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連載 小説. 『 京都テクノリンク 』 連載 4回目
第九章 赤いポルシェの女
佳織がディーラーを辞めた理由を、宏は顧客から聞いた。
会社経営者の客が、購入した車で事故を起こした。酒を飲んでいた事実を隠すため、納車時の説明不足にしてほしいと佳織へ頼んだ。断ると、客は店へ圧力をかけた。会社は佳織に頭を下げさせようとした。
佳織は謝らず、辞表を出した。
「金に困ってへんから、できたことや」
本人はそう言った。
「困ってたら、謝ってましたか」
真由美が尋ねると、佳織はしばらく答えなかった。
「それを知りたないから、困らんようにしてる」
佳織は株で利益を出し、ゴルフ場で経営者たちと付き合っていた。遊んでいるように見えたが、そこで会社の景気や代替わりの噂を聞き、京都テクノリンクへ仕事をつないだ。
しかし、資金繰り表を見た佳織は、追加の出資を断った。
「お金を入れたら、康史はまた安い仕事を取る。会社を助けるつもりで、悪い癖を長生きさせるだけや」
「見捨てるんか」
「あんたが会社を見てへんのや。ライバルばっかり見てる」
佳織は鍵を机に置いた。
「うちが戻るまでに、誰を守る会社か決めとき」
その日、赤いポルシェの音は、いつもより遠くまで聞こえた。
山下は追わなかった。
追えば戻ってくれると思っていたのではない。追って、戻らないと分かることが怖かった。
佳織と初めて会ったのは、商談の席だった。役員を相手に一歩も引かず、それでいて相手の顔を潰さずに車を売った。山下は生意気な女だと思った。同じ日の帰り、もう一度会いたいとも思っている自分に気づいた。
それから、顔を合わせるたびに言い争った。仕事の考え方、金の使い方、車の停め方。佳織が正しいときほど、山下は強く反発した。
町家の格子を閉めたあと、山下は佳織へ電話をかけた。呼び出し音が途切れ、留守番電話に変わる。
「金のことやない。話がある。……会社の話でもない」
そこまで言って切った。
翌朝、佳織から届いた返事は一行だった。
〈会社を立て直してから聞く〉
断られたのではなかった。そのことが、山下にはかえって重かった。
山下は、その日から七社を一社ずつ回った。
値下げ前と同じ訪問回数、同じ対応範囲を求める会社には、元の料金へ戻してほしいと伝えた。難しいと言われれば、訪問回数と夜間対応を減らした契約を示した。
「困ってはるときに、来てもらえへんようになるんか」
「来ます。けど、いつでも何でも同じ値段では、最後には一社にも行けんようになります」
四社は契約内容を縮め、二社は元の料金へ戻した。それでも安さだけを求めた一社とは、契約を終えた。売上は落ちたが、訪問するほど金が減る状態は止まった。
真由美は新しい資金繰り表を座卓へ置いた。
「三か月から、七か月になりました」
「立て直した言えるか」
「倒れへんようになっただけです」
「京洛に客を取られるかもしれん」
「安さだけで選ばはるお客さんを追いかけたら、また同じことになります」
山下は赤い紙のファイルを見た。守りたかったのは、顧客の支払う金ではない。困ったときに自分たちが駆けつけられる関係だった。その関係を残すには、会社も残らなければならない。
「人も増やす。ただし、払える仕事が増えてからや」
宏がうなずいた。
山下は佳織へ、短い連絡を入れた。
〈安い会社になるのは、やめた。守るんは、困ったときに行ける会社や〉
返事は、その日には来なかった。
第十章 花背の雪
一月の朝、京都市内に雪はなかった。
佳織が町家へ顔を出さなくなって、二か月が過ぎていた。山下も、会社を立て直すまでは追わないと決めている。二人の連絡は、仕事に必要な短い文面だけになっていた。
山下が〈安い会社になるのは、やめた〉と送って三日後、佳織から〈倒れへんようにはなったな。話は、顔見て聞く〉と返ってきた。立て直しが終わったのではない。それでも、進む向きを決めたことは伝わっていた。
比叡山の頂が白く見えるだけで、町家の軒から落ちるのは昨夜の雨だった。佳織は赤いポルシェを格子の前に止め、山下へ言った。
「今日、空けられる?」
「何の用や」
「用がなかったら、空けられへんの?」
山下は真由美の顔を見た。真由美は予定表を確かめるふりをした。
「午後三時までは、代表がおらんでも大丈夫です」
「三時には戻らへんかもしれへんで」
佳織は先に車へ戻った。
赤いポルシェには冬用タイヤが装着され、荷室には念のためのチェーンと毛布が積んであった。佳織は遊びに行くときほど、準備に抜かりがない。
車は鴨川を北へたどり、上賀茂を過ぎ、山あいへ入った。市原を越えるころから道の端に雪が残り、杉林の影では路面まで白い。山下は助手席で何度も足を踏ん張った。
「怖いんやったら、怖い言うたら」
「おまえの運転が信用でけへんだけや」
「同じことや」
花背に着くころ、景色は別の京都になっていた。
屋根も畑も雪に覆われ、音が雪の下へ吸い込まれている。市内から一時間あまり走っただけなのに、格子戸も観光客の列も見えない。京都の奥座敷と呼ばれる土地には、人に見せるためではない冬があった。
佳織は道沿いの広い空き地に車を止めた。除雪された場所を選び、赤い車体へ雪が落ちてこないことを確かめてから外へ出る。
「何しに来たんや」
「雪見に来たに決まってるやろ」
佳織は手袋をはめ、足元の雪を丸めた。
山下が気づいたときには、雪玉が胸に当たって砕けていた。
「子どもか」
「言い返す前に、投げ返したら?」
山下も雪をつかんだ。最初の一投は佳織の肩をかすめた。佳織の二つ目は山下の腕に当たり、三つ目は首元へ入った。
「冷たっ。加減せえ」
「勝負に加減する人、嫌いや」
二人は雪の上を走った。佳織が笑い、山下も声を上げた。会社の金も、顧客も、ライバルもない場所で、二人は初めて、子どものころへ戻ったように雪を投げ合った。
山下は大きな雪玉を作った。佳織の背中は、すぐそこにある。投げれば当たる。
山下はわざと足を滑らせ、雪玉を自分の前へ落とした。
振り返った佳織の一投が、山下の胸へ命中した。
「うちの勝ち」
「足場が悪かっただけや」
「そういうことにしといたげる」
佳織は見抜いていた。けれど、山下がわざと負けたとは言わなかった。言えば、彼が差し出したものを突き返すことになる。
帰りの車では、二人ともあまり話さなかった。
山を下り、市内の濡れた道へ戻るころ、佳織が前を見たまま言った。
「今度は、ちゃんと勝負したげる」
「今日は、ちゃんとやなかったんか」
「そやな。誰かさんが手ぇ抜いたから」
山下は窓の外を向いた。
北山の向こうには、もう花背の雪は見えない。それでも、首筋に残った冷たさと、佳織の笑い声だけは、町へ戻っても消えなかった。
