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連載 小説 『 京都テクノリンク 』 連載 2回目
第四章 見えていても見えない
仕事は、故障した機械より、故障していない人の間に多くあった。
老舗菓子店では、注文を受ける娘と帳面を守る父親が口をきかなかった。町工場では、新しい測定器を入れた息子と、古い旋盤を扱う職人が互いを信用していなかった。
宏はまず話を聞いた。山下は答えを急いだ。真由美は、請求できない親切を帳簿の余白へ書き留めた。
「無料でやった仕事が、今月だけで十四件あります」
「そのうち客になる」
「いつです?」
「京都の商売に、いつはない」
「支払日には、あります」
真由美に言われ、山下は黙った。
佳織は週に一度ほど町家へ現れた。ゴルフ帰りの服で来る日もあれば、ポルシェを遠くの駐車場に置き、歩いてくる日もある。
「康史、あんたは何も知らんな」
「何がや」
「断られた思うて帰ってる。京都で『また何ぞありましたら』言われたら、次に何を持っていくか考えるんや。ほんまに来るな言う人は、もっと丁寧に褒めはる」
佳織は経営者を三人紹介した。一人は会ってくれず、一人は茶だけ出し、一人が仕事をくれた。その一人から、さらに二社につながった。
春、賀茂川の土手に桜が咲いた。宏は御薗橋から下流を眺めた。川幅は広く、向こう岸を歩く人の顔は分からない。見えていても、見えていない。
工場にいたころの真由美も、そうだったのだと思う。
仕事のない日曜日、宏の携帯電話に真由美から短い連絡が入った。
〈賀茂川、歩きませんか〉
二人は北大路橋で待ち合わせ、上流へ向かった。四月の終わり、桜はほとんど散っていた。枝に残った花より、土手を薄桃色にしている花びらのほうが多い。川辺では学生が楽器を鳴らし、犬を連れた人が立ち話をしている。
「満開のときに来たかったですか」
宏が尋ねると、真由美は首を振った。
「散ってからのほうが、歩く人が少ないでしょう。桜もゆっくり見られます」
真由美は、名所を見たいのではなく、名所が普段の風景へ戻るところを見たかった。
御薗橋まで来ると、川幅が広がった。上賀茂神社へ向かう人が、向こう岸に小さく見える。
「京都に住んでる人は、川の向こうに知ってる人がいても、見えてへん顔をすることがあるんやって」
「誰に聞いたんです」
「大学のころ、下宿してた家の大家さんです。見えてても見えてまへん。それぐらいの川幅が、京都ではちょうどええんや、て」
「河村さんも、見えてへん顔をするんですか」
「見えてたら、します」
「今、うちは見えてます?」
宏は真由美を見た。
「見えてます」
真由美はそれ以上尋ねず、向こう岸へ目を戻した。
宏は西側の河原を指した。
「上賀茂神社近くにある御薗橋の西の河原から、自転車で河原町三条まで、いっぺんもペダルをこがずに行けるの知らんやろ?」
真由美は、宏の指した先から下流を眺めた。
「知らんやろ、て。急に得意そうですね」
「ほんまに行けるんです。京都は北が高うて南が低いから、川沿いを下ったら分かります」
「途中で止まったら?」
「止まりません」
「信号は?」
「河原の道の話です」
「河原町三条へ上がるときは?」
宏は黙った。真由美が笑った。
「そこは、こがなあかんのでしょう」
「ほな、今度、確かめますか」
言ってから、宏は自分が次の約束をしていることに気づいた。
「かまいません。河村さんが一回でもこいだら、お昼ごはん奢ってください」
「村上さんがブレーキかけても、僕のせいにせんといてくださいよ」
二週間後、二人は御薗橋の西詰の河原にいた。レンタサイクル店で借りた自転車を並べていたのだ。
ペダルから足を離すと、初めは止まりそうにゆっくり進んだ。けれど、賀茂川に沿って南へ向かううち、自転車は春の風を受けて速度を増した。北山大橋、北大路橋、出雲路橋。橋をくぐるたび、川幅と町の表情が変わっていく。
真由美は途中で何度も笑った。
「ほんまや。こいでへんのに、京都が向こうから来ます」
出町で二つの川が一つになり、賀茂川は鴨川と呼ばれるようになった。名前が変わっても、水は同じ速さで流れている。
三条近くで河原の道を離れたとき、宏は短い坂を上るために、とうとうペダルを踏んだ。
「はい、一回」
後ろから真由美の声がした。
「ここは河原町三条までに入れません」
「入ります。約束は約束です」
二人は三条大橋の近くに自転車を止め、木屋町の小さな店で昼を食べた。宏の奢りになった。
真由美は、向かいの席で言った。
「京都のこと、一つ知りました」
「下り坂やいうことですか」
「同じ川でも、途中で名前が変わること。こがんでも進む道があること。それから、河村さんは負けても理屈を言わはること」
最後の一つはいりません、と宏は言った。
けれど、会社を始めてから初めて、負けても悪くないと思っていた。
工場を出た日から、二人は時折会っていた。初めは仕事の相談だった。やがて、用事がなくても河原を歩き、季節の行事を見に行くようになった。どちらも、それを約束とは呼ばなかった。
第五章 言葉の奥
京都テクノリンクが仕事を始めて半年ほどたったころ、山下は伏見の会社から戻るなり、上機嫌で鞄を置いた。
「次の入れ替え、うちに決まりそうや」
古い受発注システムを更新する大きな仕事だった。真由美が顔を上げた。
「注文書、いただいたんですか」
「まだやけど、『よう勉強してはりますなぁ。若い人の新しい考えは、うちらには思いもつきまへん』言うてくれはった」
佳織が飲みかけの珈琲を置いた。
「それ、褒められたと思てる?」
「ほかに何がある」
「自分とこのやり方も知らん若造が、教科書どおりの話をしに来た、いうことかもしれへん」
「何で、そんなひねくれた取り方するんや」
「京都で営業してたら、言葉だけ持って帰ったらあかんのや。言うた人の顔と、言わはるまでの間も持って帰らな」
翌週、先方から届いたのは断りの手紙だった。文面には、山下の提案を褒める言葉が並び、最後に〈弊社にはいささか先進的に過ぎます〉とあった。
山下は紙を机へ放った。
「断るなら、最初から断ったらええ」
「最初から断ってはったんや」
佳織は平然と言った。
「分からへんように断るのが悪いんやない。分かる人にだけ分かるように言うて、相手の顔も立てる。それで長いこと、この狭い街で一緒に暮らしてきたんや」
「分からへん人間は、顔も立たへん」
「そやから、あんたは勉強せなあかん」
佳織は、翌日、四人を古い知り合いの家へ連れていった。表具店を営んできた八十代の夫婦である。仕事の依頼ではなく、京都の言葉を教えてもらうためだった。
通された座敷で、隣家からピアノの音が聞こえてきた。同じところを何度も弾き直している。
女主人はお茶を置きながら、隣との境の壁へ目をやった。
「お隣のお嬢さん、ピアノお上手どすなぁ。毎日よう練習してはること」
宏は褒めているのだと思った。真由美は湯呑みを持ったまま、返事をしなかった。
佳織が尋ねた。
「ほんまに、お上手なんですか」
「さあ、うちには音楽のことは分かりまへん。ただ、よう聞こえます」
女主人は穏やかに笑った。
隣の家が聞けば、翌日から練習の時間を早めるかもしれない。うるさいと言えば角が立つ。上手だと言えば、聞こえていることだけは伝わる。
「『元気なお子さんどすなぁ』は、走り回って騒がしい。『ええ時計してはりますなぁ』は、長居せんと時間見て帰ってほしい。そういうことですか」
山下が覚えた答えを並べると、主人が笑った。
「そない簡単やったら、京都の人間かて苦労しまへん」
「違うんですか」
「ほんまに元気なお子さんを褒めてることもあります。ほんまに時計がええと思てることもある。誰が、誰に、どんな顔で言うたかや。言葉だけ裏返しても、本音にはなりまへん」
女主人が続けた。
「『今のところは間に合うてますのや』かて、いりませんいうときもあれば、今のところは、いうところを聞いてほしいときもあります。困ってることに気ぃついて、それでも押し売りせん人かどうか、見てることもあります」
宏は、最初の織物会社を思い出した。複合機を何度も開け閉めしていた事務員に気づかなければ、主人の言葉どおり帰っていた。
「建前は、嘘なんでしょうか」
真由美が尋ねた。
「嘘やったら、もっと楽どすやろなぁ」
女主人は少し考えた。
「本音をそのまま出したら、一緒におられへんこともあります。建前いうのは、相手と明日も顔を合わせるための包み紙みたいなもんです。ただ、包みすぎたら、中に何があるのか自分でも分からんようになります」
帰り道、山下は口数が少なかった。
「勉強になったやろ」
佳織が言う。
「『勉強になった』言うたら、嫌味に聞こえるやろ」
「今のは、ただの嫌味や」
「やっぱり分からん」
「分からんままでええ。分かったつもりになる人よりは、信用できる」
山下は言い返そうとして、やめた。佳織の顔が、いつものように笑っていなかったからだ。
それから京都テクノリンクでは、商談の報告書に、先方が言った言葉だけでなく、誰が黙っていたか、どこで話が途切れたかを書くようになった。
宏は機械の音を聞いた。真由美は帳簿の数字が急に変わるところを見た。山下はようやく、言葉が途切れたあとの沈黙を待つことを覚えた。
佳織だけは、前から知っていた。
人がいちばん言いたいことは、口から出た言葉の中にあるとは限らないことを。
