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『 一人分の幅 』

 

第三章 去年の日付

 

冨永が市役所へ戻ると、福田昭夫が昼食から帰ってきたところだった。

 

コンビニの袋を机の横へ置き、紙コップのコーヒーを手にしている。席へ着く前に、冨永の鞄を見た。

 

「商店街、どうだった」

 

「まだ分からない」

 

「写真は?」

 

「撮ってない」

 

「何しに行ったんだ」

 

「話を聞きに」

 

福田は一瞬、冨永の顔を見た。

 

「広報課が写真を撮らずに帰ってきたら、半分は仕事を残してきたようなものだろう」

 

福田は椅子へ座り、袋から小さな菓子パンを取り出す。

 

「食べた?」

 

「ホットケーキを半分」

 

「取材じゃなくて、おやつじゃないか」

 

「撮影に使ったものが残ったんだよ」

 

「誰の撮影?」

 

冨永は机の上へ取材票を置いた。

 

「近くでアクセサリーの店をしている人。商店街の店を撮って、カードを作ってる」

 

「頼まれて?」

 

「頼まれたり、頼まれなかったりらしい」

 

「何だ、それ」

 

「店の名前が『余計なお世話』なんだ」

 

福田は菓子パンを口へ入れかけたまま、冨永を見る。

 

「本当に?」

 

「名刺もある」

 

冨永が見せようとすると、福田は片手を上げた。

 

「いや、仕事中にほかの店の名刺を見ても仕方がない」

 

先に聞いたのは福田である。

 

冨永は名刺を取材票の間へ戻した。

 

午後は、別の原稿の校正に追われた。

 

市内の公園で始まる夏休み向けの催しと、図書館の開館時間変更。商店街の取材票を開いたのは、四時を過ぎてからである。

 

塚口の話は、思ったより多く書き取れていた。

 

店を継いだのは二十八年前。父親が体調を崩し、会社勤めを辞めて戻った。モーニングは朝七時から十時半まで。十一時を過ぎると、近所の店主や会社員が早めの昼食に来る。

 

昔と変わったこと、という欄には、京子の言葉まで入っていた。

 

店の前を歩く人が減った。自転車で通り過ぎる人が増えた。

 

塚口自身は、そんな言い方をしていない。

 

「昔は、顔を見てから店へ入るか決めとった。今は、もう店の前を通り過ぎとる」

 

塚口がそう言ったあと、京子が、

 

「歩いている人は店を見るけど、自転車の人は前しか見ないから」

 

と加えたのである。

 

冨永は二つの言葉を並べた。

 

どちらか一つだけでは、言いたいことが足りない。並べると、商店街の道まで見えてくる気がした。

 

原稿を書き始めたところで、安田利明が机の横に立つ。

 

「一軒目はどうだった」

 

「喫茶店は、親の代から五十四年です」

 

「客は?」

 

「店主は減っていないと言っています。前より少ないだけだそうです」

 

「同じじゃないか」

 

「本人には違うようです」

 

安田は、取材票に目をやった。

 

「ほかの店は?」

 

「これからです」

 

「一軒だけで決めるなよ」

 

「分かっています」

 

「一人の話が面白いと、町全体がそうだと思いたくなるからな」

 

安田は自分の机へ戻っていく。

 

冨永は取材票を裏返した。

 

塚口の話が、面白くなかったわけではない。京子とのやり取りも、記事にすれば読まれるだろう。

 

だが、市の広報誌に二人の会話を載せても、店を知らない人には届かない。

 

店が五十四年続いた理由。客が減っても閉めない理由。カードを作ったことで、ホットケーキが二十一枚増えたこと。

 

どこまでが店の話で、どこからが商店街の話なのか。

 

冨永は、まだ決めなかった。

 

翌日は、中村クレープと種井ラーメンを訪ねた。

 

中村幸子は、七年前に空き店舗を借りて店を始めている。

 

「ここを選んだ理由ですか。家賃が安かったからです」

 

冨永が期待していた町への思いなど、最初はなかったという。

 

「駅に近いし、若い人向けの食べ物も少なかった。うまくいくと思ったんです。でも、人が通るのと、店へ入るのは別でした」

 

幸子はクレープの生地を焼きながら話した。

 

鉄板へ丸く広げた生地の端が、少しずつ乾いていく。話の途中でも、幸子の手は止まらない。

 

種井良一は、最初に名刺を受け取ったものの、写真は断ると言った。

 

「まだ写真の話はしていません」

 

「市の広報なら撮るでしょう」

 

「必要なら、お願いします」

 

「必要でも、断ります」

 

四十二歳。父親からラーメン店を継いで十二年になる。

 

店先の看板に使われている写真は、十七年前のものだった。器も値段も変わっているが、種井は替えるつもりがない。

 

「これを見て来る人はいませんから」

 

「替えれば、来るかもしれません」

 

「来ればいいってものでもないでしょう」

 

昼休みには、近くの会社から常連客が来る。十席ほどしかない店である。外から客が集まって列ができれば、毎週来る人が入れなくなる。

 

「一度来る人より、何度も来る人が大事なんですね」

 

冨永が言うと、種井は首を傾けた。

 

「そういうきれいな話でもないです。初めて来る人だって、ありがたいですよ。ただ、どっちが大事かなんて、決められないだけです」

 

冨永は、その言葉をそのまま取材票へ書いた。

 

まとめるのは、あとでよい。

 

三軒を回り終えた翌週、冨永は最初の原稿を安田へ提出した。

 

安田は老眼鏡を掛け、一枚目から読み始める。

 

冨永は自分の席へ戻った。

 

安田が読む間、近くに立って待つことはしない。修正があれば呼ばれる。それまでに、別の仕事を進める方がよかった。

 

三十分ほどして、内線が鳴った。

 

「冨永、ちょっと来い」

 

安田の机には、原稿と、商店街で受け取った七夕祭りのチラシが並んでいる。

 

「祭りの日付、これで合っているか」

 

「七月二十七日と二十八日です」

 

「チラシは、二十日と二十一日になってるぞ」

 

冨永は原稿を見る。

 

七月二十七日、二十八日。

 

取材の日、アーケードに張られていた横断幕の日付を控えたものである。

 

チラシには、その一週間前の日付が印刷されていた。

 

「確認します」

 

冨永は原稿とチラシを持ち、自分の席へ戻った。

 

商店街振興組合へ電話をかける。

 

事務局の女性は、すぐには答えられなかった。担当者が席を外しており、十分ほど待ってほしいという。

 

「分かりました。折り返しをお願いします」

 

冨永は受話器を置き、原稿のほかの数字を見直す。

 

創業年、営業時間、店の数。取材票と一つずつ照らし合わせた。

 

福田が隣からチラシを覗く。

 

「横断幕は去年のものじゃないか」

 

「どうして?」

 

「今年の七月二十七日は月曜日だぞ。祭りを月曜と火曜にはしないだろう」

 

福田はパソコンのカレンダーを開いている。

 

横断幕の右側は新しい紐、左側は古い針金だった。日に焼けた布の端も、少しほつれている。

 

去年のものを、告知用に一時的に張っていた可能性がある。

 

「横断幕を見て書いたのか」

 

「そうだ」

 

「チラシを先にもらってたんだろう」

 

「鞄の中に入れたままだった」

 

「珍しいな」

 

福田は、自分の席へ戻る。

 

責めるような声ではない。冨永が数字を確認せず原稿へ入れたことを、本当に珍しいと思っているようだった。

 

振興組合から電話が入る。

 

今年の祭りは、七月二十日と二十一日。横断幕は去年のものを出してしまい、すでに張り替えたという。

 

「こちらも横断幕の日付だけで原稿を書いてしまいました。確認できてよかったです」

 

冨永は原稿を訂正し、安田へ持っていく。

 

「私の確認不足でした。今年は二十日と二十一日です」

 

「印刷前でよかったな」

 

「ほかの数字も確認しました」

 

「福田が見つけたのか」

 

「最初に気づいたのは安田さんです」

 

「そういう話をしてるんじゃない」

 

安田は訂正された原稿を見る。

 

「原因は?」

 

「去年の横断幕を見て、そのまま書きました。チラシとの照合をしていませんでした」

 

「なら、次からどうする」

 

「催事の日付は、主催者へ最終確認を取ります」

 

安田は原稿の右上へ、小さな丸を付けた。

 

「それでいい」

 

席へ戻ると、福田が画面を見たまま聞く。

 

「怒られた?」

 

「確認しろと言われた」

 

「俺が気づいたと言った?」

 

「安田さんが先だ」

 

「俺の手柄は?」

 

「カレンダーを見ただけだろう」

 

「見るべきところを見たんだ」

 

福田は冗談めかして言い、コーヒーを飲む。

 

冨永は訂正前の原稿を二つに折り、再利用する紙の箱へ入れた。

 

破って捨てる必要はないと思った。

 

間違えた跡だけを消しても、次に確認する場所は分からない。訂正前の原稿を残しておけば、校正のときにもう一度見直せる。

 

その日の夜、冨永が帰宅すると、潤が居間の床に商店街を作っていた。

 

牛乳パックを切った家が六軒、菓子箱で作った建物が一軒。道路には黒い色鉛筆で中央線が引かれ、その上を赤いミニカーが走っている。

 

「ただいま」

 

「お父さん、踏まないで」

 

顔を上げるより先に注意された。

 

冨永は片足を上げたまま、床を見回す。玄関から居間へ入るには、商店街の裏側にある細い道を通らなければならない。

 

「ここを歩いていいのか」

 

「そこは駐車場」

 

「道はどこだよ」

 

「商店街に車で来た人は、駐車場から歩くの」

 

「お父さんは車じゃない」

 

潤は少し考え、菓子箱の建物を十センチほど横へ動かした。

 

「じゃあ、ここ」

 

人一人が通れる道ができる。

 

冨永は身体を横にし、壁との隙間を通った。

 

食卓では、綾子が夕食を並べている。

 

「遅くなるなら、連絡してよ」

 

「ごめん。原稿の確認に時間がかかった」

 

「また何か間違えた?」

 

「どうして、またなんだ」

 

「遅い日に、だいたいそう言うから」

 

綾子は味噌汁の椀を置いた。

 

「日付を一週間間違えた」

 

「珍しい」

 

福田と同じことを言う。

 

「横断幕が去年のものだったんだ」

 

「横断幕のせい?」

 

「いや。確認しなかった俺のせい」

 

「直ったんでしょう」

 

「印刷前だったから」

 

「なら、よかったじゃない」

 

綾子はそれ以上聞かない。

 

失敗した理由も、誰が見つけたのかも、家では必要のない話だった。

 

「お父さん、ここの店、何がいいと思う?」

 

潤が、何も書かれていない白い箱を持っている。

 

「何の店でもいいのか」

 

「うん」

 

「パン屋は?」

 

「もうある」

 

「本屋」

 

「向こうにある」

 

「じゃあ、アクセサリーの店」

 

言ってから、京子の店を思い出した。

 

潤は白い箱を見る。

 

「アクセサリーって何?」

 

「ネックレスとか、イヤリングとか」

 

「誰が買うの?」

 

「欲しい人」

 

「僕はいらない」

 

「潤の町だから、潤が決めればいいよ」

 

冨永は椅子へ座る。

 

潤は白い箱を、通りの端へ置いた。少し離れて眺め、また動かす。

 

「ここは、まだ空き店舗」

 

「店を決めないのか」

 

「あとで決める」

 

潤は、そのまま夕食の席へ来る。

 

白い箱だけが、町の端に残っている。

 

翌朝、市役所へ着くと、安田が一枚の書類を冨永の机へ置いた。

 

表紙には

 

「空き店舗短期活用事業」

 

とある。

 

「産業振興課から、広報の相談が来ている」

 

「空き店舗へ、期間限定で店を入れる事業ですか」

 

「物を売る店だけじゃない。展示、相談所、地域の催しにも貸す。三か月だけな」

 

冨永は資料をめくる。

 

対象となる商店街が三か所、挙げられていた。

 

その一番下に、堀川西商店街の名がある。

 

「また、ここですか」

 

「嫌なら福田に回すぞ」

 

安田が福田の机を見る。

 

福田は電話中だった。視線に気づくと、何の話か分からないまま首を横へ振っている。

 

「いえ、私がやります」

 

「広報の仕事は、事業を成功させることじゃないぞ」

 

安田は冨永の返事を待たず、続ける。

 

「市民に知らせることだ。商店街の中へ入って、店をまとめ始めるなよ」

 

「そんなことはしません」

 

「昨日、日付を間違えた人間の答えにしては早いな」

 

安田は自分の机へ戻っていく。

 

冨永は資料を最初から読み直した。

 

三か月の短期利用。

 

利用者は公募。

 

商店街側の同意が必要。

 

使用料の一部を市が補助する。

 

空き店舗を一時的に埋める事業である。けれど三か月後には、また空くかもしれない。

 

潤が作った商店街の、何も書かれていない白い箱が浮かんだ。

 

何が入るか、あとで決める。

 

子供の町なら、それでよい。

 

現実の町では、誰が決めるのだろう。

 

資料の担当者欄には、産業振興課の職員名と電話番号がある。

 

冨永は受話器を取った。

 

堀川西商店街へ行く前に、まず聞かなければならないことがあった。