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『 一人分の幅 』
第六章 通れる幅
翌日の昼過ぎ、京子は
「つづき」
の三人から渡された依頼書を、作業台の端に置いていた。
引き受ける仕事は、店内の配置、商品の分け方、開店前の最終確認。期間は開店まで。報酬の額も書いてある。
内容に問題はない。
ただ、問題がないことと、すぐに返事をしていいことは別だった。
京子は壁のカレンダーを見上げた。丸をつけた納品日が二つあり、週末には、以前イヤリングを買った客が友人を連れてくることになっている。店を留守にできる時間を鉛筆で囲み、その横に
「つづき」
と書き込む。
作業台の向こうで、若い客が鏡にイヤリングを映していた。
淡い水色のシャツに、白い樹脂の大きな輪を合わせている。京子は革紐を切る手を止め、鏡の中の客を見る。
「そっちは、たぶん今日の服にしか合わないよ」
客が振り返った。
「また始まった」
「聞かれたから答えたの」
「まだ聞いてないけど」
「顔が聞いてた」
客は笑いながらイヤリングを戻し、その隣の細い銀色を取る。京子はそれを見届けてから、依頼書の余白へ小さく丸をつけた。
午後四時二十分に店を閉め、堀川西商店街へ向かう。
店先に出した黒板には、戻る時刻を五時半と書いてある。昨日までなら一時間と書いたところだが、今日は少し余裕を見た。人の店を急がせないためには、自分の店にも無理をさせない方がいい。
元洋品店の入口は開け放たれている。
京子が中をのぞくと、河合美里が床にしゃがみ、青いテープを貼っていた。壁際には、古いシャツから作った鞄が五つ並んでいる。奥では、ほかの二人が組み立て式の棚を箱から出しているところだった。
「返事、持ってきた」
河合が立ち上がる。膝に細かな埃がついている。
「どうでしたか」
「この内容なら引き受けます。ただし、今日から数えて、店に来られるのは四回。あとは写真か電話で確認する」
「四回も来てもらえるんですか」
「四回しか、だよ」
喜びかけた河合の顔が、仕事の顔に戻る。
「わかりました」
京子は署名した依頼書を渡し、鞄を壁際に置いた。床に貼られた青い線を目で追う。入口近くに商品台が二つ、中央に可動式の作業台、その奥に試着用の鏡とカーテン。昨日話した内容が、ほぼそのまま床へ移されている。
「棚、立ててみようか」
三人が箱を囲む。
京子は説明書を受け取り、部品の番号を確かめた。似た長さの支柱が二種類ある。一人が手にした短い方を、声をかける前に長い方と交換する。
急かさなくても、手を出しすぎなくても、棚は少しずつ形になっていく。
棚が立つと、京子は中央の作業台を青い線の上へ運ばせた。入口から見ると、壁際の商品と作業している人の両方が目に入る。店らしい形が、ようやく床の上に立ち上がってきた。
「鏡、もう少し奥」
京子は入口の脇へ移り、全体を見ている。
「カーテンを閉めたとき、外から足元が見えない位置にしたい。壁から少し離して」
河合たちが鏡を動かす。
通りから吹き込んだ風が、奥のカーテンを膨らませた。布の裾が棚の角に引っかかり、斜めに止まる。
京子は近づき、引っかかった布を外した。
「棚を五センチだけ右へ」
そのとき、入口の外に人影が重なった。
冨永と、産業振興課の若い職員が立っている。職員は筒状に丸めた書類を抱え、店の中を見回していた。
「こんにちは」
冨永が先に頭を下げる。
河合が時計を見る。四時五十分。二人が来る予定は五時だった。
「すみません、まだ途中で」
「早く着いただけです。続けてください」
冨永は中へ入らず、入口の脇へ寄る。産業振興課の職員も隣に並んだものの、床の青い線を見つけると、丸めた書類を開き始めた。
「これ、中央は作業台ですか」
「動かせるようにしています」
河合が答える。
職員は図面と店内を交互に見る。その視線が、奥の鏡とカーテンで止まった。
「ここ、通路になりますよね」
京子もそちらを見る。
「裏の流しと分電盤へ行く通路です」
「管理上、入口から奥まで九十センチは空けてくださいと言われています」
職員が図面の一点を指した。カーテンを閉めると、棚との間は人一人が横向きに通れる程度しかない。
河合が青い線の内側へ靴を置き、幅を確かめようとする。
「九十センチ……ないですね」
「先にお伝えした資料に入っていませんでしたか」
職員は自分の書類をめくる。二枚、三枚と戻り、最初のページまで来ても、通路幅を示す記載は見つからない。
店の奥で、棚を押さえていた一人が手を離した。
「この棚、ここに合わせて買ったんですけど」
声は小さい。誰を責めているわけでもないため、かえって部屋の中央に残る。
京子は鏡の前に立ち、入口までの距離を測るように目を細めた。
「私が見落とした」
河合が京子を見る。
「でも、資料には――」
「通れるかどうかは見ておくべきだった。店の形ばかり見て、奥まで人が行くことを考えてなかった」
京子はカーテンを端へ寄せ、棚の側面に手を置く。動かせる場所を探しているが、すぐには答えが出ない。
産業振興課の職員が腕時計へ目を落とした。
「できれば今日、配置だけでも決めていただけると――」
「棚の納品は、これですべてですか」
冨永の声が、その先へ重なった。
質問を向けられた河合は、入口側の箱を数える。
「小さい棚が、あと二つ届きます。明後日です」
「でしたら、今日は決められませんね」
冨永は職員が持つ資料に視線を落とす。
「九十センチの条件が先方へ渡っていなかったことも、こちらで確認した方がいいと思います。明後日、棚がそろってからでは間に合いませんか」
職員はしばらく考え、日程表を指でたどる。
「金曜日の午後なら、私も来られます」
「そのときに確認しましょう」
冨永はそう言っただけで、棚にも鏡にも触れない。
京子は棚の横に立ったまま、入口の方を見た。冨永はすでに職員と日程を確かめており、こちらへ答えを求めてはいない。
見落としたことは消えない。
けれど、今ここで別の間違いを重ねる必要もない。
京子は腕を組み、もう一度、店の奥から入口を見た。
「今日は棚を固定しないで。全部そろってから変える」
三人の手が、ゆっくりと棚から離れる。
五時を過ぎるころ、冨永は店内の隅に置かれた丸椅子へ腰を下ろし、河合から開店案内の内容を聞いていた。
京子は少し離れた壁際で、棚と作業台の寸法を手帳へ書き直している。
「着られなくなった服を、新しい品物に作り替えます」
河合の説明を聞きながら、冨永は原稿の控えに線を引く。
「持ち込みの相談は無料で、よろしいですか」
「無料?」
奥から京子の声がした。
冨永が顔を上げる。
京子は手帳を持ったまま、河合を見ている。
「持ってきた服を見て、できるかどうか話すだけなら無料?」
河合の隣にいた女性が、わずかに首を傾けた。
「状態を見るのに時間がかかるものは、相談料をもらう話じゃなかった?」
「あ……そうだった」
河合は鞄からノートを出し、決めた料金を探す。ページの中ほどに、素材や傷みの確認が必要な場合は有料、と書いてある。
冨永は自分の控えを見た。
そこにはすでに、
「持ち込み相談無料」
と入っている。
「私が、話を短くしました」
冨永はその一行に二本の線を引く。
「無料と書いてしまうと、全部そうだと思われますね」
「私たちの説明も曖昧でした」
「掲載前ですから、直せます」
冨永は書き直した文を河合の前へ置いた。
「服の状態を拝見し、作り替えの方法をご案内します。料金は内容により異なります――これならどうでしょう」
三人が紙を囲む。
京子は口を挟まず、少し離れた場所からその背中を見ている。冨永は一行を消し、河合に尋ね、また書いた。
その手が止まったところで、河合が顔を上げた。
「これでお願いします」
「では、この文で確認を回します」
冨永が控えを鞄へ入れる。
京子も手帳を閉じた。
文章は決まった。
棚の位置はまだ決まらない。カーテンは半分開いたまま、床には青い線が残り、組み立てた棚は壁から離れて立っている。
それでも、先ほどまでの焦りは薄くなっていた。
「金曜日までに、配置を二つ考えておく」
京子が河合へ言う。
「二つですか」
「一つしかないと、それが駄目だったときに全員で困るから」
「手伝えることはありますか」
「棚の正確な幅を測って、今夜送って。慌てなくていいから、左右を間違えないで」
河合はすぐに巻尺を取りに向かった。
入口では、産業振興課の職員が冨永に小声で話しかけている。
「今日、配置まで決めなくてよかったんでしょうか」
冨永は、奥で巻尺を伸ばしている三人を見る。
「決めても、明後日また変わったと思います」
職員も店の中を見る。河合たちは棚を測り、数字を声に出して確かめている。その横で京子が手帳を開き直していた。
「そうですね」
外へ出た冨永は、商店街の時計を見上げた。五時二十七分。
京子の店の黒板には、五時半に戻ると書いてあるはずだ。彼はそれを知らない。
京子は鞄を肩にかけ、河合から送られてきた寸法が正しいことを画面で確かめる。
「じゃあ、今日はここまで」
店を出ようとして、入口の青い線をまたぐ。その先に冨永がいるため、片方がよけなければ通れない。
冨永が外側へ一歩ずれた。
京子は足を止めず、その横を通り抜ける。
「原稿、危なかったですね」
「棚も」
「そうですね」
二人は別の方向へ歩き出した。
京子は自分の店へ戻り、冨永は市役所へ帰る。
まだ何も、うまく終わったわけではない。
ただ、誰かを急がせたために壊れたものもなかった。
「つづき」
が開店して三週間ほどたった日曜日、冨永は綾子と潤を連れて商店街へ来た。
仕事ではない。潤が、父親の書いた記事に出てくる店を見たいと言ったのである。
三人が
「余計なお世話」
へ入ると、京子は潤が手にした黄色いボタンを見て、何に使うのか尋ねた。
「まだ決めてない」
「決めてから選んだ方がいいよ」
「これが先じゃ駄目?」
京子は少し考えた。
「駄目じゃない。面倒になるだけ」
「じゃあ、これに合うものを作る」
「それもありだね」
綾子は二人のやり取りを聞きながら、深い緑色のイヤリングを耳元へ合わせた。
「それ、今日の服には重いですよ」
「お店の人なのに、高い方を勧めないんですね」
「高い方が似合う人には、高い方を勧めます」
綾子は笑った。
冨永が妻と話す声は、仕事中より少し低かった。潤へ返す言葉には、市役所で見せる慎重さがない。京子は、仕事場とは違う時間の中にいる冨永を見ていた。
よかった、と思う。
何がよかったのかまで考えると、店の中に、自分の立つ場所がなくなるような気がした。
帰り道、綾子が言った。
「長谷部さん、面白い人ね」
「そうか」
「仕事、楽しそうね」
「いろいろ考えることがあるからな」
「悪いことじゃないよ」
綾子は潤の手にある黄色いボタンを見た。
「それ、なくさないでよ」
冨永は、京子が誰かの決定を待つとき、右手の指先を作業台へ置くことまで知っている。
人を見ずに、そこまで分かるものなのだろうか。
