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『 棚のない商店街 』 ストーリー 3

 

第七章 条件

 

 問題は、その翌週に起きた。

 

 最初に興味を示した企業から、一通のメールが届いた。

 

 会議室に六人が集まる。

 

 黒田から送られてきた条件が、スクリーンに映された。

 

「商品提供は可能。ただし、販売データを他社と共有しないこと」

 

 井上が読み上げる。

 

「これは想定してました」

 

 加藤が言った。

 

「問題は次です」

 

 井上がスクロールする。

 

「同じジャンルの商品を、他社の商品と比較できる形で展示しないこと」

 

 空気が止まった。

 

「つまり?」

 

 志保が聞く。

 

「同じ文房具店に、A社の商品とB社の商品を並べるな、ということです」

 

「それじゃ、この企画の意味が薄れる」

 

 田島が言った。

 

「そうなんです」

 

 井上が画面を見た。

 

「一社につき一店舗なら、商店街の中にメーカー別の百円ショップができるだけになる」

 

 涼は黙っていた。

 

 それでは違う。

 

 自分たちが考えたのは、商店街全体を一つの売り場にすることだった。

 

 同じジャンルの商品を比較できることも、その重要な部分だった。

 

「でも、企業からすれば当然だよな」

 

 加藤が言った。

 

「自社商品を他社と並べられたくない」

 

「だったら、他社にも同じ条件を出せばいいんじゃない?」

 

 田島が言った。

 

「全社が同じ条件なら、ジャンル別の店舗を複数企業で運営できる」

 

 井上が首を振った。

 

「契約が複雑になります」

 

「複雑でもやるしかない」

 

 涼が言った。

 

 自分でも驚くほど強い声だった。

 

 全員が涼を見る。

 

「一社の商品だけを置くなら、普通の店舗と変わらない」

 

 涼はスクリーンを見た。

 

「この企画は、商店街全体を一つの店にすることに意味がある」

 

「永島」

 

 加藤が静かに言った。

 

「それは分かってる」

 

「じゃあ……」

 

「ただ、企業に断られたら終わりだ」

 

 涼は言葉を失った。

 

 加藤は続けた。

 

「理想を守ることと、事業を成立させることは違う」

 

 会議室が静かになる。

 

 そのとき、冴が資料を閉じた。

 

「じゃあ、両方できる方法を探しましょう」

 

 加藤が冴を見る。

 

「具体的には?」

 

「企業ごとに全部の条件が違うなら、こちらから共通条件を提示する」

 

「共通条件?」

 

「一年間の実験です。企業には、商品を売る場所ではなく、実証実験の場として参加してもらう」

 

 冴はホワイトボードの前に立った。

 

「商品の売上だけじゃなく、来店者数、購買行動、滞在時間、ジャンル別の動きまでデータ化する」

 

「でも他社との比較はできない」

 

「企業には個別データを返す」

 

 冴は書いた。

 

 A社にはA社のデータ。

 

 B社にはB社のデータ。

 

 全体のデータは匿名化する。

 

「それなら、競合企業の具体的な数字は分からない」

 

 井上が言った。

 

「でも、商店街全体の購買傾向は分かる」

 

 冴が頷く。

 

「そう」

 

 涼はホワイトボードを見た。

 

 企画が少し変わった。

 

 単純な販売場所ではなくなる。

 

 商店街そのものが、一年間の実験店舗になる。

 

「それならいけるかもしれない」

 

 加藤が言った。

 

「ただし、企業側がそれで納得するかは別だ」

 

 加藤はその日のうちに、黒田へ連絡した。

 

 返事が来たのは翌朝だった。

 

 条件は、さらに一つ増えていた。

 

実証実験終了後、売上が目標を下回った場合、すべての商品を撤去すること。

 

 当然の条件だった。

 

 しかし、その一文を見たとき、涼は妙な感覚を覚えた。

 

 一年後。

 

 この商店街から、商品が一斉に消える。

 

 その光景を想像した。

 

 せっかく人が歩き始めても。

 

 せっかく店が開いても。

 

 数字が届かなければ、棚はなくなる。

 

 そしてまた、空き店舗に戻る。

 

 その可能性を、今は誰も否定できない。

 

第八章 六つの店

 

 九月に入ると、具体的な準備が始まった。

 

 最初に使える空き店舗は六軒。

 

 商店街の入口に近い二軒。

 

 中央に三軒。

 

 奥に一軒。

 

 六人は何度も歩いて、店舗の位置を確認した。

 

「文房具はここ」

 

 冴が言った。

 

「駅から近いほうがいい。学校帰りの学生も使える」

 

「キッチン用品は?」

 

 涼が聞く。

 

「中央」

 

 志保が答えた。

 

「目的買いだけじゃなく、他の店から流れてくる人を取り込める」

 

 田島は店舗の間隔を測っていた。

 

「掃除用品は奥でもいいかもしれない」

 

「なぜ?」

 

「目的がはっきりしているから。掃除用品を買う人は、わざわざ店まで探しに来る」

 

 井上が笑った。

 

「意外とマーケティングしてるじゃん」

 

「営業ですから」

 

 六人は少しずつ、店の形を決めていった。

 

 店舗名も考えた。

 

 単純に、

 

「文房具」

 

「キッチン用品」

 

「収納」

 

では面白くない。

 

 しかし、凝りすぎても高齢者には分かりにくい。

 

 最終的には、誰が見ても一瞬で分かる名前にすることになった。

 

 商店街の入口には大きな案内板。

 

 その横に、紙の地図。

 

 地図には六店舗の場所が載っている。

 

 そして中央に、

 

「商店街で見つける100円」

 

という言葉を置いた。

 

 志保が考えたコピーだった。

 

「いいんじゃない?」

 

 涼が言う。

 

 冴も頷いた。

 

「買うことより、見つけることを前に出してる」

 

「それが狙い」

 

 志保が笑う。

 

「百円ショップって、買う目的がなくても入るでしょう?」

 

「確かに」

 

「だから商店街にも、偶然入る理由を作る」

 

 それから準備が進んだ。

 

 空き店舗の清掃。

 

 照明の交換。

 

 棚の搬入。

 

 案内板の設置。

 

 レジの研修。

 

 防犯カメラ。

 

 商品登録。

 

 六人は毎日、商店街へ通った。

 

 最初は遠巻きに見ていた店主たちも、次第に手伝うようになった。

 

 古い脚立を貸してくれる人。

 

 電源の場所を教えてくれる人。

 

 掃除道具を持ってきてくれる人。

 

 そして、最初にワゴンをくれた文房具店の店主は、棚を一つ譲ってくれた。

 

「これ、まだ使えるから」

 

 その棚には、小さな傷がいくつもあった。

 

 涼はその傷を見ながら思った。

 

 新しいものだけで商店街を作り直すのではない。

 

 ここに残っているものも使う。

 

 人も。

 

 物も。

 

 記憶も。

 

 そうやって、少しずつ新しい形に変えていく。

 

 開店前日の夜。

 

 六店舗すべてに商品が並んだ。

 

 文房具。

 

 キッチン用品。

 

 掃除用品。

 

 収納用品。

 

 日用品。

 

 季節商品。

 

 色も形も違う商品が、棚いっぱいに並んでいる。

 

 一つ一つは、どこにでもある百円の商品だった。

 

 けれど、それが六軒の空き店舗に分かれている。

 

 涼は商店街の端に立った。

 

 入口から見ると、六つの店が一つにつながって見える。

 

 もちろん、普通の店ではない。

 

 レジも別。

 

 店員も別。

 

 入口も別。

 

 それでも、全部合わせれば一つの売り場になる。

 

 冴が隣に立った。

 

「明日だね」

 

「うん」

 

「怖い?」

 

 涼は少し考えた。

 

「怖い」

 

 冴が笑った。

 

「珍しい」

 

「俺だって怖いよ」

 

「そうだね」

 

 冴は商店街の先を見た。

 

「一年後、どうなってるかな」

 

「売れてれば続く」

 

「売れなかったら?」

 

 涼は答えなかった。

 

 冴も、それ以上は聞かなかった。

 

 明日の朝、この商店街に初めて客が来る。

 

 その客が何を買うのか。

 

 どの店に入るのか。

 

 何分歩くのか。

 

 そして、一年後に何が残るのか。

 

 まだ誰にも分からない。

 

 夜の商店街には、六つの店の明かりだけが残っていた。

 

 シャッター通りだった場所に、久しぶりにいくつもの灯りが並んでいる。

 

 涼はその光を見ながら、明日のことを考えていた。

 

 そして翌朝。

 

 開店時刻の三十分前。

 

 商店街の入口に、一人の老人が立っていた。

 

 手には、小さな買い物メモ。

 

 その紙に書かれていたのは、

 

「ボールペン」

 

という四文字だった。

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連載 小説.       『 京都テクノリンク 』      連載  3回目

 

第六章 祭りの外側

 

 翌年五月、葵祭の日にも仕事は入った。

 行列の通る道から離れた会社だったが、市内の車はいつもと違う流れになっている。宏と真由美は部品を抱え、地下鉄と徒歩で向かった。

「京都の人は、みんな見に行かはると思ってました」

「そら、人によります。アパートの管理人のおばさんは、葵祭は徳川はんのお祭りや言うてました」

「徳川はん、ですか」

「葵祭、徳川幕府で検索したら出てきます。おばさんは、祇園祭は京都に来る観光客のお祭りや、とも」

「ほな、京都の人のお祭りは?」

 宏は答えられなかった。

 仕事を終えると、真由美が鴨川まで歩こうと言った。二人は人の少ない河原へ下りた。水は浅く光り、飛び石の上で子どもが立ち止まっている。

「あの日、河村さんが庇わはった人、泣いてたんです」

 真由美が言った。

「僕は、機械のことを言うただけです」

「そういう言い方をする人やから、覚えてたんやと思います」

 真由美はそれ以上言わなかった。

 二人の間には、川幅ほどの距離が残った。それでも宏には、前より近く見えた。

 

第七章 鉾町の夜

 

 七月に入ると、京都の暑さは朝から逃げ場をなくした。

 町家の奥は風が通ると言われていたが、昼を過ぎるころには柱まで熱を持った。路地の打ち水は、涼しさよりも濡れた土の匂いを運んだ。

 宵山の夕方、宏と真由美は四条烏丸で落ち合った。仕事ではない。真由美から誘ったのは賀茂川以来、二度目だった。

 日が暮れても熱気は残り、提灯に灯が入るころには、鉾町を歩く人の肩が触れ合った。祇園囃子が建物の間で反響し、どこから聞こえてくるのか分からなくなる。

「観光客のお祭りや、て言うてはったんでしょう」

「そう言いながら、下宿のおばあさんも毎年、鉾の話はしてました」

「嫌いやったんですか、好きやったんですか」

「京都の人に、それを聞いても答えてくれません」

 屏風祭の町家で、二人は人の列から少し離れた。表の明るさの奥に、代々伝わる屏風や道具が置かれている。見せるために暮らしてきたのではない家が、年に数日だけ、暮らしの一部を通りへ開く。

「会社も、こんなふうになれたらええですね」

 真由美が言った。

「祭りのときだけ開けるんですか」

「全部見せるんやなくて、見せられるものをきちんと見せる。昔からあるものを邪魔にせんと、新しい人を入れるんです」

 宏は、提灯の光を受けた真由美の横顔を見た。工場の正門で初めて名前を知った人が、いまは会社の先の姿を自分よりよく見ている。

 人の流れに押され、真由美の手が宏の腕に触れた。離れないように宏が手を差し出すと、真由美は一瞬だけ迷い、その手を取った。

 四条通へ出るまで、二人は手を離さなかった。

 同じ夜、山下は佳織と先斗町の店にいた。佳織が経営者を紹介する席であり、二人きりではなかった。客を見送ったあとも、山下は仕事の話を続けた。

「もう仕事の話、終わったで」

「分かってる」

「分かってへん顔や」

 店を出て三条大橋を渡ると、鴨川の西岸に川床の灯りが並んでいた。山下は佳織を食事に誘うつもりでいた。だが、誘えば自分が何年も彼女を目で追ってきたことまで見抜かれそうで、口にできなかった。

「明日、ゴルフか」

「それ聞いて、どうするん」

「別に」

「ほな、聞かんといて」

 佳織は歩きだした。山下は反発する言葉を探しながら、その少し後ろをついていった。

 

第八章 後から来る者

 

 創業から一年半が過ぎたころ、京洛ビジネスサポートという会社が現れた。

 京都テクノリンクの仕事を、安い月額料金で全部引き受けるとうたっている。営業資料には「京都企業の困りごとを一括解決」とあった。

 山下は腹を立てた。

「うちの真似や」

 佳織は資料を一枚めくった。

「真似されるぐらい、分かりやすい商売になったいうことや」

「感心してる場合か」

「怒ったら客が戻るん?」

 京洛は人をそろえ、電話を二十四時間受けた。京都テクノリンクの顧客にも安い見積書を出した。山下は対抗して料金を下げた。

 最初に値下げを求めてきたのは、右京区の部品会社だった。

 山下が通された会議室には、京洛の見積書が置かれていた。京都テクノリンクより三割安い。社長は見積書を指で押さえた。

「長いこと来てもろてるし、できたら山下さんとこに頼みたい。そやけど、会社としては、この差を無視でけへん」

 山下は、同じ金額まで下げると答えた。

 町家へ戻ると、真由美が契約書を読み、電卓を叩いた。

「この金額では、一回訪問したら赤字です」

「毎月行くわけやない」

「故障が重なったら?」

「長い客や。困ってはるときに守らんで、何のための会社や」

 山下には、本当に顧客を守っているつもりがあった。創業時に仕事をくれた会社を、金額だけで京洛へ渡すことは裏切りに思えた。

「守るいうのは、ただ安うすることですか」

 真由美が尋ねても、山下は契約書へ判を押した。

 その一社を残すための値下げは、ほかの顧客にも伝わった。京都では秘密にした話ほど、どこからともなく広がる。二か月後、七社の契約料金が下がっていた。

 仕事は増えた。金は残らなくなった。

 真由美が最初の異変を見つけたのは、十月の支払日だった。

 銀行の入出金明細と請求書を照らすと、売上は前月より増えている。それなのに、月末残高は減っていた。協力会社へ支払う外注費と、夜間対応の交通費が増えている。

 彼女は顧客別に紙の色を変えた。黒字は白、利益がほとんどない契約は黄、訪問するたび損失が出る契約は赤。町家の座卓が、赤い紙で埋まった。

「一時的なもんや」

 山下は言った。

「いつまでを、一時と言います?」

「京洛が音を上げるまでや」

「先にうちが音を上げます」

 真由美は赤い紙を一枚ずつファイルへ戻した。怒鳴る代わりに紙の角をそろえる。その指先を、宏は見ていた。

 宏は一日に五社を回り、夜は町家で報告書を書いた。真由美は支払い予定表を何度も作り直した。

 十一月の雨の日、宏は朝から伏見、山科、岡崎を回り、夕方に木崎の工場へ入った。

 検査機から異音がするという連絡だった。宏は音を聞き、駆動部の軸受けが摩耗していると判断した。交換には機械を半日止めなければならない。

「明日の朝一番で止めましょう」

 宏が言うと、木崎は返事をせず、機械の横へ立った。

「もういっぺん聞いてみ」

「軸受けです。このまま回したら、ほかまで傷みます」

「ほんまに、その機械から鳴ってるか」

 宏は苛立ちかけた。あと二件残っている。携帯電話は何度も震え、山下から到着時刻を尋ねる連絡が入っていた。

 検査機を止めると、音も消えた。やはり間違っていない。そう思った直後、少し離れた集塵機が止まり、工場がさらに静かになった。

 宏は顔を上げた。

 もう一度、検査機だけを動かしてもらう。異音はしなかった。二台が同時に動いたとき、集塵機の振動が床を伝わり、検査機の覆いを鳴らしていたのだ。

 軸受けを交換しても、音は消えなかった。

「すみません。判断を間違えるところでした」

 木崎は宏を責めなかった。

「疲れてる耳は、自分が聞きたい音を聞く。今日はもう帰り」

「まだ二件あります」

「その二件でも、間違うんか」

 宏は答えられなかった。

 町家へ戻ると、山下は、なぜ残りの訪問を断ったのかと責めた。宏は木崎の工場で起きたことを話した。

「結果、間違ってへんかったんやろ」

「木崎さんが止めてくれたからです」

「今は一件でも断ったら、京洛へ行く」

「間違ったまま触ったら、一社どころやない」

「ほな、どうする。人がおらんのや」

「仕事を減らしてください」

 山下が机を叩き、立ち上がった。宏も引かなかった。

 二人の間に真由美は入らなかった。赤い紙のファイルを抱えたまま、言い争う二人を見ている。

 会社は忙しいのではない。止まれなくなっている。

 そのことを、三人とも別々の場所から見始めていた。

「今の経費のまま、これ以上値段を下げたら、三か月もちません」

「客を取られたら一か月ももたへん」

 山下の声が荒くなる。

「人を増やしましょう」

「給料は誰が払う」

「払えへん仕事を取るのを、やめてください」

 二人の間に宏が入った。

「言い争う前に、明日の現場を決めましょう」

派遣切りされた工場で、誰かを庇ったときと同じだった。だが今度は、正しいことを言うだけでは足りない。会社が止まれば、三人とも仕事を失う。

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『 一人分の幅 』

 

第九章 まだ使えますか

 

商店街から市役所へ、催しの企画書が届いたのは一週間後だった。

 

表紙には仮の名称が書かれている。

 

堀川西リユース促進フェア。

 

冨永は一行目を読み、二行目へ進まなかった。

 

「誰がつけたんだろう」

 

隣の福田が画面をのぞく。

 

「商店街」

 

「役所みたいな名前だな」

 

「産業振興課が直したのかもしれない」

 

「じゃあ、役所だ」

 

企画書によると、家庭で不要になった品を商店街へ持参してもらい、修理、再利用、買い替えの相談を受ける。参加予定は六店舗と

 

「つづき」

 

。開催は十一月最初の日曜日。午前十時から午後四時まで。

 

目的の欄には、廃棄物の削減、地域内消費の促進、商店街の回遊性向上と並んでいる。

 

間違ってはいない。

 

だが、黒い羽織を持ってきた女性が、自分の行動を廃棄物の削減だと思っていたとは考えにくい。

 

冨永は企画書を印刷し、安田の机へ持っていった。

 

「広報課で支援できる範囲を確認したいのですが」

 

安田は表紙を見る。

 

「名前が固いな」

 

「はい」

 

「お前がつけたのか」

 

「商店街から、この名前で来ました」

 

「なら、勝手に変えるなよ」

 

「変えるなら、商店街で決めてもらいます」

 

安田は目的の欄へ目を移した。

 

「市の環境施策にも乗せられるかもしれん。環境局へ声をかけたらどうだ」

 

「話が大きくなりませんか」

 

「予算が取れるかもしれない」

 

「何に必要な予算か、まだ決まっていません」

 

「チラシと看板だろ」

 

「それは、種井さんが言っていただけです」

 

「誰だ」

 

「ラーメン店です」

 

安田はもう一度、企画書を読む。

 

「必要なものを出してもらえ。広報課では、案内物の作成と市の媒体への掲載。写真は各店から提供してもらう」

 

「取材撮影はしませんか」

 

「必要ならやる。ただし、前みたいに一人を主役にするな」

 

「市が企画するわけではありません」

 

「わかってる。テレビ局の話だ」

 

安田は企画書を返した。

 

「環境局は、内容が固まってからでいい。先に商店街の言葉を聞いてこい」

 

その日の午後、冨永は

 

「余計なお世話」

 

へ電話をかけた。

 

「市役所広報課の冨永です」

 

「知ってます」

 

京子の声の後ろで、金属の触れ合う小さな音がする。

 

「『つづき』から、各店への聞き取りと、見せ方について依頼を受けられたと伺いました」

 

「昨日、依頼書を受け取りました」

 

「市の案内を作るため、聞き取りの結果を共有していただけますか」

 

「まだ三軒しか回ってません」

 

「いつごろ、まとまりますか」

 

「来週の水曜日。それより前に必要ですか」

 

「いいえ。水曜日の午後、こちらから伺います」

 

「三時なら」

 

「三時に伺います」

 

用件だけで電話は終わった。

 

冨永は受話器を置き、手帳へ日時を書く。

 

店を通して連絡する。

 

京子が決めた方法を守れば、話は短い。

 

京子は六日間で、参加を考えている七つの場所を回った。

 

最初は衣料品店。

 

「ボタンつけと、裾上げなら、その日にできるものもあるわよ」

 

店主は古い裁縫箱をカウンターへ出した。

 

「ファスナー交換は?」

 

「預かり。裏地まで傷んでたら断る」

 

「他店で買った服は?」

 

「見るけど、何でも直すとは書かないで」

 

「料金は」

 

「見ないと決められない」

 

「目安も出せない?」

 

「ボタン一個なら三百円から。裾上げは千円から」

 

「持ってくる前に、洗ってもらう?」

 

「それは絶対」

 

京子は聞いた通りに書く。

 

次は時計店。

 

店頭の看板には、電池交換、バンド調整、時計修理とある。

 

「壊れた時計なら、何でも見てもらえますか」

 

「見るだけならな」

 

店主が答える。

 

「直せるのは?」

 

「腕時計の電池、バンド。動かん時計は中を見ないとわからん」

 

「古い置き時計は?」

 

「うちではやらん」

 

「看板には時計修理って」

 

「腕時計のことだ」

 

「客にはわからないですよ」

 

「持ってきたら言う」

 

「持ってくる前に言うための催しです」

 

京子は看板の文字を見上げた。

 

「『腕時計の電池とバンド。動かない時計は、修理できるか確認します』」

 

「長い」

 

「短くすると、置き時計を持ってきますよ」

 

「持ってきたら帰す」

 

「重いのを抱えて?」

 

店主は黙る。

 

「古い置き時計、柱時計は扱いません、も入れます」

 

「何でも書くと客が来んぞ」

 

「できないものを持って来られるよりいいでしょう」

 

時計店主は気に入らない顔をしたまま、最後にはうなずいた。

 

塚口の喫茶店では、珈琲器具の手入れを相談できることになった。

 

「豆の挽き方も教える」

 

「器具を買ってない人にも?」

 

「来た人なら」

 

「無料?」

 

「珈琲を一杯頼めば」

 

「また、それ」

 

「喫茶店だからな」

 

「壊れた器具は直せる?」

 

「直せん」

 

「じゃあ、持ち込みはなし」

 

「写真なら見る」

 

幸子のクレープ店は、包装の相談をすると言い出した。

 

「食べきれないクレープを、どう包むか?」

 

京子が聞く。

 

「違う。家にある布で、小さい贈り物を包む方法。前に『つづき』の子に教えてもらったの」

 

「幸ちゃんが教えるの?」

 

「『つづき』の三人に来てもらう」

 

「それは、『つづき』の仕事でしょう」

 

「じゃあ、うちはクレープを売る」

 

「いつも通りだね」

 

「催しの日だけ、古いハンカチを持ってきた人に五十円引き」

 

「そのハンカチをどうするの」

 

「包み方を教えて、そのまま持って帰ってもらう」

 

「誰が教える?」

 

幸子は少し考える。

 

「京子」

 

「やらない」

 

「けち」

 

「依頼するなら考える」

 

「いくら?」

 

「内容を決めてから」

 

幸子の案は、いったん保留になった。

 

種井のラーメン店へ行くと、がたついていた椅子が一脚、店の外に出ている。

 

「直したんですか」

 

「釘を一本打った」

 

「がたつきは?」

 

「止まった」

 

京子が座ると、椅子はわずかに左へ傾いた。

 

「止まってない」

 

「京ちゃんの座り方が悪い」

 

「催しで、椅子を直すんじゃなかった?」

 

「客の椅子を直してどうする。大工じゃないぞ」

 

「じゃあ、種井さんは何をするの」

 

「ラーメン」

 

「いつも通り」

 

「人が来たら腹が減る」

 

それは間違っていない。

 

種井の店は、相談場所として二階を貸し、通常通りラーメンを出す。できることの欄には、場所の提供と書いた。

 

「つづき」

 

は、服の作り替え相談と、簡単な布包みを担当する。

 

元洋品店の次の出店者は、古本とレコードを扱う男性だった。最初の選考で

 

「つづき」

 

と並んで残り、別の空き店舗を紹介された人物である。短期出店の順番が回り、今は元洋品店へ入っていた。

 

「傷んだ本の補修なら、簡単なものだけ」

 

店主は背表紙の外れた文庫本を見せた。

 

「価値のある古書は触りません。専門店へ持っていってもらう」

 

「レコードは?」

 

「汚れの落とし方。傷は直せない」

 

「写真だけでも相談できます?」

 

「盤面は、実物を見ないと」

 

「割れたものは?」

 

「持ってこないでください」

 

「大きく書きます」

 

最後に、京子は自分の店の欄を書いた。

 

アクセサリーの留め具交換。

 

切れた紐やチェーンの修理。

 

片方だけになったイヤリングの作り替え相談。

 

宝石、貴金属の鑑定はしない。

 

高価な品は預からない。

 

料金は、部品代と作業内容による。

 

書き終えてから、客の側に立つように、紙を向こうへ回して読んだ。

 

何を直してくれる店かはわかる。

 

なぜ催しの日に行くのかは、わからない。

 

普段でも受けている仕事である。

 

京子は紙の一番上に、一行足した。

 

捨てようか迷っているものも、見せてください。

 

水曜日の午後三時、冨永が店へ来た。

 

京子は七店分の聞き取りを、作業台へ並べている。

 

「まとまりましたか」

 

「まとまったようで、まとまってません」

 

冨永は椅子へ座らず、紙を一枚ずつ見る。

 

「時計店は、扱わないものが多いですね」

 

「看板より、できることが少なかった」

 

「衣料品店は、洗濯して持参」

 

「そこは大きく書いてください」

 

「写真店は、参加しないんですか」

 

「店主が腰を痛めて、催しの日は休むそうです」

 

「七店ではなく、六店と『つづき』ですね」

 

「私の店を入れれば、六店」

 

「最初から入っています」

 

「括弧でした」

 

「もう参加されるのでは?」

 

京子は自分の店の紙を見る。

 

「依頼を受けた仕事だけして、自分の店は出ないのも変でしょう」

 

「では、括弧を外します」

 

冨永は手帳の店名を囲んでいた線を消した。

 

紙を読む間、二人の会話は途切れる。

 

京子は工具を整理し、冨永は必要な箇所へ印をつける。同じ机の両端で、それぞれ別のものを見ている。

 

「催しの名前、決まりました?」

 

京子が尋ねた。

 

「仮称は『堀川西リユース促進フェア』です」

 

京子の手が止まる。

 

「誰が行きたいと思うんですか、それ」

 

「まだ仮です」

 

「市役所の人?」

 

「たぶん」

 

「捨てようか迷ってる服を持って、『リユースを促進しよう』と思う人はいないでしょう」

 

「目的には合っています」

 

「目的の名前をつけるんですか」

 

冨永は自分の企画書を出した。

 

廃棄物の削減。地域内消費の促進。商店街の回遊性向上。

 

京子が読む。

 

「店の人は、こんな話してませんでしたよ」

 

「市の支援を受けるには、事業の目的が必要です」

 

「チラシにも書くんですか」

 

「そのままは書きません」

 

「なら、これは市役所の中だけに置いてください」

 

京子は七店分の紙を重ねた。

 

一番上に、自分が書いた一行がある。

 

捨てようか迷っているものも、見せてください。

 

「催しの名前、これでいいんじゃないですか」

 

冨永がその一行を見る。

 

「『捨てようか迷っているもの』?」

 

「長いですね」

 

「『まだ使えますか』」

 

京子は顔を上げた。

 

「質問にする?」

 

「店へ持ってくる人が、聞きたいのはそれでしょう」

 

「直せますか、じゃなくて?」

 

「直せないものもある。直さずに持って帰る人もいる」

 

冨永は企画書の仮称へ二本の線を引いた。

 

その上に書く。

 

まだ使えますか。

 

京子は文字を横から見る。

 

「句点はいらない」

 

「疑問符は?」

 

「つけない方がいい」

 

「催しだとわかりませんね」

 

「下に書けばいいでしょう。堀川西商店街――」

 

「ものを直す、相談する、一日」

 

「少し説明してる感じ」

 

「案内なので、説明は要ります」

 

二人は言葉を入れ替えた。

 

直す日。

 

捨てる前の日。

 

もう一度使う日。

 

どれも少し違う。

 

最後に残ったのは、

 

「まだ使えますか」

 

「直す人と、相談できる一日」

 

という二行だった。

 

「直す人、でいいですか」

 

冨永が尋ねる。

 

「直せない人もいるけど」

 

「相談できる人、では?」

 

「何の相談かわからない」

 

「では、直す人」

 

「仮で」

 

「はい。仮で」

 

催しの名前が決まったわけではない。

 

商店街へ持ち帰り、参加店の了承を得る必要がある。

 

企画書の表紙にあった言葉より、店先へ置いたときの形が見えていた。

 

冨永は次に、各店の案内文を作り始めた。

 

時計店の欄で、文字数が増える。

 

「古い置き時計、柱時計は扱いません。これ、大きく書くと、できないことばかり目立ちます」

 

「小さくしたら持ってきますよ」

 

「店主は客が来なくなると言っています」

 

「持ってきて断られた客は、もっと来なくなる」

 

「では残します」

 

喫茶店の欄には、器具の持ち込み不要、写真で相談、と入れる。

 

衣料品店には、洗濯済みの服のみ。

 

古本店には、高価な古書の補修は不可。

 

京子の店には、高価な品は預からない。

 

「『高価』って、いくらからですか」

 

冨永が尋ねる。

 

「客が高価だと思うもの」

 

「それでは基準になりません」

 

「値段だけでは決められないんです。家族からもらったものは、安くても預かりたくない場合がある」

 

「では、『紛失した場合に代わりのきかない品は、その場での相談のみ』」

 

「長い」

 

「意味は通ります」

 

「市役所ですね」

 

「案内ですから」

 

京子は笑い、文章をそのまま残した。

 

七店分を終えたころ、外が暗くなっている。

 

冨永は時計を見る。

 

五時二十分。

 

「店を閉める時間まで、使ってしまいました」

 

「今日は客が二人しか来なかったから」

 

「その二人を、待たせませんでしたか」

 

「一人は三時前。一人は、あなたが紙を読んでる間に会計しました」

 

冨永は顔を上げる。

 

「気づきませんでした」

 

「静かなお客さんだったから」

 

京子は紙を揃え、店ごとにクリップで留める。

 

「市役所へ持っていくものと、商店街へ返すもの、分けます?」

 

「同じ内容を、両方で確認します」

 

「それなら二部ずつ」

 

京子が複写機の蓋を開ける。

 

冨永は止めなかった。

 

「用紙代は、市で出します」

 

「七枚くらい、いいですよ」

 

「仕事で使うものです」

 

「じゃあ、十四円」

 

「請求してください」

 

「本当に十四円の請求書を作らせるつもり?」

 

「難しいですね」

 

「市役所ですね」

 

二人とも手を止めず、少し笑った。

 

複写機から出た紙を冨永が取り、京子が店ごとに揃える。

 

一部は商店街。

 

一部は市役所。

 

京子の手元に残す一部。

 

いつの間にか三部になっていた。

 

「二部ずつじゃなかったですか」

 

冨永が言う。

 

「私も使うから」

 

「では、二十一円です」

 

「請求しません」

 

紙を鞄へ入れ、冨永は店を出た。

 

家へ帰ると、潤が食卓で、黄色いボタンを段ボールの切れ端へ縫いつけている。

 

針には太い糸が通り、裏側で何度も絡まっていた。

 

「何を作ってる」

 

「まだ決めてない」

 

「縫ってから?」

 

「ボタンをつけたら考える」

 

綾子が台所から振り返る。

 

「誰かさんと同じこと言ってるよ」

 

「長谷部さんか」

 

「覚えてたんだ」

 

「店の人だから」

 

冨永は上着を椅子へ掛ける。

 

「今日、その長谷部さんの店で打ち合わせだった」

 

「そう」

 

綾子は味噌汁の味を見ている。

 

「今度、商店街で、物を直せるか相談する催しをやる」

 

「黄色いボタンも?」

 

潤が顔を上げる。

 

「それは、壊れてないだろ」

 

「何に使うかわからない」

 

「それを相談する日じゃない」

 

答えてから、冨永は少し考える。

 

「たぶん」

 

「名前は?」

 

綾子が尋ねる。

 

「『まだ使えますか』」

 

「いい名前だね」

 

「まだ仮だ」

 

「誰が考えたの」

 

冨永は鞄を開け、企画書の表紙を見る。

 

最初にその一行を書いたのは、自分である。

 

けれど、元になった言葉は、京子の聞き取りにあった。

 

「二人で」

 

答えは、それしかなかった。

 

綾子は味噌汁の火を止める。

 

「仕事ができる人なんだね、長谷部さん」

 

「そうだな」

 

「あなた、楽しそう」

 

冨永は潤の手元を見る。

 

黄色いボタンの穴へ糸が四度通り、段ボールへしっかり留まっている。

 

「仕事だから」

 

「仕事が楽しいって、悪いことじゃないよ」

 

綾子は椀を三つ並べた。

 

それ以上、何も尋ねない。

 

冨永も説明を足さなかった。

 

翌日、商店街へ出した名称案は、店主全員の賛成で決まった。

 

種井だけが、

 

「まだ食べられますか、みたいだな」

 

と言った。

 

幸子が、

 

「ラーメン屋には合ってるでしょう」

 

と返し、話は終わった。

 

催しまで、あと四十日。

 

六つの店と「つづき」に、初めて同じ名前がついた。

この作品は盗用禁止です。

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『 棚のない商店街 』 ストーリー 2

 

第四章 最初の壁

 

 会社に戻ってからの二週間は、企画を考える時間ではなく、企画を壊す時間になった。

 

 井上が数字を出す。

 

 志保が市場データを調べる。

 

 田島が空き店舗の家賃相場を調べる。

 

 冴は100円ショップ各社の店舗形態や商品構成を比較した。

 

 涼は毎日のように商店街の写真を見返していた。

 

 写真には、何もない空き店舗が写っている。

 

 だが、その何もない空間が、今では違って見える。

 

 ここに文房具。

 

 ここにキッチン用品。

 

 ここに掃除用品。

 

 ここには収納用品。

 

 そう考えると、シャッターの下りた店舗が、空白ではなく売り場に見えてくる。

 

 しかし、問題は一つではなかった。

 

「企業側のメリットが弱い」

 

 井上が言った。

 

 会議室のスクリーンに、試算表が映っている。

 

「既存店より売上が上がる保証がない。むしろ複数店舗に分散することで効率が悪くなる可能性があります」

 

「商店街への出店実績としては?」

 

 志保が聞いた。

 

「企業イメージにはプラスかもしれない。でも、それだけでは決裁は通らない」

 

 田島が腕を組んだ。

 

「じゃあ、企業にとっても実験にする」

 

「実験?」

 

「一年間だけ。最初から恒久店舗にしない」

 

 田島は続けた。

 

「商品を提供してもらう。売上を全部データ化する。どのジャンルが売れたか、どの年齢層が買ったか、何曜日に人が来たか。普通の百円ショップでは取れないデータを出す」

 

 井上が顔を上げた。

 

「それなら企業側にも価値がある」

 

「そういうこと」

 

 加藤が頷いた。

 

「この企画を、商店街再生だけではなく、販売実験として提案する」

 

 涼はそこで初めて、企画の輪郭がはっきりした気がした。

 

 再生事業。

 

 実証実験。

 

 販売データ。

 

 そして一年という期限。

 

 すべてが一本につながる。

 

「でも、もう一つあります」

 

 冴が言った。

 

「何?」

 

「高齢者です」

 

 会議室が静かになった。

 

「商品をジャンルごとに分ければ分かりやすくなる。でも、それだけで高齢者が買い物しやすくなるとは限らない」

 

 志保が聞いた。

 

「どうするの?」

 

「案内です」

 

 冴は資料を出した。

 

「商店街の入口に全店舗の案内板を置く。文房具なら何番、台所用品なら何番というように、最初に目的地が分かるようにする」

 

「商店街の中に案内所を作る?」

 

「それも考えられる」

 

「でも人件費が……」

 

「常駐じゃなくてもいい」

 

 涼が口を挟んだ。

 

「スマートフォンでも見られるようにする。だけど、スマートフォンを使わない人向けには紙の地図を置く」

 

 冴が涼を見る。

 

「それならいい」

 

 また二人の考えが重なった。

 

 加藤は二人を見ていた。

 

 何かに気づいたようだったが、何も言わなかった。

 

「よし」

 

 加藤が資料を閉じた。

 

「提案書を作ろう」

 

 六人はその日から、本格的に動き始めた。

 

第五章 最初の電話

 

 最初に電話をかけたのは涼だった。

 

 100円ショップを運営する企業の新規事業担当者。

 

 資料を送る前に、まず話を聞いてもらう。

 

 電話がつながった。

 

「突然すみません。私、○○社の永島と申します」

 

 涼は企画の説明を始めた。

 

 商店街。

 

 空き店舗。

 

 ジャンル別。

 

 一年間。

 

 販売実験。

 

 売上データ。

 

 話し終えるまで、相手はほとんど口を挟まなかった。

 

「……つまり、商店街全体を一つの店舗として考えるということですか?」

 

「はい」

 

「商品は?」

 

「御社の商品だけではありません」

 

 そこが重要だった。

 

「複数の100円ショップ企業に同じ提案をします」

 

 電話の向こうが静かになった。

 

「それは、かなり特殊ですね」

 

「承知しています」

 

「競合企業の商品も同じ商店街に置く?」

 

「はい」

 

 涼は答えた。

 

「お客様にとって一番いい形を考えています」

 

 相手はすぐには答えなかった。

 

「一度、資料を見せてください」

 

 電話が終わった。

 

 涼は息を吐いた。

 

 会議室の向かいにいた冴が、黙って親指を立てた。

 

 涼は笑った。

 

 それから一社、二社、三社。

 

 電話をかけるたびに、反応は違った。

 

 興味を示す会社。

 

 慎重な会社。

 

 最初から断る会社。

 

 そして四社目。

 

 担当者は、涼の説明を最後まで聞いたあと、意外な質問をした。

 

「その商店街、どんなところですか?」

 

 涼は答えようとして、言葉を止めた。

 

 写真ならある。

 

 データもある。

 

 空き店舗率も、人流も、人口統計もある。

 

 けれど、その質問に数字だけでは答えられない。

 

「……一度、見に来ていただけませんか」

 

 涼はそう言った。

 

「現地を見てもらったほうが分かると思います」

 

 電話を切ったあと、冴が言った。

 

「今の、よかったと思う」

 

「何が?」

 

「現地を見てもらうって言ったところ」

 

「資料だけじゃ分からないからね」

 

「うん」

 

 冴は窓の外を見た。

 

「私たちもそうだったし」

 

 涼は何も言わなかった。

 

 最初に商店街を歩いた日のことを思い出した。

 

 シャッター。

 

 空き店舗。

 

 歩いている人。

 

 百円ショップを探していた老人。

 

 あの日から、まだ一か月も経っていない。

 

 それなのに、もうずいぶん遠いことのように感じる。

 

 そして、その頃には六人ともまだ知らなかった。

 

 この企画を最初に面白がってくれた企業が、後になってプロジェクト最大の壁になることを。

 

 そして、その壁の向こう側に、商店街の未来だけではなく、六人それぞれの仕事に対する考え方まで変えてしまう出来事が待っていることを。

 

 プロジェクトは、まだ始まったばかりだった。

 

第六章 売り場を借りる

 

 最初の企業が現地を見に来ることになった。

 

 八月の暑い日だった。

 

 駅前で待っていると、紺色のシャツを着た男が一人、改札から出てきた。

 

 三十代後半くらいに見える。

 

 会社名を告げると、男は軽く頭を下げた。

 

「新規事業部の黒田です」

 

「プロジェクトリーダーの加藤です」

 

 六人が順番に名乗る。

 

 黒田は全員を見渡した。

 

「若いですね」

 

 田島が笑った。

 

「よく言われます」

 

「私も若いと思っていますよ」

 

 黒田が笑う。

 

 その笑顔に、営業特有の警戒心が少し混じっていた。

 

 彼らは駅から商店街へ向かった。

 

 最初の数分、黒田は何も言わなかった。

 

 通りの両側を見ている。

 

 開いている店。

 

 閉まっている店。

 

 空き店舗。

 

 人の流れ。

 

 時折、スマートフォンに何かを記録している。

 

「ここが一番人通りが多い時間帯ですか?」

 

 井上が答えた。

 

「平日の午前十時から十二時くらいです。夕方は学生が増えます」

 

「休日は?」

 

「休日は逆に減ります」

 

「なるほど」

 

 黒田は歩きながら、空き店舗の前で立ち止まった。

 

「ここは?」

 

 田島が答える。

 

「以前は衣料品店です。今は空いています」

 

「家賃は?」

 

「調べています」

 

「いくら?」

 

 田島が金額を答えると、黒田は少し考えた。

 

「思ったより高いですね」

 

「駅に近いので」

 

「でも、この状態で?」

 

 田島は答えなかった。

 

 黒田はさらに歩いた。

 

 商店街の中ほどまで来たところで、八百屋の前を通った。

 

 店先で年配の女性が二人、話をしている。

 

 その横を高校生が自転車を押して通り過ぎる。

 

 完全に人がいないわけではない。

 

 むしろ、ところどころに生活が見える。

 

 黒田はその様子をしばらく眺めていた。

 

「この商店街、なくなるんですかね」

 

 突然、そんなことを言った。

 

 加藤が答える。

 

「分かりません」

 

「皆さんは?」

 

「なくしたくないと思っています」

 

 黒田は笑った。

 

「正直ですね」

 

 涼はその言葉を聞きながら、商店街の先を見た。

 

 もしここに文房具店ができたら。

 

 もし、その隣にキッチン用品店ができたら。

 

 もし、その先に収納用品の店ができたら。

 

 人は歩くだろうか。

 

 それでも帰ってしまうだろうか。

 

 まだ分からない。

 

 企画書の中では、すべてがきれいにつながっている。

 

 現実はそうではない。

 

「実際に、何店舗くらい考えているんですか?」

 

 黒田が聞いた。

 

「空き店舗の状況を見ながらですが、最初は六店舗程度です」

 

 涼が答えた。

 

「六店舗?」

 

「はい。文房具、キッチン用品、掃除用品、収納用品、日用品、季節商品」

 

「一店舗に一ジャンル?」

 

「基本はそうです」

 

 黒田は考え込んだ。

 

「面白いけど、難しいですね」

 

 その言葉に、誰も反論しなかった。

 

 面白い。

 

 だが、難しい。

 

 それは、この企画を考え始めてから何度も聞いた言葉だった。

 

 午後、六人は商店街の集会所にいた。

 

 黒田との打ち合わせが終わり、商店街側との話し合いが始まる。

 

 出席したのは、商店街の会長を務める七十代の男性と、数人の店主だった。

 

「空き店舗を使ってくれるなら、ありがたいですよ」

 

 会長はそう言った。

 

「ただね」

 

 その先を待つ。

 

「一年で終わるんでしょう?」

 

「現時点では、一年間の実証実験です」

 

 加藤が答える。

 

「一年後に数字が目標を超えれば継続を検討します」

 

「超えなかったら?」

 

「原則として終了です」

 

 会長は腕を組んだ。

 

「そうなると、また空き店舗に戻る」

 

 誰もすぐには答えられなかった。

 

 田島が口を開いた。

 

「そこは、我々も考えています」

 

「考えてる?」

 

「はい。撤退する場合でも、できるだけ次のテナントにつなげられる仕組みを作りたい」

 

 会長は田島を見た。

 

「若い人は、みんなそう言うんだよ」

 

 少し厳しい声だった。

 

「始めるときは、町が変わると言う。でも、うまくいかなくなったら、会社に戻って終わりだ」

 

 田島は黙った。

 

 涼も何も言えなかった。

 

 会社員である以上、正しい指摘だった。

 

 自分たちは一年後、この町からいなくなる可能性がある。

 

 商店街の人たちは、そのあともここで暮らす。

 

 その違いは大きい。

 

「だからこそ」

 

 冴が言った。

 

 全員が彼女を見る。

 

「一年間で、商店街の側にもノウハウを残したいんです」

 

「ノウハウ?」

 

「商品の売れ方、人の流れ、どの店舗にどういう商品を置けばいいか。全部データとして残します」

 

 冴は続けた。

 

「それを使えば、一年後に別の事業者が入る場合にも役立つと思います」

 

 会長は黙っていた。

 

「100円ショップだけの話にしない」

 

 冴の声は落ち着いていた。

 

「商店街が、自分たちで次の店を考えられるようにする」

 

 涼は冴を見た。

 

 最初の企画を考えたときから、冴は何度も同じことを言っていた。

 

 この企画を成功させるだけでは足りない。

 

 終わったあとに何が残るのか。

 

 そこまで考えなければいけない。

 

 会長はしばらく黙っていた。

 

 やがて、

 

「それなら、やってみてもいい」

 

 と言った。

 

 その日の帰り、六人は商店街を歩いた。

 

 夕方になり、学生の姿が増えていた。

 

 文房具店の前を通ったとき、店主が外に出ていた。

 

「また来たの」

 

 涼が笑った。

 

「今日は仕事です」

 

「毎日仕事でしょう」

 

 店主も笑った。

 

 そして、店の前に置かれた古いワゴンを指した。

 

「これ、使う?」

 

 ワゴンには少し傷があった。

 

「もう使わないから」

 

 田島が近づいた。

 

「商品を置く台に?」

 

「そう。捨てるよりいいでしょう」

 

 涼はワゴンを見た。

 

 企画書には書かれていない。

 

 商店街の人が、自分たちの企画に何かを差し出してくれた。

 

 それが妙に嬉しかった。

この作品は盗用禁止です。

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『 一人分の幅 』

 

第八章 借りるのは場所だけ

 

次の会合までの二週間、河合たちは商店街の店を一軒ずつ回った。

 

月に一度か二度、服の相談を受ける場所を貸してもらえないか。

 

必要な広さは、二人が向かい合って座れる程度。持参した服を広げる台があり、できれば鏡もほしい。相談は一件三十分。予約制にする。

 

最初に訪ねたのは、塚口の喫茶店だった。

 

「空いとる席なら使えばいい」

 

塚口は答えた。

 

「無料で、ですか」

 

「珈琲を一杯頼めばいい」

 

「お客さんが?」

 

「お前らもだ」

 

「一件ごとに?」

 

「一件ごとだ」

 

河合は手帳へ書いた。

 

相談者一名と

 

「つづき」

 

一名。二杯分の飲み物代。

 

「服を広げてもいいですか」

 

「食べ物の上で広げるなよ」

 

「テーブルの上です」

 

「ホットケーキを出したあとなら」

 

「相談中に注文が来たら?」

 

「端へ寄せる」

 

条件を書き出してみると、話は思ったほど簡単ではない。

 

幸子のクレープ店には二人で座れる場所がなく、種井のラーメン店は匂いがつく。二階の物置なら空いていたが、階段は急で、鏡も照明もない。

 

衣料品店の試着室や、地域の和室にも尋ねた。場所だけなら、いくつかある。けれど鍵や掃除、荷物を持って上がれるかまで考えると、七軒のうち使えそうなのは三か所だった。

 

河合は、その結果を京子へ見せた。

 

「よく聞けたね」

 

京子は手帳を最初から読む。

 

「長谷部さんに言われた通り、私たちで回りました」

 

「私は、回れとは言ってないよ」

 

「場所を貸す側の条件を確認しろって、市役所から言われたので」

 

「じゃあ、市役所に言われた通りだ」

 

京子は塚口の店の欄で手を止めた。

 

「相談する人に、必ず珈琲を頼ませるの?」

 

「塚口さんは、そう言ってます」

 

「服を持って相談に来たのに、飲み物まで頼まないといけないのは面倒だね」

 

「場所代だと思えば」

 

「そう思う人と、思わない人がいる」

 

種井の店の二階には、鏡を持ち込むと書いてある。

 

「毎回?」

 

河合の鉛筆が止まった。

 

京子は手帳を返した。

 

「場所を借りるたびに、その店を一から作るやり方では続かないよ」

 

「じゃあ、どうしたら」

 

「何を持っていくか、同じにする。鏡が必要な相談は、鏡のある場所の日に予約する。服を見るだけなら、喫茶店でもできる」

 

「じゃあ、場所によって相談の内容を分けるんですか?」

 

「どの場所でも同じことをしようとするから、荷物が増えるんでしょう」

 

三人は手帳の余白へ、新しい欄を作った。

 

できる相談。

 

できない相談。

 

運ぶもの。

 

置いてあるもの。

 

「次の会合、長谷部さんも出てもらえませんか」

 

河合が言った。

 

「組合の会合でしょう」

 

「今度は、『つづき』の終了後について話す会です。私たちの助言者として来てもらえるか、市役所に聞きます」

 

「私が行くと、私の案みたいに見えるよ」

 

「案を出してもらったのは本当です」

 

「決めるのは、あなたたちだよ」

 

「だから、一緒に来てほしいんです」

 

京子は三人を見る。

 

最初に店へ来たころは、何か困るたびに答えを求める顔をしていた。今は、使える場所と使えない理由を自分たちで書き、京子の意見にまで条件をつけようとしている。

 

「依頼書を作って」

 

「会議に出るだけでも?」

 

「店を閉めて行くから」

 

「わかりました」

 

会合の三日前、河合から市役所へ連絡が入った。

 

終了後の相談日の計画について、長谷部京子を助言者として同席させたい。

 

冨永は産業振興課へ確認し、出席者名簿に京子の名を加えた。

 

「市から依頼するんですか」

 

産業振興課の職員が尋ねる。

 

「『つづき』からの依頼です。報酬も三人が支払います」

 

「そこまで必要ですか」

 

「店を休んで出席するそうです」

 

「商店街のための話でもあるでしょう」

 

「だから無償でいい、とはなりません」

 

職員は出席者名簿の横へ、民間助言者、と書いた。

 

冨永はその文字を見る。

 

「『つづき』助言者、にしてください」

 

「何が違うんですか」

 

「誰の立場で話す人かがわかります」

 

職員は書き直した。

 

会合は午後四時から、元洋品店の二階で始まった。

 

前回と同じ長机に、商店街の店主、

 

「つづき」

 

の三人、市役所の二人が座っている。

 

京子は三人の隣に席を取った。

 

冨永とは、コの字の机を挟んで斜め向かいになる。

 

会議が始まる前、二人は一度だけ頭を下げた。

 

冨永は市の案を配った。

 

短期活用事業が終了したあと、三か月間、月二回まで、商店街の中で相談日を設ける。場所は商店街と

 

「つづき」

 

が話し合って決める。市は広報と予約先の案内を行う。

 

利用する場所の費用、商品の受け渡し、売上金の管理は

 

「つづき」

 

が担う。

 

事故や破損については、場所を貸す側と事前に確認する。

 

種井が一枚目を読み終え、すぐに尋ねた。

 

「市は金を出さないのか」

 

「現時点では、場所代を助成する制度がありません」

 

「宣伝だけ?」

 

「日程と場所の掲載、案内物の作成、予約ページへの掲載を予定しています」

 

「また、客を集めすぎるんじゃないだろうな」

 

冨永は種井を見る。

 

「予約できる件数は、『つづき』が決めます」

 

「それならいい」

 

前に注文を止めたことを、種井も覚えている。

 

河合が調査した三か所を説明した。

 

塚口の喫茶店では、飲み物を注文すること。衣料品店の試着室は、店が休みの火曜日だけ。種井の店の二階は、掃除と照明の準備が必要である。

 

「うちの二階、使うのか」

 

種井が尋ねる。

 

「鏡のいらない相談なら」

 

「わざわざ二階まで上がって、鏡もないのか」

 

「服の状態を見るだけならできます」

 

「下で見ればいいだろ」

 

「匂いがつくって言ったの、種井さんでしょう」

 

幸子が横から言う。

 

「相談の日だけ、二階でラーメン出すか」

 

「余計に匂いがつくよ」

 

笑いが起きる。

 

京子は口を挟まず、三人が説明するのを聞いている。

 

冨永も、資料の順に進める。

 

「市の予約ページで、相談者の名前、連絡先、持参する品を入力してもらいます。情報は『つづき』にも共有します」

 

京子が顔を上げた。

 

「場所を貸す店にも、名前を渡すんですか」

 

「予約者の確認が必要ですので」

 

「誰が来るかだけなら、人数と時間でいいんじゃないですか」

 

「鍵を開ける店が、予約者を確認します」

 

「服の相談に来る人の名前を、場所を貸すだけの店が持つ必要あります?」

 

冨永は資料の該当箇所を見る。

 

「店側が受付も行う想定でした」

 

「それだと、場所だけじゃなく、人も借りることになる」

 

塚口が京子を見る。

 

「来た人に、席を教えるくらいはするぞ」

 

「それは叔父さんならね。毎回、どの店もできるとは限らないでしょう」

 

河合が手帳を開く。

 

「私たちが開始の十五分前に行って、受付をします」

 

「鍵は?」

 

「店の人に開けてもらいます。でも、予約者の名前は私たちだけが持つ」

 

冨永は資料へ線を引いた。

 

「では、場所を貸す店には、予約件数と利用時間だけを共有します。受付は『つづき』が行う」

 

「その方がいいと思います」

 

京子はそれ以上続けない。

 

会議は次の項目へ進んだ。

 

商品の受け渡しでは、幸子が店で預かると言い、種井が紛失時の責任を尋ねた。二人の言葉がぶつかったあと、京子が資料の余白を指した。

 

「相談日を受け渡しの日にもする。急ぐ人には送る。店には預けない」

 

冨永はその通り書き換えた。支払いにも店のレジは使わない。場所を借りることと、店の仕事を借りることは、はっきり分けられた。

 

一時間半のあいだに、最初の案はいくつも書き換えられた。場所を貸す店が引き受けるのは、部屋と設備まで。

 

「つづき」

 

は受付から品物の管理までを持ち、市は日程と場所を案内する。

 

最後の一文を冨永が読み上げると、種井がうなずいた。

 

「そこ、大きく書いとけ」

 

「掲載する件数は、毎回『つづき』に確認します」

 

「前にも聞いた」

 

「何度でも確認します」

 

種井は腕を組み直した。

 

「ならいい」

 

次回の相談日は、塚口の喫茶店で行うことになった。

 

午後二時から四時まで。予約は四件。客席の一番奥に、白い布を敷いたテーブルを一つ用意する。

 

服を身体へ合わせる相談は受けない。持ち込まれた品の状態と、作り替えられるものを話す日にする。

 

会合が終わり、店主たちが階段を下りていく。

 

河合たちは、京子へ依頼書の確認を求めている。産業振興課の職員は、修正した条件をいつまでに出すか、冨永と話している。

 

全員が帰ったあと、長机の上には紙が何枚も残った。

 

消した線。

 

書き足した文字。

 

丸で囲まれた時間。

 

京子は自分の資料を鞄へ入れ、椅子を戻す。

 

冨永は、商店街へ返す長机を畳もうとしている。片側の脚が固く、金具を押しても動かない。

 

「そこ、逆です」

 

京子が言う。

 

「逆?」

 

「押すんじゃなくて、少し持ち上げてから」

 

冨永が天板を上げると、金具が外れた。

 

「知ってたんですか」

 

「さっき種井さんが畳んでるのを見てました」

 

二人で机を壁へ立てかける。

 

窓の外では、商店街の照明が点いている。会議が始まったときより、通りを歩く人は少ない。

 

「今日は、ありがとうございました」

 

冨永が言う。

 

「依頼された仕事です」

 

「個人情報のところは、見落としていました」

 

「私は、場所ごとにできることを分けるのが遅かったです」

 

「三人が回ったから、わかったんでしょう」

 

「そちらも、制度を調べたから使えないものがわかったんでしょう」

 

言葉がそこで切れた。

 

冨永は残った資料を重ねる。

 

「元の案、ほとんど残ってませんね」

 

「使えるところは残ってます」

 

「どこですか」

 

「月二回」

 

冨永は紙を見た。

 

最初に書いた案から残っているのは、確かにその程度だった。

 

「それなら、作り直した方が早かったですね」

 

「作り直したんでしょう。会議で」

 

京子は鞄を肩へ掛けた。

 

階段を下りると、河合たちはすでに帰っている。塚口の喫茶店も、入口の灯りだけになっていた。

 

二人は店の前で立ち止まる。

 

冨永は駅の方へ、京子は脇道の店へ戻る。

 

「次は、いつですか」

 

京子が尋ねた。

 

「市と産業振興課で条件を確認してからです。長谷部さんに出ていただくかは、『つづき』が決めます」

 

「わかりました」

 

「こちらから直接、お願いすることはありません」

 

「その方がいいと思います」

 

京子は脇道へ入り、冨永は駅へ向かった。

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連載 小説  『 京都テクノリンク 』      連載 2回目

 

第四章 見えていても見えない

 

 仕事は、故障した機械より、故障していない人の間に多くあった。

 

 老舗菓子店では、注文を受ける娘と帳面を守る父親が口をきかなかった。町工場では、新しい測定器を入れた息子と、古い旋盤を扱う職人が互いを信用していなかった。

 

 宏はまず話を聞いた。山下は答えを急いだ。真由美は、請求できない親切を帳簿の余白へ書き留めた。

 

「無料でやった仕事が、今月だけで十四件あります」

 

「そのうち客になる」

 

「いつです?」

 

「京都の商売に、いつはない」

 

「支払日には、あります」

 

 真由美に言われ、山下は黙った。

 

 佳織は週に一度ほど町家へ現れた。ゴルフ帰りの服で来る日もあれば、ポルシェを遠くの駐車場に置き、歩いてくる日もある。

 

「康史、あんたは何も知らんな」

 

「何がや」

 

「断られた思うて帰ってる。京都で『また何ぞありましたら』言われたら、次に何を持っていくか考えるんや。ほんまに来るな言う人は、もっと丁寧に褒めはる」

 

 佳織は経営者を三人紹介した。一人は会ってくれず、一人は茶だけ出し、一人が仕事をくれた。その一人から、さらに二社につながった。

 

 春、賀茂川の土手に桜が咲いた。宏は御薗橋から下流を眺めた。川幅は広く、向こう岸を歩く人の顔は分からない。見えていても、見えていない。

 

 工場にいたころの真由美も、そうだったのだと思う。

 

 仕事のない日曜日、宏の携帯電話に真由美から短い連絡が入った。

 

〈賀茂川、歩きませんか〉

 

 二人は北大路橋で待ち合わせ、上流へ向かった。四月の終わり、桜はほとんど散っていた。枝に残った花より、土手を薄桃色にしている花びらのほうが多い。川辺では学生が楽器を鳴らし、犬を連れた人が立ち話をしている。

 

「満開のときに来たかったですか」

 

 宏が尋ねると、真由美は首を振った。

 

「散ってからのほうが、歩く人が少ないでしょう。桜もゆっくり見られます」

 

 真由美は、名所を見たいのではなく、名所が普段の風景へ戻るところを見たかった。

 

 御薗橋まで来ると、川幅が広がった。上賀茂神社へ向かう人が、向こう岸に小さく見える。

 

「京都に住んでる人は、川の向こうに知ってる人がいても、見えてへん顔をすることがあるんやって」

 

「誰に聞いたんです」

 

「大学のころ、下宿してた家の大家さんです。見えてても見えてまへん。それぐらいの川幅が、京都ではちょうどええんや、て」

 

「河村さんも、見えてへん顔をするんですか」

 

「見えてたら、します」

 

「今、うちは見えてます?」

 

 宏は真由美を見た。

 

「見えてます」

 

 真由美はそれ以上尋ねず、向こう岸へ目を戻した。

 

 宏は西側の河原を指した。

 

「上賀茂神社近くにある御薗橋の西の河原から、自転車で河原町三条まで、いっぺんもペダルをこがずに行けるの知らんやろ?」

 

 真由美は、宏の指した先から下流を眺めた。

 

「知らんやろ、て。急に得意そうですね」

 

「ほんまに行けるんです。京都は北が高うて南が低いから、川沿いを下ったら分かります」

 

「途中で止まったら?」

 

「止まりません」

 

「信号は?」

 

「河原の道の話です」

 

「河原町三条へ上がるときは?」

 

 宏は黙った。真由美が笑った。

 

「そこは、こがなあかんのでしょう」

 

「ほな、今度、確かめますか」

 

 言ってから、宏は自分が次の約束をしていることに気づいた。

 

「かまいません。河村さんが一回でもこいだら、お昼ごはん奢ってください」

 

「村上さんがブレーキかけても、僕のせいにせんといてくださいよ」

 

 二週間後、二人は御薗橋の西詰の河原にいた。レンタサイクル店で借りた自転車を並べていたのだ。

 

 ペダルから足を離すと、初めは止まりそうにゆっくり進んだ。けれど、賀茂川に沿って南へ向かううち、自転車は春の風を受けて速度を増した。北山大橋、北大路橋、出雲路橋。橋をくぐるたび、川幅と町の表情が変わっていく。

 

 真由美は途中で何度も笑った。

 

「ほんまや。こいでへんのに、京都が向こうから来ます」

 

 出町で二つの川が一つになり、賀茂川は鴨川と呼ばれるようになった。名前が変わっても、水は同じ速さで流れている。

 

 三条近くで河原の道を離れたとき、宏は短い坂を上るために、とうとうペダルを踏んだ。

 

「はい、一回」

 

 後ろから真由美の声がした。

 

「ここは河原町三条までに入れません」

 

「入ります。約束は約束です」

 

 二人は三条大橋の近くに自転車を止め、木屋町の小さな店で昼を食べた。宏の奢りになった。

 

 真由美は、向かいの席で言った。

 

「京都のこと、一つ知りました」

 

「下り坂やいうことですか」

 

「同じ川でも、途中で名前が変わること。こがんでも進む道があること。それから、河村さんは負けても理屈を言わはること」

 

 最後の一つはいりません、と宏は言った。

 

 けれど、会社を始めてから初めて、負けても悪くないと思っていた。

 

 工場を出た日から、二人は時折会っていた。初めは仕事の相談だった。やがて、用事がなくても河原を歩き、季節の行事を見に行くようになった。どちらも、それを約束とは呼ばなかった。

 

第五章 言葉の奥

 

 京都テクノリンクが仕事を始めて半年ほどたったころ、山下は伏見の会社から戻るなり、上機嫌で鞄を置いた。

 

「次の入れ替え、うちに決まりそうや」

 

 古い受発注システムを更新する大きな仕事だった。真由美が顔を上げた。

 

「注文書、いただいたんですか」

 

「まだやけど、『よう勉強してはりますなぁ。若い人の新しい考えは、うちらには思いもつきまへん』言うてくれはった」

 

 佳織が飲みかけの珈琲を置いた。

 

「それ、褒められたと思てる?」

 

「ほかに何がある」

 

「自分とこのやり方も知らん若造が、教科書どおりの話をしに来た、いうことかもしれへん」

 

「何で、そんなひねくれた取り方するんや」

 

「京都で営業してたら、言葉だけ持って帰ったらあかんのや。言うた人の顔と、言わはるまでの間も持って帰らな」

 

 翌週、先方から届いたのは断りの手紙だった。文面には、山下の提案を褒める言葉が並び、最後に〈弊社にはいささか先進的に過ぎます〉とあった。

 

 山下は紙を机へ放った。

 

「断るなら、最初から断ったらええ」

 

「最初から断ってはったんや」

 

 佳織は平然と言った。

 

「分からへんように断るのが悪いんやない。分かる人にだけ分かるように言うて、相手の顔も立てる。それで長いこと、この狭い街で一緒に暮らしてきたんや」

 

「分からへん人間は、顔も立たへん」

 

「そやから、あんたは勉強せなあかん」

 

 佳織は、翌日、四人を古い知り合いの家へ連れていった。表具店を営んできた八十代の夫婦である。仕事の依頼ではなく、京都の言葉を教えてもらうためだった。

 

 通された座敷で、隣家からピアノの音が聞こえてきた。同じところを何度も弾き直している。

 

 女主人はお茶を置きながら、隣との境の壁へ目をやった。

 

「お隣のお嬢さん、ピアノお上手どすなぁ。毎日よう練習してはること」

 

 宏は褒めているのだと思った。真由美は湯呑みを持ったまま、返事をしなかった。

 

 佳織が尋ねた。

 

「ほんまに、お上手なんですか」

 

「さあ、うちには音楽のことは分かりまへん。ただ、よう聞こえます」

 

 女主人は穏やかに笑った。

 

 隣の家が聞けば、翌日から練習の時間を早めるかもしれない。うるさいと言えば角が立つ。上手だと言えば、聞こえていることだけは伝わる。

 

「『元気なお子さんどすなぁ』は、走り回って騒がしい。『ええ時計してはりますなぁ』は、長居せんと時間見て帰ってほしい。そういうことですか」

 

 山下が覚えた答えを並べると、主人が笑った。

 

「そない簡単やったら、京都の人間かて苦労しまへん」

 

「違うんですか」

 

「ほんまに元気なお子さんを褒めてることもあります。ほんまに時計がええと思てることもある。誰が、誰に、どんな顔で言うたかや。言葉だけ裏返しても、本音にはなりまへん」

 

 女主人が続けた。

 

「『今のところは間に合うてますのや』かて、いりませんいうときもあれば、今のところは、いうところを聞いてほしいときもあります。困ってることに気ぃついて、それでも押し売りせん人かどうか、見てることもあります」

 

 宏は、最初の織物会社を思い出した。複合機を何度も開け閉めしていた事務員に気づかなければ、主人の言葉どおり帰っていた。

 

「建前は、嘘なんでしょうか」

 

 真由美が尋ねた。

 

「嘘やったら、もっと楽どすやろなぁ」

 

 女主人は少し考えた。

 

「本音をそのまま出したら、一緒におられへんこともあります。建前いうのは、相手と明日も顔を合わせるための包み紙みたいなもんです。ただ、包みすぎたら、中に何があるのか自分でも分からんようになります」

 

 帰り道、山下は口数が少なかった。

 

「勉強になったやろ」

 

 佳織が言う。

 

「『勉強になった』言うたら、嫌味に聞こえるやろ」

 

「今のは、ただの嫌味や」

 

「やっぱり分からん」

 

「分からんままでええ。分かったつもりになる人よりは、信用できる」

 

 山下は言い返そうとして、やめた。佳織の顔が、いつものように笑っていなかったからだ。

 

 それから京都テクノリンクでは、商談の報告書に、先方が言った言葉だけでなく、誰が黙っていたか、どこで話が途切れたかを書くようになった。

 

 宏は機械の音を聞いた。真由美は帳簿の数字が急に変わるところを見た。山下はようやく、言葉が途切れたあとの沈黙を待つことを覚えた。

 

 佳織だけは、前から知っていた。

 

 人がいちばん言いたいことは、口から出た言葉の中にあるとは限らないことを。

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   『 京都テクノリンク 』    連載 1 回目      2026/07/16

 

プロローグ 明日のない帰り道

 

 社員証を首から外した瞬間、河村宏は、自分がもうこの工場の人間ではないのだと知った。

 

 名前と顔写真の入った一枚のカード。五年間、正門を通るたびに機械へかざしてきた。反応が鈍い日は角度を変え、緑色のランプがつくまで待った。今朝も同じように入った。帰りには、返さなければならない。

 

 紐を指に巻いたまま、宏はしばらく社員証を見つめた。

 

 五年間は、こんなに軽かったのか。

 

 更衣室では、金属の扉が次々に閉まっている。作業着を脱ぎ、私物を紙袋へ入れる。替えの靴下、歯ブラシ、油の染みた手帳。五年分の自分は、紙袋一つに収まった。

 

 大学を出て入った精密機器メーカーは二年で倒産した。あのとき宏は、会社がなくなるということを一度覚えた。それでも、派遣先で五年働けば、機械の癖も人の癖も分かる。必要とされていると考えてきた。

 

 今日、その考えのほうが間違っていたと知らされた。

 

 正門の脇で社員証を返すと、守衛は受取簿に目を落としたまま言った。

 

「お疲れさんでした」

 

 宏も頭を下げた。何に疲れ、何が終わったのか、声にすれば崩れそうだった。

 

 三月の風が、工場の建物の間を抜けてきた。誕生日まで、あと十日だった。二十九になる前に、二度目の会社を失った。

 

 送迎バスを待つ列から少し離れたところに、長い髪の女が立っていた。眼鏡の奥の目を伏せ、両手で紙袋を抱えている。経理のフロアで見かけたことはあるが、名前は知らない。

 

「真由美ちゃん」

 

 正門から女性社員が駆けてきた。

 

「引き継ぎのことで、聞きたいことがあるんやけど。連絡先、派遣会社に聞いてもええ?」

 

 女は少し困った顔をした。それでも、相手を責めるような顔はしなかった。

 

「かまいません。分かることでしたら」

 

 女性社員が戻っていくと、女は宏を見た。

 

「河村さん、ですよね」

 

 宏は思わず、自分の胸を見た。もう社員証はない。

 

「どうして、名前を」

 

「前に、叱られてはった人を庇わはったでしょう。あのとき、そばにいたんです」

 

 宏はしばらく考えた。班長が若い派遣社員を皆の前に立たせ、機械を止めた責任を一人に負わせようとした日がある。宏は、センサーの不調は前の週から出ていたと言った。庇ったつもりはない。知っていることを言っただけだった。

 

「村上真由美です。経理にいました」

 

 同じ工場で働きながら、二人が名乗り合ったのは、そこを去る日が初めてだった。

 

 バスが来た。列が動き出しても、宏と真由美はすぐには動けなかった。

 

「次、決まってはります?」

 

「何も」

 

「私もです」

 

 それだけ言って、真由美は携帯電話を取り出した。

 

「番号、知らしておいてもらえませんか。同じ日に放り出された人が一人ぐらい分かってたら、少し安心しますから」

 

 宏は番号を告げた。

 

 十日後、その番号へ、五年ぶりの男から電話がかかってくることになる。

 

第一章 五年ぶりの先輩

 

 河原町今出川の喫茶店で、山下康史は窓を背に座っていた。

 

 三十一歳になっても、大学時代と同じように、話を切り出す前から結論を決めている顔をしている。

 

「会社、やらへんか」

 

 宏は水にも手をつけなかった。

 

「久しぶりに会うて、最初がそれですか」

 

「久しぶりやからや。毎月会うてたら、こんな話はでけへん」

 

 山下と最後に会ったのは、宏の勤め先が倒産したときだった。大学の先輩として飯を奢り、困ったら連絡せえと言った。宏は連絡しなかった。派遣で働き始め、暮らせるようになると、助けを求めなかったことまで自分の力だと思いたかった。

 

「何の会社です」

 

「会社の困りごとを片づける会社や」

 

「何でも屋ですか」

 

「何でも屋と言われんようにするのが、俺らの仕事や」

 

 山下は勤めていた産業機器商社を辞めていた。機械を売っても、配線が一本足りない、説明書が読めない、古い装置とつながらないという理由で止まる会社をいくつも見てきた。メーカーは自社製品の外へ手を出さず、工事会社は小さな仕事を後回しにする。

 

「京都には、困ってても困ってると言わへん会社が多い。今のところは間に合うてますのや、と言われて帰ってくる営業ばっかりや。けど、ほんまに間に合うてるとは限らへん」

 

 宏は窓の外を見た。賀茂川と高野川が合わさり、鴨川になるあたりだけ空が広い。見えている対岸も、歩けば遠い。

 

「人は、いるんですか」

 

「おらん。金も、たいしてない」

 

「会社になってへんやないですか」

 

「せやから、おまえを呼んだ」

 

 宏は笑わなかった。

 

「経理のできる人は」

 

「それもおらん」

 

 その言葉で、紙袋を抱いていた女を思い出した。

 

 名前を知ってから、まだ十日しかたっていない。

 

第二章 町家に集まる

 

 山下が借りた事務所は、西陣の路地にある小さな町家だった。

 

 表の格子は古く、奥の台所には新しい配線がむき出しになっている。二階へ上がる階段は急で、踏むたびに違う音がした。

 

「会社を作る前に、家が倒れませんか」

 

 真由美は帳面を開くより先に天井を見た。

 

 宏から電話を受けたとき、彼女は一度断っている。宏自身が仕事の中身を説明できなかったからだ。それでも話だけ聞きに来たのは、工場で見た彼の横顔を覚えていたためだった。

 

「家賃は安い。奥の離れは大家さんが物置にしてはる」

 

 山下が胸を張ると、真由美は初めて笑った。

 

「安いには、安い理由があります」

 

 そこへ、路地に似合わない低いエンジン音が入ってきた。

 

 真っ赤なポルシェが格子の前を通り過ぎ、少し先で止まった。大野佳織は細い路地を歩いて戻ってくると、戸口から中をのぞいた。

 

「康史、あんた、えらいとこで始めるんやな」

 

「車で来る場所やない言うたやろ」

 

「車で来られへん会社が、人の困りごとを解決するん?」

 

 二人は挨拶より先に言い争った。

 

 佳織は神戸の大学を卒業後、外車ディーラーで営業をしていた。客の誕生日だけでなく、妻の好みや会社の決算月まで覚え、三年目にはトップセールスになった。山下の勤め先の役員も顧客の一人だった。

 

 顧客とのトラブルをきっかけに会社を辞めたと、山下は説明した。佳織は訂正しなかった。

 

「ほんで、この人らが社員?」

 

「まだ会社もない」

 

「何しに呼んだん」

 

「金の相談や」

 

「帰るわ」

 

 佳織は本当に戸口まで戻った。真由美が静かに言った。

 

「出していただくお金が、いつ、何に使われて、どうなれば戻るのか。それを決める相談です。貸してくださいという話ではありません」

 

 佳織が振り返った。

 

「あんた、名前は?」

 

「村上真由美です」

 

「経理?」

 

「そのつもりで呼ばれたらしいですけど、引き受けるとは言うてません」

 

 佳織は靴を脱ぎ直した。

 

 四人が初めて同じ部屋にそろった日、会社には、電話も机もなかった。

 

第三章 京都テクノリンク

 

 社名を決めるのに三日かかった。

 

 山下が出す横文字は佳織が古いと言い、佳織の案は真由美が登記しにくいと退けた。宏は黙って、古い柱に沿わせた真新しい通信線を見ていた。

 

「京都テクノリンク、でどうです」

 

「京都を付けるんか」

 

「ここで商売するなら、逃げられへんように付けたらええと思います」

 

 古いものを捨てず、新しいものだけを威張らせず、人と技術をつなぐ。社名は、四人がこれから覚えなければならない仕事そのものになった。

 

 山下が代表、宏が現場、真由美が経理と総務を引き受けた。佳織は出資したが、社員にはならなかった。

 

「毎日来る気はないし、指図される気もない。うちは株で食べていける。ゴルフの予定も詰まってる」

 

「それで、何をしてくれるんです」

 

 宏が尋ねると、佳織は鍵を指で回した。

 

「あんたらが会われへん人に、会わせたげる」

 

 最初の客は、西陣の小さな織物会社だった。八十を越えた主人は、山下の説明を最後まで聞いてから言った。

 

「今のところは間に合うてる」

 

 山下は礼を言って帰ろうとした。宏は、奥の事務員が何度も古い複合機を開け閉めしているのに気づいた。

 

「紙、詰まりますか」

 

「詰まってへん。ちょっと機嫌が悪いだけや」

 

 主人はそう言ったが、請求書を出すたび半日かかっていた。宏が部品を交換し、古い販売管理ソフトから印刷できるよう調整すると、主人は代金を払ったあと、近所の帯屋へ電話をかけた。

 

「若い人が来はるけど、無理に新しいもん買わせへん。いっぺん見てもろたらどうや」

 

 京都テクノリンクの営業は、その一本の電話から始まった。

 

 その主人の紹介で、宏と山下は南区の金属加工会社を訪ねた。

 

 ただし、先方は客になるとは言わなかった。

 

「話、聞くだけやで。仕事頼むかどうかは、また別や」

 

 社長の木崎は六十を少し越えた、小柄な男だった。応接室の机には、三社の見積書が伏せて置かれている。

 

「検査の機械が、日に二、三回止まりよる。メーカーに聞いたら、もう部品がないよって新しいのに替え言う。息子は機械だけやのうて、受注から全部新しせえ言う。あんたらやったら、どっちにする?」

 

 山下は見積書を見せてほしいと言った。

 

 木崎は手を置いたまま動かさなかった。

 

「人の見積もり見んと、考えてみ」

 

 相談ではない。試されているのだと、宏にも分かった。

 

 山下は、機械の停止記録と売上の推移を尋ねた。木崎は答えず、工場を見たかったら勝手に見たらええと言った。

 

 検査機は工場の奥にあった。新しくはないが、手入れはされている。宏は操作する職人のそばに立ち、機械が動く音を聞いた。

 

「いつ止まります?」

 

「決まってへん。機嫌や」

 

 職人はそう言った。

 

 宏は停止時刻を書いた紙を見せてもらった。午前十時過ぎと、午後三時前が多い。その時間になると、別の職人が大きな引き戸を開け、材料を運び込んできた。外気が入り、検査室の薄いビニールカーテンが揺れる。

 

 宏は検査機の横に置かれた温湿度計を見た。針がゆっくり動いている。

 

「機械やないかもしれません」

 

 山下が振り返った。

 

「何や」

 

「材料を入れるとき、外の空気が入ります。温度が変わって、センサーが基準から外れてるんやと思います」

 

「ほな、扉を開けんかったらええ」

 

「材料が入らへんでしょう」

 

「先に全部入れとく」

 

「置く場所がありません」

 

 二人のやり取りを、木崎は少し離れて聞いていた。

 

 山下は工場を見回した。材料は、受注順ではなく納期順に色札を付けられている。それでも事務所から何度も女性社員が降りてきて、職人へ順番を伝えていた。

 

「社長、機械より先に、受注の流れを変えたほうがええです」

 

「息子と同じこと言うんか」

 

「全部新しくする必要はありません。事務所が持ってる納期の変更だけ、工場の画面に出したらええ。材料を運び込む時間をまとめられる。扉を開ける回数が減ったら、機械が止まる回数も減ります」

 

 宏は首を振った。

 

「画面を入れる前に、ビニールカーテンを二重にしましょう。検査機の周りだけなら、今日でもできます」

 

「それでは受注の詰まりは直らへん」

 

「機械は止まらなくなります」

 

「また事務員さんが走る」

 

「最初から全部直そうとしたら、現場がついてきません」

 

 二人は木崎がいることを忘れたように言い合った。

 

「ほな、どっちが先や」

 

 木崎が割って入った。

 

 宏と山下は同時に黙った。

 

 山下が先に答えた。

 

「今日はカーテンです。二週間、停止記録を取る。その間に、事務所と現場が同じ納期表を見る方法を作ります」

 

 宏は続けた。

 

「それで止まらなくなったら、検査機は替えません。止まるなら、初めて見積もりを取ります」

 

「三社とも、新しい機械を売る言うてるで」

 

「うちは機械を売りに来たんやありません」

 

 宏が言うと、山下が横から加えた。

 

「まだ呼ばれてもいませんけど」

 

 木崎は二人の顔を交互に見た。それから、伏せていた見積書を裏返した。どれも、京都テクノリンクが考えた費用の十倍を超えている。

 

「一人は機械ばっかり見て、一人は金と人ばっかり見てる。二人とも相手の言うこと、素直に聞かへん」

 

 褒められていないのかと、宏は思った。

 

 木崎は見積書を束ね、机の端へ押しやった。

 

「けど、あんたら、見かけ以上にホンマもんやな」

 

 その場で注文書は出なかった。

 

 三日後、真由美が町家の電話を取った。木崎からだった。

 

「あの、よう喧嘩する二人、明日空いてるか。まずカーテンから頼みたい」

 

 金額は小さかった。それでも山下は、これまで受け取ったどの注文書より長く、その一枚を見ていた。

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『 棚のない商店街 』 ストーリー 1

 

第一章 命題

 

 その辞令が出たのは、六月の終わりだった。

 

 永島涼(りょう)27歳は、会社の八階にある小さな会議室で、目の前に置かれた一枚の資料を何度も読み返していた。

 

 新規事業開発プロジェクト。

 

 期間は一年。

 

 メンバーは六名。

 

 与えられた命題は、たった一行だった。

 

 地方の商店街を有効に再生すること。

 

 涼は資料から顔を上げた。

 

 窓の向こうには、梅雨の雲が低く垂れている。ビルとビルの隙間から見える空は狭く、雨が降るのか降らないのか、はっきりしない色をしていた。

 

 地方の商店街。

 

 その言葉が、どこか遠いものに感じられた。

 

 自分がこれまで仕事で関わってきたのは、都市部の商業施設やネットサービス、メーカーの商品開発だった。商店街について考えたことがないわけではない。しかし、それはニュースやネットの記事で見る程度の話だった。

 

 シャッター通り。

 

 人口減少。

 

 高齢化。

 

 大型商業施設。

 

 ネット通販。

 

 どれも聞き慣れた言葉だった。

 

 けれど、実際にその場所へ行ったことはない。

 

 資料の下に、小さく実施条件が書かれている。

 

 対象地域は、人口十万人程度の地方都市。

 

 駅から中心市街地へ続く約五百メートルの商店街。

 

 空き店舗率三八パーセント。

 

 事業期間一年。

 

 目標数値は、後日設定。

 

 目標を上回れば事業化を継続し、下回れば原則として終了。

 

 涼はそこまで読んで、もう一度、一行目に目を戻した。

 

 地方の商店街を有効に再生すること。

 

 有効に、という言葉が妙に引っかかった。

 

 再生するだけなら、イベントを開くこともできる。新しい店を誘致することもできる。観光客を呼び込むこともできる。

 

 だが、それが一時的な賑わいではなく、事業として成立するのか。

 

 会社が求めているのは、おそらくそこだった。

 

「永島さん、もう来てたんですね」

 

 声がして、涼は振り向いた。

 

 入口に藤村冴(さや)27歳が立っていた。

 

 一瞬、何も考えられなかった。

 

 冴も同じように立ち止まっている。

 

 卒業してから三年。

 

 最初に入った会社は違った。

 

 その後、冴がこの会社に転職してきた。

 

 会うこともなかった。

 

 それなのに、顔を見た瞬間、涼の中では三年前の時間が現在とほとんど切れ目なくつながった。

 

 大学の講義棟。

 

 夕方の鴨川。

 

 コンビニで買ったコーヒー。

 

 試験前の図書館。

 

 別れた日の、冴の横顔。

 

 涼は資料に視線を戻した。

 

「久しぶり」

 

「……久しぶり」

 

 それだけだった。

 

 冴は涼の向かい側の椅子を引いた。

 

 座ると、資料を手に取った。

 

「商店街、だって」

 

「そうみたい」

 

「永島、こういうの得意だったっけ?」

 

「得意じゃないよ」

 

「そう」

 

 冴は資料を読み始めた。

 

 涼は、彼女が髪を耳にかける仕草を見ないようにした。

 

 昔と同じだった。

 

 そんなことを思った自分が嫌になり、資料の数字を追った。

 

 やがて残りの四人も集まった。

 

 加藤拓也(たくや)、三十二歳。

 

 このプロジェクトのリーダーだった。

 

 井上真一(しんいち)、二十七歳。

 

 データ分析を担当する。

 

 田島剛(つよし)、二十八歳。

 

 営業経験が長く、現場との交渉を任される。

 

 村上志保(しほ)、二十八歳。

 

 マーケティング部門から参加している。

 

 六人が揃ったところで、加藤が資料を閉じた。

 

「とりあえず、会社から与えられた条件はこれだけです」

 

 誰も口を開かなかった。

 

「商店街を再生しろ。でも、方法は自分たちで考えろ。一年以内に数字を出せ。数字が出なければ終わり。かなり乱暴な話です」

 

 田島が笑った。

 

「乱暴すぎません?」

 

「俺もそう思う」

 

「じゃあ、何をすればいいんですか」

 

「それをこれから考える」

 

 加藤はそう言って、資料を一枚ずつ配った。

 

 対象となる商店街の地図だった。

 

 駅から真っすぐ伸びた通りの両側に、細長い店舗が並んでいる。

 

 赤い印がついているのが空き店舗だった。

 

 数えてみると、かなり多い。

 

 涼は地図を眺めながら思った。

 

 これだけ店が閉まっているなら、商店街が寂れているのは当然なのかもしれない。

 

 だが、そのとき井上が言った。

 

「ちょっと変ですね」

 

「何が?」

 

「空き店舗率です」

 

 井上は自分の資料を指で叩いた。

 

「三八パーセントって書いてありますけど、人流データを見ると、商店街を通過する人間自体は、それほど減ってないんです」

 

「通過する?」

 

「駅から住宅地へ向かう人。病院へ行く人。バス停を使う人。学校帰りの高校生。毎日かなり歩いてます」

 

「でも、店には入らない」

 

 志保が言った。

 

 井上は頷いた。

 

「そうです」

 

 涼は地図を見た。

 

 商店街は人がいないわけではない。

 

 人はいる。

 

 ただ、通り過ぎている。

 

「それなら、店を増やせばいいんじゃない?」

 

 田島が言った。

 

「空いてるんだから、テナントを入れる」

 

「簡単に言うなよ」

 

 加藤が笑った。

 

「誰が入る?」

 

「……そこですよね」

 

 田島は黙った。

 

 大型商業施設の中なら、人が集まる場所に店を出せる。

 

 ネットなら店舗そのものがいらない。

 

 この商店街には、店を出す理由がなくなっている。

 

 だから空き店舗が増える。

 

 そして空き店舗が増えるから、さらに人が来なくなる。

 

 堂々巡りだった。

 

「じゃあ、イベントは?」

 

 志保が言った。

 

「週末にマルシェとか。キッチンカーとか。子ども向けのイベントをやって……」

 

「それで一年後に何が残る?」

 

 冴が静かに言った。

 

 志保が彼女を見る。

 

「イベントが成功すれば人は来ると思うけど、イベントのない日に来る理由がないと、商店街の再生にはならない」

 

「……まあ、そうだけど」

 

「それに、毎週イベントをやるのは事業として重い」

 

 冴は地図を見ていた。

 

 涼はその横顔を見ながら、大学時代のことを思い出しそうになった。

 

 冴は昔から、思いつきよりも、その後に何が残るのかを考える人間だった。

 

 だから涼は彼女と付き合っていた頃、何度も自分の考えを修正した。

 

 そして、そのことがいつの間にか二人の距離を広げていった。

 

 今は仕事だ。

 

 それだけだ。

 

 涼はそう自分に言い聞かせた。

 

「一度、現地を見ませんか」

 

 加藤が言った。

 

「資料だけじゃ何も始まらない。来週、全員で行きましょう」

 

 誰も反対しなかった。

 

 その日の夕方、会議が終わった。

 

 涼がエレベーターを待っていると、隣に冴が来た。

 

「永島」

 

「なに?」

 

「さっきの話」

 

「うん」

 

「本気でやる?」

 

 涼は彼女を見た。

 

「会社の仕事だから」

 

「そういう意味じゃない」

 

 冴は少しだけ笑った。

 

「一年しかないよ」

 

「分かってる」

 

「だったら、最初からちゃんと考えたほうがいい」

 

「もちろん」

 

 エレベーターの扉が開いた。

 

 二人は並んで乗った。

 

 閉じる直前、涼は思った。

 

 三年前に終わったと思っていたものが、仕事という思いがけない形で、また目の前に現れている。

 

 それが何を意味するのかは、まだ分からなかった。

 

 ただ一つだけ分かっている。

 

 この一年は、簡単には終わらない。

 

第二章 シャッターの向こう側

 

 現地へ向かったのは、七月の最初の月曜日だった。

 

 駅に降りたとき、空気が東京とは違うと涼は感じた。

 

 気温は高かったが、駅前には大きな商業施設も、タワーマンションもない。

 

 駅前広場から一本の道路が伸び、その先に古いアーケードが見えていた。

 

 商店街だった。

 

「思ったより長いな」

 

 田島が言った。

 

「五百メートルって書いてあった」

 

 井上がスマートフォンを見ながら答える。

 

「数字で見るのと実際に見るのじゃ違うな」

 

 六人は歩き始めた。

 

 最初の百メートルほどは、まだ店が開いていた。

 

 パン屋。

 

 薬局。

 

 食堂。

 

 クリーニング店。

 

 小さな美容室。

 

 そして、その隣にシャッターが下りた店舗があった。

 

 その隣にも。

 

 さらにその隣にも。

 

 涼は歩きながら、地図に印をつけていく。

 

 シャッターの前には、古い店名が残っている。

 

 看板だけが昔のままだ。

 

 店がなくなっても、看板は簡単には外されない。

 

 そこには店が存在していた時間が、そのまま残っているようだった。

 

 角を曲がったところに、一軒の文房具店があった。

 

 ガラス戸の向こうに、ノートや鉛筆が並んでいる。

 

 田島が立ち止まった。

 

「ここ、まだ営業してる」

 

「入ってみます?」

 

 志保が言った。

 

 六人で入るには狭かったが、店主らしい女性が笑顔で迎えた。

 

 話を聞くと、店は四十年以上続いているという。

 

 売上は以前の半分以下。

 

 それでも閉めるつもりはないらしい。

 

「学校が近いから、昔は子どもがいっぱい来たんですけどね」

 

 女性はそう言った。

 

「今はネットで買う人も多いですし、学校指定のものも大型店でまとめて買う人が増えました」

 

 涼は店内を見回した。

 

 文房具は少ない。

 

 しかし、きちんと並んでいる。

 

 ボールペンの種類も、ノートの種類も、鉛筆の種類も、必要なものは揃っている。

 

「商店街に人が戻ったら、どうですか?」

 

 志保が聞いた。

 

「そりゃ、戻ってほしいですよ」

 

 女性は笑った。

 

「でもね、人が来るだけじゃ駄目なんです」

 

 その言葉に、涼は顔を上げた。

 

「買ってもらわないと」

 

 女性は当たり前のように言った。

 

「商売ですから」

 

 店を出たあと、誰もしばらく話さなかった。

 

 商店街の問題は、人がいないことだけではない。

 

 人が来ても、買うものがなければ店は続かない。

 

 買う理由がなければ、人は通り過ぎる。

 

 そして、店がなくなれば、さらに通り過ぎる。

 

 涼は歩きながら、空き店舗の前で立ち止まった。

 

 ガラス越しに見える店内は、何もない。

 

 床だけが残っている。

 

 そのときだった。

 

 向かい側から、高齢の男性が歩いてきた。

 

 商店街をゆっくり歩いている。

 

 手には買い物袋。

 

 男性は途中で立ち止まり、スマートフォンを取り出した。

 

 画面を拡大しながら、何かを探している。

 

 そして、近くにいた田島へ声をかけた。

 

「すみません。百円ショップって、この辺にありますか?」

 

 田島が少し驚いた。

 

「駅の反対側にあります」

 

「そうですか」

 

 男性は困ったように笑った。

 

「ここにはないんですね」

 

 そのまま歩いていく。

 

 涼は男性の背中を見ていた。

 

 商店街には空き店舗がある。

 

 そして、百円ショップを探している人がいる。

 

 その二つが、頭の中で一瞬だけ重なった。

 

 しかし、まだ何も思いつかなかった。

 

 ただ、引っかかった。

 

 何かが。

 

 歩き始めた涼の後ろで、冴もその男性を見ていた。

 

 だが、彼女も何も言わなかった。

 

 その日の調査が終わった。

 

 六人は駅前の小さな喫茶店に入り、それぞれがメモを整理した。

 

 井上がノートパソコンを開く。

 

「人流、思ったよりあります」

 

「やっぱり?」

 

 加藤が聞いた。

 

「時間帯によってかなり差がありますけど、商店街を歩く人は一定数いる。問題は滞在時間です」

 

「短い?」

 

「かなり短いです」

 

 志保が画面を覗き込む。

 

「つまり、歩いてるけど、止まらない」

 

「そういうことです」

 

 田島がコーヒーを飲んだ。

 

「でも、店がないから止まらないんじゃない?」

 

「じゃあ、店があれば止まる?」

 

 冴が聞いた。

 

 田島は答えなかった。

 

 涼も答えを持っていなかった。

 

 窓の外を、さっきの男性が歩いていく。

 

 商店街の方へ戻るのではなく、駅とは反対方向へ向かっている。

 

 おそらく百円ショップへ向かうのだろう。

 

 涼はカップを置いた。

 

「百円ショップって、一つの店に全部の商品がありますよね」

 

 全員が涼を見る。

 

「文房具も、台所用品も、掃除用品も、電池も、収納用品も」

 

「そうだね」

 

 志保が答えた。

 

「でも、あれって便利だけど、探すのが大変なこともある」

 

 冴が涼を見ている。

 

「商品が多すぎるから」

 

 涼は続けた。

 

「欲しいものが決まっていればいい。でも、どこにあるのか分からない人は、店の中をずっと歩く」

 

「それが?」

 

 加藤が聞いた。

 

 涼はまだ、自分でも何を考えているのか分からなかった。

 

 ただ、目の前の空き店舗と、さっきの男性と、百円ショップの広い店内が、頭の中で重なっていた。

 

「……逆にしたらどうかな」

 

「何を?」

 

「百円ショップを」

 

 言ってから、自分でも変なことを言っていると思った。

 

「一つの店に全部の商品を置くんじゃなくて」

 

 涼はテーブルの上の商店街の地図を引き寄せた。

 

 空き店舗を指でなぞる。

 

「文房具は、この店」

 

 次の空き店舗を指す。

 

「台所用品は、ここ」

 

 さらにその先。

 

「掃除用品はここ」

 

 全員が黙った。

 

「つまり……」

 

 涼は地図を見ながら言った。

 

「百円ショップの棚を、商店街に置く」

 

 冴の目が動いた。

 

 加藤が地図を見る。

 

 井上は画面から顔を上げた。

 

 田島は何も言わない。

 

 志保だけが、小さく笑った。

 

「それって……」

 

 涼は自分でもまだ半信半疑だった。

 

「一つの百円ショップを作るんじゃなくて」

 

 商店街そのものを、一つの百円ショップにする。

 

 その言葉が、頭の中で形になり始めていた。

 

第三章 商店街を一つの店にする

 

 最初に口を開いたのは井上だった。

 

「でも、それって、百円ショップを分散させるってことですよね」

 

「そう」

 

「レジは?」

 

「各店舗」

 

「商品管理は?」

 

「それも各店舗」

 

「万引き対策は?」

 

 涼は黙った。

 

 井上が少し笑う。

 

「ですよね」

 

 志保が地図を覗き込んだ。

 

「でも、考え方としては面白い」

 

「面白いだけじゃ事業にはならない」

 

 加藤が言った。

 

 いつもの会議なら、それで話は終わっていたかもしれない。

 

 けれど、この日は誰も地図から目を離さなかった。

 

 空き店舗が並んでいる。

 

 それぞれに、まだ使える空間がある。

 

 ただ、誰もそこへ店を出そうとしない。

 

 涼はペンを取った。

 

「仮に、十店舗空いているとする」

 

 地図に丸をつける。

 

「一つの百円ショップなら、十店舗分の商品を一店舗に詰め込む。でも、この商店街なら、十店舗を一つの店として使える」

 

「商店街全体を売り場にする」

 

 冴が言った。

 

 涼は彼女を見る。

 

「そう」

 

 冴は地図を見たまま続けた。

 

「それなら、商品を探す場所も分かりやすくできる。文房具なら文房具店。台所用品なら台所用品店」

 

「しかも、歩くことになる」

 

 志保が言った。

 

「目的の商品を買ったら、それで帰るんじゃなくて、別の店も見て回れる」

 

「そこが狙いです」

 

 涼の声に、少しだけ熱が入った。

 

「百円ショップの店内を歩き回る代わりに、商店街を歩いてもらう」

 

 加藤が腕を組んだ。

 

「問題は、百円ショップにとって何がメリットなのかだな」

 

 その一言で、会議は現実に戻った。

 

 商店街を助けるためだけなら、会社の新規事業にはならない。

 

 100円の商品を売る企業にも利益が必要だ。

 

 さらに空き店舗を持つ商店主にも利益が必要になる。

 

 客にもメリットがなければならない。

 

 誰か一人だけが得をする仕組みでは続かない。

 

「メーカーを何社か呼ぶのはどうですか?」

 

 冴が言った。

 

「一社だけじゃなくて?」

 

「むしろ一社だけにしないほうがいいと思う」

 

 冴は地図の上に指を置いた。

 

「たとえば文房具店に、A社の商品だけを並べるんじゃなくて、複数社の商品を置く。同じ百円でも、メーカーによって違いがあるでしょう」

 

 井上が頷いた。

 

「比較できる」

 

「そう。今の百円ショップだって、いろんな会社の商品が並んでいる。でも店が大きいから、どこに何があるのか分からなくなることがある」

 

 冴はそこで一度言葉を止めた。

 

「ジャンルごとに分ければ、目的の商品が見つけやすくなる」

 

 涼は思った。

 

 最初のアイデアは自分のものだった。

 

 けれど、今はもう、自分一人のアイデアではない。

 

 冴が別の角度から形を変えている。

 

 大学時代も、そうだった。

 

 自分が思いついたことを冴が整理する。

 

 冴が考えたことに自分が別のものを足す。

 

 それが二人にとって自然だった。

 

 だからこそ、別れたあとも、こうして同じテーブルにつくことが妙に落ち着かなかった。

 

「一社じゃなく、数社に提案する」

 

 加藤が言った。

 

「それぞれの商品を、この商店街で売ってもらう」

 

「ただし、店舗は我々が用意する」

 

 田島が続けた。

 

「空き店舗の持ち主から借りる」

 

「家賃は?」

 

「売上の一部を還元する方式にできないかな」

 

 井上がすぐに計算を始めた。

 

「それなら固定費を抑えられる」

 

「店舗の改装費は?」

 

「最低限でいいんじゃない?」

 

 志保が言った。

 

「百円の商品を売るんだから、豪華な内装は必要ない。むしろ分かりやすさのほうが大事」

 

「看板は必要だろ」

 

 田島が言う。

 

「文房具、台所用品、掃除用品。遠くから見て何の店か分からないと意味がない」

 

 六人の言葉が重なり始めた。

 

 さっきまで一枚の地図だったものが、少しずつ店の形になっていく。

 

 加藤はしばらく黙っていたが、やがて言った。

 

「仮説としてまとめよう」

 

 井上がノートパソコンを開いた。

 

「仮説?」

 

「まだ企画じゃない。仮説だ」

 

 加藤は地図を指した。

 

「空き店舗を活用し、複数の百円ショップ企業の商品をジャンル別に配置する。一つ一つの店舗を独立した売り場として運営する。商店街全体を一つの大型百円ショップのように機能させる」

 

 涼は聞いていた。

 

「客は目的の商品を探して歩く。その途中で別の店舗にも立ち寄る。結果として商店街全体の人流と滞在時間を増やす」

 

 加藤はそこまで言って、涼を見た。

 

「これが本当に成立するなら、面白い」

 

 田島が笑った。

 

「じゃあ、成立するか試してみましょうよ」

 

「その前に、潰すべき問題を全部出す」

 

 加藤の言葉で、井上が画面に箇条書きを始めた。

 

 商品管理。

 

 レジ。

 

 防犯。

 

 物流。

 

 店舗賃貸。

 

 人員。

 

 売上管理。

 

 企業間の契約。

 

 商店街との調整。

 

 税務。

 

 そして一年後の撤退。

 

 画面が文字で埋まっていく。

 

 涼は少し笑った。

 

 アイデアというのは、形になった瞬間から面倒になる。

 

 だが、その面倒を一つずつ解決していかなければ、事業にはならない。

 

 会議は午後八時を過ぎても終わらなかった。

 

 帰るころには、外はすっかり暗くなっていた。

 

 駅へ向かう途中、冴が隣を歩いていた。

 

「昔から変わらないね」

 

「何が?」

 

「思いついたら、すぐ走るところ」

 

 涼は笑った。

 

「冴は昔から止める」

 

「止めてない」

 

「止めてたよ」

 

「確認してただけ」

 

「それを止めるっていうんじゃない?」

 

 冴が笑った。

 

 その笑い方を、涼は知っていた。

 

 知っていることが、少し苦しかった。

 

「でも」

 

 冴が言った。

 

「今回は、ちょっと面白いと思う」

 

「本当に?」

 

「うん」

 

 駅前の信号が赤になった。

 

 二人は立ち止まった。

 

「ちゃんと形にできたらね」

 

 青に変わる。

 

 冴は先に歩き出した。

 

 涼はその背中を見ながら、昔と同じように追いかけそうになった。

 

 だが、足を止めた。

 

 今は仕事だ。

 

 そう思った。

この作品は盗用禁止です。

AIに登録してネット監視していますので、ご注意ください。

 

 

『 一人分の幅 』

 

第七章 三か月目のあと

 

「つづき」

 

の開店から二か月が過ぎたころ、市役所から一枚の紙が届いた。

 

作業台の端へ置いたまま、河合美里はしばらく手をつけなかった。

 

短期活用事業終了後の意向確認。

 

紙には三つの四角が並んでいる。

 

同じ店舗で営業を継続する。

 

市内の別の店舗へ移転する。

 

事業を終了する。

 

どれも、いまの三人には少しずつ違っていた。

 

河合は鉛筆を持ったが、先端はどの四角にも触れなかった。

 

店を続けたくないわけではない。

 

けれど、三人とも別の仕事を持っている。いまは交代で店に立ち、仕事のあとに縫っている。それができているのは、

 

「三か月だけ」

 

という期限があるからでもあった。

 

同じ店舗を借りれば、家賃が増える。

 

別の場所へ移れば、また棚を運び、看板を作り直す。

 

そして

 

「事業を終了する」

 

と書かれた四角を見ると、店だけでなく、ここで始めた仕事まで終わるような気がした。

 

「これ、どれに丸をつける?」

 

河合が作業台へ置く。

 

ミシンを担当している女性が電源を切った。もう一人も、値札を書く手を止める。

 

「同じ店は無理だよね」

 

「家賃だけなら、三人で割れば払えなくはないけど」

 

「電気代もあるし、毎日開ける人がいない」

 

「土日だけ営業したら?」

 

「店の持ち主が、それで貸してくれるかな」

 

三人は紙を囲んだまま動かない。

 

入口から、商店街の音が入ってくる。幸子の店でクレープの鉄板をこする音。自転車のベル。塚口が誰かを呼ぶ声。

 

この二か月で、すっかり聞き慣れた音だった。

 

「事業を終了する、になるのかな」

 

一人が言う。

 

言葉にした途端、店の中が少し広く感じられた。

 

棚も作業台も、まだ同じ場所にある。預かった服も五着残っている。それなのに、三か月目の終わりだけが、入口のすぐ外まで来ているようだった。

 

河合は意向確認の紙を裏返した。

 

「すぐには出さない」

 

三日後、商店街の会合が開かれた。

 

場所は、元洋品店の二階にある小さな集会室である。長机をコの字に並べ、塚口、幸子、種井を含む九人の店主が座っている。

 

市役所からは、産業振興課の職員と冨永が出席した。

 

「つづき」

 

の三人は、入口に近い席へ並んでいる。

 

京子はいない。

 

商店街組合の会合であり、組合員ではない京子が出る理由はなかった。

 

「で、三か月のあと、どうするんだ」

 

開会の挨拶が終わる前に、種井が河合へ尋ねた。

 

「まだ決めていません」

 

「同じ店で続ける気はないのか」

 

「続けたい気持ちはあります。ただ、今と同じ営業日数は難しいです」

 

「三人いるだろ」

 

「三人とも、ほかの仕事があります」

 

「最初からわかっとったことじゃないか」

 

種井の声は怒鳴るほど大きくない。だからこそ、河合たちは言い訳を探せない。

 

「はい」

 

河合は正面から答えた。

 

「わかっていました。でも、実際に店を開けないと、どれだけ時間が要るのかわかっていませんでした」

 

「やってみたら無理だった、と」

 

「今の形のままでは」

 

種井は腕を組む。

 

「じゃあ、また空き店舗に戻るな」

 

長机の反対側で、誰かが小さく息をついた。

 

この事業が始まる前にも、同じ問いが出ていた。

 

三か月後、この店はどうなるのか。

 

冨永は資料を開いたまま、口を挟まなかった。

 

河合たちが自分たちの言葉で話している間に、市役所が代わって説明すれば、続けられない理由まで市が決めることになる。

 

幸子が身体を前へ出した。

 

「店がなくなったら、ここで受けた注文はどうするの」

 

「今の注文は、期間中に全部仕上げます。そのあとは、連絡をもらって三人の作業場所で受けられるようにしたいです」

 

「作業場所って?」

 

「一人の家に、ミシンと材料を置いています」

 

「客が服を持っていく場所はないんでしょう」

 

「はい」

 

「それで、商売になるんですか?」

 

河合は答えられない。

 

産業振興課の職員が資料を見ながら口を開いた。

 

「市内の別の空き店舗をご紹介することは可能です」

 

「別の商店街へ行かせるのか」

 

塚口が低い声で言う。

 

「候補としてです。この店舗は、事業期間終了後、所有者と通常の賃貸契約を結んでいただくことになりますので」

 

「家賃を下げてもらう話はできんのか」

 

「所有者の判断になります」

 

「市は三か月だけ連れてきて、あとは知らんということか」

 

職員の顔が硬くなる。

 

「そういうことではありません。継続を希望される場合は――」

 

「継続したくても、毎日開けられんと言っとるだろ」

 

塚口の隣で、幸子が手を上げた。

 

「叔父さん、怒っても店は開かんよ」

 

「わかっとる」

 

「わかってない顔してる」

 

塚口は黙った。

 

会議の空気が、少しだけ動く。

 

冨永は資料の余白へ、河合が先ほど言った言葉を書いた。

 

客が服を持っていく場所がない。

 

店を持つことより、その方が問題なのかもしれない。

 

「確認してもいいですか」

 

冨永が河合を見る。

 

「三か月後も、作り替える仕事そのものは続けたいんですね」

 

「はい」

 

「必要なのは、毎日開ける店舗ですか。それとも、客から品物を受け取り、相談できる場所ですか」

 

河合は両隣を見る。

 

「相談できる場所です。作業は別でもできます」

 

「どのくらいの頻度なら、三人がそろえますか」

 

「月に二回なら」

 

「一日ずつ?」

 

「土曜日に一日。もう一日は、平日の夕方でも」

 

産業振興課の職員が冨永の方を向く。

 

「短期活用事業は、店舗の営業を前提にしています」

 

「事業期間中は営業しています。今は、終了後の話です」

 

「終了後の支援として、市が場所を用意する制度はありません」

 

「用意する必要があるかは、まだわかりません」

 

冨永は商店街の店主たちを見る。

 

「月に二回、相談を受けられる場所が、この中にありますか」

 

誰もすぐには答えない。

 

塚口の喫茶店なら、奥の席を一つ空けてもらう必要がある。

 

幸子の店では、服を広げる台が足りない。

 

種井の店では、ラーメンの匂いがつく。

 

三人の顔に、同じことが浮かんでいた。

 

場所は欲しい。

 

けれど、どこでもいいわけではない。

 

「月に二回だけ、この店を借りるのは?」

 

幸子が尋ねた。

 

産業振興課の職員が首を横へ振る。

 

「所有者との交渉になりますが、ほかの借り手を募集する以上、月二回だけ押さえるのは難しいと思います」

 

「じゃあ、また空くまで使うとか」

 

「次の募集をする予定です」

 

「次がすぐ決まるの?」

 

「それは、まだ」

 

話は、少しずつ同じところへ戻ってくる。

 

冨永は時計を見なかった。

 

店主の一人が椅子へ深く座り、別の一人が資料をめくる。河合たちは、三つの四角を前にしたまま黙っている。

 

誰も決められない。

 

決められないまま、一時間が過ぎた。

 

「今日は、続けるかやめるかを決める会じゃなかったはずです」

 

冨永が言う。

 

皆の視線が集まる。

 

「終了後に何が必要かを確認する会です。今わかったのは、三人は仕事を続けたいこと、毎日の店舗は持てないこと、月に二回なら相談日を設けられることです」

 

「場所がない」

 

種井が言う。

 

「はい。場所は決まっていません」

 

「それだけか」

 

「今日は、それだけでいいと思います」

 

種井は納得していない顔をしていた。

 

けれど、すぐに答えの出ない話を続けても、誰かが無理を引き受けるだけである。

 

塚口が腕をほどいた。

 

「次はいつだ」

 

「二週間後ではどうでしょう。その間に、市は使える制度や場所がないか調べます。商店街でも、月二回なら何ができるか考えていただく」

 

「三人は?」

 

「終了後に、どのような形で注文を受けるのか整理してください」

 

冨永は最後に、意向確認の紙を見る。

 

「この三つに当てはまらないなら、まだ丸をつけなくて結構です」

 

産業振興課の職員が横を向く。

 

「提出期限があります」

 

「期限まで、あと十日あります」

 

「十日で決まりますか」

 

「決まらなければ、決まっていないと書いて出します」

 

職員は何か言おうとしたが、安易に丸をつけさせるより、その方が正確である。結局、口を閉じた。

 

会合が終わると、店主たちは階段を下りていった。

 

種井は河合たちへ、

 

「やめるなら早く言えよ」

 

とだけ言う。言葉は冷たいが、声には先ほどの硬さがない。

 

幸子は三人の肩を順にたたき、店へ戻った。

 

塚口は冨永をつかまえようとしたが、喫茶店から客に呼ばれ、舌打ちしながら走っていく。

 

夕方、河合たちは

 

「余計なお世話」

 

を訪ねた。

 

京子は客に、赤いスカートへ合わせる上着を説明しているところだった。三人は店の外で待つ。

 

ガラス越しに、京子が客の背中へジャケットを当てるのが見える。少し離れ、前から見て、また近づく。

 

客が帰ったあと、河合たちは中へ入った。

 

「会合、どうだった?」

 

「店は続けられないって言いました」

 

「そう」

 

京子は赤いスカートを畳み、棚へ戻す。

 

「怒られました」

 

「誰に」

 

「種井さんと、塚口さん」

 

「二人とも、店を続けてほしいんだよ」

 

「言い方が、そう聞こえません」

 

「あの二人に、聞こえるように言えっていうのは無理」

 

河合は意向確認の紙を作業台へ置いた。

 

「どれにも丸をつけられなくて」

 

京子は三つの選択肢を読む。

 

「仕事をやめるわけじゃないんでしょう」

 

「はい。月に二回、相談を受けられる場所があれば続けたいです」

 

「月に二回なら、店じゃなくてもいいね」

 

「でも、服を広げられて、鏡があって、話ができるところが必要です」

 

京子は自分の店を見回した。

 

鏡はある。作業台もある。

 

三人の視線が、同じように店内を動く。

 

「ここは駄目」

 

京子が先に言った。

 

河合が目を戻す。

 

「まだ何も言ってません」

 

「顔が言ってた」

 

「月に一回だけでも」

 

「私の店で受けたら、『つづき』が私の仕事になる。客も、どっちに頼んでるのかわからなくなる」

 

三人は黙る。

 

京子は意向確認の紙を裏返した。

 

「でも、月に二回だけ必要なら、一つの場所じゃなくてもいいんじゃない」

 

「どういうことですか」

 

「毎月、違う店を借りる。今月は喫茶店の閉店後。来月は、どこかの空いてる二階。服を広げられる日だけ、場所を作る」

 

「お客さんが迷いませんか」

 

「次の相談日と場所を、前の月に知らせる。ずっとある店を探すから家賃が要るんでしょう」

 

河合は紙の裏へ書き始めた。

 

「商店街の店を順番に借りる……」

 

「貸してくれるかは知らないよ。私が決めることじゃない」

 

「会合で言えばよかった」

 

「私は組合員じゃないから、会合には出ない」

 

「次の会合で、私たちが言います」

 

「自分たちで考えたこととして?」

 

河合の鉛筆が止まる。

 

「長谷部さんに聞いたと言います」

 

「ならいい」

 

京子は意向確認の紙を河合へ返した。

 

翌日、冨永の机に三つの資料が置かれた。

 

市の貸会議室。

 

創業支援施設の共用スペース。

 

空き店舗を一日単位で使う実証事業。

 

どれも、一枚目だけを見ると使えそうだった。

 

貸会議室では商品の販売ができない。共用スペースは相談には使えるが、市役所の反対側にあり、商店街から離れる。実証事業は来年度からである。

 

冨永は資料を机へ並べた。

 

「ないの?」

 

福田が尋ねる。

 

「使えそうで、使えないものが三つある」

 

「役所の資料らしいな」

 

福田は笑った。

 

「商店街の中で、月に二回だけ場所を変えるのはどうだろう」

 

福田が椅子を回す。

 

「急にどうした」

 

「一つの店を借りるから家賃が要る。毎回、空いている場所を借りれば、固定費は減る」

 

「誰が場所を探すの」

 

「商店街と三人」

 

「市は?」

 

「日程と場所を案内する」

 

「それ、制度にある?」

 

「ない」

 

「じゃあ、課長が嫌がる」

 

「だろうな」

 

冨永は三つの資料を重ねた。

 

けれど、思いついただけでは提案にならない。

 

場所を変えるたびに、誰が鍵を開けるのか。

 

品物を運ぶのは誰か。

 

料金を受け取るのは誰か。

 

事故が起きたとき、誰が責任を持つのか。

 

冨永は、机の上に並んだ三枚の紙を重ねた。

 

使える場所を探すだけでは足りない。使える仕組みにしなければならない。

 

その日の午後、

 

「つづき」

 

から一通のメールが届いた。

 

件名は、

 

「終了後の相談日の案」。

 

添付された紙には、月二回、商店街の中で場所を変えながら相談を受ける、と書いてある。

 

冨永は一行目を読み、椅子の背から身体を起こした。

 

自分が午前中に考えたものと、ほぼ同じだった。

 

ただ、添付には、その先がある。

 

場所を貸す店にも客が立ち寄るよう、相談日は各店の営業時間に合わせる。喫茶店なら閉店後ではなく、客席の一角を予約制で使う。服を広げる必要がある場合は、元洋品店の空いている日を借りる。

 

毎回同じ場所にしないことを、不便ではなく、商店街を知ってもらう機会にする。

 

最後に、小さく書き加えてある。

 

長谷部京子さんの助言を受け、三人で作成。

 

冨永はその一行をしばらく見た。

 

名前を消す必要のない紙だった。

 

市の広報ではない。

 

「つづき」

 

が、自分たちの仕事を続けるために作った案である。

 

冨永は資料を印刷し、安田の机へ持っていった。

 

「次の会合に出す前に、相談があります」

 

安田は一枚目を読み、二枚目へ進む。

 

「誰が考えた」

 

「『つづき』の三人です。店外の助言も受けています」

 

「お前も同じことを考えてた顔だな」

 

「はい」

 

「だったら、先に言えばよかっただろ」

 

「運用まで考えられていませんでした」

 

安田は紙を机へ置く。

 

「これは、市がやる事業か?」

 

「市が場所を用意する必要はありません。商店街と三人が合意した日程を、市が案内する。短期活用事業の終了後支援として、半年間だけです」

 

「市が案内すれば、公的な事業に見える」

 

「だから、条件を作ります。一つの店だけを支援するのではなく、短期活用事業を終えた出店者が、商店街との活動を続ける場合に使える仕組みにします」

 

「ほかに対象がいないだろ」

 

「今は、いません」

 

「長谷部という人だけを記事に載せないようにしたお前が、今度は一つの店のために制度を作るのか」

 

冨永は答えるまでに少し時間を置いた。

 

「一つの店で試すことと、一つの店だけを特別扱いすることは違います」

 

「どう違う」

 

「次に同じ条件の出店者が出たとき、同じように使える形にします」

 

安田はもう一度、資料を読む。

 

赤いペンは持っていない。

 

「半年は長い。三か月にしろ」

 

「それでは、相談日が六回しかありません」

 

「試すには六回で十分だ」

 

「結果が出なければ」

 

「やめる。結果が出れば、そのとき考える」

 

冨永はうなずいた。

 

「わかりました」

 

「産業振興課を先に通せ。広報課だけで動くなよ」

 

「はい」

 

安田は資料を返す。

 

「それから、その長谷部という人に、市役所の案を作らせるな」

 

「作らせていません」

 

「ならいい」

 

冨永は紙を受け取り、自分の席へ戻った。

 

福田が椅子を寄せる。

 

「課長、何て?」

 

「三か月なら検討する」

 

「通ったの?」

 

「まだ、入口に立っただけだ」

 

冨永は新しい文書を開いた。

 

短期活用事業終了後の地域連携試行。

 

仮の名称を打ち込み、すぐに消す。

 

名前をつけるのは、最後でいい。

 

今は、誰が鍵を開け、どこへ服を運び、客がどこへ行けばいいのかを書く必要がある。

 

商店街の側にしかわからないことは、まだ多い。

 

市役所の中でしか決められないこともある。

 

冨永は

 

「つづき」

 

へ返信した。

 

次回の会合で検討するため、場所を貸す側の条件を確認してください。

 

市で確認すべき事項は、こちらで整理します。

 

送信してから、宛先を見直す。

 

三人の共有アドレスだけである。

 

長谷部京子の名は入っていない。

 

二人が同じことを考えていたと、互いに知る必要はなかった。

 

この作品は盗用禁止です。

AIに登録してネット監視していますので、ご注意ください。

 

 

『 一人分の幅 』

 

第六章 通れる幅

 

翌日の昼過ぎ、京子は

 

「つづき」

 

の三人から渡された依頼書を、作業台の端に置いていた。

 

引き受ける仕事は、店内の配置、商品の分け方、開店前の最終確認。期間は開店まで。報酬の額も書いてある。

 

内容に問題はない。

 

ただ、問題がないことと、すぐに返事をしていいことは別だった。

 

京子は壁のカレンダーを見上げた。丸をつけた納品日が二つあり、週末には、以前イヤリングを買った客が友人を連れてくることになっている。店を留守にできる時間を鉛筆で囲み、その横に

 

「つづき」

 

と書き込む。

 

作業台の向こうで、若い客が鏡にイヤリングを映していた。

 

淡い水色のシャツに、白い樹脂の大きな輪を合わせている。京子は革紐を切る手を止め、鏡の中の客を見る。

 

「そっちは、たぶん今日の服にしか合わないよ」

 

客が振り返った。

 

「また始まった」

 

「聞かれたから答えたの」

 

「まだ聞いてないけど」

 

「顔が聞いてた」

 

客は笑いながらイヤリングを戻し、その隣の細い銀色を取る。京子はそれを見届けてから、依頼書の余白へ小さく丸をつけた。

 

午後四時二十分に店を閉め、堀川西商店街へ向かう。

 

店先に出した黒板には、戻る時刻を五時半と書いてある。昨日までなら一時間と書いたところだが、今日は少し余裕を見た。人の店を急がせないためには、自分の店にも無理をさせない方がいい。

 

元洋品店の入口は開け放たれている。

 

京子が中をのぞくと、河合美里が床にしゃがみ、青いテープを貼っていた。壁際には、古いシャツから作った鞄が五つ並んでいる。奥では、ほかの二人が組み立て式の棚を箱から出しているところだった。

 

「返事、持ってきた」

 

河合が立ち上がる。膝に細かな埃がついている。

 

「どうでしたか」

 

「この内容なら引き受けます。ただし、今日から数えて、店に来られるのは四回。あとは写真か電話で確認する」

 

「四回も来てもらえるんですか」

 

「四回しか、だよ」

 

喜びかけた河合の顔が、仕事の顔に戻る。

 

「わかりました」

 

京子は署名した依頼書を渡し、鞄を壁際に置いた。床に貼られた青い線を目で追う。入口近くに商品台が二つ、中央に可動式の作業台、その奥に試着用の鏡とカーテン。昨日話した内容が、ほぼそのまま床へ移されている。

 

「棚、立ててみようか」

 

三人が箱を囲む。

 

京子は説明書を受け取り、部品の番号を確かめた。似た長さの支柱が二種類ある。一人が手にした短い方を、声をかける前に長い方と交換する。

 

急かさなくても、手を出しすぎなくても、棚は少しずつ形になっていく。

 

棚が立つと、京子は中央の作業台を青い線の上へ運ばせた。入口から見ると、壁際の商品と作業している人の両方が目に入る。店らしい形が、ようやく床の上に立ち上がってきた。

 

「鏡、もう少し奥」

 

京子は入口の脇へ移り、全体を見ている。

 

「カーテンを閉めたとき、外から足元が見えない位置にしたい。壁から少し離して」

 

河合たちが鏡を動かす。

 

通りから吹き込んだ風が、奥のカーテンを膨らませた。布の裾が棚の角に引っかかり、斜めに止まる。

 

京子は近づき、引っかかった布を外した。

 

「棚を五センチだけ右へ」

 

そのとき、入口の外に人影が重なった。

 

冨永と、産業振興課の若い職員が立っている。職員は筒状に丸めた書類を抱え、店の中を見回していた。

 

「こんにちは」

 

冨永が先に頭を下げる。

 

河合が時計を見る。四時五十分。二人が来る予定は五時だった。

 

「すみません、まだ途中で」

 

「早く着いただけです。続けてください」

 

冨永は中へ入らず、入口の脇へ寄る。産業振興課の職員も隣に並んだものの、床の青い線を見つけると、丸めた書類を開き始めた。

 

「これ、中央は作業台ですか」

 

「動かせるようにしています」

 

河合が答える。

 

職員は図面と店内を交互に見る。その視線が、奥の鏡とカーテンで止まった。

 

「ここ、通路になりますよね」

 

京子もそちらを見る。

 

「裏の流しと分電盤へ行く通路です」

 

「管理上、入口から奥まで九十センチは空けてくださいと言われています」

 

職員が図面の一点を指した。カーテンを閉めると、棚との間は人一人が横向きに通れる程度しかない。

 

河合が青い線の内側へ靴を置き、幅を確かめようとする。

 

「九十センチ……ないですね」

 

「先にお伝えした資料に入っていませんでしたか」

 

職員は自分の書類をめくる。二枚、三枚と戻り、最初のページまで来ても、通路幅を示す記載は見つからない。

 

店の奥で、棚を押さえていた一人が手を離した。

 

「この棚、ここに合わせて買ったんですけど」

 

声は小さい。誰を責めているわけでもないため、かえって部屋の中央に残る。

 

京子は鏡の前に立ち、入口までの距離を測るように目を細めた。

 

「私が見落とした」

 

河合が京子を見る。

 

「でも、資料には――」

 

「通れるかどうかは見ておくべきだった。店の形ばかり見て、奥まで人が行くことを考えてなかった」

 

京子はカーテンを端へ寄せ、棚の側面に手を置く。動かせる場所を探しているが、すぐには答えが出ない。

 

産業振興課の職員が腕時計へ目を落とした。

 

「できれば今日、配置だけでも決めていただけると――」

 

「棚の納品は、これですべてですか」

 

冨永の声が、その先へ重なった。

 

質問を向けられた河合は、入口側の箱を数える。

 

「小さい棚が、あと二つ届きます。明後日です」

 

「でしたら、今日は決められませんね」

 

冨永は職員が持つ資料に視線を落とす。

 

「九十センチの条件が先方へ渡っていなかったことも、こちらで確認した方がいいと思います。明後日、棚がそろってからでは間に合いませんか」

 

職員はしばらく考え、日程表を指でたどる。

 

「金曜日の午後なら、私も来られます」

 

「そのときに確認しましょう」

 

冨永はそう言っただけで、棚にも鏡にも触れない。

 

京子は棚の横に立ったまま、入口の方を見た。冨永はすでに職員と日程を確かめており、こちらへ答えを求めてはいない。

 

見落としたことは消えない。

 

けれど、今ここで別の間違いを重ねる必要もない。

 

京子は腕を組み、もう一度、店の奥から入口を見た。

 

「今日は棚を固定しないで。全部そろってから変える」

 

三人の手が、ゆっくりと棚から離れる。

 

五時を過ぎるころ、冨永は店内の隅に置かれた丸椅子へ腰を下ろし、河合から開店案内の内容を聞いていた。

 

京子は少し離れた壁際で、棚と作業台の寸法を手帳へ書き直している。

 

「着られなくなった服を、新しい品物に作り替えます」

 

河合の説明を聞きながら、冨永は原稿の控えに線を引く。

 

「持ち込みの相談は無料で、よろしいですか」

 

「無料?」

 

奥から京子の声がした。

 

冨永が顔を上げる。

 

京子は手帳を持ったまま、河合を見ている。

 

「持ってきた服を見て、できるかどうか話すだけなら無料?」

 

河合の隣にいた女性が、わずかに首を傾けた。

 

「状態を見るのに時間がかかるものは、相談料をもらう話じゃなかった?」

 

「あ……そうだった」

 

河合は鞄からノートを出し、決めた料金を探す。ページの中ほどに、素材や傷みの確認が必要な場合は有料、と書いてある。

 

冨永は自分の控えを見た。

 

そこにはすでに、

 

「持ち込み相談無料」

 

と入っている。

 

「私が、話を短くしました」

 

冨永はその一行に二本の線を引く。

 

「無料と書いてしまうと、全部そうだと思われますね」

 

「私たちの説明も曖昧でした」

 

「掲載前ですから、直せます」

 

冨永は書き直した文を河合の前へ置いた。

 

「服の状態を拝見し、作り替えの方法をご案内します。料金は内容により異なります――これならどうでしょう」

 

三人が紙を囲む。

 

京子は口を挟まず、少し離れた場所からその背中を見ている。冨永は一行を消し、河合に尋ね、また書いた。

 

その手が止まったところで、河合が顔を上げた。

 

「これでお願いします」

 

「では、この文で確認を回します」

 

冨永が控えを鞄へ入れる。

 

京子も手帳を閉じた。

 

文章は決まった。

 

棚の位置はまだ決まらない。カーテンは半分開いたまま、床には青い線が残り、組み立てた棚は壁から離れて立っている。

 

それでも、先ほどまでの焦りは薄くなっていた。

 

「金曜日までに、配置を二つ考えておく」

 

京子が河合へ言う。

 

「二つですか」

 

「一つしかないと、それが駄目だったときに全員で困るから」

 

「手伝えることはありますか」

 

「棚の正確な幅を測って、今夜送って。慌てなくていいから、左右を間違えないで」

 

河合はすぐに巻尺を取りに向かった。

 

入口では、産業振興課の職員が冨永に小声で話しかけている。

 

「今日、配置まで決めなくてよかったんでしょうか」

 

冨永は、奥で巻尺を伸ばしている三人を見る。

 

「決めても、明後日また変わったと思います」

 

職員も店の中を見る。河合たちは棚を測り、数字を声に出して確かめている。その横で京子が手帳を開き直していた。

 

「そうですね」

 

外へ出た冨永は、商店街の時計を見上げた。五時二十七分。

 

京子の店の黒板には、五時半に戻ると書いてあるはずだ。彼はそれを知らない。

 

京子は鞄を肩にかけ、河合から送られてきた寸法が正しいことを画面で確かめる。

 

「じゃあ、今日はここまで」

 

店を出ようとして、入口の青い線をまたぐ。その先に冨永がいるため、片方がよけなければ通れない。

 

冨永が外側へ一歩ずれた。

 

京子は足を止めず、その横を通り抜ける。

 

「原稿、危なかったですね」

 

「棚も」

 

「そうですね」

 

二人は別の方向へ歩き出した。

 

京子は自分の店へ戻り、冨永は市役所へ帰る。

 

まだ何も、うまく終わったわけではない。

 

ただ、誰かを急がせたために壊れたものもなかった。

 

「つづき」

 

が開店して三週間ほどたった日曜日、冨永は綾子と潤を連れて商店街へ来た。

 

仕事ではない。潤が、父親の書いた記事に出てくる店を見たいと言ったのである。

 

三人が

 

「余計なお世話」

 

へ入ると、京子は潤が手にした黄色いボタンを見て、何に使うのか尋ねた。

 

「まだ決めてない」

 

「決めてから選んだ方がいいよ」

 

「これが先じゃ駄目?」

 

京子は少し考えた。

 

「駄目じゃない。面倒になるだけ」

 

「じゃあ、これに合うものを作る」

 

「それもありだね」

 

綾子は二人のやり取りを聞きながら、深い緑色のイヤリングを耳元へ合わせた。

 

「それ、今日の服には重いですよ」

 

「お店の人なのに、高い方を勧めないんですね」

 

「高い方が似合う人には、高い方を勧めます」

 

綾子は笑った。

 

冨永が妻と話す声は、仕事中より少し低かった。潤へ返す言葉には、市役所で見せる慎重さがない。京子は、仕事場とは違う時間の中にいる冨永を見ていた。

 

よかった、と思う。

 

何がよかったのかまで考えると、店の中に、自分の立つ場所がなくなるような気がした。

 

帰り道、綾子が言った。

 

「長谷部さん、面白い人ね」

 

「そうか」

 

「仕事、楽しそうね」

 

「いろいろ考えることがあるからな」

 

「悪いことじゃないよ」

 

綾子は潤の手にある黄色いボタンを見た。

 

「それ、なくさないでよ」

 

冨永は、京子が誰かの決定を待つとき、右手の指先を作業台へ置くことまで知っている。

 

人を見ずに、そこまで分かるものなのだろうか。