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   『 京都テクノリンク 』    連載 1 回目      2026/07/16

 

プロローグ 明日のない帰り道

 

 社員証を首から外した瞬間、河村宏は、自分がもうこの工場の人間ではないのだと知った。

 

 名前と顔写真の入った一枚のカード。五年間、正門を通るたびに機械へかざしてきた。反応が鈍い日は角度を変え、緑色のランプがつくまで待った。今朝も同じように入った。帰りには、返さなければならない。

 

 紐を指に巻いたまま、宏はしばらく社員証を見つめた。

 

 五年間は、こんなに軽かったのか。

 

 更衣室では、金属の扉が次々に閉まっている。作業着を脱ぎ、私物を紙袋へ入れる。替えの靴下、歯ブラシ、油の染みた手帳。五年分の自分は、紙袋一つに収まった。

 

 大学を出て入った精密機器メーカーは二年で倒産した。あのとき宏は、会社がなくなるということを一度覚えた。それでも、派遣先で五年働けば、機械の癖も人の癖も分かる。必要とされていると考えてきた。

 

 今日、その考えのほうが間違っていたと知らされた。

 

 正門の脇で社員証を返すと、守衛は受取簿に目を落としたまま言った。

 

「お疲れさんでした」

 

 宏も頭を下げた。何に疲れ、何が終わったのか、声にすれば崩れそうだった。

 

 三月の風が、工場の建物の間を抜けてきた。誕生日まで、あと十日だった。二十九になる前に、二度目の会社を失った。

 

 送迎バスを待つ列から少し離れたところに、長い髪の女が立っていた。眼鏡の奥の目を伏せ、両手で紙袋を抱えている。経理のフロアで見かけたことはあるが、名前は知らない。

 

「真由美ちゃん」

 

 正門から女性社員が駆けてきた。

 

「引き継ぎのことで、聞きたいことがあるんやけど。連絡先、派遣会社に聞いてもええ?」

 

 女は少し困った顔をした。それでも、相手を責めるような顔はしなかった。

 

「かまいません。分かることでしたら」

 

 女性社員が戻っていくと、女は宏を見た。

 

「河村さん、ですよね」

 

 宏は思わず、自分の胸を見た。もう社員証はない。

 

「どうして、名前を」

 

「前に、叱られてはった人を庇わはったでしょう。あのとき、そばにいたんです」

 

 宏はしばらく考えた。班長が若い派遣社員を皆の前に立たせ、機械を止めた責任を一人に負わせようとした日がある。宏は、センサーの不調は前の週から出ていたと言った。庇ったつもりはない。知っていることを言っただけだった。

 

「村上真由美です。経理にいました」

 

 同じ工場で働きながら、二人が名乗り合ったのは、そこを去る日が初めてだった。

 

 バスが来た。列が動き出しても、宏と真由美はすぐには動けなかった。

 

「次、決まってはります?」

 

「何も」

 

「私もです」

 

 それだけ言って、真由美は携帯電話を取り出した。

 

「番号、知らしておいてもらえませんか。同じ日に放り出された人が一人ぐらい分かってたら、少し安心しますから」

 

 宏は番号を告げた。

 

 十日後、その番号へ、五年ぶりの男から電話がかかってくることになる。

 

第一章 五年ぶりの先輩

 

 河原町今出川の喫茶店で、山下康史は窓を背に座っていた。

 

 三十一歳になっても、大学時代と同じように、話を切り出す前から結論を決めている顔をしている。

 

「会社、やらへんか」

 

 宏は水にも手をつけなかった。

 

「久しぶりに会うて、最初がそれですか」

 

「久しぶりやからや。毎月会うてたら、こんな話はでけへん」

 

 山下と最後に会ったのは、宏の勤め先が倒産したときだった。大学の先輩として飯を奢り、困ったら連絡せえと言った。宏は連絡しなかった。派遣で働き始め、暮らせるようになると、助けを求めなかったことまで自分の力だと思いたかった。

 

「何の会社です」

 

「会社の困りごとを片づける会社や」

 

「何でも屋ですか」

 

「何でも屋と言われんようにするのが、俺らの仕事や」

 

 山下は勤めていた産業機器商社を辞めていた。機械を売っても、配線が一本足りない、説明書が読めない、古い装置とつながらないという理由で止まる会社をいくつも見てきた。メーカーは自社製品の外へ手を出さず、工事会社は小さな仕事を後回しにする。

 

「京都には、困ってても困ってると言わへん会社が多い。今のところは間に合うてますのや、と言われて帰ってくる営業ばっかりや。けど、ほんまに間に合うてるとは限らへん」

 

 宏は窓の外を見た。賀茂川と高野川が合わさり、鴨川になるあたりだけ空が広い。見えている対岸も、歩けば遠い。

 

「人は、いるんですか」

 

「おらん。金も、たいしてない」

 

「会社になってへんやないですか」

 

「せやから、おまえを呼んだ」

 

 宏は笑わなかった。

 

「経理のできる人は」

 

「それもおらん」

 

 その言葉で、紙袋を抱いていた女を思い出した。

 

 名前を知ってから、まだ十日しかたっていない。

 

第二章 町家に集まる

 

 山下が借りた事務所は、西陣の路地にある小さな町家だった。

 

 表の格子は古く、奥の台所には新しい配線がむき出しになっている。二階へ上がる階段は急で、踏むたびに違う音がした。

 

「会社を作る前に、家が倒れませんか」

 

 真由美は帳面を開くより先に天井を見た。

 

 宏から電話を受けたとき、彼女は一度断っている。宏自身が仕事の中身を説明できなかったからだ。それでも話だけ聞きに来たのは、工場で見た彼の横顔を覚えていたためだった。

 

「家賃は安い。奥の離れは大家さんが物置にしてはる」

 

 山下が胸を張ると、真由美は初めて笑った。

 

「安いには、安い理由があります」

 

 そこへ、路地に似合わない低いエンジン音が入ってきた。

 

 真っ赤なポルシェが格子の前を通り過ぎ、少し先で止まった。大野佳織は細い路地を歩いて戻ってくると、戸口から中をのぞいた。

 

「康史、あんた、えらいとこで始めるんやな」

 

「車で来る場所やない言うたやろ」

 

「車で来られへん会社が、人の困りごとを解決するん?」

 

 二人は挨拶より先に言い争った。

 

 佳織は神戸の大学を卒業後、外車ディーラーで営業をしていた。客の誕生日だけでなく、妻の好みや会社の決算月まで覚え、三年目にはトップセールスになった。山下の勤め先の役員も顧客の一人だった。

 

 顧客とのトラブルをきっかけに会社を辞めたと、山下は説明した。佳織は訂正しなかった。

 

「ほんで、この人らが社員?」

 

「まだ会社もない」

 

「何しに呼んだん」

 

「金の相談や」

 

「帰るわ」

 

 佳織は本当に戸口まで戻った。真由美が静かに言った。

 

「出していただくお金が、いつ、何に使われて、どうなれば戻るのか。それを決める相談です。貸してくださいという話ではありません」

 

 佳織が振り返った。

 

「あんた、名前は?」

 

「村上真由美です」

 

「経理?」

 

「そのつもりで呼ばれたらしいですけど、引き受けるとは言うてません」

 

 佳織は靴を脱ぎ直した。

 

 四人が初めて同じ部屋にそろった日、会社には、電話も机もなかった。

 

第三章 京都テクノリンク

 

 社名を決めるのに三日かかった。

 

 山下が出す横文字は佳織が古いと言い、佳織の案は真由美が登記しにくいと退けた。宏は黙って、古い柱に沿わせた真新しい通信線を見ていた。

 

「京都テクノリンク、でどうです」

 

「京都を付けるんか」

 

「ここで商売するなら、逃げられへんように付けたらええと思います」

 

 古いものを捨てず、新しいものだけを威張らせず、人と技術をつなぐ。社名は、四人がこれから覚えなければならない仕事そのものになった。

 

 山下が代表、宏が現場、真由美が経理と総務を引き受けた。佳織は出資したが、社員にはならなかった。

 

「毎日来る気はないし、指図される気もない。うちは株で食べていける。ゴルフの予定も詰まってる」

 

「それで、何をしてくれるんです」

 

 宏が尋ねると、佳織は鍵を指で回した。

 

「あんたらが会われへん人に、会わせたげる」

 

 最初の客は、西陣の小さな織物会社だった。八十を越えた主人は、山下の説明を最後まで聞いてから言った。

 

「今のところは間に合うてる」

 

 山下は礼を言って帰ろうとした。宏は、奥の事務員が何度も古い複合機を開け閉めしているのに気づいた。

 

「紙、詰まりますか」

 

「詰まってへん。ちょっと機嫌が悪いだけや」

 

 主人はそう言ったが、請求書を出すたび半日かかっていた。宏が部品を交換し、古い販売管理ソフトから印刷できるよう調整すると、主人は代金を払ったあと、近所の帯屋へ電話をかけた。

 

「若い人が来はるけど、無理に新しいもん買わせへん。いっぺん見てもろたらどうや」

 

 京都テクノリンクの営業は、その一本の電話から始まった。

 

 その主人の紹介で、宏と山下は南区の金属加工会社を訪ねた。

 

 ただし、先方は客になるとは言わなかった。

 

「話、聞くだけやで。仕事頼むかどうかは、また別や」

 

 社長の木崎は六十を少し越えた、小柄な男だった。応接室の机には、三社の見積書が伏せて置かれている。

 

「検査の機械が、日に二、三回止まりよる。メーカーに聞いたら、もう部品がないよって新しいのに替え言う。息子は機械だけやのうて、受注から全部新しせえ言う。あんたらやったら、どっちにする?」

 

 山下は見積書を見せてほしいと言った。

 

 木崎は手を置いたまま動かさなかった。

 

「人の見積もり見んと、考えてみ」

 

 相談ではない。試されているのだと、宏にも分かった。

 

 山下は、機械の停止記録と売上の推移を尋ねた。木崎は答えず、工場を見たかったら勝手に見たらええと言った。

 

 検査機は工場の奥にあった。新しくはないが、手入れはされている。宏は操作する職人のそばに立ち、機械が動く音を聞いた。

 

「いつ止まります?」

 

「決まってへん。機嫌や」

 

 職人はそう言った。

 

 宏は停止時刻を書いた紙を見せてもらった。午前十時過ぎと、午後三時前が多い。その時間になると、別の職人が大きな引き戸を開け、材料を運び込んできた。外気が入り、検査室の薄いビニールカーテンが揺れる。

 

 宏は検査機の横に置かれた温湿度計を見た。針がゆっくり動いている。

 

「機械やないかもしれません」

 

 山下が振り返った。

 

「何や」

 

「材料を入れるとき、外の空気が入ります。温度が変わって、センサーが基準から外れてるんやと思います」

 

「ほな、扉を開けんかったらええ」

 

「材料が入らへんでしょう」

 

「先に全部入れとく」

 

「置く場所がありません」

 

 二人のやり取りを、木崎は少し離れて聞いていた。

 

 山下は工場を見回した。材料は、受注順ではなく納期順に色札を付けられている。それでも事務所から何度も女性社員が降りてきて、職人へ順番を伝えていた。

 

「社長、機械より先に、受注の流れを変えたほうがええです」

 

「息子と同じこと言うんか」

 

「全部新しくする必要はありません。事務所が持ってる納期の変更だけ、工場の画面に出したらええ。材料を運び込む時間をまとめられる。扉を開ける回数が減ったら、機械が止まる回数も減ります」

 

 宏は首を振った。

 

「画面を入れる前に、ビニールカーテンを二重にしましょう。検査機の周りだけなら、今日でもできます」

 

「それでは受注の詰まりは直らへん」

 

「機械は止まらなくなります」

 

「また事務員さんが走る」

 

「最初から全部直そうとしたら、現場がついてきません」

 

 二人は木崎がいることを忘れたように言い合った。

 

「ほな、どっちが先や」

 

 木崎が割って入った。

 

 宏と山下は同時に黙った。

 

 山下が先に答えた。

 

「今日はカーテンです。二週間、停止記録を取る。その間に、事務所と現場が同じ納期表を見る方法を作ります」

 

 宏は続けた。

 

「それで止まらなくなったら、検査機は替えません。止まるなら、初めて見積もりを取ります」

 

「三社とも、新しい機械を売る言うてるで」

 

「うちは機械を売りに来たんやありません」

 

 宏が言うと、山下が横から加えた。

 

「まだ呼ばれてもいませんけど」

 

 木崎は二人の顔を交互に見た。それから、伏せていた見積書を裏返した。どれも、京都テクノリンクが考えた費用の十倍を超えている。

 

「一人は機械ばっかり見て、一人は金と人ばっかり見てる。二人とも相手の言うこと、素直に聞かへん」

 

 褒められていないのかと、宏は思った。

 

 木崎は見積書を束ね、机の端へ押しやった。

 

「けど、あんたら、見かけ以上にホンマもんやな」

 

 その場で注文書は出なかった。

 

 三日後、真由美が町家の電話を取った。木崎からだった。

 

「あの、よう喧嘩する二人、明日空いてるか。まずカーテンから頼みたい」

 

 金額は小さかった。それでも山下は、これまで受け取ったどの注文書より長く、その一枚を見ていた。