は鍋へ肉を入れた。油のはぜる音が台所に広がった。しばらくして、玄関で引き戸が開いた。

 

「テルちゃん、おる?」

 

 女性の声だった。

 

 二階から下りてきたテルさんが、玄関へ向かった。

 

 五十代ほどの女性が立っていた。

 

 買い物袋は持っていない。

 

 用事があるようにも見えなかった。

 

「三十分、ええ?」

 

「晩ご飯までなら」

 

 女性は里奈と春江を気にしている様子だった。

 

「ここじゃ、ちょっと」

 

「ほんなら外へ出ようか」

 

 テルさんはつっかけを履いた。

 

 女性が小銭入れを出す。

 

「今日は五百円払う」

 

「三百円でええよ」

 

「長うなるかもしれん」

 

「長うなったら、途中で帰る」

 

 テルさんは女性と一緒に出ていった。

 

 里奈は鍋を混ぜながら、玄関を見た。

 

「何の相談でしょう」

 

 春江が眉を上げた。

 

「それを聞くん?」

 

「気になっただけです」

 

「テルちゃんは、人の話を持って帰らんよ」

 

「春江さんにも話さないんですか」

 

「私にも話さん。あの子は自分の話もせんけど、人の話もせん」

 

 春江は杖をつき、台所から出ていった。

 

 玄関の外では、もう二人の声は聞こえなかった。

 

 里奈はカレーの味を見た。

 

 少し薄かった。

 

 ルーを足そうと箱を探したが、残っていない。

 

 塩を入れるべきか、醤油を入れるべきか迷った。

 

 大阪で一人暮らしをしていたとき、味が薄くても濃くても、食べるのは自分だけだった。

 

 誰かに食べてもらう料理を作るのは、いつ以来か思い出せなかった。

 

 三十分ほどして、テルさんが帰ってきた。

 

「早かったですね」

 

「三十分じゃけえ」

 

「その人、安心したんですか」

 

「知らんよ」

 

「話を聞いても、分からないんですか」

 

「安心したかどうかは、あの人が決めることじゃろ」

 

 テルさんは台所をのぞき込んだ。

 

「カレー?」

 

「最初からそう言っています」

 

「じゃがいもは?」

 

「ありませんでした」

 

「りんご入れたら?」

 

「入れません」

 

「頭がようなるのに」

 

「カレーを食べてまで成績を上げる必要はありません」

 

 テルさんは笑い、食器棚から皿を三枚出した。

 

 食卓にカレーが並んだ。

 

 春江は一口食べ、皿の中の玉ねぎを箸で裏返した。

 

 テルさんは湯気に顔を近づけたまま、二口目を食べた。

 

「どうですか」

 

 里奈は耐えきれずに尋ねた。

 

「何が?」

 

「味です」

 

「カレーの味がするよ」

 

 テルさんが答えた。

 

「おいしいかどうかを聞いているんです」

 

「食べられる」

 

「それは、おいしくないという意味ですよね」

 

 春江が二口目を食べた。

 

「じゃがいもがないね」

 

「それは作る前から分かっています」

 

「里奈ちゃん」

 

「はい」

 

「明日は肉じゃがにせんさい」

 

「じゃがいもがありません」

 

「買いに行けばええじゃろ」

 

 春江は初めて、少し笑った。

 

 食事を終えるころには、外は暗くなっていた。

 

 窓の向こうに、海沿いの明かりが見える。

 

 電車が通る音が、坂の下から遅れて届いた。

 

 里奈の携帯電話には、大阪の元同僚からメッセージが一件入っていた。

 

 〈少しは落ち着いた?〉

 

 里奈は返信を打とうとして、やめた。

 

 何と書けばよいのか分からなかった。

 

 尾道にいること。

 

 知らない女の家でカレーを作ったこと。

 

 三百円で人の話を聞く女性と同じ部屋で眠ること。

 

 どれも説明すればするほど、自分が何をしているのか分からなくなる。

 

 風呂を最後に済ませ、二階へ上がった。

 

 テルさんは布団に入り、音楽プレーヤーを枕元に置いていた。

 

「朝とは違う曲ですね」

 

「グッドナイト・ベイビー」

 

「それも意味を知らないんですか」

 

「夜に聞く歌じゃけえ、それでええよ」

 

 小さな音がイヤホンから漏れていた。里奈は隣へ布団を敷いた。

 

「テルさん」

 

「何?」

 

「私は三日後、どうすればいいと思いますか」

 

「知らん」

 

「少しくらい考えてくれてもいいでしょう」

 

「三百円払う?」

 

 里奈は枕元の鞄から財布を取り出した。

 

 本当に百円玉を三枚、畳の上へ置いた。

 

 テルさんがイヤホンを外した。

 

「何を聞いてほしいん?」

 

 里奈は答えようとした。

 

 仕事のことか。大阪の部屋のことか。

 

 誰にも連絡せずに来たことか。

 

 自分でも理由を説明できないまま、帰りたくないと思っていることか。

 

 何から話せばよいのか分からなかった。

 

「三日後、ここを出たくありません」

 

 ようやく、それだけを言った。テルさんは黙っていた。

 

「何か言わないんですか」

 

「聞くだけじゃけえ」

 

「それでも、最後には何か言うでしょう」

 

「まだ三十秒よ」

 

 里奈は畳の上の三百円を見た。

 

 そして、大阪で仕事を辞めた日のことを話し始めた。

 

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連載 小説.       『 京都テクノリンク 』      連載 5回目

 

第十一章 学生ネットワーク

 

 契約料金を戻したあとも残った顧客から、少しずつ紹介が増えた。赤字の仕事ではなくなったが、引き受けられる件数には限りがある。

 

 人手が足りず、依頼を断る日が続いたころ、白髪の男が町家を訪ねてきた。

 

 宏と山下が大学で教わった西岡教授だった。退官後は、散歩の途中で古い建物を眺めるのが日課になっている。

 

「ええ会社になったな」

 

 山下は苦笑した。

 

「中を見ても、そう言えますか」

 

 教授は壁に貼られた市内地図を見た。赤い印は顧客、青い磁石は技術者の予定だった。

 

「人が少ないんやない。人の動きが見えてへんのや」

 

 教授の研究室では、学生が市内の商店や工房を訪ねる調査を始めていた。学生を修理や顧客対応に関わらせることはできない。だが、専用の携帯電話を持たせ、移動する区間と交通の混み具合だけを知らせてもらうことはできる。

 

 その情報を地図へ重ねれば、宏たちは最短距離ではなく、実際に早く着ける順に現場を回れる。近くを走っている協力会社にも、顧客情報を伏せたまま応援を頼める。

 

「学生を働かせるんやない。街の流れを見せてもらうんや。京都を流れる目になってもらう、と言うたらええ」

 

 教授の言葉だけでは、仕組みにはならなかった。

 

 学生の何を見て、誰が判断し、どこまで仕事に使うのか。宏と真由美は二週間、壁の地図の前で話し合った。山下は学生を電話受付に使えばいいと言ったが、真由美が退けた。

 

「責任を持たせへんと言いながら、都合のええときだけ社員みたいに使うのは違います」

 

 最初に協力した学生は五人だった。工学部二回生の高瀬航は、その中でいちばん熱心だった。市内を自転車で走るのが好きで、裏道にも詳しいと自負している。

 

 試験運用の初日、東山の顧客から通信機器の不調を知らせる電話が入った。宏は西院にいた。高瀬からは、四条通の東行きは流れているという情報が届いた。

 

 宏は五条通ではなく四条通を選んだ。

 

 ところが、烏丸を越えたところで車列が止まった。高瀬が見たのは自転車が通れる路地と歩道で、自動車の流れではなかった。さらに祇園近くでは工事車両が道を塞いでいる。

 

 宏が顧客へ着いたのは、約束より四十分遅かった。

 

「学生さんの遊びに、うちらの仕事を使わんといてもらえますか」

 

 顧客の担当者は、それだけ言って作業に立ち会わなかった。

 

 高瀬は町家へ謝りに来た。

 

「僕、自転車で走れたから、空いてると思いました」

 

「僕も確認せずに使った。判断したのは僕です」

 

 宏が言っても、高瀬は顔を上げなかった。

 

「もう、やめたほうがええですか」

 

 壁際で聞いていた西岡教授は答えなかった。山下も口を挟もうとしたが、真由美が目で止めた。

 

 宏は木崎に言われた言葉を思い出した。疲れている耳は、自分が聞きたい音を聞く。自分は、人手不足を解決する答えが欲しくて、高瀬の情報を都合よく読んだ。

 

「やめるかどうかは、間違いの理由が分かってから決めよう。次から、自転車、車、徒歩を分けて送ってください。見てへん道は、分からへんと書く。僕らも一つの情報だけでは経路を決めません」

 

 高瀬は、専用電話の入力画面を自分で作り直した。交通手段、確認時刻、見た区間、推測か実見か。送る項目は増えたが、曖昧な「空いている」は消えた。

 

 一週間後、高瀬から、堀川通で事故があり北行きが動かないという情報が届いた。宏は西へ迂回し、約束より十分早く着いた。

 

 帰りに町家へ寄ると、高瀬は何も言わず、壁の地図に小さな青い磁石を置いた。

 

 宏も褒めなかった。ただ、その磁石を動かさなかった。

 

 真由美が先に条件を決めた。学生には定額の通信協力費を払い、位置情報は本人が送ったときだけ使う。顧客名も故障内容も知らせない。夜間は運用しない。

 

 山下は、すぐに人数を増やしたがった。

 

「まず十人です」

 

 真由美が止めた。

 

「仕組みが間違ってたら、百人いても百人分間違います」

 

 学生ネットワークは、京都の細い道を流れる目になった。祇園祭の鉾建てが始まると通れなくなる道、観光バスで詰まる交差点、雨の日だけ遅れる路線。数字だけでは分からない街の呼吸が、町家の地図に現れた。

 

 宏たちの到着は早くなり、断る仕事が減った。

 

 京洛ビジネスサポートが同じ仕組みを作ろうとしたとき、学生は集まらなかった。

 

 西岡教授が学生へ伝えていたのは、アルバイトの募集ではない。この会社が古い商いと新しい技術の間で、何を守ろうとしているかという話だった。

 

 京洛ビジネスサポートはその後も、安い月額料金と二十四時間受付を掲げて営業を続けた。

 

 京都テクノリンクから移った会社もあった。反対に、担当者が替わるたび同じ説明を繰り返すことに疲れ、戻ってきた会社もあった。

 

 山下は、戻ってきた会社を前にしても、勝ったとは思わなかった。夜中にも電話がつながる会社を必要とする客もいる。現場へ来て、会社ごとの事情を覚える相手を必要とする客もいる。

 

「京洛ビジネスサポートを潰すんが、うちの仕事やない」

 

 山下がそう言うと、真由美は赤い紙のファイルを閉じた。

 

「うちが守れるお客さんを、守れる値段で守る。それでええんやと思います」

 

 二つの会社は、同じ困り事を扱いながら、別の客を守る会社になっていった。

 

第十二章 赤い車が止まった日

 

 花背で雪を投げ合った日から、五か月近くが過ぎていた。

 

 六月の京都は、朝から空気に水を含んでいる。町家の庭では、前夜の雨を吸った苔が色を深くし、軒先から落ちる雫が同じ石を繰り返し打っていた。

 

 その日、山下は久御山の部品会社を訪ねていた。

 

 社長から聞かされたのは、荷受け場の混雑だった。材料を運ぶ車が重なると、工場の者が持ち場を離れ、荷を下ろす。十分ほどで済む日もあれば、一時間近く機械が止まる日もある。

 

「荷受けの人、置かはったらどうです」

 

「その一時間のために、一日分の給料払うんか」

 

「ほな、車の時間を分けてもらう」

 

「昔からの取引先に、うちの都合で時間変えろと言えますかいな」

 

 社長は困っている。しかし、人を増やすことも、取引先へ頼むこともしたくない。

 

 山下には、どちらの気持ちも分かった。

 

「一週間、車の来る時間と、機械が止まる時間を見せてください。そのあと、何を変えるか決めましょう」

 

「見ただけで、分かるんか」

 

「分からんかったら、分からん言います」

 

「頼りない会社やな」

 

 社長は笑い、机の上の資料を引き寄せた。

 

「そやけど、何でもできます言う会社よりは、ましか」

 

 契約の話へ入ったところで、山下の携帯電話が震えた。

 

 会議中には見なかった。

 

 佳織から届いた連絡だった。

 

〈今日、町家寄る。学生の目、道だけに使うんはもったいない〉

 

 午後一時四十七分、学生ネットワークの専用電話へ高瀬航から連絡が入った。

 

「高瀬です。堀川で事故が――」

 

 クラクションと人の声が重なり、通話は切れた。

 

 配送トラックと乗用車二台が絡み、一台が街路樹との間に挟まれていた。雨に濡れた赤い車体の運転席側が、大きく潰れている。

 

 高瀬は救急へ通報したあと、見えている道の状態を町家へ送った。

 

〈大宮通北行き、鞍馬口から上は流れています〉

 

〈北大路から堀川へ南下する車線、事故地点の手前まで空いています〉

 

〈建勲神社東側、普通車は通れます。緊急車両の幅は分かりません〉

 

 学生たちは道を選ばなかった。見たことと、分からないことを分けて送った。

 

 真由美は消防の窓口へ会社名を告げ、必要なら実見した情報を伝えられると申し出た。情報が救助に使われたかどうかは、最後まで分からなかった。それでも学生たちは、推測を交えず、見た道だけを送り続けた。

 

 やがて北側から救助工作車が到着し、止まっていた救急車も反対車線側へ回り込んだ。学生たちは指示をせず、救助活動の妨げにならない場所まで下がった。

 

 山下が現場近くへ着いたとき、運転者は救急車へ移されるところだった。

 

 覆いが外され、赤い車の後部が見えた。

 

 曲がったナンバーは、町家の前で何度も見たものだった。

 

 山下は携帯電話を取り出した。

 

〈今日、町家寄る。学生の目、道だけに使うんはもったいない〉

 

 佳織は、いつも次の話を持って現れた。

 

 その続きが、突然なくなる。

 

「佳織」

 

 閉じた救急車の扉へ、名前だけが出た。

 

 高瀬が歩道に立っていた。顔もシャツも雨に濡れている。

 

「意識は、あったんですか」

 

「分かりません。すみません」

 

「何で、君が謝るんや」

 

 声が大きくなり、高瀬の肩が固くなった。

 

 山下は目を閉じた。

 

「すまん。違う。見つけてくれて、ありがとう」

 

 佳織は救命救急センターで緊急手術を受けた。

 

 肋骨の骨折、肺の損傷、腹腔内の出血。肝臓にも大きな傷があった。出血は止められたが、医師は数日間、予断を許さないと説明した。

 

 宏と真由美が病院へ着いたとき、山下は手術室前の長椅子にいた。

 

「あいつが思いついたこと、まだ聞いてへん」

 

 宏は隣へ座った。

 

「聞けます」

 

「何で分かる」

 

「分かりません」

 

 山下は、それ以上聞かなかった。

 

 窓の外では、雨が降り続いていた。

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『 棚のない商店街 』 ストーリー 5

 

第十章 売れない店

 

 一週間が過ぎた。

 

 数字は思ったほど悪くなかった。

 

 文房具。

 

 キッチン用品。

 

 収納用品。

 

 日用品。

 

 季節商品。

 

 それぞれに売上が立っている。

 

 ただし、一つだけ極端に低い店があった。

 

 掃除用品だった。

 

 他の店舗の半分以下。

 

 客は来る。

 

 商品も見る。

 

 しかし、買わない。

 

 井上が数字を示した。

 

「来店者数はそこまで少なくないんです」

 

「なのに売上が低い」

 

「はい」

 

「理由は?」

 

「分かりません」

 

 涼は掃除用品店へ向かった。

 

 店内には、スポンジ、ブラシ、ゴミ袋、洗濯用品、雑巾、手袋などが並んでいる。

 

 一見すると普通だ。

 

 しかし、店内に入ってみて気づいた。

 

 商品がすべて同じ高さに並んでいる。

 

 どの商品も、ただ棚に置かれている。

 

 何を選べばいいのか分からない。

 

 涼は一つのスポンジを手に取った。

 

「これ、何が違うんだろう」

 

 隣にいた冴が答える。

 

「硬さ」

 

「分からない」

 

「こっちは油汚れ用」

 

「それも書いてない」

 

 二人は棚を見た。

 

 商品そのものに説明はある。

 

 しかし、小さい。

 

 高齢者には読みにくい。

 

 しかも、似たような商品が並んでいる。

 

「百円だから、どれを買ってもいいと思ってる人もいるかもしれない」

 

 冴が言った。

 

「でも、違いが分からないと、買う理由がない」

 

 涼は店を出た。

 

 そして近くの商店街の店主に聞いた。

 

「普段、掃除用品ってどこで買います?」

 

「スーパーかな」

 

「なぜです?」

 

「必要なものが分かってるから」

 

 涼は考えた。

 

 掃除用品店は、商品を売るだけでは弱い。

 

 使い方を見せなければいけない。

 

「だったら、使ってみてもらう?」

 

 冴が言った。

 

 涼は彼女を見る。

 

「実演?」

 

「そう。スポンジなら、油汚れがどう落ちるか。ブラシなら、どこに使うか」

 

「店頭で?」

 

「百円の商品だからできると思う」

 

 その日の午後、掃除用品店の入口に小さな実演台が置かれた。

 

 古い鍋。

 

 油を塗った皿。

 

 汚れたタイル。

 

 そこに商品の説明を添えた。

 

「油汚れ用」

 

「水だけで使える」

 

「細かいところ用」

 

 通りを歩いていた人が立ち止まる。

 

 見ている。

 

 少しすると、一人がスポンジを手に取った。

 

「これ、百円?」

 

「はい」

 

「じゃあ、買ってみようかな」

 

 それがきっかけだった。

 

 夕方までに、スポンジが十七個売れた。

 

 前日の一日の売上を、数時間で上回った。

 

 井上はデータを見て驚いた。

 

「実演を始めてから、購買率が三倍になってる」

 

「三倍?」

 

 志保が画面を見る。

 

「正確には三・二倍」

 

 田島が笑った。

 

「百円の商品で、そこまで変わるのか」

 

 涼は実演台を見た。

 

 たった一つの小さな工夫だった。

 

 商品を変えたわけではない。

 

 店を変えたわけでもない。

 

 売り方を変えただけだった。

 

 その夜、加藤は会議の最後に言った。

 

「このデータ、企業に返そう」

 

「売れたという報告だけじゃなく?」

 

「どうやって売れたかまで」

 

 井上が頷く。

 

「企業側からすると、かなり価値がありますね」

 

「そうだ」

 

 加藤は涼たちを見た。

 

「このプロジェクトの意味が、少し見えてきたな」

 

 涼は黙っていた。

 

 商店街を再生する。

 

 最初は、それだけを考えていた。

 

 けれど実際に始めてみると、店を置くだけでは人は動かない。

 

 人が動くには理由がいる。

 

 商品が売れるにも理由がいる。

 

 そして、その理由を一つずつ探していく。

 

 それが、この一年間の仕事なのかもしれなかった。

 

 会議が終わり、涼が資料をまとめていると、冴が隣に来た。

 

「今日、よかったね」

 

「うん」

 

「何が一番よかった?」

 

 涼は少し考えた。

 

「売れたことじゃない」

 

「じゃあ?」

 

「売れなかった理由が分かったこと」

 

 冴は笑った。

 

「やっぱり、そういうところ変わってない」

 

「どういうところ?」

 

「問題があると、面白くなるところ」

 

 涼も笑った。

 

 けれど、冴はそのあと少し黙った。

 

「……昔もそうだったよね」

 

 涼の手が止まった。

 

 冴は何もなかったように資料を持ち上げた。

 

「明日、九時から商店街だから」

 

「分かってる」

 

「じゃあ、お疲れさま」

 

「お疲れさま」

 

 冴が部屋を出ていく。

 

 涼は一人残った会議室で、しばらく動かなかった。

 

 昔。

 

 その言葉が、頭の中に残っている。

 

 三年前に終わったはずの時間が、このプロジェクトの中で少しずつ戻ってきている。

 

 しかし、涼にはまだ、それをどう受け止めればいいのか分からなかった。

 

 翌週、プロジェクトに新しい問題が持ち込まれるまでは。

 

 その朝、黒田から一本の電話が入った。

 

「永島さん」

 

 声がいつもより硬かった。

 

「実は、御社の企画について、社内で少し問題が出まして」

 

「問題?」

 

「はい」

 

 涼は立ち上がった。

 

 黒田は少し間を置いてから言った。

 

「他社の商品を同じ商店街で扱う件です」

 

 涼の表情が変わった。

 

「何かありましたか?」

 

「うちだけではなく、別の100円ショップにも同じ話をされていることが分かりまして」

 

「はい。それは最初から……」

 

「それを問題視する声が出ています」

 

 電話の向こうで、黒田が息を吐いた。

 

「場合によっては、うちの参加を見直すことになるかもしれません」

 

 涼は窓の外を見た。

 

 商店街では、今日も六つの店が開店を待っている。

 

 人が歩き始めるまで、あと一時間。

 

 ようやく動き始めた企画が、思いもしなかったところから揺らぎ始めていた。

 

第十一章 同じ棚

 

 電話を切ってからも、涼はしばらく窓の前に立っていた。

 

 商店街の朝は、まだ静かだった。

 

 昨日までと何も変わらない。

 

 シャッターの上がる音。

 

 トラックのエンジン音。

 

 店先を掃く箒の音。

 

 八時を過ぎると、文房具店の前を学生が通り始める。

 

 それなのに、涼の頭の中だけが落ち着かなかった。

 

 黒田の言葉が残っている。

 

 参加を見直す。

 

 その企業が抜ければ、一つの店舗が空く。

 

 一店舗だけなら、まだ対応できる。

 

 しかし、一社が抜ければ他社も判断を変えるかもしれない。

 

 そうなれば、企画そのものが崩れる。

 

「どうしたの?」

 

 冴が会議室へ入ってきた。

 

「黒田さんから」

 

 涼は電話の内容を話した。

 

 冴は黙って聞いていた。

 

「他社の商品を同じ商店街で扱ってることが問題になった」

 

「やっぱり来たね」

 

「分かってた?」

 

「可能性は考えてた」

 

「俺も考えてたけど、実際に言われると重いな」

 

 冴は窓の外を見た。

 

「商売だから仕方ないよ」

 

「でも、この企画の核なんだ」

 

「分かってる」

 

 冴は振り返った。

 

「だから、ここで諦めたら駄目」

 

 その言葉に、涼は少しだけ気持ちが軽くなった。

 

「どうする?」

 

「まず、黒田さんの会社が何を心配しているのか聞く」

 

「競合商品が並ぶこと?」

 

「それだけじゃないと思う」

 

 冴は椅子に座った。

 

「自社の商品を提供したのに、他社の売上を伸ばすことになるかもしれない。自社の商品がどんな位置づけになるのか分からない。そういう不安じゃないかな」

 

 涼は頷いた。

 

 それなら、数字を見せる必要がある。

 

 ただ売れた、売れなかったではなく。

 

 この企画に参加することで何が得られるのか。

 

 その説明が足りなかった。

 

「今日の午後、黒田さんに来てもらおう」

 

 涼が言った。

 

「商店街を見てもらう」

 

「もう見てるよ」

 

「今度は、売れてるところを」

 

 冴が笑った。

 

「なるほど」

 

 午後二時。

 

 黒田が商店街に来た。

 

 前回とは少し違う。

 

 今回は涼と冴の二人だけで案内することにした。

 

「こちらです」

 

 最初に文房具店へ入る。

 

 平日の午後でも客がいた。

 

 小学生の男の子が消しゴムを選んでいる。

 

 その隣では、母親が収納用品の店の案内を見ていた。

 

「この商店街の面白いところは、買う場所が分かれていることです」

 

 涼が言った。

 

 黒田は黙って店内を見ていた。

 

「でも、それだけなら普通の専門店と同じですよね」

 

「違うのは、商品が全部100円商品だということです」

 

 冴が続けた。

 

「しかも、一社の商品だけではない」

 

 黒田は棚を見た。

 

「だから、御社の商品と他社の商品を比較できる」

 

「はい」

 

「それが、うちには問題なんですが」

 

「そこは分かっています」

 

 冴は一枚の資料を差し出した。

 

「ただ、比較されるのは商品だけじゃありません」

 

 黒田が資料を見る。

 

「販売場所、商品の見せ方、客層、時間帯。いろいろな条件を変えて比較できます」

 

「つまり?」

 

「御社の商品が、どんな場所で、どんな人に、どういう売り方をすると動くのか」

 

 冴は静かに言った。

 

「普通の店舗では取れないデータが取れます」

 

 黒田は資料を読み続けた。

 

 そのとき、店の外から声が聞こえた。

 

「すみません」

 

 高齢の女性が入口に立っている。

 

「電池はどこ?」

 

 店員が案内する。

 

「日用品のお店です」

 

「ありがとう」

 

 女性は商店街の奥へ歩いていく。

 

 黒田はその姿を目で追った。

 

「こういう方が多いんです」

 

 涼が言った。

 

「最初は目的の商品だけを買って帰る。でも、歩いているうちに別の店にも入る」

 

「実際にそうなっていますか?」

 

「データがあります」

 

 井上がまとめた資料を見せる。

 

 店舗間の移動率。

 

 滞在時間。

 

 再来店率。

 

 購入点数。

 

 黒田は数字を追った。

 

「……再来店率、結構ありますね」

 

「まだ一か月も経ってませんけど」

 

「これは面白い」

 

 黒田の表情が少し変わった。

 

 しかし、資料の最後で手が止まった。

 

「それでも、社内を説得するには弱いな」

 

「何が必要ですか?」

 

 涼が聞いた。

 

「うちの商品だからこそ、という数字です」

 

 黒田は資料を閉じた。

 

「他社と同じ条件で置かれている。その中で、うちの商品がどう動いているか」

 

「それなら出せます」

 

 涼は答えた。

 

「今までもデータを取っています」

 

「どこまで?」

 

「商品別です」

 

 黒田が顔を上げた。

 

「商品別?」

 

「どの商品が、何個売れたか」

 

「それを?」

 

「御社専用のレポートにします」

 

 黒田は少し考えた。

 

「そこまでやるなら、社内でも話しやすい」

 

 その日の帰り際、黒田は言った。

 

「参加をやめるという話は、いったん止めます」

 

 涼は息を吐いた。

 

「ありがとうございます」

 

「ただし、条件があります」

 

 涼の表情が戻る。

 

「何でしょう?」

 

「三か月目に中間報告をしてください」

 

「三か月目?」

 

「そこで数字が見えなければ、うちは判断します」

 

 黒田は商店街を振り返った。

 

「一年は長いですからね」

 

「分かりました」

 

「三か月」

 

 その言葉だけを残して、黒田は駅へ向かった。

 

 涼はその背中を見送った。

 

 冴が隣に来る。

 

「どう思う?」

 

「三か月か」

 

「短いね」

 

「短い」

 

 けれど、涼は笑った。

 

「でも、やるしかない」

 

第十二章 商店街の会議

 

 三か月目を目前にして、プロジェクトは新しい問題を抱えた。

 

 売上は伸びている。

 

 来店者も増えている。

 

 しかし、商店街全体の既存店舗の売上が、思ったほど伸びていない。

 

 100円ショップの六店舗には人が来る。

 

 その人たちが、昔からある店へ流れているとは限らない。

 

 八百屋。

 

 食堂。

 

 薬局。

 

 文房具店。

 

 それぞれの売上を見ると、変化はまちまちだった。

 

「このままだと、商店街再生とは言えないんじゃない?」

 

 志保が言った。

 

 会議室が静かになった。

 

 涼も同じことを考えていた。

 

 100円ショップだけが繁盛して、既存の店が変わらないなら、空き店舗を利用しただけになる。

 

 それでは本来の目的から外れる。

 

「でも、100円ショップに来た人が他の店に入る仕組みを作るのは難しい」

 

 井上が言った。

 

「買うものが違うから」

 

「だったら、同じ商品を置く?」

 

 田島が言った。

 

「既存店と競合することになる」

 

「それじゃ意味がない」

 

 冴が言う。

 

「むしろ、既存店の商品を100円ショップ側から紹介する」

 

 全員が冴を見る。

 

「紹介?」

 

「例えば八百屋なら、野菜を買うだけじゃなく、その野菜を使うためのキッチン用品を百円ショップで見てもらう」

 

「なるほど」

 

 涼が言った。

 

「食堂なら?」

 

「食堂で食べた人に、商店街の案内を渡す」

 

 志保が続ける。

 

「この商店街で使える情報をまとめる」

 

「でも、それだけじゃ弱い」

 

 加藤が言った。

 

「もっと具体的にしよう」

 

 そこで、商店街の既存店舗を一軒ずつ回ることになった。

 

 最初は八百屋だった。

 

「うちの商品を宣伝してくれる?」

 

 店主は驚いた顔をした。

 

「100円ショップで?」

 

「はい」

 

「どうやって?」

 

 冴が説明した。

 

 季節の野菜。

 

 その野菜を使うためのキッチン用品。

 

 保存用品。

 

 小さな調理器具。

 

 それらを一つのテーマとして商店街の中でつなげる。

 

「つまり、買い物の道筋を作るんです」

 

 志保が言った。

 

「野菜を買う。キッチン用品を見る。食堂で食べる。帰りに日用品を買う」

 

「そんなにうまくいくかね」

 

 店主は笑った。

 

「やってみないと分かりません」

 

 田島が答えた。

 

 店主は少し考えた。

 

「じゃあ、やってみよう」

 

 次は食堂。

 

 その次は薬局。

 

 そして、古くから続く洋品店。

 

 店主たちは最初こそ戸惑ったが、話を聞くうちに少しずつ興味を持ち始めた。

 

 夕方には、商店街の六店舗が参加することになった。

 

 翌週から、小さな試みが始まった。

 

 八百屋の入口に、キッチン用品店の案内。

 

 キッチン用品店には、八百屋のおすすめ野菜の写真。

 

 食堂には、商店街全体の地図。

 

 薬局には、収納用品の案内。

 

 それぞれの店が、自分の店だけではなく、別の店を紹介する。

 

 最初はぎこちなかった。

 

 それでも、一週間もすると変化が出た。

 

「昨日、キッチン用品買ってくれた人が、うちにも来たよ」

 

 八百屋の店主が言った。

 

「本当ですか?」

 

「大した人数じゃないけどね」

 

 そう言いながら、店主は嬉しそうだった。

 

 その日の夕方、商店街の入口に一人の女性が立っていた。

 

 買い物袋を二つ持っている。

 

 一つは100円ショップの袋。

 

 もう一つは八百屋の袋だった。

 

 涼はその姿を見ていた。

 

 それまで別々だった二つの袋が、一緒になっている。

 

 それが妙に嬉しかった。

 

「見た?」

 

 冴が隣に来た。

 

「うん」

 

「これだよ」

 

「何が?」

 

「私たちがやろうとしてたこと」

 

 涼は女性の後ろ姿を見た。

 

 100円ショップだけが商店街を変えるのではない。

 

 100円ショップをきっかけに、人が昔からある店へも歩いていく。

 

 店と店がつながっていく。

 

 そのとき、商店街の奥から笑い声が聞こえた。

 

 八百屋の店主と食堂の主人が、店先で何か話している。

 

 以前なら、ほとんど見なかった光景だった。

 

この作品は盗用禁止です。

AIに登録してネット監視していますので、ご注意ください。

 

 

『 一人分の幅 』

 

第十一章 言ったあとの仕事

 

翌日の午後四時、京子は七枚の案内を作業台へ並べていた。

 

仕事のために並べた紙だった。

 

それなのに、時計を見る回数が、いつもより多い。

 

四時まであと八分。

 

戸の外で足音がすると、顔が上がる。

 

違う人だった。

 

また紙へ戻る。

 

次の音。

 

違う。

 

三度目の鈴で、京子は自分でも可笑しくなった。

 

「何やってるんだろう、私」

 

小さく言ったところで、格子戸が鳴った。

 

格子戸の鈴が鳴る。

 

「こんにちは」

 

冨永が入ってくる。約束の五分前である。

 

京子は顔を上げた。

 

それだけで、胸の奥が少し明るくなる。

 

「早いですね」

 

「外で待ちましょうか」

 

「五分なら誤差です」

 

「市役所としては?」

 

「個人の店としては」

 

二人は少し笑った。

 

京子は冨永の持っている紙を見た。

 

「ちゃんと聞いてきました?」

 

「昨日、言われたでしょう」

 

「言ったことを覚えているとは思ってました」

 

「忘れたこともあります」

 

「ありますね」

 

二人とも、そこでまた笑った。

 

「『つづき』の予約先、三人に聞きました」

 

冨永が印刷した紙を出す。

 

予約用のコードと電話番号をどこへ置くか。完成までの日数と、思い出の服も相談できることを、どちらも残せるか。

 

二人は一枚の紙を挟んだ。京子が枠を動かし、冨永が文章へ線を引く。河合たちへ電話をかけ、店名を少し小さくする代わりに三人の名前を残すことを決めた。

 

考えることも、確かめる順番も、昨日までと同じだった。

 

京子が枠を動かせば、冨永が文章を読み直す。冨永が言葉を削れば、京子が紙を少し回す。

 

どちらからともなく同じところへ手が伸びる。

 

「そこ、残します?」

 

「残しましょう」

 

以前なら、京子は一つずつ口にしていた。冨永も確認してから紙を直した。

 

今は、紙を回すだけで済むところが増えている。

 

七枚を整え終えたのは、六時を少し過ぎた頃である。

 

「これで、今度こそ二人でする仕事は終わりですね」

 

京子が封筒の口を閉じる。

 

「前日の確認があります」

 

「それは、みんなでする仕事でしょう」

 

「そうですね」

 

「残念です」

 

冨永が言った。

 

「私も」

 

京子は封筒を渡す。

 

「でも、仕事を作らないでくださいね」

 

「広報課に、そんな権限はありません」

 

「そういう答えが返ってくると思った」

 

「長谷部さんも、催しを増やさないでください」

 

「それは商店街に言って」

 

二人は笑った。

 

冨永は封筒を鞄へ入れ、店を出た。京子は見送るために外へは出なかった。

 

好きだと言った。

冨永も同じ言葉を返した。

 

それでも、格子戸の内側にある作業台も、途中だったネックレスも、昨日までと変わらない。

 

京子はネックレスを手に取った。

 

催しの前日、元洋品店には参加店の人たちが集まった。

 

完成した案内が長机に並んでいる。時計店は濃紺、衣料品店は深い赤、喫茶店は茶色。

 

「つづき」

 

は青と緑。

 

「余計なお世話」

 

は白地に黒。

 

上の一行だけが同じ位置にある。

 

まだ使えますか。

 

その下には、店ごとにできることと、できないことが書かれていた。

 

「俺のところだけ、できないことが大きくないか」

 

時計店主が言う。

 

「柱時計を持って来られたくないんでしょう」

 

京子が答える。

 

「来るなとは言ってない」

 

「持ってきても直せない」

 

「見ることはできる」

 

「重いですよ」

 

時計店主は案内を読み直した。

 

「写真なら見る、を足せんか」

 

「できます?」

 

「写真を見るくらいなら」

 

冨永が余白を測る。

 

「一行なら入ります」

 

「では入れて」

 

時計店主は自分で鉛筆を取り、案内の端へ書いた。

 

以前なら、京子へ言葉を作らせたかもしれない。今日は、

 

「柱時計は写真でご相談ください」

 

と自分で書いている。

 

隣では、

 

「つづき」

 

の三人が予約表を確かめていた。

 

「午前中に六人、午後に七人」

 

小川が言う。

 

「多すぎない?」

 

佐伯が尋ねる。

 

「来た人も見られるでしょう」

 

「予約だけで十三人だよ」

 

河合は二人の顔を交互に見る。

 

「当日の受け付けは、三人までにしよう」

 

「せっかく来た人を断るの?」

 

「相談だけなら聞く。でも、預かるのは三人まで」

 

「誰が決めたの」

 

京子が聞いた。

 

「今、三人で」

 

河合が答える。

 

「なら、それでいい」

 

「直すところ、ありませんか」

 

「私が決めたら、三人で話した意味がないでしょう」

 

「そうですけど」

 

河合はまだ不安そうだった。

 

冨永が予約表を見る。

 

「当日分三人、と入口に書いてください。それを見て待つかどうかは、お客さんが決められます」

 

「書きます」

 

佐伯が紙を一枚出した。

 

小川が太いペンを持ち、河合が置く場所を決める。

 

三人だけで作業が進んだ。

 

京子は冨永の隣に立っている。

 

「前より早くなりましたね」

 

冨永が小声で言う。

 

「言うことがなくなると、少し寂しいけど」

 

「仕事は成功です」

 

「市役所ですね」

 

「店の相談役としても、そうでしょう」

 

「そうですね」

 

二人は同じ方を見た。

 

少し前なら、京子が先に口を出し、冨永が確認してから紙を直していた。

 

今は、河合たちが自分で決める。

 

仕事の仕方が変わっただけだった。

 

最終確認が終わったのは、午後七時前だった。

 

店主たちが案内を持って、それぞれの店へ戻っていく。

 

「つづき」

 

の三人は、予約表と預かり票を箱へ入れた。

 

河合が入口で振り返る。

 

「明日、雨は大丈夫でしょうか」

 

「降水確率二十パーセントです」

 

冨永が答える。

 

「二十なら降らないですよね」

 

「二十回に四回は降ります」

 

「そう言われると多いですね」

 

「看板の透明ケースだけ、用意しましょう」

 

京子が言う。

 

「雨が降らなくても使えるから」

 

三人は頷いた。

 

最後に残った冨永と京子は、長机を壁へ寄せた。

 

「明日は、九時に来ます」

 

冨永が言う。

 

「私は八時半」

 

「早いですね」

 

「自分の店も開けるから」

 

「では、明日」

 

「はい。明日」

 

二人は別々の方向へ帰った。

 

会う理由を作ったのではない。

 

明日も、二人には仕事がある。

 

この『 尾道の坂を下って 』を読む前に下記の YouTube 動画をご覧ください。

尾道を車で走っていてカーステレオから流れてきた(もちろん自分で録音してSDカードに入れて再生していたのですが)この曲を聴いていて

この小説を思いついたのです。

僕が小学校6年生の時に、教室で「きのう、残業なしで〜♪(そう聞こえるんです)」なんて歌ってました。

 

 

 

 

この作品は盗用禁止です。

AIに登録してネット監視していますので、ご注意ください。

 

 

「 尾道の坂を下って 」  ⑧ー①

 

第一章 三百円の人

 

 昔、お父さんが車の中で聴いていた曲が坂の上から聴こえてきた。

 

 あれは確か、ママス&パパスの「夢のカリフォルニア」・・だと思う。

 

 その曲に混じって女の声が被ってくる。

 

 彼女が何を歌っているのかは分からない。

 

 ただ「カリフォルニア」だけはしっかり聴こえた。

 

 水野里奈は石段の途中で立ち止まり、顔を上げた。

 

 歌は、少しずつ近づいてくる。

 

 里奈の足元では、キャリーバッグが一段下へずり落ちかけていた。持ち手を握り直すと、腕が痛んだ。

 

 尾道駅で降りたとき、里奈は、自分がここへ来た理由をまだ考えていなかった。

 

 大阪から岡山までは新幹線に乗った。岡山で在来線に乗り換え、海が見えたところで、ここまで来たのだから降りてみようと思った。

 

 尾道という町を選んだわけではない。

 

 電車の扉が開いたとき、立ち上がってしまっただけだった。

 

 ホームから改札へ向かう人の流れに入り、駅の外へ出た。

 

 午後の光が眩しかった。駅前のロータリーを挟んだ向こう側に海が見えた。

 

 横断歩道を渡って、里奈はしばらく海を見ていた。

 

 大阪の部屋を出たのは、今朝だった。

 

 仕事を辞めたのは三日前。正確には、辞めることが決まったのが三日前で、会社へ行かなくなったのは二週間前からだった。

 

 上司から電話が来なくなり、同僚からのメッセージも途切れた。誰かが悪いわけではなかった。里奈にも、自分が悪くないと言い切れるほどの自信はなかった。

 

 部屋の契約は、月末まで残っている。

 

 だから本当は、今夜にも大阪へ戻れる。

 

 駅前の観光案内所で、安い宿から順番に電話をかけた。土曜日だったため、どこも空いていなかった。

 

 五軒目に電話を切ったとき、窓口の女性が言った。 

 

「福山まで行かれたら、あるかもしれませんよ」

 

「そうですね」

 

 里奈は答えたが、駅へは戻らなかった。

 

 今来たばかりなのに、もう別の町へ行くことが、何かに負けるような気がした。

 

 海岸沿いにしばらく歩いて、商店街に入った。

 

 土産物屋、衣料品店、古い喫茶店。閉まったままのシャッターの隣で、新しい店が若い観光客を集めている。少し先で、寺へ向かう細い道が山側へ延びていた。

 

 里奈は、その道へ入った。

 

 坂は、遠くから眺めていると風情があった。

 

 上り始めて五分もしないうちに、風情はなくなった。

 

 キャリーバッグの車輪が石段にぶつかった。

 

 持ち上げると腕が痛み、下ろすと大きな音を立てる。

 

 すれ違った観光客は、歩きやすい靴を履いていた。

 

 里奈だけが、町へ来る格好を間違えていた。

 

 十段上っては止まり、振り返った。

 

 屋根と屋根の間に海が見えた。向こう岸を、大きな白い船がゆっくり動いている。

 

 きれいだと思った。

 

 同時に、もう下りたいと思った。

 

 歌声が、すぐ近くまで来た。

 

 発音が悪いというより、歌っている本人が英語を知らないようだった。

 

 それでも声だけはよく通り、屋根と屋根の間へ、ためらいなく広がっていった。

 

 女が下りてきた。

 

 年齢は四十歳くらいに見えた。

 

 日に焼けた顔に化粧はなく、髪を後ろで無造作に束ねている。

 

 右手にスーパーの袋を二つ、左手にはトイレットペーパーを抱えていた。

 

 里奈の前まで来ると、歌をやめた。

 

「あんた、それ持って上がるん?」

 

「宿を探していて」

 

「この上に?」

 

「安いところがあるかと思って」

 

「寺ならあるよ」

 

「泊まれるんですか」

 

「泊まったら怒られるじゃろね」

 

 女はそう言って、里奈のキャリーバッグを見た。

 

「どこから来たん?」

 

「大阪です」

 

「遠いねえ」

 

「そうでもないです」

 

「帰るん?」

 

 里奈は答えられなかった。

 

 女は返事を待たず、トイレットペーパーを里奈のキャリーバッグの上に載せた。

 

「何するんですか」

 

「下まで持っていって」

 

「私は上へ行くんです」

 

「宿はないよ」

 

「でも——」

 

「この坂を上がっても、あるのは人の家と寺と墓じゃけえ。泊まるなら、下で探したほうがええ」

 

 女は空いた左手でキャリーバッグの持ち手をつかんだ。

 

「自分で持てます」

 

「持てる人が、道の真ん中で死にそうな顔はせんよ」

 

 里奈は手を離さなかった。

 

 女も離さなかった。

 

 二人で一本の持ち手を握ったまま、しばらく向かい合った。

 

「その荷物は、誰のものですか」

 

「人の」

 

「頼まれたんですか」

 

「そう」

 

「仕事ですか」

 

 女は少し考えた。

 

「三百円」

 

「時給が?」

 

「一回が」

 

 里奈は、スーパーの袋を見た。牛乳、りんご、豆腐らしいものが入っている。ここまで運ぶだけでも、三百円では安すぎる。

 

「それで暮らしているんですか」

 

「今日はまだ暮らしとるよ」

 

 女は里奈の手から持ち手を奪うと、坂を下り始めた。キャリーバッグが石段を一段ずつ落ち、大きな音を立てた。

 

「壊れます」

 

「中に壊れるもん、入っとる?」

 

「パソコンが」

 

 女は止まった。

 

「それを先に言わんと」

 

「勝手に持っていったんでしょう」

 

「怒る元気はあるんじゃね」

 

 女はキャリーバッグを持ち上げた。細い腕だったが、里奈より軽々と運んだ。  

 

 仕方なく、里奈は女のスーパーの袋を一つ持った。 

 

 坂を下りながら、女はまた歌い始めた。

 

「何の歌ですか」

 

「夢のカリフォルニア」

 

「英語、分かるんですか」

 

「分からんよ」

 

「意味を知らずに歌っているんですか」

 

「意味が分かったら、気分が晴れん歌かもしれんじゃろ」

 

 女は振り返らなかった。

 

 坂を下りきったところで、一軒の小さな店の前に男が立っていた。半分下ろしたシャッターの下から、段ボール箱を引き出している。

 

「テルちゃん、ちょうどよかった」

 

 男が女を呼び止めた。

 

「急いどる」

 

「十分だけ」

 

「十分で終わったことないじゃろ」

 

「今日は終わる」

 

 男は店の中へ入り、丸椅子を二つ出した。その一つへ腰を下ろし、もう一つを女の前へ置いた。

 

 女はキャリーバッグを里奈に返した。

 

「そこで待っとって」

 

「どうしてですか」

 

「この人、これから三百円分、腹を立てるけえ」

 

 男はポケットから百円玉を三枚出し、軒先の小さな台に並べた。

 

「誰が腹を立てる言うた」

 

「昨日から、その顔しとるよ」

 

 女は丸椅子へ座った。

 

 里奈は少し離れたところに立った。聞いてはいけないと思ったが、男の声は商店街の通りまで聞こえた。

 

 息子が店を継がないこと。相談もせず大阪の会社へ就職を決めたこと。店など残しても仕方がないと言ったこと。妻まで息子の味方をして

いること。

 

 女は何も言わなかった。

 

 相づちさえ、ほとんど打たない。男が黙ると待ち、また話し始めると聞いた。  

 

 本当に十分ほどで、男は息を吐いた。

 

「大阪へ行ったら、帰ってこんじゃろ」

 

 女は少し首を傾けた。

 

「帰ってくる場所があったら、帰ってくるかもしれんね」

 

「店を残せいうことか」

 

「そんなこと言うとらんよ」

 

「じゃあ、どういう意味じゃ」

 

「三百円で、人の息子の将来までは決められん」

 

 男は黙ったあと、笑った。

 

「もう十分過ぎたじゃろ」

 

「今日はまけとく」

 

 女は台の上の三百円を取り、ズボンのポケットへ入れた。

 

 男は里奈に気づいた。

 

「そっちの人は?」

 

「大阪から来た人」

 

「知り合いか」

 

「さっき知り合った」

 

 女はそれだけ言い、再びキャリーバッグを引いて歩き始めた。

 

 里奈は慌てて追いかけた。

 

「今のは何ですか」

 

「話を聞いた」

 

「それで三百円もらうんですか」

 

「三百円払う言うたのは、あの人じゃけえ」

 

「何も解決していませんよね」

 

 女は足を止めた。

 

「あんたは、話を聞いたら解決せんといけんの?」

 

「相談なら、普通は」

 

「息子を大阪から連れて帰るん?」

 

「そういう意味ではなくて」

 

「店を継げと言う?」

 

「言いません」

 

「ほんなら、私と同じじゃね」

 

 女はまた歩き始めた。

 

 里奈は男の店を振り返った。男はシャッターを下ろしていたが、先ほどまでより動きが穏やかになっていた。

 

「テルちゃんって呼ばれていましたね」

 

「テルさんでもええよ」

 

「本名ですか」

 

「吉田照美」

 

「私は水野里奈です」

 

「そう」

 

 テルさんは、里奈の名前に興味がないようだった。

 

 商店街を抜け、再び山側へ向かった。さっきとは別の、観光客の少ない坂だった。

 

「どこへ行くんですか」

 

「これ、届けるんよ」

 

 テルさんはスーパーの袋を持ち上げた。

 

「私は?」

 

「知らんよ」

 

「待っていろと言ったでしょう」

 

「あの人の話が終わるまでね。もう終わった」

 

 里奈は立ち止まった。

 

 テルさんだけが坂を上っていく。

 

「この近くに、安く泊まれるところはありませんか」

 

 背中に向かって尋ねた。

 

 テルさんは歌をやめ、振り返った。

 

「いくら持っとるん?」

 

 里奈はすぐには答えなかった。

 

「それを聞いて、どうするんですか」

 

「宿を探すんか、晩ご飯を探すんか、帰りの電車を探すんか決める」

 

「帰るつもりはありません」

 

 口に出してから、里奈自身が驚いた。

 

 そんなことは、まだ一度も考えていなかった。

 

 テルさんは坂の途中で、里奈を見下ろした。

 

「ほんなら、何しに来たん?」

 

「分かりません」

 

「分からんのに、帰らんの?」

 

「帰っても、することがないんです」

 

 テルさんはしばらく里奈を見ていた。

 

 同情するでもなく、困った顔をするでもなかった。

 

「この袋、持てる?」

 

「持てます」

 

「上まで遠いよ」

 

「さっきより軽いです」

 

「ほんなら持ってきて」

 

 テルさんは手にしていた袋を、坂の途中へ置いた。

 

「泊まるところを紹介してくれるんですか」

 

「それは、上まで持っていってから考える」

 

「三百円は?」

 

「あんたからは取らんよ」

 

「どうしてですか」

 

 テルさんは、里奈の靴とキャリーバッグを見た。

 

「今のあんたから三百円取ったら、晩ご飯が食べられんじゃろ」

 

 それからまた、意味の分からない英語を歌いながら坂を上っていった。

 

 里奈は道に置かれた袋を持ち上げた。

 

 中で、りんごが二つ転がった。

 

 大阪へ戻る電車は、まだあった。

 

 それでも里奈は、キャリーバッグを一段目に持ち上げた。

 

 尾道で初めて自分から選んだのが、上ることだった。

 

 

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』

 

『 棚のない商店街 』 ストーリー 4

 

第九章 最初の客

 

 午前九時。

 

 商店街の入口に、朝の光が差し込んでいた。

 

 老人はまだ立っている。

 

 小さな買い物メモを何度も見直している。

 

 その姿に気づいた涼が、店の入口から出た。

 

「おはようございます」

 

 老人は顔を上げた。

 

「ああ、おはよう」

 

「何かお探しですか?」

 

 老人は手元の紙を見せた。

 

「ボールペン」

 

「文房具のお店ですね」

 

「どこですか?」

 

「こちらです」

 

 涼が案内板を指した。

 

 老人は案内板を見上げた。

 

 大きな文字で、文房具と書かれている。

 

「ああ、これか」

 

 老人は少し笑った。

 

「分かりやすいね」

 

 涼は文房具店まで案内した。

 

 店の中には、すでに店員が待っている。

 

 ボールペンの棚には、黒、青、赤。

 

 太さの違うもの。

 

 書き味の違うもの。

 

 数種類の商品が並んでいる。

 

 老人は棚の前で立ち止まった。

 

「こんなにあるのか」

 

「何かお探しのものがありますか?」

 

 店員が声をかける。

 

「仕事で使うんだけどね。字が少し薄くなってきたから、濃いやつがいい」

 

「それでしたら、こちらが書きやすいと思います」

 

 老人は一本を手に取った。

 

 試し書き用の紙に線を引く。

 

 ゆっくりと。

 

 もう一度引く。

 

「ああ、これならいい」

 

 一本をレジへ持っていった。

 

 百十円。

 

 支払いを済ませると、老人は商品を袋に入れてもらった。

 

 それで終わるはずだった。

 

 ところが、老人は店を出る前に隣の棚を見た。

 

「これは何?」

 

 小さなメモ帳だった。

 

「メモ帳です」

 

「これも百十円?」

 

「はい」

 

 老人は少し考え、手に取った。

 

「じゃあ、これも」

 

 最初の買い物は二点。

 

 売上金額、二百二十円。

 

 それが、この一年間の実験の最初の数字になった。

 

 井上はすぐにデータを入力した。

 

 来店時刻。

 

 年齢層。

 

 購入商品。

 

 購入点数。

 

 滞在時間。

 

「二百二十円」

 

 井上が小さく言った。

 

「これが最初の数字か」

 

 田島が笑った。

 

「少なすぎるだろ」

 

「最初だからいいんだよ」

 

 志保が言った。

 

「問題は、今日一日で何人来るか」

 

 午前十時を過ぎると、少しずつ客が増え始めた。

 

 文房具店には学生が来た。

 

 キッチン用品の店には近所の主婦が入った。

 

 収納用品の店では、引き出しの中を整理するための小さなケースが売れた。

 

 掃除用品の店では、スポンジとゴミ袋が売れた。

 

 季節商品の店では、夏物の小さな扇風機が売れた。

 

 しかし、すべてが順調だったわけではない。

 

 ある女性が、キッチン用品店から出てきた。

 

「どこにあるの?」

 

 店員に聞く。

 

「何がでしょう?」

 

「洗濯ばさみ」

 

「掃除用品のほうにあります」

 

「ここにはないの?」

 

「はい」

 

 女性は少し困った顔をした。

 

「じゃあ、どこ?」

 

 店員が案内する。

 

 女性は店を出て、商店街の奥へ歩いていった。

 

 涼はその様子を見ていた。

 

 これだ。

 

 企画を考えているときには、簡単に思えた。

 

 ジャンルごとに分ければ分かりやすい。

 

 しかし、客にとってはそうとは限らない。

 

 洗濯ばさみは台所用品ではない。

 

 掃除用品でもない。

 

 日用品なのか、洗濯用品なのか。

 

 分類する側には明確でも、買う側には曖昧な商品がある。

 

「涼」

 

 冴が後ろから呼んだ。

 

「今の見た?」

 

「見た」

 

「分類を見直したほうがいいかも」

 

「うん」

 

「それと、案内板」

 

「もっと細かくする?」

 

「細かくしすぎると、逆に分からなくなる」

 

 涼は頷いた。

 

 商店街を一つの店にする。

 

 言葉にすると簡単だった。

 

 実際に客が歩き始めると、思っていた以上に難しい。

 

 午後になると、さらに問題が出た。

 

 文房具店に客が集中した。

 

 学生が学校帰りに立ち寄ったためだ。

 

 一方、掃除用品店にはほとんど人が来ない。

 

「入口の位置が違うだけで、こんなに差が出るんだ」

 

 井上が数字を見ている。

 

「これは重要なデータになる」

 

「でも、売上を上げたいなら、店舗を入れ替える?」

 

 田島が言った。

 

「まだ早い」

 

 加藤が答えた。

 

「初日のデータだけでは判断できない」

 

 午後五時。

 

 商店街に学校帰りの高校生が増えた。

 

 文房具店の前に、数人の女子高校生が立っている。

 

「これ、かわいい」

 

「こっちも」

 

 小さなノートを手に取っている。

 

 一人が買うと、別の子も買う。

 

 それを見た別の女子高校生が店に入る。

 

 その後ろから、さらに二人。

 

 文房具店だけが少し騒がしくなった。

 

 涼は店の外からその様子を眺めていた。

 

 隣で冴も見ている。

 

「人が集まるね」

 

「うん」

 

「でも、文房具だけ見て帰ってる」

 

 冴が商店街の奥を見る。

 

「他の店まで行ってない」

 

 涼はその言葉を聞いて、商店街を見渡した。

 

 六店舗を一つの店にする。

 

 そのためには、客を歩かせなければならない。

 

 文房具店だけ繁盛しても意味がない。

 

「何か必要だな」

 

「何が?」

 

「理由」

 

 涼は答えた。

 

「次の店へ行く理由」

 

 冴は黙って考えていた。

 

 そのとき、文房具店から出てきた女子高校生の一人が、向かいの店を見た。

 

「あれ、何の店?」

 

「収納じゃない?」

 

「行ってみようよ」

 

 二人が歩き出した。

 

 残りの二人もついていく。

 

 涼と冴は顔を見合わせた。

 

 仕掛けたわけではない。

 

 ただ、目に入ったから歩いただけだ。

 

 けれど、それでいい。

 

 商店街を歩く理由は、必ずしも大きなイベントでなくていい。

 

 次の店に何があるのか。

 

 それを少し見てみたい。

 

 その程度でいいのかもしれない。

 

 閉店時間。

 

 六人は集会所に戻った。

 

 井上が一日の売上をまとめる。

 

 全店舗合計。

 

 来店者数。

 

 購入点数。

 

 客単価。

 

 店舗別の売上。

 

 画面に数字が並んだ。

 

「初日の売上は……」

 

 全員が画面を見る。

 

 井上が読み上げた。

 

「十八万四千六百二十円」

 

 田島が口笛を吹いた。

 

「思ったよりいったな」

 

「ただし、目標にはまだ届いてません」

 

「初日から目標を見るなよ」

 

 加藤が笑った。

 

 井上はさらに画面を切り替えた。

 

「それより、こっちです」

 

 そこに表示されたのは、来店者の店舗間移動だった。

 

 文房具店から収納用品店へ移動した客。

 

 収納用品店からキッチン用品店へ移動した客。

 

 キッチン用品店から日用品店へ移動した客。

 

 小さな線が、商店街の地図の上にいくつも伸びている。

 

 まだ少ない。

 

 けれど、確かに人は動いている。

 

「これ、面白いな」

 

 加藤が言った。

 

 冴が画面を見つめる。

 

「一店舗だけじゃなくて、二店舗、三店舗と回っている人がいる」

 

「最高で?」

 

「五店舗」

 

 田島が笑った。

 

「五店舗も回る人がいるのか」

 

「買い物目的だけじゃないと思います」

 

 志保が言った。

 

「見て回ってる」

 

 涼は数字を見ていた。

 

 最初の一日。

 

 まだ何も判断できない。

 

 それでも、商店街の中に人が歩いている。

 

 シャッターが下りていた店舗に、人が入っている。

 

 それだけで、昨日までとは違う。

 

「今日は成功ってことでいいんじゃない?」

 

 田島が言った。

 

 加藤は笑った。

 

「まだ初日だ」

 

「分かってますよ」

 

「一年間やるんだからな」

 

 加藤は画面を見た。

 

「初日の数字で喜んで、一か月目で落ち込んで、半年で諦めるようなことだけはやめよう」

 

 その言葉に、全員が黙った。

 

 実験は始まった。

 

 そして、ここからが本当の仕事になる。

この作品盗用禁止です。

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連載 小説.       『 京都テクノリンク 』      連載 4回目

 

第九章 赤いポルシェの女

 

 佳織がディーラーを辞めた理由を、宏は顧客から聞いた。

 

 会社経営者の客が、購入した車で事故を起こした。酒を飲んでいた事実を隠すため、納車時の説明不足にしてほしいと佳織へ頼んだ。断ると、客は店へ圧力をかけた。会社は佳織に頭を下げさせようとした。

 

 佳織は謝らず、辞表を出した。

 

「金に困ってへんから、できたことや」

 

 本人はそう言った。

 

「困ってたら、謝ってましたか」

 

 真由美が尋ねると、佳織はしばらく答えなかった。

 

「それを知りたないから、困らんようにしてる」

 

 佳織は株で利益を出し、ゴルフ場で経営者たちと付き合っていた。遊んでいるように見えたが、そこで会社の景気や代替わりの噂を聞き、京都テクノリンクへ仕事をつないだ。

 

 しかし、資金繰り表を見た佳織は、追加の出資を断った。

 

「お金を入れたら、康史はまた安い仕事を取る。会社を助けるつもりで、悪い癖を長生きさせるだけや」

 

「見捨てるんか」

 

「あんたが会社を見てへんのや。ライバルばっかり見てる」

 

 佳織は鍵を机に置いた。

 

「うちが戻るまでに、誰を守る会社か決めとき」

 

 その日、赤いポルシェの音は、いつもより遠くまで聞こえた。

 

 山下は追わなかった。

 

 追えば戻ってくれると思っていたのではない。追って、戻らないと分かることが怖かった。

 

 佳織と初めて会ったのは、商談の席だった。役員を相手に一歩も引かず、それでいて相手の顔を潰さずに車を売った。山下は生意気な女だと思った。同じ日の帰り、もう一度会いたいとも思っている自分に気づいた。

 

 それから、顔を合わせるたびに言い争った。仕事の考え方、金の使い方、車の停め方。佳織が正しいときほど、山下は強く反発した。

 

 町家の格子を閉めたあと、山下は佳織へ電話をかけた。呼び出し音が途切れ、留守番電話に変わる。

 

「金のことやない。話がある。……会社の話でもない」

 

 そこまで言って切った。

 

 翌朝、佳織から届いた返事は一行だった。

 

〈会社を立て直してから聞く〉

 

 断られたのではなかった。そのことが、山下にはかえって重かった。

 

 山下は、その日から七社を一社ずつ回った。

 

 値下げ前と同じ訪問回数、同じ対応範囲を求める会社には、元の料金へ戻してほしいと伝えた。難しいと言われれば、訪問回数と夜間対応を減らした契約を示した。

 

「困ってはるときに、来てもらえへんようになるんか」

 

「来ます。けど、いつでも何でも同じ値段では、最後には一社にも行けんようになります」

 

 四社は契約内容を縮め、二社は元の料金へ戻した。それでも安さだけを求めた一社とは、契約を終えた。売上は落ちたが、訪問するほど金が減る状態は止まった。

 

 真由美は新しい資金繰り表を座卓へ置いた。

 

「三か月から、七か月になりました」

 

「立て直した言えるか」

 

「倒れへんようになっただけです」

 

「京洛に客を取られるかもしれん」

 

「安さだけで選ばはるお客さんを追いかけたら、また同じことになります」

 

 山下は赤い紙のファイルを見た。守りたかったのは、顧客の支払う金ではない。困ったときに自分たちが駆けつけられる関係だった。その関係を残すには、会社も残らなければならない。

 

「人も増やす。ただし、払える仕事が増えてからや」

 

 宏がうなずいた。

 

 山下は佳織へ、短い連絡を入れた。

 

〈安い会社になるのは、やめた。守るんは、困ったときに行ける会社や〉

 

 返事は、その日には来なかった。

 

第十章 花背の雪

 

 一月の朝、京都市内に雪はなかった。

 

 佳織が町家へ顔を出さなくなって、二か月が過ぎていた。山下も、会社を立て直すまでは追わないと決めている。二人の連絡は、仕事に必要な短い文面だけになっていた。

 

 山下が〈安い会社になるのは、やめた〉と送って三日後、佳織から〈倒れへんようにはなったな。話は、顔見て聞く〉と返ってきた。立て直しが終わったのではない。それでも、進む向きを決めたことは伝わっていた。

 

 比叡山の頂が白く見えるだけで、町家の軒から落ちるのは昨夜の雨だった。佳織は赤いポルシェを格子の前に止め、山下へ言った。

 

「今日、空けられる?」

 

「何の用や」

 

「用がなかったら、空けられへんの?」

 

 山下は真由美の顔を見た。真由美は予定表を確かめるふりをした。

 

「午後三時までは、代表がおらんでも大丈夫です」

 

「三時には戻らへんかもしれへんで」

 

 佳織は先に車へ戻った。

 

 赤いポルシェには冬用タイヤが装着され、荷室には念のためのチェーンと毛布が積んであった。佳織は遊びに行くときほど、準備に抜かりがない。

 

 車は鴨川を北へたどり、上賀茂を過ぎ、山あいへ入った。市原を越えるころから道の端に雪が残り、杉林の影では路面まで白い。山下は助手席で何度も足を踏ん張った。

 

「怖いんやったら、怖い言うたら」

 

「おまえの運転が信用でけへんだけや」

 

「同じことや」

 

 花背に着くころ、景色は別の京都になっていた。

 

 屋根も畑も雪に覆われ、音が雪の下へ吸い込まれている。市内から一時間あまり走っただけなのに、格子戸も観光客の列も見えない。京都の奥座敷と呼ばれる土地には、人に見せるためではない冬があった。

 

 佳織は道沿いの広い空き地に車を止めた。除雪された場所を選び、赤い車体へ雪が落ちてこないことを確かめてから外へ出る。

 

「何しに来たんや」

 

「雪見に来たに決まってるやろ」

 

 佳織は手袋をはめ、足元の雪を丸めた。

 

 山下が気づいたときには、雪玉が胸に当たって砕けていた。

 

「子どもか」

 

「言い返す前に、投げ返したら?」

 

 山下も雪をつかんだ。最初の一投は佳織の肩をかすめた。佳織の二つ目は山下の腕に当たり、三つ目は首元へ入った。

 

「冷たっ。加減せえ」

 

「勝負に加減する人、嫌いや」

 

 二人は雪の上を走った。佳織が笑い、山下も声を上げた。会社の金も、顧客も、ライバルもない場所で、二人は初めて、子どものころへ戻ったように雪を投げ合った。

 

 山下は大きな雪玉を作った。佳織の背中は、すぐそこにある。投げれば当たる。

 

 山下はわざと足を滑らせ、雪玉を自分の前へ落とした。

 

 振り返った佳織の一投が、山下の胸へ命中した。

 

「うちの勝ち」

 

「足場が悪かっただけや」

 

「そういうことにしといたげる」

 

 佳織は見抜いていた。けれど、山下がわざと負けたとは言わなかった。言えば、彼が差し出したものを突き返すことになる。

 

 帰りの車では、二人ともあまり話さなかった。

 

 山を下り、市内の濡れた道へ戻るころ、佳織が前を見たまま言った。

 

「今度は、ちゃんと勝負したげる」

 

「今日は、ちゃんとやなかったんか」

 

「そやな。誰かさんが手ぇ抜いたから」

 

 山下は窓の外を向いた。

 

 北山の向こうには、もう花背の雪は見えない。それでも、首筋に残った冷たさと、佳織の笑い声だけは、町へ戻っても消えなかった。

この作品は盗用禁止です。

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『 一人分の幅 』

 

第十章 誰の仕事か

 

催しの名前が決まると、必要な仕事が一度に増えた。

 

参加店の案内文。

 

店先へ置く看板。

 

商店街全体の地図。

 

相談を予約する店と、当日受け付ける店の区別。

 

持ち込んでよいものと、写真だけで相談するもの。

 

市の広報誌、ウェブサイト、地域の掲示板へ出す日程も揃えなければならない。

 

最初の準備会に、産業振興課の職員だけが来た。

 

京子は入口の戸が鳴るたび、一度だけ顔を上げた。時計店主が遅れて入り、次は河合が紙袋を抱えてくる。冨永が来る予定ではないことは、最初から知っている。

 

三度目に顔を上げたところで、京子は手元の紙へ視線を戻した。

 

催しが始まれば、市役所が毎回ここへ来る理由はなくなる。冨永と一緒に考える仕事にも、終わりがある。

 

店主たちの声を聞きながら、京子は鞄の中のカメラへ触れた。確かめるものは何もない。京子は指を離すまで、少し時間をかけた。

 

商店街の会合では、京子が催し全体の見せ方をまとめることになった。

 

提案したのは河合である。

 

「長谷部さんに、店ごとの看板と、当日の置き方を見てもらいたいです」

 

種井がすぐに聞いた。

 

「いくらかかる」

 

河合は、京子から受け取った見積書を出した。

 

店への聞き取りはすでに終わっている。ここから先は、七つの案内内容の整理、看板の配置、当日の確認。開催前日までの仕事として、金額が書かれていた。

 

「高いのか安いのか、わからんな」

 

塚口が紙を遠ざけて見る。

 

「叔父さん、眼鏡」

 

京子が言う。

 

「今日は持ってきた」

 

「胸に掛かってる」

 

塚口は眼鏡を掛け、もう一度見積書を読む。

 

「京ちゃん、これで店を何日休む」

 

「全部は休まない。閉店後に回れるところは回る」

 

「なら、少し安くしろ」

 

「営業時間のあとに働く方が、安くなるんですか」

 

「商店街のためだぞ」

 

「私の店も参加するから、自分の店の分は見積もりから外してる」

 

「そうなのか」

 

「下に書いてあるでしょう」

 

塚口は眼鏡を上げた。

 

「字が小さい」

 

「時計屋さんと同じこと言ってる」

 

種井が見積書を手に取る。

 

「市の金は使えるのか」

 

産業振興課の職員が、催事支援の要項を開いた。

 

「案内物の作成、会場表示、外部協力者への謝金は対象になる可能性があります。ただし、申請前に業務内容と金額を確認します」

 

「なら、市に出してもらえばいい」

 

「全額ではありません。商店街の負担もあります」

 

「いくら」

 

補助される割合を聞き、店主たちは一斉に計算を始めた。

 

一店舗あたりにすれば、大きな額ではない。

 

市の金が入ると、京子の仕事は河合たちとの打ち合わせだけでは済まなくなった。商店街全体が見積書を見る。

 

時計店主が見積書を見る。

 

「ほかに頼める人はいないのか」

 

「探せばいると思います」

 

京子が答えた。

 

「自分で言うのか」

 

「私でなければできない仕事じゃないから」

 

「今までの話を知ってる分、早いでしょう」

 

衣料品店主が言う。

 

脇道から離れた金物店の店主が、資料を畳んだ。

 

「写真も案内も、結局は京ちゃんの店か。外から見たら、市と商店街のどっちが頼んだ仕事かなんて分からんよ」

 

京子を責める声ではなかった。自分の店には市役所の職員が一度も来ない、と言って視線を落とした。

 

「それは、そう」

 

「ほかの人に頼んだら、また最初から説明するの?」

 

河合は七店分の聞き取り記録を机へ置いた。

 

「私たちは、長谷部さんにお願いしたいです」

 

「市役所は、どうなんだ」

 

種井が冨永へ向く。

 

冨永は見積書から目を上げた。

 

「誰に依頼するかは、商店街が決めることです。市は、申請内容と金額が支援の対象になるかを確認します」

 

「長谷部さんで問題ない?」

 

「事前にこの催しへ関わっていることは、経緯として説明できます。ただし、商店街の会計上、ほかの見積もりが必要かどうかは確認してください」

 

産業振興課の職員がうなずく。

 

「金額によっては、一者の見積もりで申請できます。今回は、その範囲です」

 

「じゃあ、決まりでいいだろ」

 

塚口が言う。

 

時計店主は、まだ納得しきっていない。

 

「組合に入ってない店へ、組合の金を払うのか」

 

店の中が静かになる。

 

京子は、長机の端に座っている。

 

「私の店が参加することと、仕事を受けることは分けてください」

 

時計店主を見る。

 

「組合の外の人へ払いたくないなら、私は引き受けません」

 

「払いたくないとは言ってない。組合の店にも、こういうことができる人がいるかもしれんだろ」

 

「なら、聞いてください」

 

「京ちゃん」

 

塚口が止める。

 

「いいんだよ、叔父さん。確かめるのは、その通りだから」

 

京子の声には、怒りより先に区切りがある。

 

自分へ頼むことが最初から決まっているなら、見積書の意味がない。誰がやるかを決める前に、何を頼むのかを決める必要がある。

 

冨永は、見積書の業務内容を読み直した。

 

各店の案内内容の整理。

 

会場表示の助言。

 

当日の配置確認。

 

「この三つを、商店街の中でできる方がいるか、確認してはどうでしょう」

 

冨永が言う。

 

河合が不安そうに見る。

 

「長谷部さんに頼まないということですか」

 

「決める前に確認するということです」

 

「時間がありません」

 

「明日まででいいと思います。できる方がいなければ、長谷部さんへ正式に依頼する」

 

時計店主がうなずく。

 

「それならわかる」

 

京子も何も言わない。

 

会合の翌日、参加店へ確認が回った。看板だけ、案内文だけならできる店はあったが、七店の内容と配置を通して見る者はいなかった。

 

夕方、商店街組合から京子へ正式な依頼書が届く。

 

見積書と同じ内容である。

 

京子は署名した。

 

冨永は申請書の中に、長谷部京子の名前を見つけた。

 

役割は

 

「催事企画監修」

 

と書かれている。

 

その日のうちに、商店街へ電話をかけた。

 

「長谷部さんへ依頼した業務名を確認したいのですが」

 

電話に出たのは塚口だった。

 

「京ちゃんは全部見るんだろ。監修でいいじゃないか」

 

「見積書には、案内内容の整理と、配置の助言とあります」

 

「だから監修だ」

 

「催事全体を決定する立場に見えます」

 

「違うのか」

 

「日程や予算を決めるのは、商店街です」

 

「細かいな」

 

「仕事の範囲が違います」

 

「じゃあ、何て書く」

 

「見積書と同じ内容にしてください」

 

申請書の

 

「催事企画監修」

 

は消され、

 

「案内内容整理・会場表示助言」

 

へ変わった。翌日、京子から、案内の一案ができたと電話があった。

 

翌日、冨永が

 

「余計なお世話」

 

へ行くと、作業台の上に七枚の案内が並んでいた。

 

すべて同じ大きさの紙である。

 

上には店名、その下に、できること。

 

左下に、持ってきてよいもの。右下に、受けられないもの。

 

料金が決まっている店は、一番下へ目安を入れてある。

 

色も書体も揃えていない。

 

衣料品店は深い赤。

 

時計店は濃紺。

 

喫茶店は茶色。

 

「つづき」

 

は青と緑。

 

「余計なお世話」

 

は白地に黒い文字だけだった。

 

「店ごとに違うんですね」

 

「同じにすると、どこの看板かわからなくなる」

 

「商店街全体の催しには見えません」

 

「上のここだけ、揃える」

 

京子は、それぞれの紙の上端を指した。

 

まだ使えますか。

 

同じ言葉が、同じ位置に入っている。

 

その下は、店ごとに違う。

 

「これなら、同じ催しだとわかります」

 

「下まで揃えなくていいでしょう」

 

冨永は一枚ずつ読む。

 

時計店の案内に、古い置き時計、柱時計は扱いません、とある。

 

衣料品店には、洗濯した服をお持ちください。

 

喫茶店には、器具は持ち込まず、写真をお見せください。

 

「『高価な品』のところ、変えました」

 

京子が自分の店の案内を渡す。

 

大切な品は、その場で確認し、お預かりしない場合があります。

 

「こちらの方がいいですね」

 

「値段の話じゃなかったから」

 

冨永は案内を並べ直した。

 

「『つづき』の予約先が入っていません」

 

「全体案内に入れるんじゃないんですか」

 

「店の前で見て、相談したい人もいます」

 

「じゃあ、ここ」

 

京子は青と緑の紙の下へ、鉛筆で細い枠を書く。

 

「電話番号ではなく、予約用のコードを入れます」

 

「年配の人は?」

 

「電話も残す?」

 

「受付中に出られますか」

 

「出られない」

 

「留守番電話にする方法もあります」

 

「三人に聞きましょう」

 

二人は作業台の両側に立ち、一枚の紙を間へ置いた。京子が余白を決め、冨永が必要な情報を足す。文字が増えれば削り、削りすぎれば戻した。

 

店の扉が開き、客が一人入ってきた。

 

京子はすぐに作業台を離れる。

 

客が持ってきたのは、留め具の外れたネックレスだった。

 

「今、見てもらえますか」

 

「はい」

 

京子は別の小さな台へ案内し、ネックレスを受け取る。

 

冨永は七枚の案内を重ね、作業台の端へ寄せた。客の品へ視線を向けず、空いた椅子へ座って待つ。

 

留め具は、金属の輪が一つ開いているだけだった。

 

「部品を替えなくても直ります」

 

「いくらですか」

 

「五百円。十分くらい」

 

「お願いします」

 

京子は工具を取り、輪を閉じる。

 

冨永は手帳を開き、先ほどの予約先について書いている。

 

客が鏡の前で直ったネックレスをつける。京子が後ろから留め具を確認し、髪を挟んでいないかを見る。

 

「これで大丈夫」

 

客は五百円を払い、店を出た。

 

京子が作業台へ戻る。

 

「お待たせしました」

 

「十分でした」

 

「測ってたんですか」

 

「予約枠の参考に」

 

「嘘でしょう」

 

京子が笑う。

 

冨永も少し遅れて笑った。

 

作業は六時過ぎまで続いた。

 

七枚の案内を、商店街へ戻す形まで整える。

 

京子が最後の紙を封筒へ入れた。

 

「これで、二人でする仕事は終わりですね」

 

冨永は鞄へ手帳を入れかけて、止めた。

 

「商店街の確認は残っています」

 

「それは、みんなでする仕事でしょう」

 

「そうですね」

 

京子は封筒を机の端へ置いた。

 

二人で紙を挟んで考える時間は、これで一区切りになる。

 

そう思うと、京子は少しだけ手持ち無沙汰だった。冨永も同じことを考えたのか、手帳を閉じたまま、しばらく立っていた。

 

格子戸の外では、時計店がシャッターを半分まで下ろしている。通りからは、作業台の両側に二人がいることだけが見えた。

 

「長谷部さんには、華がありますね」

 

京子が顔を上げた。

 

「元モデルだから、という意味ではありません。長谷部さんがいると、人が自分の仕事を少しよく見せようとする。答えをもらうのではなく、自分で決めたくなる。そういう華です」

 

「褒め方まで、市役所ですね」

 

「すみません」

 

「謝らないで。嬉しいから」

 

京子は封筒の端を指で揃えた。

 

「冨永さんには、芯があります」

 

「頑固だということですか」

 

「押さないのに、引かないところ。誰にも見えないところで線を守っている」

 

二人の間には、七枚分の仕事を終えた作業台がある。

 

「私、冨永さんが好きです。魅力的な人だと思っています」

 

京子は笑わなかった。

 

「でもね、プライベートな私の生活には合わないわ」

 

「合わない?」

 

「奥さんと潤君と一緒にいる冨永さんを見て、わかりました。あの家族の中にいる人だから、私はあなたを好きになった。そこから出てきた人を欲しいわけじゃない」

 

冨永の中で、返事に使えない言葉がいくつも動いた。

 

「私もです」

 

それだけ言って、冨永は黙った。

 

京子の言葉が、胸の中に残っている。

 

家に帰る。

それは変わらない。

 

それでも、京子に会うと嬉しい。

 

そのことも、変わらない。

 

二つを一つにしなくていいのだと、冨永は初めて思った。

 

家族といる自分。

仕事をしている自分。

京子と話しているときの自分。

 

どれも嘘ではない。

 

格子戸の向こうを、自転車が一台通り過ぎる。シャッターの下りる音が、少し離れたところから聞こえた。

 

「家に帰ります。それは変わりません」

 

「知っています」

 

京子の返事は早かった。

 

「何も変えなくていいんでしょうか」

 

「変えたいですか」

 

「変えたくありません」

 

京子は少し笑った。

 

「なら、明日も四時ですね」

 

「はい。『つづき』の予約先を確認して持ってきます」

 

「それなら、仕事はありますね」

 

「あります」

 

「では、また明日」

 

「はい」

 

冨永は店を出る。

 

格子戸の鈴が鳴り、外の空気が少し入った。

 

京子は作業台へ戻る。

 

好きだと言った。

 

それで二人の間に新しい名前がついたわけではない。

 

明日の仕事も、いつものように残っている。