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第五章 名前のない仕事

 

「つづき」の三人が京子の店へ来たのは、選考結果が出た翌日の午後だった。

 

先に入ってきた河合美里が、両手に大きな紙袋を提げている。その後ろから佐伯奈央が模造紙を抱え、小川真帆が服を何着か胸に抱えていた。

 

三人が土間へ並ぶと、いつもの店が急に狭くなる。

 

河合が名刺を差し出した。

 

「中村さんから、こちらへ伺うように言われました」

 

京子は名刺を受け取った。

 

河合美里、佐伯奈央、小川真帆。

 

その下に〈つづき〉とある。まだ開店していない店の名前と、堀川西商店街の住所まで、きちんと印刷されていた。

 

京子は名刺を作業台の隅へ置いた。

 

「何を相談したいの?」

 

「店の飾り方です」

 

河合が模造紙を広げる。

 

選考会で使った見取り図だった。

 

壁に服を掛け、中央に大きな作業台を置く。窓際にはミシンを二台。紙の上では、きれいに収まっている。

 

けれど、実際の店を知っている京子には、客が入ったあとの窮屈さがすぐに見えた。

 

間口三・八メートル。奥行き七・二メートル。

 

作業台の両側へ人が立てば、通路は消える。

 

京子は作業台の四角を消した。

 

「作っているところを見せたいのか、服を見せたいのか。そこを先に決めた方がいいよ」

 

三人が紙を見る。

 

作業台をなくすわけにはいかない。

 

布を広げる場所も、ミシンを使う場所も必要だからだ。

 

京子は作業台を壁際へ寄せ、もう一つ小さな四角を中央へ描いた。

 

「普段は壁。教室の日だけ中央へ出す。ミシンも、二台とも表に置かなくていい」

 

「毎回、動かすんですか」

 

「三か月でしょう」

 

京子は鉛筆を置いた。

 

「三か月ずっと同じ店である必要はないよ」

 

河合が、その言葉を見取り図へ書き込んだ。

 

次に出てきたのは、商品の数だった。

 

六十点ほど用意するという。

 

京子は自分の店の棚を見る。

 

品物を詰めれば、今の三倍は置ける。それでも、そうする気にはならない。

 

選ぶときには、品物そのものだけでなく、その隣に何があるかも目に入る。余白がある方が、かえって一つの品がよく見えることがある。

 

「多い方が、選べると思って」

 

河合が言った。

 

「多いと、選べなくなることもあるよ」

 

六十点を全部持ってくる必要はない。

 

京子は店を見なければ決められないと伝えた。

 

河合が、すぐに顔を上げる。

 

「一緒に来ていただけませんか」

 

京子は三人を見た。

 

頼まれれば断る理由もない。けれど、店を見に行けば、見ただけで帰れる自信もなかった。

 

案の定、河合は幸子から言われたことを話し始めた。

 

京子なら服のことも店の見せ方も分かる。困ったら相談すればいい。

 

「市役所からは?」

 

「商店街の人と相談してください、と」

 

「私は商店街の会員じゃないよ」

 

三人が顔を見合わせる。

 

そこまでは聞いていなかったらしい。

 

さらに相談料の話になる。

 

京子は作業台の上の名刺を見た。

 

客の服装について相談されることはある。アクセサリーを買ってもらえば、それで済む。商店街の写真も、これまで金を取ったことはない。

 

しかし、店のレイアウトを考え、商品の分類を決め、開店まで何度も店へ通うなら、それはもう

 

「ちょっと見てほしい」

 

という話ではない。

 

「何を頼むかによります」

 

河合が、レイアウト、商品の並べ方、服の組み合わせ、看板のことまで挙げた。

 

京子は苦笑した。

 

「それは相談じゃなくて、仕事だよ」

 

三人が黙る。

 

市の補助は家賃に使う。店を作る費用は自分たちで出す。

 

生地、糸、ミシン、棚、看板。

 

開店前から、金はいくらでも出ていく。

 

「今日は、お金はいらないよ」

 

京子は模造紙を畳んだ。

 

「ただ、次に来るときは、何を頼みたいのか決めてきて。全部見てほしい、では私も困るから」

 

河合は模造紙を受け取った。

 

「一度、店を見ていただくだけでも?」

 

京子は少し考えた。

 

「見るだけなら」

 

言った瞬間、自分でも分かった。

 

見るだけでは終わらない。

 

けれど、三人の顔には明らかにほっとした色が浮かんだ。

 

明日の四時に店へ行くことになった。

 

三人が帰ろうとしたところで、京子は河合を呼び止めた。

 

「六十点、全部持ってこなくていいよ」

 

「はい」

 

「自分たちが一番見てほしいものを、十点だけ選んで」

 

「十点?」

 

「それを見てから考える」

 

河合は頷いた。

 

「分かりました」

 

格子戸が閉まる。

 

三人の足音が路地へ遠ざかる。

 

京子は作業台へ戻った。

 

自分から仕事を増やすつもりはなかった。

 

それでも、明日の四時には空き店舗へ行く。

 

見れば気になる。

気づけば口を出す。

 

そういう自分の性分を、京子はよく知っていた。

 

*

 

翌日の午後四時。

 

元洋品店だった空き店舗の中央に、古い長机が置かれていた。

 

その上に、十点だけが並んでいる。

 

約束通りだった。

 

男物の白いシャツを子供用のブラウスへ作り直したもの。二枚のスカートをつないだ鞄。色の褪せたジーンズのポーチ。柄の違う布を組み合わせたワンピース。

 

どれも手を抜いてはいない。

 

ただ、作り手の違いがよく分かった。

 

河合は色を重ねる。

 

小川は形を変える。

 

佐伯は元の服の形を残す。

 

三人で一つの店を作るのに、三人とも違うものを作っている。

 

京子は三枚の服を並べた。

 

色も形も違う。

 

その違いを、無理に揃える必要はないと思った。

 

佐伯が一枚のブラウスを後ろへ隠した。

 

縫い目がほんの少し曲がっている。

 

「これは?」

 

「失敗しているので」

 

佐伯の指が、縫い目の上で止まる。

 

京子はブラウスを手に取った。

 

曲がっていると言われなければ分からない。

 

「着られない?」

 

「着られます」

 

「なら、出しておけばいいよ」

 

佐伯はしばらくブラウスを見ていた。

 

やがて、元の場所へ戻す。

 

その横で、小川は別の服の話を始めている。

 

河合が二人の間へ入った。

 

「それは、あとで三人で決めよう」

 

まとめることに慣れている。

 

けれど、まとめようとするほど、二人の言葉を先回りしてしまう。

 

京子は三人を眺めた。

 

「三人で、同じ店に見せたい?」

 

「はい」

 

「どうして?」

 

「一緒に始める店だから」

 

京子は、机の上の三人の服を見た。

 

「同じに見せる必要はないんじゃない」

 

三人が顔を上げる。

 

「作った人が違うなら、違って見えた方がいい。札の色を三つに分けて、誰が作ったか分かるようにすればいい」

 

河合が服を見る。

 

小川は、自分の作った鞄を手に取る。

 

佐伯はブラウスへもう一度目を落とした。

 

三人はすぐには答えを出さなかった。

 

ただ、もう京子の返事を待つ顔ではなかった。

 

京子は店の奥へ歩いた。

 

古い陳列棚は、奥行きが深い。

 

服を掛ければ、客が通れなくなる。

 

棚を捨てる必要はない。

 

奥へ寄せ、布や道具を入れればいい。

 

商品は壁へ。

 

壁に穴を開けられないなら、突っ張り式の柱を使う。

 

京子が一つ決めるたび、三人が寸法を測った。

 

河合が数字を読み、小川が棚を動かし、佐伯が紙へ書く。

 

少しずつ、空き店舗の中に店の輪郭ができていく。

 

そのとき、ガラス戸が開いた。

 

冨永と産業振興課の担当者だった。

 

撮影の予定より十五分ほど早い。

 

床にはメジャーが伸び、服が置かれている。

 

河合が携帯電話を取り出した。

 

市役所からのメールが届いている。

 

まだ開いていなかった。

 

冨永は何も言わず、外へ出た。

 

「四時半からですから、それまで商店街を見ています」

 

ガラス戸の向こうへ二人の姿が消える。

 

河合は携帯電話を握ったまま、しばらく動かなかった。

 

「完全に忘れてました」

 

京子は時計を見る。

 

あと十分。

 

「片づける前に、寸法だけ測ろう」

 

京子は時計を見た。

 

三人はそれぞれの手元へ戻った。

 

河合が数字を読み、小川が服を畳む。佐伯はメジャーを巻き取り、京子は壁の長さを測る。

 

四時二十七分。

 

床からメジャーが消えた。

 

長机には、十点の服だけが残っている。

 

四時半。

 

冨永が戻ってきた。

 

撮影が始まる。

 

京子は壁際へ移った。

 

「長谷部さん」

 

冨永が声をかけた。

 

「こちらのお手伝いを?」

 

「今日は、店を見てほしいと頼まれただけです」

 

「そうですか」

 

冨永は、それ以上聞かなかった。

 

河合が今後も京子へ相談したいと言う。

 

冨永は、その依頼が正式なものかどうかだけを確認した。

 

京子の名前を広報へ載せる話にもならなかった。

 

決まっていないものを、決まったようには書かない。

 

冨永がそれ以上踏み込まなかったことを、京子はありがたく思った。

 

撮影が終わる。

 

冨永が河合へ開店日と営業時間を確認しているあいだ、京子は店の外へ出た。

 

幸子も続いて出てきた。

 

二人はガラス越しに三人を見る。

 

「冨永さん、京ちゃんに仕事を頼まなかったわね」

 

「広報の人だからでしょう」

 

「河合さんたちは頼むと思うけど」

 

「それは三人と私の話でしょう」

 

幸子は京子の横顔を見る。

 

「頼まれたら、受けるの?」

 

京子はすぐには答えなかった。

 

店の中では、冨永が河合たちと話している。

 

最初に会ったときより、三人が少しだけ店を自分たちのものとして話している。

 

「何を頼まれるかによる」

 

「そういうと思った」

 

幸子が笑う。

 

そのとき、河合が外へ出てきた。

 

一枚の紙を京子へ差し出す。

 

店内レイアウト。

 

商品の分類。

 

開店前日の陳列確認。

 

それだけだった。

 

看板も撮影も店番も含まれていない。

 

最初に

 

「全部見てほしい」

 

と言っていた三人が、自分たちで頼む仕事を三つに絞っている。

 

京子は紙を読んだ。

 

「期間は?」

 

「開店までです。開店したあとは、自分たちでやります」

 

「費用は?」

 

河合が金額を告げた。

 

高くはない。

 

けれど、無料で頼むつもりではないことは分かる。

 

京子は紙を折った。

 

「明日、返事する」

 

「今日では駄目ですか」

 

「私の店の仕事を確認してから」

 

河合は頷いた。

 

「分かりました」

 

それ以上は言わない。

 

店の中へ戻っていく。

 

京子は紙を鞄へしまった。

 

ガラス戸の向こうでは、冨永が河合たちと話している。

 

何を話しているのかまでは聞こえない。

 

京子は見なかった。

 

さっきまで空っぽだった店の中に、人の気配が残っている。

 

商品を置く場所。

人が立つ場所。

作業する場所。

 

まだ決まらないところの方が多かった。

 

三人の話し合いが進むにつれ、空き店舗の呼び方も変わっていった。

 

京子は格子戸を閉めた。

 

夕方の商店街を、薄い風が抜けていく。

 

明日になれば、自分の返事をしなければならない。

 

そのことだけを考え、京子は自分の店へ戻った。

 

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第四章 三か月の店

 

空き店舗の募集には、五組の応募があった。

 

焼き菓子の販売、古本とレコード、子供向けの工作教室、手作り雑貨の共同販売、それに、着なくなった服を手直しして販売する三人組。

 

産業振興課は、五組の企画書を商店街へ送った。

 

名前や住所、連絡先は伏せられ、事業内容と営業予定だけが記されている。

 

選考会は、説明会と同じ空き店舗で開かれた。

 

切れかけていた蛍光灯は新しいものへ替わっている。床も清掃され、以前の洋品店が残した陳列棚は壁際へ寄せられていた。

 

資料の表紙に使われていた店の姿とは、もう違っていた。

 

白い壁ではなく、薄いベージュ。床には、商品棚が置かれていた四角い跡が残る。入口のガラスには、何年も前のテープが白く固まっていた。

 

選考会には、商店街から七人、市役所から三人が出席した。冨永は産業振興課の担当者と、入口に近い席へ座る。選ぶためではなく、決まった企画を続報として紹介できるか確かめるためだった。

 

焼き菓子はクレープ店と客が重なる。工作教室は夏休みのあとが見えない。古本とレコードは塚口が気に入ったが、見るだけの客で店が続くのかと幸子が言う。企画書をめくるたび、意見は分かれた。

 

五番目の企画書を開く。

 

着なくなった服を手直しし、新しい服として販売する。持ち込みの相談も受け、週末には簡単な手直しの教室を開く。

 

応募者は三人。全員が二十代で、服飾関係の専門学校を卒業していた。

 

企画書には、色の違う服を組み合わせた店内の見取り図が添えられている。壁には古いシャツやスカートを掛け、中央へ大きな作業台を置く。窓際にはミシンが二台。

 

五組の中では、最も店の姿を具体的に想像しやすかった。

 

「若い人が来るかもしれないわね」

 

幸子が言う。

 

「古い服を売るんでしょう」

 

塚口は見取り図を横へ向けたり、縦へ戻したりしている。

 

「古着とは違うんじゃないか」

 

種井が企画書を覗く。

 

「手を加えて、別のものにするんですよ」

 

「袖を切ったりするのか」

 

「たぶん」

 

「長袖を半袖にするだけなら、家でもできるがね」

 

「塚口さんは、ボタンも付けられないでしょう」

 

「ボタンは、取れたままでも着られる」

 

幸子は塚口を相手にせず、営業予定の欄を見る。

 

「月曜日から金曜日は、十一時から六時。土日は十時から七時」

 

「三人いるなら、それくらい開けられるでしょう」

 

種井が言う。

 

冨永は自分の資料を見た。

 

三人の職歴の欄には、それぞれ現在の仕事が記されている。

 

一人は衣料品店勤務。一人は縫製工場のパート。もう一人は飲食店のアルバイト。三人とも、現在の仕事を続けながら参加する予定だった。

 

「この営業時間については、面接で確認した方がいいと思います」

 

冨永が言う。

 

選考へ意見を出すつもりはなかった。

 

ただ、決まったあとで開店日や営業時間を広報することになる。実際に守れるかどうかは、先に確認しておく必要がある。

 

「三人で交替するんじゃないですか」

 

産業振興課の担当者が言う。

 

「その予定が書かれていません」

 

冨永は企画書の職歴欄を示した。

 

「全員が別の仕事を続けます。平日の十一時から六時まで、誰が店に立つのかは聞いた方がよいかと」

 

担当者は初めて、その欄を詳しく読む。

 

「面接で確認しましょう」

 

幸子も企画書を見直した。

 

「三人いれば大丈夫だと思っていたけど、三人とも昼間は仕事なのね」

 

「辞めるつもりかもしれませんよ」

 

種井が言う。

 

「それも聞かないと分からないわね」

 

五組の企画説明を聞いた結果、候補は二組に絞られた。

 

古本とレコードの店。

 

服の手直しをする三人組。

 

翌週、二組を空き店舗へ招き、商店街の人たちへ直接説明してもらうことになる。

 

古本とレコードの応募者は六十一歳の男性で、品数も営業時間も、売れ残った品の扱いも紙にまとめていた。

 

三人組は、予定より五分遅れて到着した。

 

一人が大きな紙袋を二つ持ち、もう一人は丸めた模造紙を抱えている。最後に入ってきた女性は、入口で立ち止まり、携帯電話を鞄へしまった。

 

「すみません。駐車場が分からなくて」

 

先頭の女性が頭を下げる。

 

「地図には載っていませんでしたか」

 

産業振興課の担当者が聞く。

 

「商店街の入口までは分かったんですけど、その先が」

 

「荷物は、どこへ置けばいいですか」

 

紙袋を持った女性が尋ねる。

 

長机の上には、市役所の資料と湯飲みが並んでいる。壁際には古い陳列棚。模造紙を広げる場所もなかった。

 

冨永は、入口近くの机から資料をまとめて自分の鞄の上へ移した。

 

「こちらを使ってください」

 

三人は礼を言い、紙袋と模造紙を置く。

 

説明は、店の名前から始まった。

 

「つづき」

 

服には、着なくなったあとにも続きがある。その意味を込めたという。

 

三人は持参した服を長机へ並べた。

 

男物の白いシャツを、子供用のブラウスへ作り直したもの。二枚のスカートをつなぎ合わせた鞄。色の褪せたジーンズから作った小さなポーチ。

 

幸子が一つずつ手に取る。

 

「縫ったのは皆さん?」

 

「三人で分担しています。デザインする人と、縫う人と、仕上げを確認する人」

 

「担当は決まっているんですか」

 

「一応は。でも、忙しいときは皆で」

 

三人のうち、最初に頭を下げた女性が答えている。

 

ほかの二人は、品物の向きを直したり、模造紙を壁へ押さえたりしていた。

 

「営業時間は、平日も十一時から六時とありますが」

 

冨永が尋ねる。

 

三人の動きが一度止まる。

 

「交替で出る予定です」

 

「皆さん、現在のお仕事は?」

 

「続けます」

 

「平日の昼間に、店へ立てる方は決まっていますか」

 

先頭の女性が、残りの二人を見る。

 

「水曜日は、私が休みなので出られます」

 

「私は月曜なら」

 

「木曜は、午後からなら大丈夫です」

 

火曜日と金曜日が残る。

 

「最初のうちは、休みの日があってもいいかなと思っていて」

 

「募集要項には、週五日以上の営業とあります」

 

産業振興課の担当者が言った。

 

三人は初めて聞いたような顔をする。

 

「それ、どこに書いてありましたか」

 

「募集要項の三ページ目です」

 

一人が鞄から折り畳んだ書類を出した。三ページ目を開き、該当する箇所を探している。

 

「あ、本当だ」

 

声が小さくなった。

 

店内に、紙をめくる音だけが残る。

 

担当者は腕時計を見た。

 

「営業時間を守っていただけない場合は、選考が難しくなります」

 

三人の顔に焦りが浮かぶ。

 

「何とかします」

 

先頭の女性が言う。

 

「誰か一人、仕事を減らせば」

 

「でも、今からシフトを変えてもらえるかな」

 

「お母さんに店番を頼むとか」

 

「服の説明ができないでしょう」

 

三人の相談が、そのまま始まった。

 

商店街の人たちは黙って見ている。

 

冨永は、担当者の手元にある進行表を見た。次の質問へ移る予定時刻を、すでに十分過ぎている。

 

「営業日については、今日ここで決めなくてもよいのではありませんか」

 

冨永が言う。

 

担当者がこちらを見る。

 

「でも、選考に必要です」

 

「必要なのは、週五日開けられるかどうかです。誰が何曜日に立つかは、三人で持ち帰って確認してもらった方が正確でしょう」

 

冨永は三人へ向き直る。

 

「いつまでなら、職場やご家族へ確認できますか」

 

「三日いただければ」

 

先頭の女性が答える。

 

「では、金曜日の五時までに、営業予定を提出していただけますか」

 

担当者は少し迷い、頷いた。

 

「それでお願いします」

 

三人の肩から、わずかに力が抜ける。

 

説明会は、予定より二十分長くなった。

 

二組が帰ったあと、商店街の人たちは長机を囲んだまま話し始める。

 

「古本の人は、しっかりしてたな」

 

塚口が言う。

 

「一人でできる範囲を分かっているからでしょう」

 

幸子は

 

「つづき」

 

のポーチを手にしている。

 

「この子たちは、まだ店を開けるところしか見えていないのよ」

 

「だから、三か月試すんじゃないですか」

 

種井が言う。

 

「失敗させるために?」

 

「失敗するかどうかは、やってみないと分からないでしょう」

 

「お客さんから服を預かったあとで、店が休みだったら困るわよ」

 

幸子はポーチを机へ戻す。

 

「京ちゃんに、これを見せたいな」

 

「また京ちゃんか」

 

塚口は口では呆れながら、反対していない。

 

「服のことなら、私たちより分かるでしょう」

 

「選考に、会員じゃない人を入れるんですか」

 

種井が尋ねる。

 

「選ばせるんじゃない。品物を見てもらうだけ」

 

「見てもらったら、何か言うでしょう」

 

「京ちゃんだもの」

 

幸子は平然と答えた。

 

話を聞いていた冨永は、自分の資料を鞄へしまう。

 

「長谷部さんへ品物を見せる場合は、応募者の了解を取ってください」

 

「市役所から?」

 

「いえ。商店街からお願いします」

 

「冨永さんは来ないんですか」

 

幸子が聞く。

 

「私がいると、市が長谷部さんへ評価を求めたように見えます」

 

「一緒に見た方が早いでしょう」

 

「早いことと、よいことは同じではありません」

 

幸子は何か言おうとしたが、種井が先に頷いた。

 

「それは、そうですね」

 

塚口だけが不満そうだった。

 

「市役所の人は、面倒なところで線を引くなあ」

 

「線を引かないと、あとで誰が決めたのか分からなくなりますから」

 

「京ちゃんと同じようなことを言う」

 

「長谷部さんなら、何と言うんですか」

 

「俺たちが勝手に持っていった時点で、もう公平じゃないって言うだろうな」

 

塚口は、ようやく自分で気づいた顔になる。

 

幸子も、ポーチから手を離した。

 

種井が小さく笑う。

 

「見せる前から答えが出たじゃないですか」

 

三人は品物を京子の店へ持っていかなかった。

 

金曜日、

 

「つづき」

 

から営業予定表が届いた。

 

三人はそれぞれの職場と相談し、月曜日から土曜日まで、必ず二人が店に立つ形へ組み直していた。火曜日だけは、専門学校時代の友人が手伝うという。

 

予定表の下には、手伝う人の名前と連絡先まで記されている。

 

選考の結果、空き店舗を使うのは

 

「つづき」

 

に決まった。

 

古本とレコードの男性には、商店街の別の空き店舗を所有者が直接紹介することになる。

 

産業振興課から選考結果の連絡を受けた冨永は、広報用の原稿を作り始める。

 

開店日は、三週間後。

 

店内の清掃、什器の移動、商品の搬入、告知物の作成。必要な作業は多い。

 

三週間あれば、間に合うはずだった。

 

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第三章 去年の日付

 

冨永が市役所へ戻ると、福田昭夫が昼食から帰ってきたところだった。

 

コンビニの袋を机の横へ置き、紙コップのコーヒーを手にしている。席へ着く前に、冨永の鞄を見た。

 

「商店街、どうだった」

 

「まだ分からない」

 

「写真は?」

 

「撮ってない」

 

「何しに行ったんだ」

 

「話を聞きに」

 

福田は一瞬、冨永の顔を見た。

 

「広報課が写真を撮らずに帰ってきたら、半分は仕事を残してきたようなものだろう」

 

福田は椅子へ座り、袋から小さな菓子パンを取り出す。

 

「食べた?」

 

「ホットケーキを半分」

 

「取材じゃなくて、おやつじゃないか」

 

「撮影に使ったものが残ったんだよ」

 

「誰の撮影?」

 

冨永は机の上へ取材票を置いた。

 

「近くでアクセサリーの店をしている人。商店街の店を撮って、カードを作ってる」

 

「頼まれて?」

 

「頼まれたり、頼まれなかったりらしい」

 

「何だ、それ」

 

「店の名前が『余計なお世話』なんだ」

 

福田は菓子パンを口へ入れかけたまま、冨永を見る。

 

「本当に?」

 

「名刺もある」

 

冨永が見せようとすると、福田は片手を上げた。

 

「いや、仕事中にほかの店の名刺を見ても仕方がない」

 

先に聞いたのは福田である。

 

冨永は名刺を取材票の間へ戻した。

 

午後は、別の原稿の校正に追われた。

 

市内の公園で始まる夏休み向けの催しと、図書館の開館時間変更。商店街の取材票を開いたのは、四時を過ぎてからである。

 

塚口の話は、思ったより多く書き取れていた。

 

店を継いだのは二十八年前。父親が体調を崩し、会社勤めを辞めて戻った。モーニングは朝七時から十時半まで。十一時を過ぎると、近所の店主や会社員が早めの昼食に来る。

 

昔と変わったこと、という欄には、京子の言葉まで入っていた。

 

店の前を歩く人が減った。自転車で通り過ぎる人が増えた。

 

塚口自身は、そんな言い方をしていない。

 

「昔は、顔を見てから店へ入るか決めとった。今は、もう店の前を通り過ぎとる」

 

塚口がそう言ったあと、京子が、

 

「歩いている人は店を見るけど、自転車の人は前しか見ないから」

 

と加えたのである。

 

冨永は二つの言葉を並べた。

 

どちらか一つだけでは、言いたいことが足りない。並べると、商店街の道まで見えてくる気がした。

 

原稿を書き始めたところで、安田利明が机の横に立つ。

 

「一軒目はどうだった」

 

「喫茶店は、親の代から五十四年です」

 

「客は?」

 

「店主は減っていないと言っています。前より少ないだけだそうです」

 

「同じじゃないか」

 

「本人には違うようです」

 

安田は、取材票に目をやった。

 

「ほかの店は?」

 

「これからです」

 

「一軒だけで決めるなよ」

 

「分かっています」

 

「一人の話が面白いと、町全体がそうだと思いたくなるからな」

 

安田は自分の机へ戻っていく。

 

冨永は取材票を裏返した。

 

塚口の話が、面白くなかったわけではない。京子とのやり取りも、記事にすれば読まれるだろう。

 

だが、市の広報誌に二人の会話を載せても、店を知らない人には届かない。

 

店が五十四年続いた理由。客が減っても閉めない理由。カードを作ったことで、ホットケーキが二十一枚増えたこと。

 

どこまでが店の話で、どこからが商店街の話なのか。

 

冨永は、まだ決めなかった。

 

翌日は、中村クレープと種井ラーメンを訪ねた。

 

中村幸子は、七年前に空き店舗を借りて店を始めている。

 

「ここを選んだ理由ですか。家賃が安かったからです」

 

冨永が期待していた町への思いなど、最初はなかったという。

 

「駅に近いし、若い人向けの食べ物も少なかった。うまくいくと思ったんです。でも、人が通るのと、店へ入るのは別でした」

 

幸子はクレープの生地を焼きながら話した。

 

鉄板へ丸く広げた生地の端が、少しずつ乾いていく。話の途中でも、幸子の手は止まらない。

 

種井良一は、最初に名刺を受け取ったものの、写真は断ると言った。

 

「まだ写真の話はしていません」

 

「市の広報なら撮るでしょう」

 

「必要なら、お願いします」

 

「必要でも、断ります」

 

四十二歳。父親からラーメン店を継いで十二年になる。

 

店先の看板に使われている写真は、十七年前のものだった。器も値段も変わっているが、種井は替えるつもりがない。

 

「これを見て来る人はいませんから」

 

「替えれば、来るかもしれません」

 

「来ればいいってものでもないでしょう」

 

昼休みには、近くの会社から常連客が来る。十席ほどしかない店である。外から客が集まって列ができれば、毎週来る人が入れなくなる。

 

「一度来る人より、何度も来る人が大事なんですね」

 

冨永が言うと、種井は首を傾けた。

 

「そういうきれいな話でもないです。初めて来る人だって、ありがたいですよ。ただ、どっちが大事かなんて、決められないだけです」

 

冨永は、その言葉をそのまま取材票へ書いた。

 

まとめるのは、あとでよい。

 

三軒を回り終えた翌週、冨永は最初の原稿を安田へ提出した。

 

安田は老眼鏡を掛け、一枚目から読み始める。

 

冨永は自分の席へ戻った。

 

安田が読む間、近くに立って待つことはしない。修正があれば呼ばれる。それまでに、別の仕事を進める方がよかった。

 

三十分ほどして、内線が鳴った。

 

「冨永、ちょっと来い」

 

安田の机には、原稿と、商店街で受け取った七夕祭りのチラシが並んでいる。

 

「祭りの日付、これで合っているか」

 

「七月二十七日と二十八日です」

 

「チラシは、二十日と二十一日になってるぞ」

 

冨永は原稿を見る。

 

七月二十七日、二十八日。

 

取材の日、アーケードに張られていた横断幕の日付を控えたものである。

 

チラシには、その一週間前の日付が印刷されていた。

 

「確認します」

 

冨永は原稿とチラシを持ち、自分の席へ戻った。

 

商店街振興組合へ電話をかける。

 

事務局の女性は、すぐには答えられなかった。担当者が席を外しており、十分ほど待ってほしいという。

 

「分かりました。折り返しをお願いします」

 

冨永は受話器を置き、原稿のほかの数字を見直す。

 

創業年、営業時間、店の数。取材票と一つずつ照らし合わせた。

 

福田が隣からチラシを覗く。

 

「横断幕は去年のものじゃないか」

 

「どうして?」

 

「今年の七月二十七日は月曜日だぞ。祭りを月曜と火曜にはしないだろう」

 

福田はパソコンのカレンダーを開いている。

 

横断幕の右側は新しい紐、左側は古い針金だった。日に焼けた布の端も、少しほつれている。

 

去年のものを、告知用に一時的に張っていた可能性がある。

 

「横断幕を見て書いたのか」

 

「そうだ」

 

「チラシを先にもらってたんだろう」

 

「鞄の中に入れたままだった」

 

「珍しいな」

 

福田は、自分の席へ戻る。

 

責めるような声ではない。冨永が数字を確認せず原稿へ入れたことを、本当に珍しいと思っているようだった。

 

振興組合から電話が入る。

 

今年の祭りは、七月二十日と二十一日。横断幕は去年のものを出してしまい、すでに張り替えたという。

 

「こちらも横断幕の日付だけで原稿を書いてしまいました。確認できてよかったです」

 

冨永は原稿を訂正し、安田へ持っていく。

 

「私の確認不足でした。今年は二十日と二十一日です」

 

「印刷前でよかったな」

 

「ほかの数字も確認しました」

 

「福田が見つけたのか」

 

「最初に気づいたのは安田さんです」

 

「そういう話をしてるんじゃない」

 

安田は訂正された原稿を見る。

 

「原因は?」

 

「去年の横断幕を見て、そのまま書きました。チラシとの照合をしていませんでした」

 

「なら、次からどうする」

 

「催事の日付は、主催者へ最終確認を取ります」

 

安田は原稿の右上へ、小さな丸を付けた。

 

「それでいい」

 

席へ戻ると、福田が画面を見たまま聞く。

 

「怒られた?」

 

「確認しろと言われた」

 

「俺が気づいたと言った?」

 

「安田さんが先だ」

 

「俺の手柄は?」

 

「カレンダーを見ただけだろう」

 

「見るべきところを見たんだ」

 

福田は冗談めかして言い、コーヒーを飲む。

 

冨永は訂正前の原稿を二つに折り、再利用する紙の箱へ入れた。

 

破って捨てる必要はないと思った。

 

間違えた跡だけを消しても、次に確認する場所は分からない。訂正前の原稿を残しておけば、校正のときにもう一度見直せる。

 

その日の夜、冨永が帰宅すると、潤が居間の床に商店街を作っていた。

 

牛乳パックを切った家が六軒、菓子箱で作った建物が一軒。道路には黒い色鉛筆で中央線が引かれ、その上を赤いミニカーが走っている。

 

「ただいま」

 

「お父さん、踏まないで」

 

顔を上げるより先に注意された。

 

冨永は片足を上げたまま、床を見回す。玄関から居間へ入るには、商店街の裏側にある細い道を通らなければならない。

 

「ここを歩いていいのか」

 

「そこは駐車場」

 

「道はどこだよ」

 

「商店街に車で来た人は、駐車場から歩くの」

 

「お父さんは車じゃない」

 

潤は少し考え、菓子箱の建物を十センチほど横へ動かした。

 

「じゃあ、ここ」

 

人一人が通れる道ができる。

 

冨永は身体を横にし、壁との隙間を通った。

 

食卓では、綾子が夕食を並べている。

 

「遅くなるなら、連絡してよ」

 

「ごめん。原稿の確認に時間がかかった」

 

「また何か間違えた?」

 

「どうして、またなんだ」

 

「遅い日に、だいたいそう言うから」

 

綾子は味噌汁の椀を置いた。

 

「日付を一週間間違えた」

 

「珍しい」

 

福田と同じことを言う。

 

「横断幕が去年のものだったんだ」

 

「横断幕のせい?」

 

「いや。確認しなかった俺のせい」

 

「直ったんでしょう」

 

「印刷前だったから」

 

「なら、よかったじゃない」

 

綾子はそれ以上聞かない。

 

失敗した理由も、誰が見つけたのかも、家では必要のない話だった。

 

「お父さん、ここの店、何がいいと思う?」

 

潤が、何も書かれていない白い箱を持っている。

 

「何の店でもいいのか」

 

「うん」

 

「パン屋は?」

 

「もうある」

 

「本屋」

 

「向こうにある」

 

「じゃあ、アクセサリーの店」

 

言ってから、京子の店を思い出した。

 

潤は白い箱を見る。

 

「アクセサリーって何?」

 

「ネックレスとか、イヤリングとか」

 

「誰が買うの?」

 

「欲しい人」

 

「僕はいらない」

 

「潤の町だから、潤が決めればいいよ」

 

冨永は椅子へ座る。

 

潤は白い箱を、通りの端へ置いた。少し離れて眺め、また動かす。

 

「ここは、まだ空き店舗」

 

「店を決めないのか」

 

「あとで決める」

 

潤は、そのまま夕食の席へ来る。

 

白い箱だけが、町の端に残っている。

 

翌朝、市役所へ着くと、安田が一枚の書類を冨永の机へ置いた。

 

表紙には

 

「空き店舗短期活用事業」

 

とある。

 

「産業振興課から、広報の相談が来ている」

 

「空き店舗へ、期間限定で店を入れる事業ですか」

 

「物を売る店だけじゃない。展示、相談所、地域の催しにも貸す。三か月だけな」

 

冨永は資料をめくる。

 

対象となる商店街が三か所、挙げられていた。

 

その一番下に、堀川西商店街の名がある。

 

「また、ここですか」

 

「嫌なら福田に回すぞ」

 

安田が福田の机を見る。

 

福田は電話中だった。視線に気づくと、何の話か分からないまま首を横へ振っている。

 

「いえ、私がやります」

 

「広報の仕事は、事業を成功させることじゃないぞ」

 

安田は冨永の返事を待たず、続ける。

 

「市民に知らせることだ。商店街の中へ入って、店をまとめ始めるなよ」

 

「そんなことはしません」

 

「昨日、日付を間違えた人間の答えにしては早いな」

 

安田は自分の机へ戻っていく。

 

冨永は資料を最初から読み直した。

 

三か月の短期利用。

 

利用者は公募。

 

商店街側の同意が必要。

 

使用料の一部を市が補助する。

 

空き店舗を一時的に埋める事業である。けれど三か月後には、また空くかもしれない。

 

潤が作った商店街の、何も書かれていない白い箱が浮かんだ。

 

何が入るか、あとで決める。

 

子供の町なら、それでよい。

 

現実の町では、誰が決めるのだろう。

 

資料の担当者欄には、産業振興課の職員名と電話番号がある。

 

冨永は受話器を取った。

 

堀川西商店街へ行く前に、まず聞かなければならないことがあった。

 

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『 一人分の幅 』

 

第二章 似合わないもの

 

京子が「余計なお世話」の格子戸を開けたのは、十一時より五分早かった。

 

店先の白い看板を外へ出し、戸の上に掛けた札を〈営業中〉へ裏返す。

 

通りからは、店の中が半分ほどしか見えない。

 

土間を改装した店内に、木製の棚が三つ。銀色のイヤリング、色石を使ったブローチ、細い革紐のネックレスが、少しずつ間を空けて並んでいる。

 

数は多くない。

 

空いたところへ品物を詰めれば、もう少し賑やかに見える。それでも京子は、一つを見ているときに隣の色が入ってくるのを好まなかった。

 

奥の壁には細長い鏡がある。

 

客が品物だけでなく、身につけた自分まで見られる大きさだった。

 

京子はカメラを作業机へ置く。

 

塚口の店で撮った写真は、夜に見るつもりである。店を開ける前に急いで選べば、ピントや明るさだけで決めてしまう。一度時間を置いた方が、何を見せたかったのか分かることもあった。

 

今日仕上げるのは、乳白色の石を使ったイヤリングである。

 

京子は椅子へ座り、細い金属線をペンチで曲げる。

 

一度で形を決めようとすると、角が立つ。少し曲げては指を離し、左右を見比べる。足りなければ、もう少しだけ力を加える。

 

片方ができたところで、格子戸の鈴が鳴った。

 

「こんにちは」

 

三十代半ばくらいの女が入ってくる。

 

赤いワンピースを着ていた。

 

身体の線に沿った細身のもので、胸元には布を重ねた飾りがある。腰にも同じ色の細いベルト。靴は黒、鞄には金色の留め金。

 

「いらっしゃいませ」

 

「これ、昨日、窓から見えて」

 

客は正面の棚へ近づき、金色のネックレスを手に取った。

 

細い鎖の先に、小さな赤い石が三つ並んでいる。

 

「友達の結婚式に着けたいんです」

 

客は鏡の前に立ち、ネックレスを胸へ当てた。

 

京子は会計台から出て、客の斜め後ろへ移る。

 

鏡の正面は空けておく。

 

客が自分の姿をよく見られる位置だった。

 

「結婚式には、そのワンピースを?」

 

「はい。先週買ったばかりなんです」

 

客は身体を少し横へ向ける。

 

気に入っているのが分かる。似合うかどうかを聞きに来たのではない。もう決めた服に合うアクセサリーを探している。

 

京子は、ネックレスからワンピースへ目を移した。

 

ワンピースの形は、客の身体によく合っている。腰の位置もきれいだった。ただ、胸元にはすでに飾りがある。そこへ赤い石を足せば、顔より先に服とネックレスが目へ入る。

 

「そのネックレスは、やめた方がいいです」

 

客の身体が鏡の前で止まった。

 

「色が合いませんか」

 

「色ではなくて、ワンピースの飾りと喧嘩します。鞄の金具も金色なので、全部が前へ出すぎます」

 

客はネックレスを胸から離した。

 

鏡の中で、先ほどまでより顔が硬くなっている。

 

「では、どれなら合いますか」

 

言葉は丁寧だったが、声の温度が少し下がっていた。

 

京子は別の棚から、細い銀色のイヤリングを取る。小さな透明の石が一つだけ付いている。

 

「こちらなら」

 

「銀色ですか」

 

客は手に取ろうとしない。

 

「鞄が金色なのに?」

 

「金具は小さいので、無理に合わせなくても大丈夫です。それより胸元には何も足さない方が……」

 

「今日は、ネックレスを買いに来たんです」

 

客が京子の言葉を止める。

 

狭い店の中へ、格子戸の外を通る自転車の音が入った。車輪が石を踏み、短く跳ねる。

 

京子は銀色のイヤリングを持ったまま、客の横顔を見る。

 

言う順番を間違えた。

 

客の顔が固くなった。京子はアクセサリーの組み合わせを話したつもりだった。けれど、客が聞いたのは、ワンピースそのものを否定された言葉だった。

 

「すみません」

 

京子はイヤリングを棚へ戻した。

 

客が鏡越しにこちらを見る。

 

「そのワンピースは、よく似合っています。腰の位置もきれいです」

 

客の表情は、まだ硬い。

 

「だったら、どうして」

 

「私が先に、合わないところから言ったからです。ネックレスだけを見てしまいました」

 

京子は客が戻した金色のネックレスを受け取る。

 

「これはきれいです。でも、今日のワンピースを一番きれいに見せるものではありません」

 

「同じことじゃないですか」

 

「そう聞こえますよね」

 

京子は言い返さなかった。

 

客は鏡へ向き直る。

 

胸元に何もない自分を見る。次に、金色のネックレスをもう一度当てた。

 

京子は黙って待つ。

 

「確かに、少しうるさいかも」

 

客の声が、先ほどより小さくなる。

 

「ネックレスが悪いんじゃないんです。ワンピースに、もう飾りがあるから」

 

「でも、何か着けたいんですよね」

 

「結婚式ですからね」

 

京子は棚から、短い革紐のネックレスを取った。

 

飾りは、小さな乳白色の石が一つ。最初のものより地味で、値段も安い。

 

「こちらなら、胸元にあっても邪魔をしません」

 

客は受け取り、鏡の前で合わせる。

 

すぐには頷かない。

 

顔を右へ向け、次に左へ向ける。少し離れて、全体も見ている。

 

「これは、地味すぎませんか」

 

「イヤリングを少し明るくすれば大丈夫です」

 

京子は先ほどの銀色ではなく、薄い金色の小さなイヤリングを取った。

 

鞄の金具より色が淡く、耳元に置いても強く出ない。

 

「これなら、鞄とも合います」

 

客は鏡へ顔を近づけた。

 

ネックレスを見るときより、表情が明るい。

 

「この二つにします」

 

「ありがとうございます」

 

京子は会計台へ戻り、ネックレスとイヤリングを別々の薄紙で包んだ。

 

客は財布を出しながら、最初に選んだ赤い石のネックレスを見る。

 

「これも、いつか着けたいんですよね」

 

「無地の黒か、白いブラウスなら合います」

 

「普段着でも?」

 

「その方が、石がきれいに見えます」

 

「では、また服を着てきます」

 

「見せてください」

 

京子は小さな紙袋を渡した。

 

客は受け取り、格子戸へ向かう。戸を開ける前に、もう一度鏡の前へ戻った。

 

紙袋から品物は出さず、赤いワンピースだけを見る。

 

「腰の位置、きれいですか」

 

「はい」

 

今度は、京子も迷わず答えた。

 

客は少し笑い、店を出た。

 

鈴の音が消える。

 

京子は鏡の前に残っている自分を見る。

 

白いシャツに、黒い細身のパンツ。耳にも首元にも、自分で作ったものは着けていない。

 

合わないところは、すぐに見える。

 

似合っているところも同じように見えているはずなのに、口に出すのはいつも遅かった。

 

京子は赤い石のネックレスを棚へ戻す。鎖の形を整え、三つの石が正面を向くように置いた。

 

午後一時を過ぎた頃、中村幸子が店へ入ってくる。

 

返事を待たず、手にした紙袋を会計台へ置いた。中から、まだ温かいクレープの匂いがする。

 

「新しいのを作ったから、味を見て」

 

「売り物でしょう」

 

「端が破れたの。お客さんには出せないから」

 

幸子は店内を見回した。

 

「今日は売れた?」

 

「二つ」

 

「まだ一時だから、上出来じゃない」

 

「ネックレスとイヤリングで、一人分」

 

「二つは二つでしょう」

 

幸子は客用の椅子へ座る。

 

急いで戻ると言いながら、いったん座ると腰を据える人である。

 

京子は紙袋からクレープを取り出す。

 

中身は薄い桃色のクリームと、細かく切った白桃だった。

 

「色が薄い」

 

「食べる前から文句を言わない」

 

「写真にしたら、生地と同じ色に見えるよ」

 

「まだ写真を頼んでないでしょう」

 

京子は一口食べる。

 

桃の香りは強くない。甘さも控えめで、あとからわずかに酸味が残った。

 

「どう?」

 

「おいしい」

 

「それだけ?」

 

「桃をもう少し大きく切った方が、食べたときに分かる」

 

「味の話を聞いてるの」

 

「食感も味のうちでしょう」

 

幸子は呆れた顔をした。

 

それでも京子の言葉を否定せず、紙袋の端を指で折っていた。

 

「さっき、赤いワンピースの人が店から出てきたけど」

 

「見てたの?」

 

「店の前を通っただけ。何か言ったでしょう」

 

「どうして分かるの」

 

「店を出たところで、自分の服を見てたから」

 

京子は残りのクレープを包み直した。

 

「最初に選んだネックレスが、服に合わなかったの」

 

「それを、そのまま言った?」

 

「言った」

 

「また?」

 

「でも、言い直した」

 

幸子の指が、紙袋の上で止まる。

 

「京ちゃんが?」

 

「私だって言い直すことくらいあるよ」

 

「お客さんが帰ってからじゃなくて?」

 

「帰る前」

 

「珍しい」

 

幸子は、本当に感心しているようだった。

 

「何て言ったの」

 

「先に合わないところを言って、すみませんって」

 

「それだけ?」

 

「ワンピースは似合っていると言った」

 

「本当に思った?」

 

「思ってなければ言わない」

 

「なら、最初に言えばよかったのに」

 

京子は返事をしない。

 

幸子はクレープの包みを見た。

 

「京ちゃんは、褒めてから注意すると、ご機嫌取りみたいで嫌なんでしょう」

 

「そういう言い方をすると、全部嘘みたいじゃない」

 

「順番の話よ」

 

「思った順に言っただけ」

 

「人の顔を見て、順番を変えるのも仕事でしょう」

 

幸子は椅子から立ち上がった。

 

座っていたのは、ほんの数分である。ほんの数分のために、店を抜けてきたらしい。

 

「桃は大きく切る。クリームの色は変えない」

 

「写真に写らないよ」

 

「食べるものだから、味を変えてまで濃くしない」

 

幸子は、京子が言いそうなことを先に言った。

 

「それでいいんじゃない」

 

「京ちゃんに許可されたくない」

 

「聞きに来たのは幸子さんでしょう」

 

「余ったから持ってきただけです」

 

格子戸へ向かいながら、幸子が振り返る。

 

「クレープ、食べていいから」

 

「もう食べてる」

 

「そういうところは早いのね」

 

戸が閉まり、鈴が鳴った。

 

京子は椅子の背に残った小さなへこみを見ている。

 

幸子は、慰めに来たわけではない。赤いワンピースの客を見かけ、店の様子を確かめに来たのだろう。

 

何かあったのかと直接は聞かない。

 

京子が話さなければ、そのままクレープの感想だけを持って帰るつもりだったに違いない。

 

三時頃、今度は塚口が顔を出した。

 

「写真、いつできるんだ」

 

「今夜見る」

 

「今日じゃないのか」

 

「明日持っていくって言ったでしょう」

 

塚口は店の中へ入り、京子が勧める前に客用の椅子へ座る。

 

「市役所の人、何を聞いていった?」

 

「私は先に帰ったから、知らない」

 

「京ちゃんのことも記事にするのかね」

 

「しないでしょう」

 

「何で分かるんだ」

 

「私の取材じゃなかったから」

 

京子は作業机へ戻り、途中になっていたイヤリングを手に取る。

 

塚口は棚の品物を順番に眺めていた。男一人で入りやすい店ではない。落ち着かないのか、片方の膝だけが小さく動いている。

 

「おじさん、店は?」

 

「客がおらんから、少し閉めてきた」

 

「前より少ないだけじゃなかったの?」

 

「今日は、たまたまだ」

 

京子は金属線へペンチを当てる。

 

「市役所の人、取材は早かった?」

 

「気づいたら、終わっとった」

 

塚口は膝の動きを止めた。

 

「何を聞かれたか、よう覚えとらん」

 

「それで記事になるの?」

 

「書くことは、ちゃんと書いとったぞ」

 

「なら、なるんじゃない」

 

京子は金属線を少し曲げ、左右を見比べる。

 

今朝の店内を思い出そうとはしなかった。

 

撮影も塚口の取材も、客のコーヒーも、特に滞らず終わっている。

 

それで十分だと思っていた。

 

「京ちゃん」

 

「何?」

 

「ホットケーキ、市役所の人と食べたぞ」

 

「そう」

 

「代金を払うと言い張ってな」

 

「おじさん、受け取ったの?」

 

「半分だけもらった」

 

「どうして半分」

 

「俺も二切れ食べたから」

 

「細かいね」

 

「京ちゃんに言われたくないがね」

 

塚口は立ち上がる。

 

来た目的は写真の催促だったはずなのに、最初から急がせるつもりはなかったようだ。

 

「明日でいいからな」

 

「分かってる」

 

「忘れるなよ」

 

「忘れない」

 

塚口が格子戸を開ける。

 

外へ出る直前、店の白い看板を見た。

 

「余計なお世話ばっかりしとると、自分の仕事が遅れるぞ」

 

「誰のせいで写真を撮ったと思ってるの」

 

「頼んどらん」

 

「印刷代は出すんでしょう」

 

「写真を見てからな」

 

塚口は笑い、戸を閉めた。

 

店の中には、再びペンチの小さな音だけが残った。

 

京子は片方のイヤリングを仕上げ、最初に作ったものと並べた。

 

同じように作ったつもりでも、二つはわずかに違っている。

 

片方を直すか、もう片方を直すか。

 

京子はすぐに決めず、少し離れたところから見た。

 

二つ並んだときに、揃って見えればよい。

 

一つずつを、まったく同じにする必要はない。

 

 

久々のブログへの投稿です。

小説を書き始めてfacebook に掲載していたのですが、長編はなかなか掲載しづらくなったので、ここに掲載していきたいと思っています。

 

この作品は盗用禁止です。

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『 一人分の幅 』

 

第一章 湯気の写る店

 

冨永雄一が堀川西商店街へ着いたのは、約束の十五分前だった。

 

名古屋駅から歩いて十五分ほどのところにある。それでも大通りを二本越え、堀川に近づくにつれて、駅前の音は少しずつ遠くなっていく。

 

古い町家と新しい三階建ての住宅が、道の両側に並んでいる。その間には、かつて店だったらしい家も残っていた。色の褪せたテントに屋号は読めるものの、ガラス戸の内側に置かれているのは自転車が二台。もう客を迎える家ではないようだった。

 

六月の終わりである。

 

午前十時を過ぎたばかりなのに、名古屋の空気は湿っている。冨永は首元に指を入れ、ネクタイを少し緩めた。

 

薄い青地に銀色の線が入ったもので、三年前の誕生日に妻の綾子が選んでくれた。朝、家を出るとき、八歳の潤から、

 

「お父さん、今日は偉い人に会うの」

 

と聞かれた。

 

普段より、よいネクタイに見えたらしい。

 

「偉い人じゃない。商店街の人に会うんだ」

 

「何を買うの?」

 

「買い物に行くんじゃないよ」

 

そう答えたことが、いま思うと少しおかしい。

 

商店街へ行くのに、買い物をするつもりはない。話を聞き、写真を撮り、市民には足を運んでほしいと書く。仕事とはいえ、ずいぶん虫のよい話だった。

 

冨永は鞄から取材票を出す。

 

午前十時半、珈琲つかぐち店主、塚口徹。

 

前日に電話で確認し、店が比較的空いている時間を聞いてある。十一時を過ぎれば、早めの昼食を取る客が入り始めるらしい。

 

市の広報誌八月号。特集は

 

「歩いて見つける、町の商い」

 

店を紹介するだけなら難しくはない。看板商品を撮り、店主に創業年と苦労を聞けば、それなりに記事の形にはなる。

 

しかし、それでは一軒の店の宣伝で終わる。

 

商店街を書くには、店と店の間に何があるのかを見なければならない。

 

そう考えて来たものの、何を見ればよいのかまでは分かっていなかった。

 

アーケードの入口には、来月の七夕祭りを知らせる横断幕が張られている。右側は新しい紐、左側は針金。風が通るたび、針金の方だけが小さく鳴った。

 

その音に目を上げると、道の向こうに女がしゃがんでいる。

 

最初は、落とし物でも探しているのかと思った。

 

女は片膝を地面につくほど身体を低くし、古い喫茶店へカメラを向けていた。白いシャツの袖を肘までまくり、髪は後ろで一つに束ねている。首を傾けるたび、その毛先が肩の上を滑った。

 

一枚撮ると立ち上がる。

 

三歩右へ移り、またカメラを構えた。今度は撮らず、二歩戻る。通りかかった自転車へ道を譲る間も、店から目を離さない。

 

喫茶店の看板には

 

「珈琲つかぐち」

 

とあった。

 

今日の取材先である。

 

冨永は腕時計を見る。

 

まだ十二分ある。

 

女は撮影に集中している。いま名刺を出せば、塚口を呼び出すことになる。取材は、約束の時間からでいい。

 

冨永は店の正面を避け、アーケードの柱の脇へ移った。

 

京子はファインダーの中に、背広姿の男が入ってきたことに気づいていた。

 

店へ近づいてくるかと思ったが、画面から外れる方へ動く。男の姿がガラス扉への映り込みからも消えたところで、京子は店の正面を二枚撮った。

 

一歩下がり、看板まで入っていることを画面で確かめる。

 

右側が少し窮屈だった。

 

位置を変え、もう一枚撮る。

 

看板と入口、それから店の前の道。京子はカードの枠に収まるように撮った。

 

「京ちゃん、まだ撮るんか」

 

店の中から男が出てくる。

 

五十代半ばには少し届かないくらいだろう。白いシャツに茶色のエプロン。眼鏡を額に載せ、店の戸口に片手を掛けている。

 

「おじさん、そこに立たないで。店が半分隠れる」

 

京子は画面を見ながら言う。

 

男は顔をしかめたが、中へ戻ろうとはしない。身体を半歩ずらし、今度は看板の真下へ立った。

 

「そこも邪魔」

 

「どこならいいんだ」

 

「中」

 

「人を呼び出しといて、それはないだろう」

 

「呼んでないよ。さっきから自分で出てきてるんでしょう」

 

京子の口調に遠慮はない。

 

男も、本気で腹を立てている様子ではない。追い払われても戸口を離れないところを見ると、写真の出来が気になっているらしい。

 

男が冨永に気づく。

 

「あんた、市役所の人かね」

 

約束の相手らしい。

 

冨永は頭を下げたが、柱の脇からは動かなかった。

 

「冨永です。少し早く着きました」

 

「もう話を始めてもいいぞ」

 

「ありがとうございます。撮影が終わってからで結構です」

 

男が腕時計を見る。

 

京子もカメラから顔を上げた。

 

冨永と目が合う。

 

冨永はもう一度、軽く頭を下げる。京子も小さく返し、すぐ店へ向き直った。

 

「京ちゃん、早くせんと、市役所の人が待っとるぞ」

 

「だから、おじさんが入って」

 

「俺は、どこにおればいいんだ」

 

「お店の人なんだから、お店の中」

 

「市役所の人は外だぞ」

 

「写らないところにいるでしょう」

 

京子は、こちらを見ていない。それでも、背広の男がどこに立っているかは分かっている。

 

「外は、これで終わり」

 

京子は最後に画面を見直した。

 

「次はホットケーキ」

 

「まだ撮るんか」

 

「そのために来たんでしょう」

 

「カードの写真なら、もうあるがね」

 

「お皿を変えたでしょう」

 

「食べれば同じだ」

 

「写真は食べられないの」

 

二人は店の中へ入っていく。

 

冨永も扉の前まで来たが、すぐには開けなかった。

 

ガラス扉の向こうでは、京子が窓際のテーブルを動かしている。塚口は厨房へ入り、白い皿を用意していた。

 

通れるだけの幅ができたところで、冨永は扉を開けた。

 

小さな鈴が鳴った。

 

店内には、赤いビロード張りの椅子が六組。角は擦れて白くなっている。壁には昔の名古屋城の写真が掛かり、その下では振り子時計が音もなく動いていた。

 

「そこへ座って待っててください」

 

塚口が厨房から言う。

 

冨永は入口に近い二人掛けの席へ腰を下ろした。鞄を足元に置き、上着を椅子の背へ掛ける。

 

京子は窓際のカーテンに手を掛けていた。

 

全部は開けず、少し閉じる。白い皿へ光が強く当たりすぎないか、立つ位置から確かめている。

 

塚口がホットケーキを運んでくる。

 

二枚重ねの生地に、四角いバター。表面からは、まだ細い湯気が出ていた。

 

その途中で、ガラス扉の鈴が鳴る。

 

年配の男が一人、店へ入ってきた。

 

「いらっしゃい」

 

塚口の足が止まる。

 

客は入口の椅子を引こうとして、冨永に気づいた。奥の席へ行くか、そのまま待つか迷っている。

 

冨永は鞄と上着を持ち、隣の四人掛けへ移った。

 

「こちら、空きましたので」

 

「ああ、すみませんね」

 

客は二人掛けへ腰を下ろす。

 

「いつもの」

 

「はいよ」

 

塚口はホットケーキを窓際へ置き、厨房へ戻った。客の注文も撮影も、滞ることなく続いている。

 

京子は蜜の容器を受け取りながら、その動きを見ている。

 

撮影中は、見ていないようで周囲を見ている。誰が入ってきたか。どこで立ち止まったか。何が画面へ入り、何が消えたか。

 

冨永は、自分の席を移しただけだった。

 

京子は何も言わず、ホットケーキへ向き直る。

 

あの人は、気が利く人だな。

 

その印象だけが、頭の隅に残った。

 

「おじさん、蜜はこっちから掛けて」

 

「味は同じだろう」

 

「向こうから掛けたら、流れが見えないの」

 

塚口はコーヒーを淹れながら、京子の示す側から蜜を掛ける。琥珀色の線が生地の縁を伝い、白い皿へ落ちていった。

 

「もういい」

 

「まだ残っとるぞ」

 

「掛けすぎたら甘そうに見えるでしょう」

 

「甘いものだがね」

 

京子はカメラを構える。

 

一枚撮り、画面を確かめる。

 

皿の手前が少し暗い。

 

座る位置を変え、もう一枚。次はバターの上へピントを合わせる。最後に少し角度を上げ、コーヒーカップの縁まで入れた。

 

三枚の画面を順に見比べる。

 

そのうち一枚に、バターの上へ立つ細い湯気が残っていた。

 

「撮れた」

 

「湯気は?」

 

「写ってるよ」

 

塚口が画面を覗き込む。眼鏡を下ろすことを忘れていたらしく、一度顔を離し、額から眼鏡を下ろして、もう一度近づいた。

 

「どこに」

 

「ここ」

 

「傷じゃないのか」

 

「どうして写真に傷が写るの」

 

「レンズの傷とか」

 

「おじさん、前にも同じこと言ったでしょう」

 

冨永も少し離れたところから画面を見る。

 

バターの上に、細い白いものが立っていた。

 

実際の皿へ目を移すと、もう何も見えない。画面の中にだけ、焼き上がった直後の時間が残っていた。

 

「食べたくなる写真ですね」

 

冨永が言う。

 

塚口は画面から顔を上げた。

 

「そうでしょう」

 

「撮ったのは私」

 

「焼いたのは俺だがね」

 

二人は互いを見ない。

 

冨永には、その方が二人の親しさをよく表しているように思えた。

 

京子はカメラをテーブルへ置き、ホットケーキを壁際へ移す。

 

「お待たせしました」

 

「いえ」

 

冨永は腕時計を見た。

 

十時二十七分。

 

約束の三分前である。

 

「早く着いたんだな」

 

塚口が言う。

 

「初めての場所ですから、少し余裕を見てきました」

 

「迷わなかった?」

 

「送っていただいた地図が分かりやすかったので」

 

「それ、京ちゃんが作ったやつだわ」

 

塚口は京子を指す。

 

「おじさんの説明だと、曲がり角に何も書いてなかったから」

 

「来れば分かるがね」

 

「来る前の人には分からないでしょう」

 

冨永は、事前に受け取った地図を思い出す。

 

曲がり角にはコンビニや橋の名前が入り、商店街の入口から店まで、迷うところはなかった。

 

「助かりました」

 

冨永が言うと、京子は軽く頷いた。

 

礼を受け取っても、そこで笑顔を作ることはない。

 

冨永は名刺を二枚出す。

 

「改めまして、名古屋市役所広報課の冨永雄一です」

 

塚口へ一枚。

 

京子にも一枚を差し出した。

 

「長谷部京子です」

 

京子は冨永の名刺を受け取り、自分のものを返す。

 

白い紙には名前と電話番号、その下に〈装身具と服飾相談〉とある。

 

店名だけが、少し大きな文字で印刷されていた。

 

ー 余計なお世話 ー

 

冨永の目がそこに止まる。

 

「これは、店の名前ですか」

 

「そうです」

 

「変わった名前ですね」

 

「よく言われます」

 

「京ちゃんにぴったりだがね」

 

塚口が口を挟んだ。

 

京子はそちらを見ず、カメラを鞄へ収めている。

 

「近くでアクセサリーの店をしています。お客さんの服にまで口を出すので、そういう名前になりました」

 

「写真も、お仕事で?」

 

「ここのは、余計なお世話です」

 

京子は鞄から一枚のカードを出し、冨永へ渡す。

 

表には、いま撮ったものとは別のホットケーキ。裏には、店までの地図と営業時間が載っていた。

 

「駅前の案内所と、近くのホテルに置いてもらっています」

 

「効果はありました?」

 

「先月、ホットケーキが二十一枚増えました」

 

「二十枚だ」

 

塚口が言う。

 

「二十一枚。最後の土曜日に、親子で一枚ずつ頼んだでしょう」

 

「子供は、母親のを半分食べとった」

 

「注文は二枚だから、二十一枚」

 

「細かいなあ」

 

塚口は文句を言いながら、顔は少し嬉しそうだった。

 

ガラス扉の鈴が、もう一度鳴る。

 

今度は、買い物籠を持った女が二人入ってきた。

 

「塚口さん、四人いい?」

 

「どうぞ。奥が空いとるよ」

 

あとから二人来るらしい。

 

塚口が席を示す。

 

京子は壁際のホットケーキを取り、空いている小さなテーブルへ移した。冨永は上着を着ずに手へ掛け、四人掛けから元の二人掛けへ戻る。

 

客がそれぞれの席へ収まる頃には、通路が空いていた。

 

誰も声を掛け合っていない。

 

塚口は水を運び、京子はカメラを鞄へ入れ、冨永は取材票を開く。

 

「塚口さん、この店は何年になりますか」

 

「親父の代からなら、五十四年だな」

 

「以前と比べて、お客さんは?」

 

「減っとらん。前より少ないだけだ」

 

「それを減ったと言うんでしょう」

 

京子が言う。

 

「京ちゃんには聞いとらん」

 

「二十一枚を数えたのは私」

 

「数えたのは俺だがね」

 

冨永は取材票に、五十四年と書いた。

 

客の多い時間。店を継いだ時期。昔と変わったこと。塚口へ質問するたび、京子が横から一言加え、塚口が訂正する。

 

どちらの話を聞いているのか、分からなくなる。

 

それでも、必要なことは少しずつ取材票に埋まっていった。

 

京子が腕時計を見る。

 

十一時まで、まだ七分ある。

 

「では、私は店へ戻ります」

 

「写真はどうするんだ」

 

「明日、持ってくる」

 

「今日じゃないのか」

 

「今日は店を開けるの」

 

京子は鞄を肩へ掛けた。

 

冨永に軽く頭を下げる。

 

「お先に失礼します」

 

「ありがとうございました」

 

格子戸の鈴が鳴り、京子の姿が外の明るさへ消えた。

 

冨永は取材票へ目を落とす。

 

店を始めた年。客の多い時間。近頃変わったこと。聞くつもりだった項目には、すでに書き込みがある。

 

その紙の端に、京子が書いた小さな数字が残っていた。

 

「二十一枚」。

 

必要な数字ではない。記事にするなら、塚口が自分で言った二十枚でも十分だった。

 

冨永はその数字を消さずに、取材票を閉じた。

 

午前中の店内を思い出す。

 

カメラを構えたときの京子の横顔。塚口に「中」と言った声。ホットケーキの湯気を見つけたときだけ、ほんの少し口元が緩んだこと。

 

仕事に必要だったかと考えれば、必要ではない。

 

それでも、思い出すと気持ちが軽くなる。

 

冨永は自分でも、それを少し不思議に思った。

 

「まだ聞くこと、あるんかね」

 

塚口がコーヒーを置いた。

 

「いえ。だいたい伺えました」

 

「いつ聞いたんだ」

 

冨永にも、よく分からなかった。

 

壁際には、撮影を終えたホットケーキが残っている。

 

「それは、どうします?」

 

「京ちゃんが食べると思っとったのに、帰ってまった」

 

「捨てるんですか」

 

「食べるかね」

 

「代金は払います」

 

「撮影用だぞ」

 

「食べれば商品です」

 

塚口は一度、冨永の顔を見た。

 

それからホットケーキを四つに切り、二切れずつ別の皿へ載せる。

 

「俺も食うのか」

 

「焼いた方の責任でしょう」

 

午前中、京子が言ったのと似た言葉だった。

 

塚口が笑う。

 

「市役所の人も、余計なことを言うなあ」

 

冨永は、受け取った名刺を取材票の上へ置いた。

 

  余計なお世話

 

店の名前としては、少し変わっている。

 

ただ、今朝この店で起きたことには、妙に合っているような気がした。

 

 

 

 

せっかくお越しいただいたのですが、このブログは現在使っておりません。

face book に移行しておりますので、もしよろしければそちらをご覧いただけると幸いです。

          2025 / 9 / 5    中垣寿一

 

ブログを再開します。

2026年8月、年齢も71を数え、仕事を引退し、面白いことをやろうといろいろやってきました。

その中には

 

「日産ノート e-power 車の燃費を上げる」

「100均の商品を使って、車の洗車傷を目立たなくさせる」

「レンズ交換式デジタルカメラの解像度を上げる」

「ギックリ腰をブルブル振動マシンで完治させる」

 

など、他にもいろいろやって目標はすべて達成してきました。

他にも取り組みたいと思えるものもありましたが、体力の減退を少し感じ始め、記憶力がやや落ちてきた昨今、机の前に落ち着いて座ることができるようになりました。

以前は、机の前に座っているのが苦痛でね。

年齢が、ようやく「小説を書く」域に達したと実感しています。

 

思い返せば、

大学で勉強もせずに演劇部の活動に没頭し、脚本と演出を担当して、後に有志で劇団を立ち上げて京都の河原町三条の十字屋小ホールで全席名前を指定して芝居を行なって成功させました。

大学を無事に4年で卒業し、大阪アベノ辻調理師学校に行って中退し、リクルートやダイエーのグループ会社で営業(今から思えば、結婚のため、両親や妻の親を納得させるために定職についていた時期でした、笑)。

 

1992年から1997年まで、シナリオライター&ディレクター&カメラマン&ノンリニアエディターとして、ビデオ制作に携わってきて、約80本以上の作品を制作。

 

1997年から2016年まで、Panasonic と個人的に請け負い契約し、ノンリニアインストラクターやテクニカルコーディネーターとして、日本全国、海外にも出張させていただき、Panasonic の売り上げにも貢献。

 

なんとバイタリティー豊かな学生時代や仕事人生でした。

エネルギーが底なしのように湧き出ていましたね。

 

70歳を過ぎたあたりから、ようやく書きたかった小説の執筆にかかったと言うわけです。

主に facebook に小説を掲載してきましたが、ブログにも掲載を始めてみようと思います。

すでに facebook には、6本前後書いているので、こちらにも移してきたいと思っています。

今後とも、よろしくお願いします。

 

 

以前もどこかに書いたのですが、僕の葬儀には自分で演奏したショパンの「ノクターン 第20番 嬰ハ短調 遺作」を流してもらおうと考えています。

下手でもいいので、なんとかこの一曲を習得したいと考えているのです。

これまで、どの演奏を参考にしようかとYouTubeでいろいろ聴いてみたのですが、なかなか納得できる演奏がありませんでした。

巨匠と言われる方の演奏も間の取り方やリズムなどが気に入りません。

また、今注目のピアニストの方の演奏もクセが強く、ピアニストの自己満足が気になって聴けたものじゃありませんでした。

たまたま見つけた演奏がとてもしっくり聴けたので、誰だろうと調べると、フジコ・ヘミングでした。

 

 

カンパネラが有名ですが、ショパンのノクターンも素晴らしい。

これは、僕の勝手な意見ですが、人によって曲の受け取り方は千差万別だと思います。

なので、フジコ・ヘミングさん以外の方の演奏の方が良いと思われる方も当然おられると思います。

それはさておき、何度か聴くうちに、実に基本に忠実な演奏でありながらフジコ・ヘミングさんの世界が広がっていくことに気づきます。

まぁ、足元にも及びませんが、なんとか弾けるように頑張ってみようと思います。

 

ちなみに、この曲はショパンが亡くなった後に見つかったもので「遺作」と言われます。

妹のために練習曲として書かれたと聞いたことがあります。

それにしても、一つ一つの音がやさしく奏でられ、光のツブがこぼれ落ちてきそうです。

大昔に、ショパンは自分でつくったこの曲を聴いてどのように思ったのでしょうね。

とても興味があります。