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「 尾道の坂を下って 」  ⑧ー③

 

第三章 三百円分の話

 

「仕事を辞めたのは、三日前です」

 

 里奈は、畳の上の三百円を見ながら話し始めた。

 

 テルさんは布団の上に座り、膝を抱えていた。

 

「大阪で、住宅設備を扱う会社に勤めていました。営業事務です。見積書を作ったり、工事

の日程を決めたり、お客さんからの電話を受けたりしていました」

 

 テルさんは何も言わなかった。

 

「五年いました。嫌な会社ではなかったんです」

 

 里奈は、そこで一度言葉を切った。

 

 嫌な会社ではなかった。

 

 ひどい上司がいたわけでもない。給料が払われなかったこともない。残業は多かったが、

もっと遅くまで働く人もいた。

 

 それがかえって、辞めた理由を説明しにくくしていた。

 

「電話で怒るお客さんがいたんです。取り付けた給湯器の調子が悪いって。一度、修理の人

が行ったんですけど、異常はなかった。それでも毎日、電話してきました」

 

 テルさんは黙っている。

 

「何度聞いても、同じ話なんです。夜になると音がする。前の給湯器ではしなかった。修理

の人は分かってくれない。そうやって、二十分も三十分も話すんです」

 

 里奈は、自分の声が少し早くなっていることに気づいた。

 

「忙しい時間だったので、言ったんです。ご用件だけお願いします、って。修理が必要なら

手配します。必要でなければ、ほかのお電話もありますから、と」

 

 翌日、その客から会社へ手紙が届いた。

 

 製品への苦情ではなかった。

 

 五年前に夫が亡くなったこと。家の中で聞こえる小さな音に、一人で耐えるのが怖いこ

と。給湯器が故障していないのなら、そのように誰かから何度でも言ってほしかったこと。

 

 最後に、電話の女性を責めないでください、と書いてあった。

 

「課長は私を叱りませんでした。忙しかったから仕方がないと言いました。手紙をコピーし

て、担当者全員に回しただけです」

 

 その翌朝、里奈は会社が入っているビルの前まで行った。

 

 自動ドアが開いた。中へ入った。しかし、エレベーターのボタンを押せなかった。

 

 後ろから来た人に道を譲り、壁際へ寄った。三基あるエレベーターが何度も一階へ下りて

きて、そのたびに扉が開いた。

 

 どれにも乗れなかった。

 

「それから二週間、休みました。会社からは、しばらく休んでいいと言われました。でも、

戻っても、また電話が鳴ると思ったら……」

 

 里奈は両手を握った。

 

「私は、その人の話を毎日聞いていました。でも、何も聞いていなかったんです」

 

 テルさんは、まだ何も言わない。

 

「私が悪かったと思いますか」

 

 返事はなかった。

 

「聞いていますか」

 

 テルさんがうなずいた。

 

「では、何か言ってください」

 

「聞くだけじゃけえ」

 

「三百円払いました」

 

「まだ十五分よ」

 

「時間の問題ですか」

 

「三十分三百円じゃもん」

 

 里奈は少し腹が立った。

 

「私は真面目に話しているんです」

 

「うん」

 

「だったら、何か思うでしょう」

 

「思うよ」

 

「何を?」

 

「それを言うたら、私の話になるじゃろ」

 

 里奈は黙った。

 

 外を電車が通った。坂の下で鳴り始めた音が、屋根の間を上ってきて、少し遅れて消え

た。

 

「続きを話して」

 

 テルさんが言った。

 

「もうありません」

 

「大阪を出るところまで来とらんよ」

 

 里奈は、退職を伝えた日のことを話した。

 

 課長は電話口で、もう少し休んでから決めてもよいと言った。里奈はその言葉を聞きなが

ら、自分がいなくても仕事が進んでいることに気づいた。

 

 机の引き出しに残した私物は、同僚が段ボール箱へ入れて送ってくれた。

 

 マグカップ。予備のストッキング。使いかけのハンドクリーム。何のために取っておいた

のか分からない付箋。

 

 五年間が、宅配便の箱一つで戻ってきた。

 

「今朝、その箱を開けたら、部屋にいるのが嫌になりました。それで駅へ行きました」

 

「尾道に知り合いは?」

 

「いません」

 

「来たことは?」

 

「ありません」

 

「何で降りたん?」

 

「海が見えたからだと思います」

 

「海なら、もっと手前にもあったじゃろ」

 

「知りません。気づいたのが尾道だったんです」

 

 里奈は息を吐いた。

 

「これで全部です」

 

 テルさんは枕元の時計を見た。

 

「あと七分」

 

「もういいです」

 

「三百円分、聞くよ」

 

「話すことがありません」

 

「ほんなら黙っとったらええ」

 

 二人は黙って座った。

 

 里奈には、その七分が長く感じられた。

 

 テルさんは慰めなかった。会社を辞めて正解だったとも、逃げてもよいとも言わなかっ

た。

 

 里奈の顔を見ようともしない。ただ、そこにいた。

 

 やがて、テルさんが時計を見た。

 

「三十分」

 

 畳の上の百円玉を三枚拾った。

 

「本当に取るんですか」

 

「払うたら、貸し借りなしじゃけえ」

 

「何か一つくらい言ってください」

 

 テルさんは三枚の硬貨を手の中で転がした。

 

「そのお客さん、里奈ちゃんの名前を知っとったん?」

 

「電話では名乗っていました」

 

「手紙には書いとった?」

 

「書いていません。電話の女性を責めないでください、と」

 

「ほんなら、その人は里奈ちゃんを責めたかったんじゃないね」

 

「それは分かっています」

 

「里奈ちゃんも、その人を傷つけたかったわけじゃない」

 

「当たり前です」

 

「二人とも悪いことするつもりはなかったのに、二人ともつらかったんじゃね」

 

 テルさんは三百円を小さな缶へ入れた。

 

「明日の朝になったら、それでええことにしたら?」

 

「そんな簡単に——」

 

「簡単じゃないけえ、朝まで寝るんよ」

 

 テルさんはイヤホンを耳へ入れ、布団に横になった。

 

 里奈は、まだ何か言いたかった。

 

 けれど、何を言いたかったのか、自分でも分からなかった。

 

 電気を消した。

 

 暗闇の中で、小さく「グッドナイト・ベイビー」が漏れていた。

 

 翌朝、里奈は下手な英語で目を覚ました。

 

 テルさんが窓際に立ち、海を見ながら歌っている。

 

「何時ですか」

 

「六時半」

 

「春江さんは七時と言っていたでしょう」

 

「私は七時とは言われとらんよ」

 

「音を小さくしてください」

 

「歌は音を小そうしたら歌えん」

 

「イヤホンで聴けばいいでしょう」

 

「朝は町にも聴かせるんよ」

 

 廊下の下から、小さな咳がした。

 

「こほ……近所は聴きたくないよ」

 

 春江の声だった。

 

「ハルさん、起きとったん?」

 

「こほ……起こされたんよ」

 

 里奈は布団の中で笑った。

 

「何がおかしいん?」

 

「別に」

 

 一階へ下りると、春江はすでに食卓に座っていた。三人分の茶碗と味噌汁が並んでいる。

 

「春江さんが作ったんですか」

 

「こほ……朝ご飯ぐらいは作れるよ」

 

「足が痛い言うとったじゃろ」

 

「口は痛うないよ」

 

 春江は小さな声で答えたが、テルさんには聞こえたらしい。

 

「ご飯は口で作れんよ」

 

「ゴホ……誰が屁理屈を言えいうた」

 

 テルさんは急に姿勢を正した。

 

「里奈ちゃん、今のが怒っとる咳」

 

「分かりやすいですね」

 

「こほ……二人とも、冷めんうちに食べんさい」

 

 朝食の途中で、春江が一枚の紙をテルさんへ渡した。

 

 牛乳、卵、じゃがいも、湿布、封筒。

 

「昨日、牛乳を買ったでしょう」

 

 里奈が言うと、春江が小さく咳をした。

 

「こほ……隣の小川さんの分」

 

「買い物を一緒にしているんですか」

 

「小川さんは、先週から膝が悪いんよ」

 

 テルさんは味噌汁を飲みながら答えた。

 

「三百円もらうんですか」

 

「小川さんからは、もらわん」

 

「どうしてですか」

 

「持っとらんけえ」

 

「お金を?」

 

「うん」

 

「本人がそう言ったんですか」

 

「言わんよ」

 

「では、どうして分かるんですか」

 

 テルさんは箸を止めた。

 

「見たら分かることもあるよ」

 

「見ただけで決めるのは失礼ではありませんか」

 

「ほんなら里奈ちゃんが三百円もろうたら?」

 

「私が?」

 

「買い物、行ってきて」

 

 テルさんは紙を里奈の前へ置いた。

 

「私は、ここに泊めてもらっているんです。お金は受け取れません」

 

「ハルさんの買い物は宿代。小川さんの買い物は別」

 

「同じ店へ行くんですよね」

 

「頼む人が違うけえ」

 

 里奈は春江を見た。

 

 春江は味噌汁を飲んでから、小さく咳をした。

 

「こほ……行ってきたらええ」

 

「でも、三百円は——」

 

 春江の声がさらに小さくなった。

 

 里奈には聞き取れなかった。

 

「何と言ったんですか」

 

「三百円を受け取れるかどうかは、小川さんが決めることじゃって」

 

 テルさんが復唱した。

 

 春江はうなずいた。

 

「分かりました。買い物だけしてきます」

 

「私も行くよ」

 

 テルさんが立ち上がった。

 

「一人で行けます」

 

「店の場所、知らんじゃろ」

 

「昨日、通りました」

 

「小川さんの家は?」

 

 里奈は答えられなかった。

 

「それに、尾道の坂は、上る道と下りる道が同じとは限らんよ」

 

 テルさんは例の音楽プレーヤーをポケットへ入れた。

 

「それはどういう意味ですか」

 

「下りたら分かる」

 

 二人は買い物袋を持ち、家を出た。

 

 朝の坂には、観光客がまだいなかった。家の中から食器の触れ合う音が聞こえ、どこかで

洗濯機が回っている。

 

 テルさんは、昨日とは違う細い道を選んだ。

 

「そっちは駅と反対では?」

 

「近道」

 

「遠ざかっているように見えます」

 

「坂は、真っすぐ下りたら行き止まりになるんよ」

 

 角を曲がるたび、海が見えたり消えたりした。

 

 途中、小さな家の前で、テルさんが立ち止まった。

 

「ここが小川さんの家」

 

「まだ買い物をしていません」

 

「先にお金を預かる」

 

 玄関脇の鉢には、枯れかけ

 

た葱が植えられていた。軒下に干されたタオルは、端がほつれている。

 

 テルさんが戸を叩いた。

 

「小川さん、買い物行ってくるよ」

 

 しばらくして、戸が少しだけ開いた。

 

 小柄な女性が顔を出した。春江よりいくらか若く見えたが、髪は白かった。

 

「今日は、そっちの人が行ってくれるん?」

 

「大阪から来た里奈ちゃん」

 

「大阪から、買い物に?」

 

「昨日、流れてきた」

 

 小川は驚いた顔で里奈を見た。

 

「大丈夫なん?」

 

「買い物くらいできます」

 

 小川は千円札を二枚と、小銭の入った封筒を差し出した。

 

「余ったら、そこへ入れて返して。三百円は別に——」

 

「要りません」

 

 里奈はすぐに言った。

 

 小川は手を止めた。

 

「どうして?」

 

「私は春江さんの家に泊めてもらっています。そのお礼ですから」

 

「私は春江さんじゃないよ」

 

「でも、同じ買い物です」

 

「同じ店で買うても、うちの牛乳はうちの牛乳じゃろ」

 

 里奈は返事に困った。

 

 テルさんは何も言わない。

 

「じゃあ、三百円は帰ってから」

 

 小川は封筒を里奈へ渡した。

 

「ちゃんと持って帰ってくれたら払う」

 

 二人は再び坂を下り始めた。

 

「最初から、こうなると分かっていましたね」

 

 里奈が尋ねた。

 

「何が?」

 

「小川さんが三百円を払うと言うことです」

 

「払いたいんじゃろ」

 

「お金がないんでしょう」

 

「ないよ」

 

「だったら、断るべきです」

 

 テルさんは立ち止まり、里奈を見た。

 

「小川さんは、ただでしてもらう人になりたくないんよ」

 

「でも——」

 

「三百円払うたら、来週も頼めるじゃろ」

 

「無料でも行けばいいでしょう」

 

「里奈ちゃんは来週もおるん?」

 

 里奈は答えられなかった。

 

 テルさんはまた歩き始めた。

 

「ただでしてあげる約束は、する人がおらんようになったら終わる。でも三百円の約束な

ら、別の人にも頼める」

 

「テルさんは、小川さんから受け取っていないでしょう」

 

「私は、たまに晩ご飯もろうとる」

 

「それなら無料ではないじゃないですか」

 

 テルさんが振り返った。

 

「そうよ」

 

 里奈は足を止めた。

 

 自分だけが、無料で助けているのだと思い込んでいた。

 

 坂の下から、商店街が見えてきた。

 

 テルさんはイヤホンを片方だけ耳へ入れ、下手な英語を口ずさみ始めた。

 

 里奈はその後ろを歩きながら、封筒の中の小銭の音を聞いていた。

 

 三百円を受け取ることと、三百円を取ることは、同じではないのかもしれなかった。