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『 棚のない商店街 』 ストーリー 1
第一章 命題
その辞令が出たのは、六月の終わりだった。
永島涼(りょう)27歳は、会社の八階にある小さな会議室で、目の前に置かれた一枚の資料を何度も読み返していた。
新規事業開発プロジェクト。
期間は一年。
メンバーは六名。
与えられた命題は、たった一行だった。
地方の商店街を有効に再生すること。
涼は資料から顔を上げた。
窓の向こうには、梅雨の雲が低く垂れている。ビルとビルの隙間から見える空は狭く、雨が降るのか降らないのか、はっきりしない色をしていた。
地方の商店街。
その言葉が、どこか遠いものに感じられた。
自分がこれまで仕事で関わってきたのは、都市部の商業施設やネットサービス、メーカーの商品開発だった。商店街について考えたことがないわけではない。しかし、それはニュースやネットの記事で見る程度の話だった。
シャッター通り。
人口減少。
高齢化。
大型商業施設。
ネット通販。
どれも聞き慣れた言葉だった。
けれど、実際にその場所へ行ったことはない。
資料の下に、小さく実施条件が書かれている。
対象地域は、人口十万人程度の地方都市。
駅から中心市街地へ続く約五百メートルの商店街。
空き店舗率三八パーセント。
事業期間一年。
目標数値は、後日設定。
目標を上回れば事業化を継続し、下回れば原則として終了。
涼はそこまで読んで、もう一度、一行目に目を戻した。
地方の商店街を有効に再生すること。
有効に、という言葉が妙に引っかかった。
再生するだけなら、イベントを開くこともできる。新しい店を誘致することもできる。観光客を呼び込むこともできる。
だが、それが一時的な賑わいではなく、事業として成立するのか。
会社が求めているのは、おそらくそこだった。
「永島さん、もう来てたんですね」
声がして、涼は振り向いた。
入口に藤村冴(さや)27歳が立っていた。
一瞬、何も考えられなかった。
冴も同じように立ち止まっている。
卒業してから三年。
最初に入った会社は違った。
その後、冴がこの会社に転職してきた。
会うこともなかった。
それなのに、顔を見た瞬間、涼の中では三年前の時間が現在とほとんど切れ目なくつながった。
大学の講義棟。
夕方の鴨川。
コンビニで買ったコーヒー。
試験前の図書館。
別れた日の、冴の横顔。
涼は資料に視線を戻した。
「久しぶり」
「……久しぶり」
それだけだった。
冴は涼の向かい側の椅子を引いた。
座ると、資料を手に取った。
「商店街、だって」
「そうみたい」
「永島、こういうの得意だったっけ?」
「得意じゃないよ」
「そう」
冴は資料を読み始めた。
涼は、彼女が髪を耳にかける仕草を見ないようにした。
昔と同じだった。
そんなことを思った自分が嫌になり、資料の数字を追った。
やがて残りの四人も集まった。
加藤拓也(たくや)、三十二歳。
このプロジェクトのリーダーだった。
井上真一(しんいち)、二十七歳。
データ分析を担当する。
田島剛(つよし)、二十八歳。
営業経験が長く、現場との交渉を任される。
村上志保(しほ)、二十八歳。
マーケティング部門から参加している。
六人が揃ったところで、加藤が資料を閉じた。
「とりあえず、会社から与えられた条件はこれだけです」
誰も口を開かなかった。
「商店街を再生しろ。でも、方法は自分たちで考えろ。一年以内に数字を出せ。数字が出なければ終わり。かなり乱暴な話です」
田島が笑った。
「乱暴すぎません?」
「俺もそう思う」
「じゃあ、何をすればいいんですか」
「それをこれから考える」
加藤はそう言って、資料を一枚ずつ配った。
対象となる商店街の地図だった。
駅から真っすぐ伸びた通りの両側に、細長い店舗が並んでいる。
赤い印がついているのが空き店舗だった。
数えてみると、かなり多い。
涼は地図を眺めながら思った。
これだけ店が閉まっているなら、商店街が寂れているのは当然なのかもしれない。
だが、そのとき井上が言った。
「ちょっと変ですね」
「何が?」
「空き店舗率です」
井上は自分の資料を指で叩いた。
「三八パーセントって書いてありますけど、人流データを見ると、商店街を通過する人間自体は、それほど減ってないんです」
「通過する?」
「駅から住宅地へ向かう人。病院へ行く人。バス停を使う人。学校帰りの高校生。毎日かなり歩いてます」
「でも、店には入らない」
志保が言った。
井上は頷いた。
「そうです」
涼は地図を見た。
商店街は人がいないわけではない。
人はいる。
ただ、通り過ぎている。
「それなら、店を増やせばいいんじゃない?」
田島が言った。
「空いてるんだから、テナントを入れる」
「簡単に言うなよ」
加藤が笑った。
「誰が入る?」
「……そこですよね」
田島は黙った。
大型商業施設の中なら、人が集まる場所に店を出せる。
ネットなら店舗そのものがいらない。
この商店街には、店を出す理由がなくなっている。
だから空き店舗が増える。
そして空き店舗が増えるから、さらに人が来なくなる。
堂々巡りだった。
「じゃあ、イベントは?」
志保が言った。
「週末にマルシェとか。キッチンカーとか。子ども向けのイベントをやって……」
「それで一年後に何が残る?」
冴が静かに言った。
志保が彼女を見る。
「イベントが成功すれば人は来ると思うけど、イベントのない日に来る理由がないと、商店街の再生にはならない」
「……まあ、そうだけど」
「それに、毎週イベントをやるのは事業として重い」
冴は地図を見ていた。
涼はその横顔を見ながら、大学時代のことを思い出しそうになった。
冴は昔から、思いつきよりも、その後に何が残るのかを考える人間だった。
だから涼は彼女と付き合っていた頃、何度も自分の考えを修正した。
そして、そのことがいつの間にか二人の距離を広げていった。
今は仕事だ。
それだけだ。
涼はそう自分に言い聞かせた。
「一度、現地を見ませんか」
加藤が言った。
「資料だけじゃ何も始まらない。来週、全員で行きましょう」
誰も反対しなかった。
その日の夕方、会議が終わった。
涼がエレベーターを待っていると、隣に冴が来た。
「永島」
「なに?」
「さっきの話」
「うん」
「本気でやる?」
涼は彼女を見た。
「会社の仕事だから」
「そういう意味じゃない」
冴は少しだけ笑った。
「一年しかないよ」
「分かってる」
「だったら、最初からちゃんと考えたほうがいい」
「もちろん」
エレベーターの扉が開いた。
二人は並んで乗った。
閉じる直前、涼は思った。
三年前に終わったと思っていたものが、仕事という思いがけない形で、また目の前に現れている。
それが何を意味するのかは、まだ分からなかった。
ただ一つだけ分かっている。
この一年は、簡単には終わらない。
第二章 シャッターの向こう側
現地へ向かったのは、七月の最初の月曜日だった。
駅に降りたとき、空気が東京とは違うと涼は感じた。
気温は高かったが、駅前には大きな商業施設も、タワーマンションもない。
駅前広場から一本の道路が伸び、その先に古いアーケードが見えていた。
商店街だった。
「思ったより長いな」
田島が言った。
「五百メートルって書いてあった」
井上がスマートフォンを見ながら答える。
「数字で見るのと実際に見るのじゃ違うな」
六人は歩き始めた。
最初の百メートルほどは、まだ店が開いていた。
パン屋。
薬局。
食堂。
クリーニング店。
小さな美容室。
そして、その隣にシャッターが下りた店舗があった。
その隣にも。
さらにその隣にも。
涼は歩きながら、地図に印をつけていく。
シャッターの前には、古い店名が残っている。
看板だけが昔のままだ。
店がなくなっても、看板は簡単には外されない。
そこには店が存在していた時間が、そのまま残っているようだった。
角を曲がったところに、一軒の文房具店があった。
ガラス戸の向こうに、ノートや鉛筆が並んでいる。
田島が立ち止まった。
「ここ、まだ営業してる」
「入ってみます?」
志保が言った。
六人で入るには狭かったが、店主らしい女性が笑顔で迎えた。
話を聞くと、店は四十年以上続いているという。
売上は以前の半分以下。
それでも閉めるつもりはないらしい。
「学校が近いから、昔は子どもがいっぱい来たんですけどね」
女性はそう言った。
「今はネットで買う人も多いですし、学校指定のものも大型店でまとめて買う人が増えました」
涼は店内を見回した。
文房具は少ない。
しかし、きちんと並んでいる。
ボールペンの種類も、ノートの種類も、鉛筆の種類も、必要なものは揃っている。
「商店街に人が戻ったら、どうですか?」
志保が聞いた。
「そりゃ、戻ってほしいですよ」
女性は笑った。
「でもね、人が来るだけじゃ駄目なんです」
その言葉に、涼は顔を上げた。
「買ってもらわないと」
女性は当たり前のように言った。
「商売ですから」
店を出たあと、誰もしばらく話さなかった。
商店街の問題は、人がいないことだけではない。
人が来ても、買うものがなければ店は続かない。
買う理由がなければ、人は通り過ぎる。
そして、店がなくなれば、さらに通り過ぎる。
涼は歩きながら、空き店舗の前で立ち止まった。
ガラス越しに見える店内は、何もない。
床だけが残っている。
そのときだった。
向かい側から、高齢の男性が歩いてきた。
商店街をゆっくり歩いている。
手には買い物袋。
男性は途中で立ち止まり、スマートフォンを取り出した。
画面を拡大しながら、何かを探している。
そして、近くにいた田島へ声をかけた。
「すみません。百円ショップって、この辺にありますか?」
田島が少し驚いた。
「駅の反対側にあります」
「そうですか」
男性は困ったように笑った。
「ここにはないんですね」
そのまま歩いていく。
涼は男性の背中を見ていた。
商店街には空き店舗がある。
そして、百円ショップを探している人がいる。
その二つが、頭の中で一瞬だけ重なった。
しかし、まだ何も思いつかなかった。
ただ、引っかかった。
何かが。
歩き始めた涼の後ろで、冴もその男性を見ていた。
だが、彼女も何も言わなかった。
その日の調査が終わった。
六人は駅前の小さな喫茶店に入り、それぞれがメモを整理した。
井上がノートパソコンを開く。
「人流、思ったよりあります」
「やっぱり?」
加藤が聞いた。
「時間帯によってかなり差がありますけど、商店街を歩く人は一定数いる。問題は滞在時間です」
「短い?」
「かなり短いです」
志保が画面を覗き込む。
「つまり、歩いてるけど、止まらない」
「そういうことです」
田島がコーヒーを飲んだ。
「でも、店がないから止まらないんじゃない?」
「じゃあ、店があれば止まる?」
冴が聞いた。
田島は答えなかった。
涼も答えを持っていなかった。
窓の外を、さっきの男性が歩いていく。
商店街の方へ戻るのではなく、駅とは反対方向へ向かっている。
おそらく百円ショップへ向かうのだろう。
涼はカップを置いた。
「百円ショップって、一つの店に全部の商品がありますよね」
全員が涼を見る。
「文房具も、台所用品も、掃除用品も、電池も、収納用品も」
「そうだね」
志保が答えた。
「でも、あれって便利だけど、探すのが大変なこともある」
冴が涼を見ている。
「商品が多すぎるから」
涼は続けた。
「欲しいものが決まっていればいい。でも、どこにあるのか分からない人は、店の中をずっと歩く」
「それが?」
加藤が聞いた。
涼はまだ、自分でも何を考えているのか分からなかった。
ただ、目の前の空き店舗と、さっきの男性と、百円ショップの広い店内が、頭の中で重なっていた。
「……逆にしたらどうかな」
「何を?」
「百円ショップを」
言ってから、自分でも変なことを言っていると思った。
「一つの店に全部の商品を置くんじゃなくて」
涼はテーブルの上の商店街の地図を引き寄せた。
空き店舗を指でなぞる。
「文房具は、この店」
次の空き店舗を指す。
「台所用品は、ここ」
さらにその先。
「掃除用品はここ」
全員が黙った。
「つまり……」
涼は地図を見ながら言った。
「百円ショップの棚を、商店街に置く」
冴の目が動いた。
加藤が地図を見る。
井上は画面から顔を上げた。
田島は何も言わない。
志保だけが、小さく笑った。
「それって……」
涼は自分でもまだ半信半疑だった。
「一つの百円ショップを作るんじゃなくて」
商店街そのものを、一つの百円ショップにする。
その言葉が、頭の中で形になり始めていた。
第三章 商店街を一つの店にする
最初に口を開いたのは井上だった。
「でも、それって、百円ショップを分散させるってことですよね」
「そう」
「レジは?」
「各店舗」
「商品管理は?」
「それも各店舗」
「万引き対策は?」
涼は黙った。
井上が少し笑う。
「ですよね」
志保が地図を覗き込んだ。
「でも、考え方としては面白い」
「面白いだけじゃ事業にはならない」
加藤が言った。
いつもの会議なら、それで話は終わっていたかもしれない。
けれど、この日は誰も地図から目を離さなかった。
空き店舗が並んでいる。
それぞれに、まだ使える空間がある。
ただ、誰もそこへ店を出そうとしない。
涼はペンを取った。
「仮に、十店舗空いているとする」
地図に丸をつける。
「一つの百円ショップなら、十店舗分の商品を一店舗に詰め込む。でも、この商店街なら、十店舗を一つの店として使える」
「商店街全体を売り場にする」
冴が言った。
涼は彼女を見る。
「そう」
冴は地図を見たまま続けた。
「それなら、商品を探す場所も分かりやすくできる。文房具なら文房具店。台所用品なら台所用品店」
「しかも、歩くことになる」
志保が言った。
「目的の商品を買ったら、それで帰るんじゃなくて、別の店も見て回れる」
「そこが狙いです」
涼の声に、少しだけ熱が入った。
「百円ショップの店内を歩き回る代わりに、商店街を歩いてもらう」
加藤が腕を組んだ。
「問題は、百円ショップにとって何がメリットなのかだな」
その一言で、会議は現実に戻った。
商店街を助けるためだけなら、会社の新規事業にはならない。
100円の商品を売る企業にも利益が必要だ。
さらに空き店舗を持つ商店主にも利益が必要になる。
客にもメリットがなければならない。
誰か一人だけが得をする仕組みでは続かない。
「メーカーを何社か呼ぶのはどうですか?」
冴が言った。
「一社だけじゃなくて?」
「むしろ一社だけにしないほうがいいと思う」
冴は地図の上に指を置いた。
「たとえば文房具店に、A社の商品だけを並べるんじゃなくて、複数社の商品を置く。同じ百円でも、メーカーによって違いがあるでしょう」
井上が頷いた。
「比較できる」
「そう。今の百円ショップだって、いろんな会社の商品が並んでいる。でも店が大きいから、どこに何があるのか分からなくなることがある」
冴はそこで一度言葉を止めた。
「ジャンルごとに分ければ、目的の商品が見つけやすくなる」
涼は思った。
最初のアイデアは自分のものだった。
けれど、今はもう、自分一人のアイデアではない。
冴が別の角度から形を変えている。
大学時代も、そうだった。
自分が思いついたことを冴が整理する。
冴が考えたことに自分が別のものを足す。
それが二人にとって自然だった。
だからこそ、別れたあとも、こうして同じテーブルにつくことが妙に落ち着かなかった。
「一社じゃなく、数社に提案する」
加藤が言った。
「それぞれの商品を、この商店街で売ってもらう」
「ただし、店舗は我々が用意する」
田島が続けた。
「空き店舗の持ち主から借りる」
「家賃は?」
「売上の一部を還元する方式にできないかな」
井上がすぐに計算を始めた。
「それなら固定費を抑えられる」
「店舗の改装費は?」
「最低限でいいんじゃない?」
志保が言った。
「百円の商品を売るんだから、豪華な内装は必要ない。むしろ分かりやすさのほうが大事」
「看板は必要だろ」
田島が言う。
「文房具、台所用品、掃除用品。遠くから見て何の店か分からないと意味がない」
六人の言葉が重なり始めた。
さっきまで一枚の地図だったものが、少しずつ店の形になっていく。
加藤はしばらく黙っていたが、やがて言った。
「仮説としてまとめよう」
井上がノートパソコンを開いた。
「仮説?」
「まだ企画じゃない。仮説だ」
加藤は地図を指した。
「空き店舗を活用し、複数の百円ショップ企業の商品をジャンル別に配置する。一つ一つの店舗を独立した売り場として運営する。商店街全体を一つの大型百円ショップのように機能させる」
涼は聞いていた。
「客は目的の商品を探して歩く。その途中で別の店舗にも立ち寄る。結果として商店街全体の人流と滞在時間を増やす」
加藤はそこまで言って、涼を見た。
「これが本当に成立するなら、面白い」
田島が笑った。
「じゃあ、成立するか試してみましょうよ」
「その前に、潰すべき問題を全部出す」
加藤の言葉で、井上が画面に箇条書きを始めた。
商品管理。
レジ。
防犯。
物流。
店舗賃貸。
人員。
売上管理。
企業間の契約。
商店街との調整。
税務。
そして一年後の撤退。
画面が文字で埋まっていく。
涼は少し笑った。
アイデアというのは、形になった瞬間から面倒になる。
だが、その面倒を一つずつ解決していかなければ、事業にはならない。
会議は午後八時を過ぎても終わらなかった。
帰るころには、外はすっかり暗くなっていた。
駅へ向かう途中、冴が隣を歩いていた。
「昔から変わらないね」
「何が?」
「思いついたら、すぐ走るところ」
涼は笑った。
「冴は昔から止める」
「止めてない」
「止めてたよ」
「確認してただけ」
「それを止めるっていうんじゃない?」
冴が笑った。
その笑い方を、涼は知っていた。
知っていることが、少し苦しかった。
「でも」
冴が言った。
「今回は、ちょっと面白いと思う」
「本当に?」
「うん」
駅前の信号が赤になった。
二人は立ち止まった。
「ちゃんと形にできたらね」
青に変わる。
冴は先に歩き出した。
涼はその背中を見ながら、昔と同じように追いかけそうになった。
だが、足を止めた。
今は仕事だ。
そう思った。
