久々のブログへの投稿です。

小説を書き始めてfacebook に掲載していたのですが、長編はなかなか掲載しづらくなったので、ここに掲載していきたいと思っています。

 

この作品は盗用禁止です。

AIに登録してネット監視していますので、ご注意ください。

 

 

『 一人分の幅 』

 

第一章 湯気の写る店

 

冨永雄一が堀川西商店街へ着いたのは、約束の十五分前だった。

 

名古屋駅から歩いて十五分ほどのところにある。それでも大通りを二本越え、堀川に近づくにつれて、駅前の音は少しずつ遠くなっていく。

 

古い町家と新しい三階建ての住宅が、道の両側に並んでいる。その間には、かつて店だったらしい家も残っていた。色の褪せたテントに屋号は読めるものの、ガラス戸の内側に置かれているのは自転車が二台。もう客を迎える家ではないようだった。

 

六月の終わりである。

 

午前十時を過ぎたばかりなのに、名古屋の空気は湿っている。冨永は首元に指を入れ、ネクタイを少し緩めた。

 

薄い青地に銀色の線が入ったもので、三年前の誕生日に妻の綾子が選んでくれた。朝、家を出るとき、八歳の潤から、

 

「お父さん、今日は偉い人に会うの」

 

と聞かれた。

 

普段より、よいネクタイに見えたらしい。

 

「偉い人じゃない。商店街の人に会うんだ」

 

「何を買うの?」

 

「買い物に行くんじゃないよ」

 

そう答えたことが、いま思うと少しおかしい。

 

商店街へ行くのに、買い物をするつもりはない。話を聞き、写真を撮り、市民には足を運んでほしいと書く。仕事とはいえ、ずいぶん虫のよい話だった。

 

冨永は鞄から取材票を出す。

 

午前十時半、珈琲つかぐち店主、塚口徹。

 

前日に電話で確認し、店が比較的空いている時間を聞いてある。十一時を過ぎれば、早めの昼食を取る客が入り始めるらしい。

 

市の広報誌八月号。特集は

 

「歩いて見つける、町の商い」

 

店を紹介するだけなら難しくはない。看板商品を撮り、店主に創業年と苦労を聞けば、それなりに記事の形にはなる。

 

しかし、それでは一軒の店の宣伝で終わる。

 

商店街を書くには、店と店の間に何があるのかを見なければならない。

 

そう考えて来たものの、何を見ればよいのかまでは分かっていなかった。

 

アーケードの入口には、来月の七夕祭りを知らせる横断幕が張られている。右側は新しい紐、左側は針金。風が通るたび、針金の方だけが小さく鳴った。

 

その音に目を上げると、道の向こうに女がしゃがんでいる。

 

最初は、落とし物でも探しているのかと思った。

 

女は片膝を地面につくほど身体を低くし、古い喫茶店へカメラを向けていた。白いシャツの袖を肘までまくり、髪は後ろで一つに束ねている。首を傾けるたび、その毛先が肩の上を滑った。

 

一枚撮ると立ち上がる。

 

三歩右へ移り、またカメラを構えた。今度は撮らず、二歩戻る。通りかかった自転車へ道を譲る間も、店から目を離さない。

 

喫茶店の看板には

 

「珈琲つかぐち」

 

とあった。

 

今日の取材先である。

 

冨永は腕時計を見る。

 

まだ十二分ある。

 

女は撮影に集中している。いま名刺を出せば、塚口を呼び出すことになる。取材は、約束の時間からでいい。

 

冨永は店の正面を避け、アーケードの柱の脇へ移った。

 

京子はファインダーの中に、背広姿の男が入ってきたことに気づいていた。

 

店へ近づいてくるかと思ったが、画面から外れる方へ動く。男の姿がガラス扉への映り込みからも消えたところで、京子は店の正面を二枚撮った。

 

一歩下がり、看板まで入っていることを画面で確かめる。

 

右側が少し窮屈だった。

 

位置を変え、もう一枚撮る。

 

看板と入口、それから店の前の道。京子はカードの枠に収まるように撮った。

 

「京ちゃん、まだ撮るんか」

 

店の中から男が出てくる。

 

五十代半ばには少し届かないくらいだろう。白いシャツに茶色のエプロン。眼鏡を額に載せ、店の戸口に片手を掛けている。

 

「おじさん、そこに立たないで。店が半分隠れる」

 

京子は画面を見ながら言う。

 

男は顔をしかめたが、中へ戻ろうとはしない。身体を半歩ずらし、今度は看板の真下へ立った。

 

「そこも邪魔」

 

「どこならいいんだ」

 

「中」

 

「人を呼び出しといて、それはないだろう」

 

「呼んでないよ。さっきから自分で出てきてるんでしょう」

 

京子の口調に遠慮はない。

 

男も、本気で腹を立てている様子ではない。追い払われても戸口を離れないところを見ると、写真の出来が気になっているらしい。

 

男が冨永に気づく。

 

「あんた、市役所の人かね」

 

約束の相手らしい。

 

冨永は頭を下げたが、柱の脇からは動かなかった。

 

「冨永です。少し早く着きました」

 

「もう話を始めてもいいぞ」

 

「ありがとうございます。撮影が終わってからで結構です」

 

男が腕時計を見る。

 

京子もカメラから顔を上げた。

 

冨永と目が合う。

 

冨永はもう一度、軽く頭を下げる。京子も小さく返し、すぐ店へ向き直った。

 

「京ちゃん、早くせんと、市役所の人が待っとるぞ」

 

「だから、おじさんが入って」

 

「俺は、どこにおればいいんだ」

 

「お店の人なんだから、お店の中」

 

「市役所の人は外だぞ」

 

「写らないところにいるでしょう」

 

京子は、こちらを見ていない。それでも、背広の男がどこに立っているかは分かっている。

 

「外は、これで終わり」

 

京子は最後に画面を見直した。

 

「次はホットケーキ」

 

「まだ撮るんか」

 

「そのために来たんでしょう」

 

「カードの写真なら、もうあるがね」

 

「お皿を変えたでしょう」

 

「食べれば同じだ」

 

「写真は食べられないの」

 

二人は店の中へ入っていく。

 

冨永も扉の前まで来たが、すぐには開けなかった。

 

ガラス扉の向こうでは、京子が窓際のテーブルを動かしている。塚口は厨房へ入り、白い皿を用意していた。

 

通れるだけの幅ができたところで、冨永は扉を開けた。

 

小さな鈴が鳴った。

 

店内には、赤いビロード張りの椅子が六組。角は擦れて白くなっている。壁には昔の名古屋城の写真が掛かり、その下では振り子時計が音もなく動いていた。

 

「そこへ座って待っててください」

 

塚口が厨房から言う。

 

冨永は入口に近い二人掛けの席へ腰を下ろした。鞄を足元に置き、上着を椅子の背へ掛ける。

 

京子は窓際のカーテンに手を掛けていた。

 

全部は開けず、少し閉じる。白い皿へ光が強く当たりすぎないか、立つ位置から確かめている。

 

塚口がホットケーキを運んでくる。

 

二枚重ねの生地に、四角いバター。表面からは、まだ細い湯気が出ていた。

 

その途中で、ガラス扉の鈴が鳴る。

 

年配の男が一人、店へ入ってきた。

 

「いらっしゃい」

 

塚口の足が止まる。

 

客は入口の椅子を引こうとして、冨永に気づいた。奥の席へ行くか、そのまま待つか迷っている。

 

冨永は鞄と上着を持ち、隣の四人掛けへ移った。

 

「こちら、空きましたので」

 

「ああ、すみませんね」

 

客は二人掛けへ腰を下ろす。

 

「いつもの」

 

「はいよ」

 

塚口はホットケーキを窓際へ置き、厨房へ戻った。客の注文も撮影も、滞ることなく続いている。

 

京子は蜜の容器を受け取りながら、その動きを見ている。

 

撮影中は、見ていないようで周囲を見ている。誰が入ってきたか。どこで立ち止まったか。何が画面へ入り、何が消えたか。

 

冨永は、自分の席を移しただけだった。

 

京子は何も言わず、ホットケーキへ向き直る。

 

あの人は、気が利く人だな。

 

その印象だけが、頭の隅に残った。

 

「おじさん、蜜はこっちから掛けて」

 

「味は同じだろう」

 

「向こうから掛けたら、流れが見えないの」

 

塚口はコーヒーを淹れながら、京子の示す側から蜜を掛ける。琥珀色の線が生地の縁を伝い、白い皿へ落ちていった。

 

「もういい」

 

「まだ残っとるぞ」

 

「掛けすぎたら甘そうに見えるでしょう」

 

「甘いものだがね」

 

京子はカメラを構える。

 

一枚撮り、画面を確かめる。

 

皿の手前が少し暗い。

 

座る位置を変え、もう一枚。次はバターの上へピントを合わせる。最後に少し角度を上げ、コーヒーカップの縁まで入れた。

 

三枚の画面を順に見比べる。

 

そのうち一枚に、バターの上へ立つ細い湯気が残っていた。

 

「撮れた」

 

「湯気は?」

 

「写ってるよ」

 

塚口が画面を覗き込む。眼鏡を下ろすことを忘れていたらしく、一度顔を離し、額から眼鏡を下ろして、もう一度近づいた。

 

「どこに」

 

「ここ」

 

「傷じゃないのか」

 

「どうして写真に傷が写るの」

 

「レンズの傷とか」

 

「おじさん、前にも同じこと言ったでしょう」

 

冨永も少し離れたところから画面を見る。

 

バターの上に、細い白いものが立っていた。

 

実際の皿へ目を移すと、もう何も見えない。画面の中にだけ、焼き上がった直後の時間が残っていた。

 

「食べたくなる写真ですね」

 

冨永が言う。

 

塚口は画面から顔を上げた。

 

「そうでしょう」

 

「撮ったのは私」

 

「焼いたのは俺だがね」

 

二人は互いを見ない。

 

冨永には、その方が二人の親しさをよく表しているように思えた。

 

京子はカメラをテーブルへ置き、ホットケーキを壁際へ移す。

 

「お待たせしました」

 

「いえ」

 

冨永は腕時計を見た。

 

十時二十七分。

 

約束の三分前である。

 

「早く着いたんだな」

 

塚口が言う。

 

「初めての場所ですから、少し余裕を見てきました」

 

「迷わなかった?」

 

「送っていただいた地図が分かりやすかったので」

 

「それ、京ちゃんが作ったやつだわ」

 

塚口は京子を指す。

 

「おじさんの説明だと、曲がり角に何も書いてなかったから」

 

「来れば分かるがね」

 

「来る前の人には分からないでしょう」

 

冨永は、事前に受け取った地図を思い出す。

 

曲がり角にはコンビニや橋の名前が入り、商店街の入口から店まで、迷うところはなかった。

 

「助かりました」

 

冨永が言うと、京子は軽く頷いた。

 

礼を受け取っても、そこで笑顔を作ることはない。

 

冨永は名刺を二枚出す。

 

「改めまして、名古屋市役所広報課の冨永雄一です」

 

塚口へ一枚。

 

京子にも一枚を差し出した。

 

「長谷部京子です」

 

京子は冨永の名刺を受け取り、自分のものを返す。

 

白い紙には名前と電話番号、その下に〈装身具と服飾相談〉とある。

 

店名だけが、少し大きな文字で印刷されていた。

 

ー 余計なお世話 ー

 

冨永の目がそこに止まる。

 

「これは、店の名前ですか」

 

「そうです」

 

「変わった名前ですね」

 

「よく言われます」

 

「京ちゃんにぴったりだがね」

 

塚口が口を挟んだ。

 

京子はそちらを見ず、カメラを鞄へ収めている。

 

「近くでアクセサリーの店をしています。お客さんの服にまで口を出すので、そういう名前になりました」

 

「写真も、お仕事で?」

 

「ここのは、余計なお世話です」

 

京子は鞄から一枚のカードを出し、冨永へ渡す。

 

表には、いま撮ったものとは別のホットケーキ。裏には、店までの地図と営業時間が載っていた。

 

「駅前の案内所と、近くのホテルに置いてもらっています」

 

「効果はありました?」

 

「先月、ホットケーキが二十一枚増えました」

 

「二十枚だ」

 

塚口が言う。

 

「二十一枚。最後の土曜日に、親子で一枚ずつ頼んだでしょう」

 

「子供は、母親のを半分食べとった」

 

「注文は二枚だから、二十一枚」

 

「細かいなあ」

 

塚口は文句を言いながら、顔は少し嬉しそうだった。

 

ガラス扉の鈴が、もう一度鳴る。

 

今度は、買い物籠を持った女が二人入ってきた。

 

「塚口さん、四人いい?」

 

「どうぞ。奥が空いとるよ」

 

あとから二人来るらしい。

 

塚口が席を示す。

 

京子は壁際のホットケーキを取り、空いている小さなテーブルへ移した。冨永は上着を着ずに手へ掛け、四人掛けから元の二人掛けへ戻る。

 

客がそれぞれの席へ収まる頃には、通路が空いていた。

 

誰も声を掛け合っていない。

 

塚口は水を運び、京子はカメラを鞄へ入れ、冨永は取材票を開く。

 

「塚口さん、この店は何年になりますか」

 

「親父の代からなら、五十四年だな」

 

「以前と比べて、お客さんは?」

 

「減っとらん。前より少ないだけだ」

 

「それを減ったと言うんでしょう」

 

京子が言う。

 

「京ちゃんには聞いとらん」

 

「二十一枚を数えたのは私」

 

「数えたのは俺だがね」

 

冨永は取材票に、五十四年と書いた。

 

客の多い時間。店を継いだ時期。昔と変わったこと。塚口へ質問するたび、京子が横から一言加え、塚口が訂正する。

 

どちらの話を聞いているのか、分からなくなる。

 

それでも、必要なことは少しずつ取材票に埋まっていった。

 

京子が腕時計を見る。

 

十一時まで、まだ七分ある。

 

「では、私は店へ戻ります」

 

「写真はどうするんだ」

 

「明日、持ってくる」

 

「今日じゃないのか」

 

「今日は店を開けるの」

 

京子は鞄を肩へ掛けた。

 

冨永に軽く頭を下げる。

 

「お先に失礼します」

 

「ありがとうございました」

 

格子戸の鈴が鳴り、京子の姿が外の明るさへ消えた。

 

冨永は取材票へ目を落とす。

 

店を始めた年。客の多い時間。近頃変わったこと。聞くつもりだった項目には、すでに書き込みがある。

 

その紙の端に、京子が書いた小さな数字が残っていた。

 

「二十一枚」。

 

必要な数字ではない。記事にするなら、塚口が自分で言った二十枚でも十分だった。

 

冨永はその数字を消さずに、取材票を閉じた。

 

午前中の店内を思い出す。

 

カメラを構えたときの京子の横顔。塚口に「中」と言った声。ホットケーキの湯気を見つけたときだけ、ほんの少し口元が緩んだこと。

 

仕事に必要だったかと考えれば、必要ではない。

 

それでも、思い出すと気持ちが軽くなる。

 

冨永は自分でも、それを少し不思議に思った。

 

「まだ聞くこと、あるんかね」

 

塚口がコーヒーを置いた。

 

「いえ。だいたい伺えました」

 

「いつ聞いたんだ」

 

冨永にも、よく分からなかった。

 

壁際には、撮影を終えたホットケーキが残っている。

 

「それは、どうします?」

 

「京ちゃんが食べると思っとったのに、帰ってまった」

 

「捨てるんですか」

 

「食べるかね」

 

「代金は払います」

 

「撮影用だぞ」

 

「食べれば商品です」

 

塚口は一度、冨永の顔を見た。

 

それからホットケーキを四つに切り、二切れずつ別の皿へ載せる。

 

「俺も食うのか」

 

「焼いた方の責任でしょう」

 

午前中、京子が言ったのと似た言葉だった。

 

塚口が笑う。

 

「市役所の人も、余計なことを言うなあ」

 

冨永は、受け取った名刺を取材票の上へ置いた。

 

  余計なお世話

 

店の名前としては、少し変わっている。

 

ただ、今朝この店で起きたことには、妙に合っているような気がした。